9-4.女王
壮麗な女王の居城は、まるで氷海にそびえる美しい孤島だった。
細く高く伸びる白い塔、薄い光を反射する六花。ソリは雪と氷で作られた長い長い坂を上り、三つの門と三つの広場を抜け、最後に豪華なシャンデリアがある大広間に到着した。
「誰もいないね。」
「あの先に行ってみよう。」
私たちは、ソリを降りて奥へ進んだ。
大広間の先に、別の大きな部屋がある。そこには、高い階段の上に玉座のような立派な椅子があった。
『待ちかねたぞ。』
突然、声が響いた。
誰もいなかったはずの玉座に、いつの間にか肩ひじをついた女性がゆったりと腰かけている。
「女王だね。」
驚く私に、リビエラが小声で言った。
『如何なる理由で我が城へ参ったか。
聞かせよ、白いケープの娘。』
女王は威厳たっぷりに、白いケープを着た娘、つまり私を指名した。
ソリの精気から身を護るためのベールはここでは不向きだと思い、フード付きのあたたかいケープに装いを変えたばかりだった。これも、ベールを様々な形に変える応用編。
私はフードを脱ぐと、両隣の二人―ハルとリビエラ―と視線を交わした。
軽く膝を曲げ、精一杯の敬意をもってお辞儀する。
「お、お初にお目にかかります、女王陛下。
私たちは、リアフェスから参りました。
春風の妖精を求めて旅をしている途中です。
思わぬ事故により、陛下の御国に迷い込んでしまいました。
願わくば、通り抜けの許可を、いただけないでしょうか。」
緊張して、少し声が震えていたと思う。
女王は沈黙し、私の心臓は痛いくらいドクドクと脈打った。
『顔をあげよ。』
「は、はい…。」
女王が立ち上がり、階段の方へ進むのが見えた。そして次の瞬間、私は息を止めた。
透けるような白肌に、美しく結った髪。青白いローブから漂う、気高さをはらんだ冷気。
女王はいつの間にか、私のすぐ目の前に立っていた。間近で見ると、ハルと同じくらい背が高い。
精霊とは明らかに格が違う、生気を吸い取られそうなほどの圧とオーラ。
前にも、同じような気配をどこかで感じた気がする。あれは…。
〈くれぐれもご用心なさいませ…〉
頭の中で、時雨の忠告がこだました。
冷たいシルクのような女王の指が、品定めをするみたいに私の顎先に触れる。
『リアフェスの住人は、久方ぶりである…。
春風の妖精を求めておる、とな?』
「はい…。」
『して、その目的は何ゆえに?』
「花輪を、貰いに。」
女王は美しい柳眉をほんの少し動かし、私から離れた。
『リアフェスには、未だわきまえぬ輩がおるようだ。
人間の分際で、あの者共の花輪を手に入れる…。』
「石になった親友を助けたいんです。
私には、他に方法がなくて…。」
『情けを請うて、花輪を譲り受ける算段か。
無駄なことだ。
そなたらは近づくことすら叶わぬ。』
氷の女王は、表情も言葉も冷たかった。
人間を嫌悪しているのか、それとも警戒しているのか、よくわからない。
「どうぞ、ここを通り抜ける許可をくださいますよう。
ご迷惑はおかけいたしません。」
私は膝を曲げ、もう一度恭しく頭を下げた。
今は、ここをやり過ごすことだけを考えなければ。
『許可?必要ない。』
「それはつまり、」
私は期待した。
『そなたらは、ここにしばらく留まるがよい。』
「えっ?い、いえ、そういうわけには…。」
『遠慮は無用である。』
「恐縮ですが女王陛下、遠慮ではなく、その、残念なことに…、先を急いでいますので。」
『断ると申すか。』
「女王陛下の寛大なお心に、懇願いたします。」
私の期待は、焦りに変わった。ここに留まるなんて冗談じゃない。のんびりしていたら春が終わってしまう。
『さようか…では立ち去れ。』
「ありがとうございます。」
あっさりと受け入れられた譲歩に、私は胸を撫で下ろした。
『そなた一人で、な。』
「っ!」
精気を含んだ刺すような突風が、私の両脇を勢いよく抜けていった。
何が起きたのかよくわからない。咄嗟にハルとリビエラを振り返り、想像もしていなかった二人の姿に今度は言葉を失った。
二人は全身を霜に覆われ、時間を止められたように動かなくなっていた。辺りは私だけを残して床までも白く凍りつき、触れた身体は冷たくて、生きているのかどうかもわからない。
石化したキャスを見たときの衝撃が、強烈にフラッシュバックした。
「ああ、なんて…なんてことを…。」
こんな光景を二度も見るなんて。
両膝の力が抜けて、私は床に崩れ落ちた。
「ううっ。」
どうしていいのかわからず、足どころか体中の力が抜けていく。
〈…くな…〉
〈ララ…。〉
静かな声が、微かに耳に触れた。
「は、ハルっ?!」
