9-3.芳香
「これだ。」
ハルの長い指が、盤面の一か所に触れた。
興味津々な私たち三人の視線は、いわずもがなその一点に集中する。
「これが妖精文字?」
目に飛び込んだのは、落書きみたいな小さな文字群。
リビエラも馴染みがないらしく、顎先に手を添えて見入っている。
「なにかのリストかな。
なんて書いてあるんだい?」
妖精文字は、たとえるなら私たちの世界でいう楔形文字のようなもの。リアフェスでも読める人は限られている。
「読めるか?時雨。」
ハルが珍しく時雨にたずねた。
「いいえ、私めには…。」
「そうか。
ここにある文字は、全て場所を示している。
ィヤルデ、春の野という意味。
そしてィヒャルデ、氷の原。」
ハルはすらすらと読む。
「春の野!わぉ!きっとそこよ、そこに行けば春風の妖精に会えるんだわ!」
「楽勝じゃん!早く行こう!」
私とリビエラは、手を取り合って喜んだ。
こんなに簡単に行けるなんて、ザムのことで一喜一憂していた自分がバカみたいだ。
「やり方は前と同じよね?盤面のクリスタルに手を置いて…。
私、やってみる。」
私はハルを押し退け、早速ネルフォーネの時のように唱えた。
「春の野!」
が、しかし。
期待とは裏腹に、装置を取り巻く景色は1ミリたりとも変わらない。
「移動…しない?」
「みたいだね。
どうしてだろう。
わかるかい、ハル?」
リビエラは、じっと考え込むハルを見た。
「全体を調べて気づいたんだが。」
ハルが、おもむろに顔を上げる。
「盤面の文字は、人の手で彫られている。
それから…ララ、近くの手すりに触れてくれないか。」
私はハルに言われた通り、装置を囲む手すりに触れた。
すると、小さな妖精文字がうっすらと浮き上がった。
「わっ、文字が!」
「リビエラ、お前も。」
「僕も?…何も起こらないけど。」
「リビエラのところには文字がなくて、この手すりには文字があるってこと?」
「いや、違うだろうな。
移動装置は正八角形で、三面に盤面がある。
この部分は人間界の素材だが、柵だけは違う。」
「妖精界のもの?」
「断言できないが、特別な物のようだ。
そこに、妖精の呪力が付与されている。
ララが触れて浮き上がった文字は、その痕跡だ。
オレたちが妖精文字と呼んでいるものは、もっぱら彼らが祝福や呪詛など、対象に何らかの呪力を付与したときに残る跡なんだ。
痕跡は、必ずどこかに残る。」
「呪力の付与…やはり妖精は違うね。
魔力に言霊をのせて使う術式みたいなものか。」
「そうだな。
見方を変えれば、痕跡を見つけることで妖精の力によるものだという証明になる。
しかし、人間が彫った妖精文字に力は宿らない。
たとえ場所の名称が判明しても、盤面の装置にリアフェス外へ移動する機能はない。
可能性があるとすれば、盤面ではなく手すりの方だ。」
「じゃあ、私とリビエラが触った手すりの違いはなに?」
「手すりはこの通り、オレが触れても変化がない。
ララが…この屋敷の主人が触れると現れる仕組みだと思う。
ララ、リビエラと同じ手すりに触れてみろ。」
「う、うん。」
私はリビエラに近づき、人差し指で触れた。
「すごいな、ご主人様。」
リビエラが口笛を吹いた。
ハルが指摘した通り、妖精文字がうっすらと浮かんだのだ。
こんなこと、前に来た時は気づかなかった。
