10-1.揺揺
コルクットが生み出したそれは、例えるなら新緑の箱舟だった。
まるで穏やかな海に浮いているように、優しい風に押されるように、時折ゆりかごのように優しく揺れながら、私たちを新たな目的地へと運んでくれる。
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「ふぅぅっ!やっぱり裸足が一番良いや!」
暖かい箱舟の中で、コルクットが開放感いっぱいに手袋とブーツを脱ぎ捨てた。
内部は、私たち四人がくつろげる広さが十分にある。
「うひゃひゃ、気持ちいい!」
ぴたぴたと足を踏みならす姿は本当に嬉しそうで、私も暖かさを感じてケープを脱いだ。
気の緩みも相まって、極寒の地から抜け出したんだということを実感する。
「ねぇ、君は氷の国の妖精?」
私は、無邪気にはしゃぐ彼にたずねた。
「まさか!あんな氷だらけの国!
僕は森に住んでる。」
「じゃあ、森の妖精だね。
春風の妖精もそこにいるの?」
「正確には森の向こう、かな?
あ、そうだった、これ持ってて。」
そう言って、彼はポケットから取り出した布製の小物を私たちに手渡した。
「いい匂い。」
小さな袋から、包まれるように深く清々しい香りが広がる。深呼吸すると、朝の森の中にいるような…んん?あれ?この香りは…?
「ちょっとごめん、ハル!」
「おいっ、何をするっ。」
私はハルの腕に飛びつき、彼は私の腕を引き離そうとした。
「何って、ちょっと匂いを…。」
ハルの手が、腕に擦りつく私の額をグイと押し戻す。
「断りの入れ方が逆だろう!オレは許可してないぞ。」
「むぐ…ぐ、だって!」
負けじと彼の腕に顔を押し付け、深く鼻呼吸してみる。
「ほら、そっくり!なんで?」
ソリで気分が悪くなった時、この神秘的な香りに癒された。ハルの香りと混ざっているけれど、同じとしか思えない。
「どれどれ!」
リビエラもやってきて、好奇心満載でハルの腕を嗅ぐ。
「本当だ、同じ匂いだよ!なにか胸ポケットに入ってる?」
「ああ、そういうことか。」
ハルは心当たりがあったのか、機嫌悪そうに私たちを押しのけると、胸の内ポケットから何かを取り出した。
「これの残り香だろう。」
「それ!」
「同じもの?!」
少し古いけれど、同じ形、同じ香り。
三者三様に、みなが思うところを秘めて驚いた。
中でも、コルクットの表情は厳しい。
「それは人間の匂いを消すための匂い袋だよ。
どうして森に来たことがないあなたが持ってるの?」
「匂い袋…ジジィも同じようなことを言っていたな。
アイツからもらったんだ。」
「ジジイ?」
「あー、えっと、ハルの魔法の師匠のことよ、コルクット。」
私がすかさず補足する。師匠とはつまり、自称偉大な魔法使いオルランド。
「師匠に貰った?じゃあそいつはどうやって手に入れた?僕の知る限り、匂い袋を持っている人間なんているはずがない。
…ただ一人を除いては!」
ハルの掌にある、もう一つの匂い袋。コルクットの瞳には、あからさまに興奮と疑いの色が宿っていた。
「ただ一人って、誰?」
私は、少年の含みのある言葉が気になった。けれど彼は何も言わず、一瞬悲しそうな表情をしただけだった。なんだか、気まずい雰囲気。どうやら私は、聞いてはいけない質問をしたらしい。
「あのさ。」
と、袋をじっと見ていたリビエラが沈黙を破る。
「なぜハルの師匠が持っていたかは別として、これ、結構年季が入ってるよね。
効果はあるの?」
「ないだろうな。」
「じゃあ、効力が消えた匂い袋を師匠が君に渡した理由は何だと推察する?ハル。」
妙に核心を突いた質問。さすがリビエラ。用意周到で合理的なハルが、何の意味もなく妖精の匂い袋―それもほとんど効果が消えてしまっている―を持ち歩いているなんて、ちょっと不自然かも。
「さあな、オレにもわからん。
変態ジジイのすることは、オレの理解がおよばない。」
いやいや、師匠が変態なら、弟子も十分変人ですが?