私は、ハルに飛びついた。
凍りついて微動だにしない唇。私には、「泣くな。」そう聞こえた気がした。
私が泣くと、ハルはいつも怪訝そうな顔をする。
「な、泣いてない。」
心とは裏腹の強がりが、口をついた。不思議なことに、それが私を奮い立たせ、いとも簡単に弱気なララを消し去る。ここで途方に暮れるわけにはいかない。
「お、お待ちください、女王陛下!」
私は、踵を返す女王を追いかけた。
「なぜこのようなことを?お願いです、二人を元に戻してください!」
『そやつらは置いて行け。』
「できませんっ。」
『急いでおるのだろう。』
「そ、それとこれとは話が別です。
大切な二人を置いて行けませんっ。」
『親友のために花輪が必要ではなかったか。
よもや、わらわを欺こうとしたのではあるまいな。』
女王が振り向いた。
「欺くなんて、そんな!サウィーンの夜にキャスが石になったのは本当です。
彼女を助けたくて、ここまで来たんです。」
『ならば、答えは出ておろう。
物事には、優劣をつけねばならぬ時がある。』
「ゆ、優劣をつけられないほど大切な時はどうしたらいいでしょうか。
どちらを選んでも幸せになれないとわかっているのに、優劣をつける意味がありますか。」
私は込み上げる感情を押し殺し、女王の射すような眼差しから目をそらさなかった。
親友を諦めるという選択肢は、私の中にない。けれど、二人を置いていくのも絶対に嫌だ。
ハルもリビエラもキャスも、私は誰一人失いたくない。
沈黙の中に漂う冷気とオーラが寒々と揺れ、私の手や頬にピリピリと触れる。
『…そやつらは、いずれ目を覚ますのだがな。』
女王は視線をそらし、諦めたように沈黙を破った。
「いずれ…?いつですか。」
『さぁ、いつであろうのう。』
「ご、ご自分の魔法なのに、お分かりにならないんですか。」
『雪解けには時間が必要なのだ。』
「じゃあ、待ちます。」
私は即答した。迷いはない。明日でも明後日でも、一年先でも、掴めるチャンスを粘り強く待とう。今の私にできることといえば、それくらいしか思いつかない。
大事なのは、最後の最後に皆の笑顔が揃うことだ。
『よかろう。
そなたの滞在を許可する。
ここにいる間、わらわの話し相手となるがよい。』
女王は、あからさまに口角を上げた。
その表情を見て、私は、これが彼女の目的だったんじゃないかと感じた。
女王の暇つぶしのために二人が犠牲になったんだとしたら、ムカつく。
「お言葉ですが女王陛下、私は陛下のお相手をするために留まるわけでは…。」
『わらわの気分次第では、目覚めの時期が早まるやもしれぬぞ。』
ビンゴ…?
好機は、きっと訪れる。私は、恭しく頭を下げた。
「仰せのままに。」
---------
「くしゅんっ。」
底冷えする冷気にさらされて、くしゃみが出た。
寒さを感じ始めているのは、ハルの魔法が解けてきた証拠だ。
妖精の服とケープに保護されているとはいっても、この尋常じゃない寒さは完全に防ぐことができない。
二人が目覚めるまでに、私のほうが凍結しそう。ああ、現実味がありすぎてシャレにならないよ。
『冷えるか。
人間には酷よの。』
女王はそう言って、テーブルに白磁のティーセットを出現させると、宙に浮かせたポットから飲み物を注いだ。
用意されたイスとテーブルは、もちろん綺麗な装飾の氷でできている。
『人間は温かい茶を嗜む。
さぁ、飲め。
ここにいる間の寒さは和らぐであろう。』
饗された飲み物に漠然とした不安はよぎるものの、温かそうな湯気の誘惑には逆らえない。私は、カップに口をつけた。
(あ、ハーブティー…?)
口と鼻に広がる、素朴で野性味のある甘すぎない香り。一口飲んだだけで、温かさが体中に染み渡る。
「ふうぅ…。」
長い緊張の末の、安堵のため息だった。
飲み物のおかげで、寒さがうそのように和らぐ。体が温まるだけで、こんなにも心休まる不思議。
深々と背もたれにもたれたところで、はたと女王の視線に気がついた。
「わ、粗相を…。」
『苦しゅうない。
寒くはないか。』
「はい、全く。」
『そうか、わららも満足である。
昔、聞いたことがあるのだ、あやつらは茶を嗜む、と。』
女王は、誇らしげに言った。
『名を聞いておらなかったな、何と申す?』
「ララです。」
『ララ、わらわに話してたもれ。
そなたは、いずくで如何に生きておった。』
「え?っと…、普通です。
普通に生きていました。」
『ほぅ、フツウとは如何なるものか。
そなたは如何なる魔法を使う。
話して聞かせよ。』
フツウとは何であるか。
うっかり適当なワードを使った私も私だけど、改めて気がついた。普通ってなに?