「この装置は屋敷の主人にしか動かせない、というのはある意味間違いではなかった。
お前は文字の存在を知っていたのか、時雨。」
不意に、ハルが時雨を見た。
「はわわっ、ハルさま、私めが先日申し上げたのは、決してそのような意味ではございません。
屋敷にある全ての魔道具は、旦那さまの所有物でございますから…。
ですからそれ以外の者は、許可なく作動させてはならないのでございます。
私めも、その理由は存じ上げません…とにかくそういうことなのでございます。」
時雨はぷかぷかといつもより乱高下しながら、慌てて否定した。
ハルのあの眼差しで問いただされたら、たとえ人間でなくたって、善良なスプリタスなら慌てる。
私は時雨に同情し、口を開いた。
「とにかく、この手すりにはどんな呪力が付与されてるのかな。
まさか、呪詛ってことはないよね?」
手すりの上を、指先でツツとなぞる。
反応する文字は、夜の海に光るノクチルカみたいだ。
「はわわっ、旦那さま、恐ろしい事をおっしゃらないでくださいまし。
彼らの呪詛は、厄介この上ない禍でございますよ。」
時雨は身震いしながら私に近づいた。
「そうなの?」
「そうでございます。
深淵なる力の持ち主には、禁忌とされていることが一つだけございます。
それを侵せば、永遠に等しい寿命を持つ彼らといえども、死を免れることはできません。
ですが呪詛は、よもやそれを成し遂げてしまえる禍々しい業なのでございますよ。」
「へぇ。」
「呪詛をかけられたモノは知らぬうちに禍を引き寄せ、それによって死に至ります。
かけられた本人が自滅するのは、禁忌を破ったことにはなりませんから。
はわわ…恐ろしい。」
時雨はそう言って、もう一度身震いした。
「結構怖い存在なのね、妖精って。」
「僕らは、妖精は友好的な種族だと学校で教わるけどね。
こっそり呪いをかけて相手を死に至らしめるなんて、案外と陰険だな。」
「深淵なる力の持ち主は見眼麗しく、一見穏やかです。
旦那さまもリビエラさまも、彼らの外見に惑わされることなく、言動にはくれぐれもご用心くださいませ。」
時雨はそう告げると、お茶を準備すると言ってテーブルの方に飛んで行った。
確かに、一服する時間は必要かもしれない。
私は、深々と息を吐いた。
怒らせると怖い妖精の扱い方は、今は脇に置いておこう。目下の難題は、この蜂蜜色の柵だ。
無作為に手すりをなぞり、浮かんでは消える薄い文字を眺める。
頼りのハルは、休むと言いつつ装置を降りた。あれは、考え事を巡らせている顔。
何もできないリビエラは前かがみになって柵によりかかり、退屈そうに横で腕をだらんと降ろしている。
「ねぇ、リビエラ、こんな棒切れに呪力を付与した理由は何だと思う?
空を飛ぶため?ありがたい光線でも出てくるのかな。
私にしかできない何かがあると思う?」
「んー、僕にはさっぱりだね。
ララにしかできないナニかは、ある気がするけど。
命令でもしてみたら?」
「命令ねぇ。
妖精の言葉知らないしなぁ。
なんだっけ、盤面にあった言葉…。
ィヒャルデ?」
何気なく呟いた言葉に、手すりの文字が反応した気がした。
今まで昏睡状態だったものが急に息を吹き返したみたいに、私は指先に沸き上がるような鼓動を感じたのだ。
(え?今動いた?)