私は心の中で反論しながら、ハルは何か知っているんじゃないかと直感した。
けれど彼は、良くも悪くも多くを語るタイプじゃない。私としては、それをもどかしいと思うこともある。
「そっか、じゃあ僕にもわからないな。」
リビエラはそういうと、両腕を頭の後ろに回してごろんと横になった。リビエラは、ハルのことをよくわかってる。
「人間の匂い、か。
どんな匂いがするのかな?獣みたいな?」
自虐的に呟くリビエラ。そこに、コルクットが反応する。
「気を悪くしたのならごめんよ。
うまく言えないけど、わかるんだ。
悪い匂っていうんじゃなくて、すぐにわかっちゃうんだ。
ああ、僕らと違うって。
ただそれだけだよ。」
僕らと違う。ただそれだけのことが、私には重く響いた。きっとそこには、人間と妖精が綴ってきた歴史と複雑な感情が織り込まれてる。
(どの世界も一緒だな…)
ザザッ
小舟が砂浜に乗り上げるような音がして、私たちは目的の森に到着した。
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深深と息づく、深い森。
木の葉の箱舟を出ると、そこは長い年月を感じさせる古い森だった。
立ち並ぶ木々の樹齢は何年だろう?ノルドの森のような驚くほどの巨木はないけれど、どれも背が高く、幹が太い。見上げても空の感覚がつかめないほど、深い緑が茂っている。
そしてもう一つ、ここはザムの庭以上に強い生命力に溢れていた。
彼の庭は、朝から花同士がお互いの調子をたずね合っているかのように、音もないのに賑やか。
そしてこの森も、目覚めた植物とまだそうでない植物が、自我をもっているかのように静かに混在している。
私が知っている森とは、随分と気配が違う。
見えないのに、確かに在る。人間が神の存在を感じるときは、きっとこんな感じ。
(これが、妖精の森…。)
私はゆっくりと深呼吸した。
見えないものに対する畏敬の念は、私を敬虔な気持ちにさせてくれる。
「どうした?」
ハルが、すぐそばにいた。
「この森の空気に感動しちゃって。」
「そうか、お前の感性は鋭いな。」
そういうと彼は、一瞬眉根を寄せ、静かに辺りを見た。
「ここは森の端だよ。
まだ目覚めていない精霊もいるからね、起こさないように静かについてきて。」
コルクットは小声で言うと、歩き始めた。私たちは彼に続き、一列になって森を行く。
しばらくすると、せせらぎが聞こえた。進行方向の右手に、川が見える。
コルクットは川を渡ると言ったけれど、彼はどんどん流れの強いほうへと向かう。
「浅瀬はだめだ。
里の誰かに見つかるかもしれないから。」というのが、彼の説明。
確かに、歩きながら垣間見える対岸は、木々の間隔があって明るい。ここよりもずっと歩きやすそう。けれど、警戒するほどには生物の気配が感じられない。
(なんだろう、違和感があるな…。)
私はチラチラと対岸を気にしながらも、皆に置いて行かれないよう必死について行った。
先頭にコルクット、次にリビエラ。その背中を追いかけるように私が続き、最後尾はハル。
妖精さんはともかく、ハルもリビエラも森を歩くのに慣れている。つまり、足を引っ張っているのは私一人なわけで。
子供の頃に過ごした茶畑は確かに山だったと言えるけれど、森とはちょっと違う。だいたい、こんなサバイバル要素満載の森行者みたいな活動、したことがないし。
とまあ、心の中で愚痴をこぼす私の気持なんかお構いなしに、一行は山肌を滑り降り、岩を這い、蔓にしがみついたり飛んだりして川を越え、勾配のある木々の間を抜けてようやく、コルクットからの待望の一言を聞くに至った。
「着いたよ!」
ああ、なんて晴れ晴れしい言葉!
