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9-5.夢

 

 宵の刻。

 女王が玉座の間に姿を現した。狙うのは、琥珀色の瞳をした娘リビエラ。

 ララの涙を堪能した後は、この娘と決めていた。


 リビエラの美しい容姿は、柔らかな朝陽を受ける湖面のようにすがすがしい。しかし女王は、彼女の奥底にある、すさびれた湖底のような場所に心ひかれた。

 雪のように白い手が、慈しむようにリビエラの頬に触れる。しかし彼女の心は、女王を弾いた。


『頑なであることよ…。』


 女王は少し考え、リビエラの耳元で呪文を唱えた。

 冷気が踊るようにリビエラの首筋に絡みつく。


『夢は鏡。

 夢見の数だけ世界は生まれる…。

 そなたは自由ぞ。』


 白い冷気はリビエラの心の微かな隙間に滑り込み、静かなる彼女の記憶へと下った。



 ---------




「ぼく?」


「そう、あら?あなた男の子なの?なんて可愛らしい。」


 眩しそうに眼を細めて、周囲の大人は僕に微笑む。それが、幼い頃の光景の一つ。


 自分の一人称がいつから「ぼく」になったのかはっきりと覚えてはいないけど、記憶にあるのは、女の子の身なりで「ぼく」と言うと、皆が驚いたり笑顔を見せたりしていたということ。


 注目を浴びてチヤホヤされるのは、気分がいい。僕は元来そういう人間だから、きっかけは単純なことだったんだと思う。

 幼い僕は、ただ無邪気に周囲の反応を楽しんでいたんだ。それに、楽しむ僕を困り顔で見つめる姉を見るのも好きだった。

 大好きな僕の姉、マリエラ。

 世界中の誰よりも優しく、僕を愛してくれた人。


 僕の世界は、十歳年の離れた姉を中心にずっと回っていた。マリエラの視線を僕に向けること、彼女を独り占めすること、時には困らせること。それが、日々の命題だった。



 ---------



 およそ十二年前、初夏の頃。



「マリエラ!見て、おっきいアケの実!採ったよっ!」


 僕は、木の枝にまたがって大声で叫んだ。初夏の季節に美味しいアケの実は、マリエラの大好物だ。


「マリエラっ!聞いてるっ?」


「なに?リヴ?あぁ、またそんな高いところに登って…。」


 少し離れた木の陰にいたマリエラは、振り返ると慌てて駆け寄ってきた。

 自宅の裏手に広がる森のような山。午後、辺りは静かで、僕たち以外に人はいない。


「大丈夫だよ!あれ?あんな所にもある!よっ…と、とと、わっ。」


 ガササッ


「リヴっ!!」


「だいじょうぶだよー。」


 僕は両足を枝にひっかけ、地面に頭を向けた体勢でマリエラに手を振った。


「大丈夫なわけ…そんなところに足だけでぶらさがるなんて!お願いだから早く枝を掴んで。

 あなたが落ちちゃうわ。」


「やだよ、そんなことをしたら実が落ちるじゃん!」


「アケの実よりリヴの方が大事でしょ。」


「いいや、アケの実だよ。」


 僕は勇んだ。せっかく取った極上の実を落とすなんて、絶対に嫌だ。

 意地を張る僕の耳に、今度は枝の下から大きなため息が届く。


「そこまで行くわ。待ってて。」


 マリエラは、神妙な面持ちで腕まくりした。いかにも非力な色白の腕が、スリーブからあらわになる。


「駄目だよ、マリエラ!木登り僕より下手じゃん!高所恐怖症なんっ…ふぅわっ…。」


 ハックション!


