9-1.美酒
時が経てば、悲しみは癒える。
そう言ったのは、誰だったっけ。
ネルフォーネのカーニバルから、およそ一月。
イーリーベルに戻ってからの私の日常は、変わらず過ぎてゆく。
時々ギルのことが思い出されてふいに悲しくなるけれど、心は落ち着を取り戻してきた。
日々の繰り返しの中にも新しい記憶は綴られていくわけで、喜びも悲しみも、憤ったことさえも、いつの間にかおぼろげな場所に押しやられていく。
唯一つ消えないのは、悲しみとは違う、心に刻まれた小さな感情。未だに疼くこの傷を何と呼べばいいのか、私はわからないままだ。
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時はコールの月、つまり三月。早朝。
いつもより少しだけ早く目を覚ました私は、ベッドから滑り出た。
こんなにソワソワと脳が冴えているのは、間違いなく昨日帰ってきたザムのせい。
そう、庭師ザムがイーリーベルに戻ってきた。
彼の帰還は、冬の終わりとブリシュカの到来を意味する。
いやいや。私にとって、ブリシュカを手にすることはキャスとの再会を意味する。正直に言って、春の到来より何倍も待ち遠しかった。
『ノームの緑火』を作るために必要なお酒ブリシュカは、一年に一度、人間が足を踏み入れることができないノームの地下世界で醸造される。それを片手に意気揚々とザムが現れたとき、私は生き別れた飼い犬と感動の再会を果たしたかような感激で彼に抱きついた。
手渡されたブリシュカを高々と持ち上げ、抱きしめ、頬ずりし、何度も眺めては夢じゃないことを確かめた。
これで、キャスをもとの姿に戻せる。二人で元の世界に帰れる。これぞハッピーエンド!そんなことを叫びながら。
私の心は表しきれないほどの喜びに打ち震えていて、今朝目覚めた時にも、その余韻はまだ十二分に私を包み込んでいた。
リアフェスに来て一番幸せだった朝。
この後にとんでもない悲劇が待ち構えている。なんて、一体誰がそんな不毛なことを考える?
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ベッドから滑り出た私は、キャスに会いたい気分だった。朝食の時間まで、まだ少しある。
私は着替えて部屋を出ると、上機嫌で庭の隅にある小屋に向かった。
清々しい朝の陽光は、私の心を表しているかのよう。庭の敷石を跳ねるように歩き、小さな階段を登ってペールグリーンのドアをそっと開ける。
「うっ。」
庭の澄んだ空気とは真逆の、つんとした異臭が鼻を襲った。
小屋の中から、発酵した酒の臭いが漏れてくる。
「なに?どうなってんの?」
私はドアを全開にし、新鮮な空気を取り入れると、屋内に足を踏み入れた。
窓から朝日が射し込み、足の踏み場もないほど空瓶が転がっているのが見える。
木の板に染み込んだ酒の臭い。腹を丸出しでいびきをかいているザム。
瓶に埋もれるように床の上で眠っていたリビエラが、私に気がついた。
「ララ…?おはよう。」
「おはよう…。
ここで寝ちゃったの?」
「うん、そうみたい…。
ザムの奴、次々にお酒出してくるもんだから。
…いてて。」
そういってリビエラは小さく唸りながら、身体を起こした。
春休み中の彼女は、昨日イーリーに帰って来たばかり。昨日の夜は案の定、ブリシュカを持ち帰ったザムと意気投合していた。
ここで酒盛りをしたんだろうけど、なんだろう?この空き瓶の海は。酒盛りという範疇を超えている気がする。一体何本飲んだんだ…。
「次々にって、一体どこからこんなにたくさんのお酒が出てくるの?相当な数…ん?」
つま先が小突いた空き瓶が、ガラス音を響かせた。
それは綺麗な緑色で、表面の一部に浅い凹凸の装飾がある。なんだか見覚えがある。
「あれ?これって…。」
私は手に取って感触を確かめた。この手触りと装飾、どっしりとした瓶の形。間違いなく、昨日ザムから受け取った瓶だ。
「ああ、ブリシュカ。
噂通り、ノームが誇る美酒だよ。
やわらかな喉ごし、豊潤なかお…。」
「どういうこと?」
幸せそうに語るリビエラの言葉を、私は遮った。
「ん?どうしたの?怖い顔して?」
「どうしたの?はこっちのセリフよ。」
私は言い返した。リビエラの優しい顔つきに、この時ほど苛立ちを感じたことはない。
「怒ってる?僕、何かしたかな?」
リビエラが、ゆっくりと立ち上がる。
「ナニか?何かじゃないわよっ。
リビエラの人でなし!いくらお酒が好きだからって、ここまで分別なくなっちゃうわけ?!あんまりじゃない!」
私は自分が目にしたものが信じられず、感情的になってリビエラに食って掛かった。
「いたっ。
落ち着いて、ララ。」
「あれは何よっ?あの空瓶はどういうことよっ!」
私は、酔いどれノームの手元に転がる二本目のブリシュカの空き瓶を指差した。
昨日ザムが持ち帰ったブリシュカは、二本。そのうち一本は、ジュールの灰と交換して私のものになった。