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「わぉ…。」
崖の縁に立った私は、目に映る景色にそれ以上言葉が続かなかった。
隣のリビエラも、同じように声にならない感嘆を漏らしている。
誰だってこの光景を見れば、感動でしばらく動けなくなるに違いない。
眼前にぽっかりと広がる空間。霞の青空に飛び回る、たくさんの春風。
自由気ままに、ある者は漂うようにのんびりと。ある者はつむじ風のようにアクロバティックに。ひと風吹く度に、柔らかな花の香りが広がっては消える。
そして空中には、刻の水底で見たような浮島がたくさん浮いていた。ほとんどがこじんまりとしていて、広さはたぶん、数メートル四方。その一つ一つに花が咲き乱れ、春風が楽しそうに花輪を編んでいる。
そして花輪は、轟く滝に乗って流れたり、風に乗って運ばれていく。
「浮島に行かなきゃならないんだけど、僕は飛べないから行けない。
あの滝の水は、氷の国から流れてくる雪解け水だよ。」
コルクットが言った。
「この中で空が飛べるのは…?」
ハルと、そして私だった。
私たちを見て、小さな森の妖精は残念そうに首を横に振る。
「あなたの容姿は申し分ない…でもちょっと眼光が鋭くて…春風が怖がる。」
というわけで、ハルは却下。
「私は?」
「君は…警戒されないだろうけど、妖精には見えないから、その、服でごまかせるかもしれないけど…でも…。」
と彼は、ごにょごにょと語尾を濁した。
まぁ、言いたいことは分かる。私は妖精が求める美の基準を満たしていない。
ってことよね?
「要するに、警戒されないことが肝心なんだな。
空が飛べて、妖精に匹敵する美しさを兼ね備えていること。」
ハルの言葉に、私たちの視線は当然リビエラに注がれた。
「決まりだ。」「だよね。」
「えっ?僕飛べないけど?」
「それは私たちが何とかする、顔だけはどうにもならないもん。
行ってくれる?」
私は、彼女にせまった。リビエラの美しさは、自分の平凡な容姿に対するコンプレックスも吹き飛ぶほど、芸術的だ。妖精も認める美しさ、なんて、むしろ誇らしいじゃない?
「ララにそんな風にお願いされたら、断れるわけがない。
でもさ、もしかして彼らみたいな格好しなきゃいけない??」
リビエラは、あっさりと白旗を上げた。
それでもやっぱり、多くの春風が着ているゆったりとしたスリーブのローブは、気が進まないらしい。
「服は、今着ているもので大丈夫。
でも、ちょっとじっとしてて。
僕がそれっぽく加工してあげるよ。」
コルクットはそういうと、エメラルド色の葉のついた、気品のある瑞々しいマントをリビエラにかけた。すると、まるで光の粉が煌めくみたいに、リビエラの美貌に磨きがかかる。
真実の美に種族は関係ないのだと、このとき私は思った。だって、彼女を着飾ったコルクット自身も、酔ったみたいにぼうっとリビエラを見つめている。
「こんなに美しい人間が本当にいるなんて、胸が苦しくなる。
あのお方も…。」
丸い瞳は恍惚として、きらきらと潤んでいる。
ぼんやりと呟いたコルクットはハッと我に返り、私たちに視線を向けた。
「ぐずぐずしちゃいられない。
一つ、絶対にしちゃいけないことがあるんだ。
それは、口をきかないこと。
一言も、彼らと言葉を交わしちゃだめだよ。」
「言葉を交わすとどうなるの?」
「わからない。
僕が知る限り、人間がこんなことをするのは初めてだし…命の保証はできないよ。
リビエラはキレイだから、連れて行かれるかも。
いい?だから絶対に言葉を交わしちゃだめだよ。」
「大丈夫、言葉は交わさない。
交わす理由もないしね。
花輪を一つ取ってくるだけでしょ?」
リビエラは、いつもの調子で軽快に答えた。
「うん、先ずはどこか一つの島に行って、春風のそばで花輪を作るふりをするんだ。
相手が作り終えて手放したら、それを掴む。
そして立ち去るときは、背中を見せずにまっすぐ進んで。
飛び降りるときは自然に…ほら、あんなふうに。」
コルクットは、一人の春風を指さした。その妖精は、半歩先が地続きになっているかのように自然に足を踏み出し、空中に飛ぶ。
「オッケー。