「うわっ。」
私が変化を感じたのと同時に、リビエラが声を上げた。私たちは顔を見合わせ、一瞬で状況とすべきことを理解した。
シュルシュルと不思議な音が鳴り、まるで宙に浮くような不思議な力が動き始める。
「ハル、来い!」「ハルっ!」
私たちは一斉に叫んだ。
彼の知識と魔法なしでは、春風の妖精にたどり着くことなどできない。
察したハルがためらうことなく飛び込んでくる。その後ろに、茶器を持ったまま取り乱す時雨の姿があった。
「だ、旦那さまっ?!」
リビエラがハルの手を取り、引き込む。私はよろめいて、手すりにしがみついた。
「時雨!行ってくる!!」
辺りがかすみ、見慣れた部屋の景色は、確かに叫んだ時雨の声とともにかき消えた。
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「ハックシュンっ!」
極寒の世界に、リビエラのくしゃみが響く。
「さ、寒い…。」
「うん…。」
こんな景色は、生まれて初めて見た。
高い灰色の空。遠くに見えるくぐもった白い稜線。四方に広がる氷の大地。
その上を、乾いた風にのった粉雪が滑るように流れていく。
辛うじて声を出したものの、寒さのあまり早速心が折れそう。
イヤイヤ、今の私には、二人が何を考えているか痛いほどわかってますって。そっちの方がツライ。
迂闊な言葉を口にするもんじゃないと痛感したのは、二度目。
教訓は、忘れた頃になんとやら…。
むしろ罵倒された方が心も軽くなる。それなのにハルは何も言わず、寒さしのぎの魔法をかけてくれた。これで、半日の寿命は確保。
「僕たち、春の野に行くんじゃなかったっけ。」
リビエラが、辺りを見ながら言った。
風と共に吹き抜けていく雪どもの障害物は、見える限り私たちだけ。
「う…ごめん。
なんでィヒャルデって言っちゃったんだろ。」
こんなことになるなら、ちゃんと言葉を選んでた。
「責めるつもりで言ったんじゃないんだ、ララ。
行き方はわかったんだから、一度コンパクトを使って戻ろう。
またやり直せばいいよ。」
コンパクトとは、クレアモントホールに戻るための子機型空間移動装置。ネルフォーネから帰る時も、それを使って楽々と移動した。
「ごめん、置いてきちゃった…。」
最悪に不都合な事実、私たちは帰る手段を失った。
コンパクトから手を離したのは、盤面の妖精文字を見てリビエラとはしゃいだとき。
彼女の顔が凍ったように見えたのは、もちろん、寒さのせいじゃない。
「コンパクトはあてにするな、リビエラ。
ここが外界なら、あれは機能しない。」
「そうか…仕方ない、それなら別の方法を考えようか。
凍る前にここを離れないと。」
リビエラは、私と違って前向きで切り替えが早い。彼女は愚痴一つこぼすことなく続けた。
「氷の原は、厳密にいうとどこなんだろうね。
北の国ノウルドに雰囲気が似ていないこともないけど。」
私は、この言葉にふと思い出したことがあった。それは、ノルドの森にジュールログを買いに行く前、ハルと話した時のこと。
ノルドの森の向こうは、氷の平原と呼ばれる永久凍土と常雪山がある。そして人と人間以外の存在が混在するグレーゾーンの先は、外界。つまり、
「氷の女王の国じゃないかな。」
「オレも同じことを考えていた。」
ハルが、遠くにそびえる山の連なりを見ながら言った。山頂は薄暗く、激しく吹雪いているのがわかる。
「オーケー、それならここが外界だと仮定して、あの連峰がリアフェスとの境界だとしよう。
この仮定が正しければ、境界のある方角が南、こちら側が北、そして、東と西だ。」
リビエラは、右手を大きく振りながら方角を示した。
「次の問題は、どちらの方角に進むべきか、だよ。
あの尾根を越える労力を考えれば、わざわざ戻る選択肢はないよね。」
「北へ進もう。」
ハルが即答した。
「あの山は、物理的にも空間的にも今のオレたちに超えるのは無理だ。
氷の女王は、好奇心旺盛な妖精だと聞いたことがある。
自分の領土に立ち入った部外者を決して見過ごさな…。」
「おや?」
ハルとリビエラが、同時に耳をそばだてた。
「何か来る。」
リビエラが、北西の方角を見た。目を凝らすと、ものすごい速さで向かってくる小さな点が見える。