 顔にあたった葉がくしゃみを誘発し、足の力が緩んだほんの一瞬。


「リヴっ!!」


 ドスン


「ったた…。」


 声を発したのは、僕ではなくマリエラだった。


「うわっ、ごめん、マリエラ。

 大丈夫?」


 アケの実を死守した僕は、慌てて彼女の上から飛びのいた。

 活発な僕にとって、高いところから落ちるのは正直日常茶飯事。少々の高さでも、怪我をしない落ち方なら心得ている。それなのに、運動神経そこそこのマリエラはいつも僕を助けようとする。


「だ、大丈夫…。

 怪我は?ああ、腕をすりむいてるじゃない。

 血が出てる。

 棘でひっかいたのね。」


 マリエラは身体を起こすと、まず僕を心配した。


「アケの棘なんて大したことないよ、こんな傷、魔法で消せばいい。」


「駄目よ、魔力はむやみに消費してはいけないの。

 本来の治癒力で治す習慣が大切なのよ。

 特に小さな子はね。」


「小さい?酷いな、僕はもうすぐ7歳だよ。」


「そうね、もうすぐ7歳ね。」


 マリエラは微笑みながら携帯用の薬箱を開けると、腕の傷を消毒してくれた。彼女は僕と行動するとき、いつも持ち歩いている。


「痛っ。」


「ほら、小さな棘が残ってる。

 これを放っておくと、化膿するのよ。」


 そう言いながら手際よく手を動かすマリエラを、僕はじっと見つめた。

 さらさらと揺れる翡翠色の髪。穢れのない琥珀色の瞳。このイーリーの町で、僕の姉ほど美しく、そして悪意のない人はいない。


「なあに?そんなにじっと見つめて。」


「本当に、病院で働くの?」


「そうね、できることなら。

 リヴは…反対する?」


「どうして僕が反対するのさ!マリエラなら凄くいい看護師になる。

 皆に親切だし、手当も上手だし!」


「ありがとう。」


「うん、だからね、僕はいいことを思いついたんだ。

 僕は医者になるよ。

 マリエラは、この町の僕の病院で一緒に働くんだ。

 どう?良い考えだと思わない?」


 得意気に話す僕に彼女は少し目を見開いて、次に笑顔になった。


「リヴの病院で一緒に仕事をするの?素敵だわ。」


「でしょ?一緒に仕事をするってことは、ずっと一緒にいられるってことだから!」


「そうね、ずっと一緒に。」


 この時僕は、マリエラがほんの一瞬、暗い顔をしたように感じた。


「医者になるのは無理だって思ってる?」


「ううん、そんなことない。

 リヴは賢くて頑張り屋だもの。」


「そうだよ、僕はやると言ったらやるんだ。

 はい、これ。」


 僕は、アケの実を差し出した。


「今年最初の実。

 マリエラが大好きなもの、僕がいつも一番にあげるでしょ。」


「リヴ…。」


 手をのばすマリエラから逃げるように、僕はアケの実を持っていた手を引っ込めた。


「僕はこのアケの実に、医者になると誓う。

 受け取る?」


 マリエラがどんな返事をするか、僕には分かっていた。姉が僕にNOを突き付けたことなんて、これまで一度もない。知っていながら確かな言葉を引き出そうとするところが、今にして思えば本当に子供っぽい。でも彼女は、背伸びばかりしている僕の性格をよくわかっていた。