リアフェスに来るまで、私にとっての普通は魔法がない世界だった。だけどこの世界は、魔法が普通に存在する。
二つの世界は「普通」の基準が違う。
悩んだ挙げ句、私は自分が生きてきた主観的な普通―学校やキャス、そして両親のこと―について話すことにした。
もちろん、私が異界人であることを伏せたまま。
---------
『そなたの生きざまは、よきフツウであることよ。』
私が話し終わると、女王は満足した様子で言った。
『よほど親友を好いておるようだが…。
一つ、解せぬことがある。』
「はい、なんでしょうか。」
私は緊張気味に返した。気をつけて話したつもりだけれど、何かボロを出してしまっただろうか。女王が、じっとこちらを見る。
『何ゆえ、サウィーンの夜に出歩いたのだ。
あれは死と闇の王リアルの一夜ではなかったか。
人間が出歩くのは危険である。
そなたとて、知らぬはずはなかろう。』
「死と闇の…。」
それは、初めて耳にする名だった。
私の知らない、死と闇の王リアル。キャスを石に変えたというゴルゴ―。夜を駆け抜けるワイルドハントの一団。あの夜、キャスは一体どんなおぞましいものを見たんだろう。
『どうした、嫌なことを思い出させてしまったか。』
「あ、いいえ…、大丈夫です。」
私は少し考えて、あたかも彼らをよく知っているような口ぶりでこう答えた。
「あの日、二人で道に迷ってしまったんです。
帰る方向を間違えて、キャスがゴルゴ―に遭遇してしまいました。」
『愚かな…。
ベールがあれば逃げ切れると誤ったか。』
「これが、見えるのですか。」
私は、羽織っていたケープに触れた。
『見くびるでない。
いずくのものか。』
「これは…、サウィーンの夜にもらいました。
自分のことを偉大な魔法使いと呼ぶ老人に。」
私はふと、オルランドとの出会いを思い出した。
氷の女王も危険だと知っているサウィーンの夜、林の中に私を置き去りにした人でなし。
他人の不幸を喜ぶ偉大な魔法使いは、私にこの世界の言葉と一枚のベールを授けて消えたんだった。
あの時はとんでもない爺さんだと思ったけれど、これまで何度もこのベールに助けられてきた。私は、その事実をすっかり忘れていた。
もしもあの夜、オルランドが私を見つけていなかったら…。
思いつく「もしも」の筋書きは、どれもバッドエンド。ゾッとする。
私は彼を恨めしく思うばかりで、出会えたことがどれほどの幸運だったか、これまで振り返ることもなかった。
「本当に、運が良かった…。」
(いつか会えたら、ちゃんとお礼を言おう…。)
『親友を石にされたのだ、我が身にふりかかった不幸を嘆かぬのか。』
女王は、怪訝そうな顔で見ていた。
「嘆きました、自分たちの身に起きた不運を。
キャスをもとの姿に戻すまで泣かないと誓ったのに、何度も泣いて、ハルにも八つ当たりしてしまいました。」
『何度も…ハル?』
「そこで凍っている、背の高い方の友人です。
でも、女王陛下とお話して、自分がどれほど幸運だったかということに気がつきました。
キャスが石にされたことは予想もしなかった不幸ですけど、これまで何度もこのベールに助けられたんだって。」
『それを真に幸運と呼べるのか。
不可解な娘であるな。』
そう言って、女王は私に向かって片手を伸ばした。
白い指の先からささやかな冷気が流れ込んできて、私の頬に触れる。
『なぜ泣かぬ。』
「なぜって…。」
『人間は、不運に涙するものであろう。』
「そうかもしれませんけど、私は枯れるほど泣いたのでもう吹っ切れたみたいです。」
『…解せぬ。』
「うあっ…。」
頬に触れていた冷気が、突然身体に入り込んできた。
『わらわは味わいたいのだ。』
「あ、味わうって…な、…?ぁぁっ。」
軽く痺れるような感覚に、自由を奪われる。
白い触手のようなものが心の奥底に侵入して、ギルの記憶が流れ出た。
不条理な現実に家族を奪われ、人生を狂わされた人。ずっとわだかまっていた小さな傷。そこに、女王の指が触れる。
『これか…お前はその男を想い、泣いておるのだな。』
「あ…うぅ…やめ…。」
私は、涙を流していた。
自分でもわからなかった深層を女王にえぐられ、なすすべもなく、理由もわからないまま、大粒の涙が弾けながら落ちていく。
『善き。』
冷気に乗った涙は雪の結晶に変わり、きらきらと輝きながら女王の口へと吸い込まれた。