「何あれ??」
私は緊張した。
氷の大地を走る速さは、絶対に人間のものじゃない。
「ソリだ…大きいな。」
リビエラが言った。
「ソリ?なんかキラキラしてない?」
「うん、透明な生き物がソリを引いてる。」
「氷じゃないのか。」
「氷?氷の生き物?誰か乗ってる?」
「いいや、誰も。」
口々に話す私たちの視線を釘付けにしたソレは、やがて目の前で静止した。
美しい彫りが施された、二頭仕立ての氷雪のソリ。そして、氷で作られたヘラジカのような生き物。
「冷た…、氷でできてる。」
リビエラは臆することなく近づくと、一頭の体躯に触れた。
一切の気泡がないガラスに命を吹き込んだような、神秘的な氷の生き物。無機質な美しさの中に、大地を這うような覚えのある気配をまとっている。
「え?ちょっと、何してるの?リビエラ!」
私は、彼女の行動に目が飛び出そうになった。
「乗るんだよ。
ほら、ララもおいで。
ここに足をかけるといい。」
「え、まま、待って、なんで乗るのっ。」
「ソリは見計らったようにやって来て、僕らの前で止まったんだ。
乗れと言われてるようなもんさ。
女王はよそ者を見過ごさないんじゃなかった?」
「だからって、どうなるかかわからなのに…ハル?」
私は、ハルを振り返った。
「凍死するよりいいだろ、乗る以外にない。」
「駄目よ、すごく嫌な予感がする。」
私は、促すハルの手を振りほどいた。
氷が醸すざらざらとした薄気味悪い気配に、取り込まれてしまいそうだった。刻の水底で私を襲った黒い影が、姿を変えて手招きしているようにも見える。けれど、それをどう二人に伝えたらいいのかわからない。
「少なくとも、殺されることはない。」
「そうだよララ、僕たちは女王を怒らせなければいいだけさ。
きっと上手く行くよ、おいで。」
二人は、ためらう私をソリに乗せた。
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摩訶不思議な乗り物に身を任せるのは、何度目だろう。
御者のいない氷雪のソリは、箒よりも速いスピードで風を切っているのに、遅々として進まない。
高い空と荒涼とした大地の間では、速さの感覚が麻痺する。
一刻も早く、降りたい。
ソリに乗ったことが正解だったのか、わからない。
さっきの状況でハルとリビエラを押し切ることはできなかったけれど、かといってここから飛び下りようなんて破天荒なこともできるわけがなく。
上機嫌でソリの旅を楽しむ隣のリビエラが信じられないし、どこでも寝られるハルの神経はもっと理解できない。私の胸騒ぎは、一向におさまらない。
私たちを運ぶ無機質な生命体は、妖しい気配を放っている。
刻の水底で私たちを追いかけ、ざらざらとした声でささやいた黒い影の感触。見えない視線に品定めされているような不快感が湧いてくる。
「顔色が悪いな。」
目を開けたハルが言った。
「あんまり、いい気分じゃなくて…。」
「ソリが放つ精気にあてられたんだ。
ベールを被っておくといい。」
「精気、それのせい…?知ってたの?」
「妖精の服を着ているから、影響を受けていないのかと…そうでなければ、とっくに意識を失っているころだ。
服をくれたやつに感謝だな。」
「うん。
でも…。」
(誰にもらったんだったかな…。)
私はふと考えた。
「どうした?」
「ううん…二人はなんともない?」
「魔力があれば、ある程度の耐性がつく。
ララには、居心地が悪いかもしれない。
ソリに乗りたくなかったのは、そのせいだ。」
「なんか嫌なことばかり思い出しちゃって。」
「もう少し、オレのそばに来い。
魔力に触れれば、気が薄れる。」
私は、ハルに体を寄せた。
触れた肩や腕から彼の体温が伝わり、まるで張り付いた氷がじんわりと溶けていくように感じた。
脳裏から、黒い影の幻影が遠退いていく。
ハルから漂う凛とした芳香は、清涼な森の中にたたずんでいるみたい。
なんでこんなに心が休まるんだろう?ずっとこうしていたい。
私は、彼の腕に顔を押し付けた。
「おい…しがみつけとは言っていない。」
「すごく気分が楽。
お願い、もう少しだけ。」
私は、氷の女王の城に到着するまでずっとハルにしがみついていた。