花輪の確保以外は、二人に任せるからね。」
そういってリビエラは、私とハルにウィンクした。
吞み込みのいい彼女は、簡単な説明だけですぐに要領を得る。そして度胸もあるから、飛び降りることにもきっと躊躇しない。
容姿、性格、行動力と頭脳。どれをとっても非の打ちどころのない人間だと、改めて思う。
私は、春風たちが集う目の前の空間を眺めた。あちこちに点在する、花の輪。それを一つ手に入れるだけで、私の願いは叶う。
(これで終わる。ううん、ぬか喜びはだめ。花輪を手に入れて、イーリーベルに持ち帰って、キャスの頭にかざす。そこまでがミッション…。)
過剰な期待をすると、外した時の反動が大きい。ブリシュカみたいな失敗は、したくない。でも、ここに邪魔者はいないし、失敗する要素もない。
昂る期待を落ち着かせようと自分を諫めるけれど、簡単にはおさまらなかった。
ここさえ乗り切れば、キャスを元に戻せる。私たちの世界はもう、手の届く距離なんだから。
(そうよ、元の世界に…。キャス、パパ、ママ…。)
柔らかな風が吹き、ふと視線をやる。そこに、思いがけずハルの横顔があった。
ズキン…
胸に、小さな痛みが走った。
(ああ、帰るって…。)
別の意味もある。それはこの世界と、ハルと永遠にお別れするってこと。
穏やかな朝の時間、二人きりの夕食、小さな口喧嘩。
イーリーベルの日常が消えてしまうということ。
ズキン…
胸が、苦しい。
私の望みは、たった一つだったはずなのに。
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「こっちの用意はできた。
箒は出しておけよ、ララ。」
ハルが私を見た。
「え?あっ、うん。」
私は慌ててリボンをほどくと、雑念を払い除けて柄の短い箒を作り出した。
幸いにも私の箒は白色で、洋服も白っぽい。だから、霞の中をひっそりと飛べば悪目立ちしない。
「段取りは頭に入っているか?」
ぼんやりしていた私を不安に思ったのか、ハルが確認してきた。
「うん、入ってる。」
私の役目は、浮島のそばに隠れてリビエラをアシストしつつ、彼女から花輪を受け取ること。
万が一彼女が浮島から落ちるようなことがあっても、少しの間なら二人で浮遊していられる。
そしてハルは、彼の分身のような銀色の球を板状に変え、そこにリビエラを立たせて運ぶ。言ってみれば、送迎タクシーみたいな役割。
「僕を乗せての遠隔操作は大変だろう?ハル。
できるだけ近いところ…あの崖に近い浮島はどうだい?」
滑空するスノーボードを乗りこなすように、彼女は見事なバランス感覚で既に浮いていた。
「死角が作りやすい、ちょうどいいな。」
ハルはそう言うと、リビエラが優雅に宙を移動しているかのように操作した。
天才ウィザードは、今日も抜かりない。
そして私はというと、リビエラを追いながら崖の縁を進んだ。
一人になった私の心は、これまで当然のごとく横たわっていた事実に今更ながらかき乱された。
リアフェスを去る。それがもたらす現実。
私たちを繋ぐのは、一年に一度、サウィーンの夜にしか開かない道。次元の違うこの世界を去るということは、永遠の別れに等しい。
ずっと元の世界に帰りたいと思い続けていた私に、リアフェスを去りがたいと思う日が来るなんて。
この現実に、どうやって心の整理をつけたらいいんだろう。
こちらの気配に気づいたリビエラが、ほんの一瞬視線を流して微笑んだ。
私のために、なんの見返りも求めず危険を冒してくれる甘く優しい人。空中を飛ぶその姿は美しく繊細で、妖精としか思えない。
(リビエラ…。)
あなたが私の目の前から消える日が、本当に来てしまうの?
自然と涙が溢れ、前が霞んだ。自分の心が、涙と一緒にぼろぼろと音を立てて崩れそうになる。
「あっ…箒が!」
手にしていた箒が、消えかけていた。
ベールは私の意のままに操ることができる一方、その威力は自分の精神状態に大きく左右される。
これではいけない。私は両頬をバシバシと叩き、気を引き締めた。
「余計なことを考えちゃだめ。」
今こそ集中しないと、すべてが台無しになる。
私は涙をぬぐい、できるだけ春風の目にとまらない場所から飛行すると、浮島の岩陰に近づいた。