「いったい…何を…。」
身体から痺れが抜けたとたん、重い倦怠感に襲われた。女王の精気が残り香のように私の意識を邪魔して、接触不良みたいな目眩がする。
『人間は茶を嗜む。
わらわは、人間の涙を嗜む。』
「こっ、こんなことを…しなくても…。」
『泣けと言えば泣いたか。
ふん、だがそのような味もない涙、わらわは好かぬ。
わらわが望むのは、感情の染み込んだ味わい深い涙よ。
そなたらが旨い茶を求めるのと同じである。』
女王の趣味の悪い嗜みに、私は絶句した。
ザムといい目の前の御方といい、自分本位な精霊やら妖精やらの類が、心の底から嫌になりそうだ。
私は半身を起こし、背もたれに寄りかかった。
目眩がおさまると同時にお腹のあたりから怒りがマグマのようにわいてくるけれど、逆ギレされては身も蓋もない。
「よぉく、わかりました…。
いかがでしたか、私の涙は。」
『うむ、そなたの心はくすぶっておらぬ。
ゆえに涙は素直である。
ほのかな甘味と苦味の塩梅はなかなかに美味であった。』
「お褒めいただき、光栄です…。」
満足げに涙の味を褒められても、嬉しくもなんともない。
ハルとリビエラを目覚めさせたら、速攻でこんな国から逃げてやる。
私は、何度も自分に言い聞かせた。
『そやつを好いておるのだな。』
女王が目を細めた。
「はっ?私がギルを?イヤイヤ、全然違いますっ!」
冷や水を浴びたように、いっきに目が覚める。勢い余って、私は椅子から立ち上がってしまった。
『なにを慌てておる。
わらわが申しておるのはそやつではない。』
「…と、おっしゃいますと?」
『そなたは、あれの道義に反した行いを嘆いていたのではないか。』
女王はそう言って、ハルに視線を向けた。
「…えっと、おっしゃる意味がわからないのですが…。」
『己のうちに疼く傷を知らぬというか。』
「罪悪感…かと。」
『たわけ。
誰を恨むこともできず、好いた男の道義に反した行いに屈した。
信じておればなおさら、裏切りは許せぬものよ。』
「裏切り?」
『敢えて言葉にするなら、失望か。』
「失望…私が、ハルに?」
女王の言葉が、まるで雫みたいに一滴ずつ、私の心に降ってきた。そして水滴の波紋が広がるみたいに、腑に落ちた。
そうか。この傷は、ギルを見送ることしかできなかった罪悪感じゃなく、ハルに対する失望だったのか。
間違ったことをするはずがないと信じていた彼が、躊躇なく上王の意向に従った。
私は、それが悲しかったんだ。
ずっと消えなかった不可解な気持ちに、意外にも、女王が足りなかったパズルのピースをくれた。
ハルは、私の訴えに耳を貸さなかった。道義や私より、上王を選んだ。彼は、彼の道理に従った。
頭では理解できていているのに、あの時のことを思い出すと胸がいたくなる。
私は、寒々と凍るハルを見た。
霜に覆われたダークブロンドの髪から、意志のある瞳がのぞいている。自由を奪われても色褪せない芯の強さは、一体どこからくるんだろう。
考えてみれば、私はハルのことを何も知らない。
『さて、じきに宵の刻である。』
女王の声が、私を感傷から現実に引き戻した。
『寝屋を案内してやろう、ついてくるがよい。』
「えっと、お構い無く、女王陛下。
私は、ここで寝ます。
二人のそばを離れたくないので。」
今は、片時も二人のそばを離れたくない。明日目が覚めたら、二人が消えてしまっているんじゃないか…。そんな不安に襲われる。
女王は、いつ心変わりするかわからない。妖精は信じられない。時雨の言う通り、彼らの美しい見かけが信用に値するとは、限らない。
『戯けたことを申すな。
客人をもてなせぬとわらわに恥をかかせるつもりか。』
「いいえ、そういうつもりでは…二人が目を覚ましたとき、一番近くにいたいんです。」
『案ずるな、そやつらは今宵目覚めることはない。』
「でも、明けに目覚めるかもしれません。」
『ならぬ、ほら、早く来ぬか。』
「嫌です。
私はここがいい。」
私は冷たいリビエラに抱きついた。
『ええい、手のかかる娘よ。』
女王が苛立った声を上げ、一陣の冷気が足元から立ち上った。
「きゃっ!わっ、やだ、ちょっと離してっ。」
私は突然床から現れた氷の兵士に腕を掴まれ、そのままグイと肩に担がれた。
「待って、私はここにいっ!…。」
首筋に冷たい刺激が走り、私は意識を失った。