私は昨日の晩、手に入れたソレを確かに自分の部屋に持って帰った。寝る前に拝んで、嬉しさのあまり抱きしめたくらいだもん、間違えるはずがない。
「…僕たちは、一本しか飲んでない。
もう一本は、ララが部屋に持って行ったはずだよ?」
「だから、なんでここに二本あるのかって聞いてるのよ!この酒乱!」
私は、ありったけの力で床に瓶を叩きつけた。
どこに向けていいのかわからない怒りと不安が、自分でも制御できないくらいごちゃ混ぜになっていた。
目の前の事実と予測される悲劇的な将来のせいで、頭は思考停止直前。
幸せの絶頂から奈落に落とされると、人はどうしたらいいのかわからなくなって錯乱するのだと思う。その挙句が、瓶を投げつけるという暴挙だった。
「ちっ、違う!僕たちは…。」
リビエラはそう言うと、ハッとしてザムに大股で近づいた。
「おい起きろ、ザム!」
いびきをかいてしぶとく寝続けるザムの脇腹を、彼女は蹴り上げる。
「起きろってば!」
「ふんがっ、ふんががっ…。」
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床の上に胡坐をかいたザムは、腕組をしてふんぞりかえっていた。
彼は今、リビエラに蹴り起こされて機嫌が悪い。だけど、ザムの機嫌なんて今はどうでもいい。
どんっ
私は、ブリシュカの空瓶をザムの目の前に勢いよく置いた。
「昨日まで、この中にはブリシュカがあったわ。
あなたが持って帰ってくれたお酒よ。」
「空のブリシュカに用はない、儂に見せてどうする。」
「見せてどうする?空だからよっ!なんで私のボトルが空なわけ?」
「そりゃぁ、…飲んだからな。」
ザムはふと美酒の味を思い出したのか、嬉しそうに鼻頭をこすった。
「飲んだ?そんなに軽々しく言われると、すっごいムカつくんだけど?」
「飲んだものを飲んだと言って何が悪い?
うるさいやつぢゃな。
文句があるならはっきり言え。」
「文句?あるわよ、大ありよ!他人のお酒を無断で持ち出して飲むのは、泥棒のすることよ、ザム。
そして泥棒は悪いことなの!あなたは、私のブリシュカを勝手に持ち出して飲んだ。
私のブリシュカよ、あなたのじゃない!わかる?私がキャスを助けるために手に入れた、ブリシュカよ!」
「大声で怒鳴るな、聞こえちょる。」
ザムは自分の耳に指を突っ込み、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「酒は飲むためにある。
儂はそれを実践しただけぢゃ。」
「問題はそこじゃないわ!泥棒が良くないって言ってるの!」
「泥棒?儂は泥棒なぞしちょらん。」
「したの!私の部屋からブリシュカを勝手に持ち出したでしょっ?それが泥棒なの!」
「勝手に?違うな、儂はお前に一言断ったぞ?」
「は?そんな覚えないわ。
大体、私がそんなこと許すわけない。」
「ちっちっ。」
ザムは私を指差し、舌を鳴らした。煽るような、上から目線の態度。
「儂はお前の部屋に行った。
『飲んでやる』と提案したんぢゃ。
そうしたらお前は『飲め』と言った。
ぢゃから飲んでやった。
ほれ、泥棒ぢゃないぢゃろうが?」
「そんなの知らない!私は言ってない!寝てたんだから許可してないのと同じよっ!私のブリシュカを返して!」
「とぼけたことを言うな。
腹に入ったものは返せんぢゃろ。」
ザムはそう言うと、面倒くさそうに脇腹をポリポリとかいた。
「し、信じらんない!ザムだけ貰いっぱなしは許せない!ジュールの灰を返してもらうわ!」
「なにをっ?あれはもう儂のもんぢゃ。」
「駄目よ、返して!」
私はザムを捕まえようと飛び掛かった。
胡坐をかいていたザムはコサックダンスをするみたいに軽々飛び上がると、私の腕をかいくぐった。
「ブリシュカが欲しけりゃ、また来年灰をこさえて来い。」
「待ちなさいっ!ザムっ!」
ザムは捨て台詞を残し、あっという間に小屋のドアを抜けて姿を消した。
庭に消えた精霊は、人間には捕まえることができない。
「もうっ!ザムの頼みなんか、一生聞いてあげないから!」
私は庭に向かって大声で叫び、やりどころのない怒りを拳に握り潰した。
「ノームは、我欲に忠実なんだ。
精霊の本能には逆らえない。
先につぶれて寝てた僕も悪いけど…。」
リビエラの慰めが、私の耳にむなしく響く。私は、立ちつくしたままうなだれた。
この感情を、どう言葉に表せばいいだろう?怒り、痛み、悔しさ、虚しさ。
雑多なものが入り混じった、水飴のようにうねる感情。
やっと手に入れたブリシュカは、一瞬の希望を見せて、寝ている間に水の泡。
頭の中が真っ白になって、グルグルと同じところを回っている気分。
キャスをもとに戻す、一番手堅い手段だったのに…。もう途方に暮れるしかない。
あぁ、本当に、なんでいつも思うようにいかないんだろう?