 マリエラの両手が、僕の手をふわりと包み込む。


「リヴがお医者さんになる日を楽しみしにてる。

 約束の記念に、一緒に食べる?」


「いいね!」


 僕たちは並んで、その年最初のアケの実を半分ずつ味わった。


 この日の約束を叶えようと、僕は今も走り続けている。

 医者になることを諦めなかったのは、悲しい過去に、彼女が望んだ未来を上書きしたかったからだ。

 医学の道を志すには僕の動機は不純で、使命感の欠片もない。マリエラが見るはずだった景色をこの目に入れることだけが、僕を生かす理由になった。



 ---------



 数日後。

 その日、僕はかなり機嫌が悪かった。


「やだっ!誕生日ケーキにマスカットがないなんで絶対に嫌だ!」


「我儘はおよしなさい、リビエラ。

 売り切れてたんだから仕方がないでしょう?このイチゴも凄く美味しそうよ?」


「やだやだヤダっ!マスカットがないなら今日は誕生日しないっ!」


 母親のなだめも聞かず、僕は大声を上げてキッチンで地団駄を踏んだ。


「どうしたの?」


 騒ぎを耳にしたマリエラが、部屋から出てきた。隣には幼馴染のヘカテもいる。僕は、二人をジロリと睨んだ。


「ケーキにマスカットがないのが気に入らないって。」


「はぁ?あんた、まだそんな我がまま言ってるの?」


 お節介ヘカテが、仁王立ちでしゃしゃり出てきた。僕たちは姉妹同然に育ったこともあり、気の強い彼女は実の母と姉以上に遠慮がない。そして機嫌の悪い僕が素直にいうことを聞くはずもなく、口げんかが勃発した。


「うるさい!僕の誕生日ケーキにはマスカットがなきゃだめなの!ずっと前からお願いしてたんだから!」


「お願いしたって、ないものは仕方がないでしょうが。

 7つにもなって赤ちゃんみたいなこと言ってんじゃないわよ。」


「僕は赤ちゃんじゃない!今日は特別な日なんだ、特別な日のお願いに年なんか関係ない。

 なんでヘカテに怒鳴られなきゃならないわけ?あっちいけよ!」


「あんたの誕生日を祝いに来てやったのよ、あっちいけとは随分じゃない?」


「祝いに来たにしては口が悪いね、祝う気あるの?」


「二人とも、もうそのくらいに…。」


「あんたこそ祝ってもらう気あるの?主役が機嫌損ねたら雰囲気が台無しになることくらいそろそろ理解しなさいよ。」


「は?主役の僕に我慢しろって言うの?誰の誕生日だよ!」


「マスカットくらい我慢のうちにも入らないでしょ、泣きわめいて馬っ鹿みたい。」


「泣いてない!」


「泣いてるのと同じよ。」


「同じじゃない!」


「もう、おしまい!二人とも喧嘩しないの。」


 僕たちの口喧嘩に、マリエラが割って入った。

 喧嘩の仲裁をするのは、いつもマリエラだ。そしていつもなら、彼女の一言でそれとなくおさまる。だけどこの日、僕はある理由のせいで超絶機嫌が悪かった。


「おしまいなもんか!マリエラの裏切者っ!」


「?」


「僕に黙ってここ(イーリー)を出て行こうとしてたくせに!」


「そんなこと…。」


「部屋でヘカテと話してただろ!知ってるんだぞ!」


「あんた、盗み聞きしたの?!」


「聞こえたんだよ!」


「違うの、リヴ、あれは…。」


 マリエラがミースの学校へ進学しようと考えていたなんて、寝耳に水だった。

 そんな大事なことを僕に内緒にしていたなんて。ヘカテは知っているなんて。

 当然、僕は自分の誕生日どころじゃなかった。誕生日ケーキのマスカットはただの口実で、黙って遠い街へ行こうとしていたマリエラのことが許せなかった。


「二人とも大っ嫌いだ!顔も見たくない!」


 僕は捨て台詞を吐き、家を飛び出した。


(謝ったって、許してやるもんか!)


 僕の足は、全速力で山に向かっていた。

 途中、サンダルのベルトが切れて思いっきり転んだ。やり場のないめちゃくちゃな怒りを見えない相手に八つ当たりするように、僕はサンダルを力いっぱいどこかに投げつけた。


 リビエラが追いかけてくるのはわかっていたから、当然高い木の茂みに身を隠した。下で、マリエラが僕の名を呼び続ける声が、今でも耳に残っているくらいに何度も響いたけど、僕の怒りはそんなことでは治まらなかった。


 もしもこのとき素直に姿を現していたらと、今でも思うことがある。

 だけどそうしなかった。巧妙に姿を隠し、怒りと嫉妬にまみれた心の中で、二人ともどこかに消えてしまえと悪態をついていた。

 ヘカテに説得され、名残惜しそうに引き返すその姿が、僕が見たマリエラの最後になるとも知らず。


 ほどなく雨が降り始め、遠くで雷鳴が聞こえた。僕は木から降りると、雨をしのぐ小さな岩間に入り込んだ。


 暫くして、強烈な轟音が響く。


(落雷?近いな…。)


 いつの間にか僕は眠り、気がつくと父親に揺り起こされていた。

 このとき父は、「お前が無事で良かった。」と僕を抱きしめた。

 普段寡黙な人が涙を流して感情的になっている様子は、子どもながらに何かを感じ取る。


「どうしたの?父さん…。」


「マリエラが…お前の姉さんが…。」


 顔を歪めた父から発せられたその言葉は、僕の中の宇宙を止めた。


 マリエラが死んだ。


 父が嘘をつく理由などなく、かといって受け入れるにはあまりにも唐突な現実。

 父は混乱する僕を抱きかかえ、家へ連れて帰った。


 僕が岩間で聞いた強烈な轟音は、マリエラを直撃した雷だった。

 変わり果てた姿に、左手には僕のサンダルが握られていた。


 ヘカテによると、山道を下る途中、山肌があらわになった崖のそばで僕のサンダルを見つけたのだという。

 マリエラは、僕が崖から転落したのではないかとひどく動揺したそうだ。

 いつもの彼女なら、僕がそんなヘマをする性格ではないことくらい理解していたかもしれない。でも、僕を傷つけてしまったと思い込み、マリエラは泣きながら僕を探し続けた。


 ヘカテが辺りを歩き回り、数メートル離れた矢先のことだった。崖の縁にいたマリエラは一瞬の衝撃音とともに崖向こうに落下し、吹き飛ばされたヘカテは半身に火傷を負った。


 嫉妬心、猜疑心、独りよがりの狭い心。

 人間の卑しい感情は、悲劇へと分岐を加速させる。


 それは結果であって、マリエラは死ぬ運命にあったのだろうって?

 いいや、違う。

 雷は不可抗力ではないのかだって?

 それも違う。


 僕は、姉さんの死を防ぐことができた。僕たちは、今もずっと一緒にいるはずだった。

 僕が医者になると宣言したから、マリエラは将来のためにミースへ行こうとしていたのだと、僕は後から知った。

 僕の嫉妬にまみれた心が、大切な人を死に至らしめたんだよ。


 絶望?そうだね。あの日僕は、生きる意義を失った。


 僕が泣かないのが不思議なの?

 おかしなことを聞くね。

 マリエラの未来を奪った僕の中にあるのは、怒りと苦しみだけだ。

 成長するごとに、僕はマリエラに生き写しのようだと言われる。

 彼女の似姿を映す鏡を見る度に、恋しさと後悔で喉を搔きむしりたくなる。

 泣けば、この苦しみから解放されるとでも?


 …やめろ。


 何をする。これは何だ?お前は誰だ?!なぜ僕に話しかける?

 僕の涙?一体何を言っている?


「ぐぐっ…。」


 やめろ、姉さんに何をする!おい、それ以上近づくな!マリエラっ!行っちゃだめだ、マリエラ!!


「ぐあぁっ。」


 パリンッ


 ---------


 リビエラは、床に倒れた。


 サンダルを履いた少女が、立ち上がった。

 暗闇の中で、遠く消え入る姉の姿が見える。


(どこに行くの…マリエラ?だめだよ、行かないで。

 僕を置いていかないで、マリエラ!)


「僕は…。」


 リビエラは、苦しそうにうめいた。

 瞼に滲んだものが、小さく輝きながら女王の口へと吸い込まれる。女王は、リビエラの頬に触れた。


『案ずるな、時が来ようぞ…。』

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