「また振り出しに戻っちゃった…。」
「大丈夫、まだ方法は残ってるよ?」
「無理だよ…。
残された方法は、条件が厳しすぎる。
一つはネイロン湖の藻草だし、もう一つは春風の妖精が作る花輪!妖精の領域さえどこにあるかわからないのに、どうしろと!」
「うん。でも、ここで諦めるわけにはいかない。
まだ時間はある。
だから考えよう。
ザムからブリシュカを手に入れる方法を一緒に考えた時みたいにさ?」
「一緒に?」
「そう、一緒に。」
私は、私を見つめる琥珀色の瞳を見た。
キャスによく似た、勇気と好奇心に満ちた意思のある瞳。
私は彼女に、数えきれないほど助けられてきたんだ。そして今、同じ目をしたリビエラに励まされている。
キャスに、会いたい…。心に蘇るのは、この想いだけ。
「八つ当たりしてごめん、リビエラ。」
「何言ってんの。」
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家に戻ると、キッチンダイニングで朝食を取るハルに出くわした。
「朝っぱらから騒々しいな。」
コーヒーの香りに包まれたここは、至って平和だ。
「ザムにブリシュカを全部飲まれたの。」
私は、テーブルについた。すかさず目の前に朝食が出される。
「そうか。」
「驚かないの?」
「ノームの性格を知っていれば、驚くほどのことじゃない。」
「知ってたなら教えてくれてもよかったのに…。」
「交渉相手なら、事前に把握しておくべきことだ。」
「そうはいっても、ザムよ?知らない相手でもないのに。
家族みたいなものじゃない?」
「ザムは人慣れしてはいるが、西ノームの精霊だ。
彼らの本質は人間との接触を好まず、素朴で悪意はないが、我欲に忠実な子どものような性格であるといわれている。
お前はノームに対し、もう少し思慮深く対応しなければならなかった。」
「はぁ…それで、私はどうしたらいい?」
ハルの正論お説教は、耳が痛い。私は、早々に楯突くのを諦めた。
「ノームの緑火は、諦めろ。」
「分かってる…。
だけど、残ってるのはネイロン湖の藻草と春風の妖精が作る花輪だよ?」
「その湖ってさ、南の国ウルスターにある、ほぼ1本足の怪鳥フラリンガスの生息地だよね?」
遅れてテーブルについたリビエラが言った。
「ああ。」
「南の国ウルスター…って、あの?」
私は一瞬、陽炎が揺れる灼熱の大地を思い出した。
ヌシといい、ランスターはモンスターの巣窟なわけ?
「どういう意味?ララ?」
「ん?リビエラに話してなかったかな?」
不思議そうな顔をするリビエラに、私はクレアモントホールの書庫で起きた書物の試練についてざっと話した。
「…なるほど、面白そうな試練だね。
南の国ランスターは、確かに巨大なものは多いかも。
国のさらに南には、巨人族が暮らしているというし。」
「そうなの?」
「うん、あくまでそう言われてるってだけの話だけど。
巨人族の領域は、リアフェスの外だから。
それで、僕たちは春風の妖精よりネイロン湖に行くべき?ハル?」
リビエラは、そういって話の矛先をハルに向けた。
「そうだな…。
まずは、クレアモントホールに行くべきだろうな。」
「は?」
私はハルの言っている意味がわからず、気の抜けた声を出した。
「ネイロン湖の藻草は、年中自生している。
行こうと思えばいつでも行けるが、問題はその次に必要な素材、妖精の森にあるムーアの泥炭だ。
これを手に入れる確かな方法は、未だはっきりしない。
同じ意味で春風の妖精に会いに行く方法もわからない、と言いたいところだが、実はそうとも言えない可能性が出てきた。」
「回りくどいな、つまり分かるかもしれないってことだろ?」
「それ、本当?ハル!」
「ああ。
ネルフォーネに行くとき、空間移動の装置を使っただろう?あの装置の盤面に、妖精文字が書いてあるのを見たんだ。」
「妖精文字?っていうことはつまり、目的地が妖精の領域ってこと?」
にわかに、私は自分の心が上向いていくのを感じた。
天上から垂れ下がる一本の蜘蛛の糸のように、突然差し込む一筋の光明。期待しすぎてはいけないとわかっているけれど、藁にすがるような気持で期待したい。
「断言はできないが、手掛かりになるかもしれない。
彼らが作る花輪は、この時期にしか手に入れることができないんだ。
同じ妖精の領域に行くなら、期限が限られている花輪を優先させるべきだ。」
「それもそうだな。
よし、それじゃあ朝食の後は春風の妖精のもとに出発だ!」
「ええっ、もう行くの?」
「勿論さ、ララ。
あ、僕はシャワー浴びてからだけど。
こういうの、なんていうか知ってる?」
「な、なに?」
「善は急げ、だよ。」
リビエラはそう言って、楽しそうにウィンクした。




