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1-4.侵食

 

 リアフェスには、五つの国がある。さらに説明すると、四つの国とそれを束ねる一つの首都国家とで構成されている。

 東部はランスター、西部はコルマク、南部はウルスター、北部はノウルドという名で、西寄りの中央に、首都国家ミースがある。


 イーリーの町は西部の国コルマクに、そして、ハルの自宅にあった絵画に描かれていた館はその名をクレアモントホールといい、リアフェス北部の国ノウルド、かつてのクレアモント領にある。


 ------------------------


「では、果樹園の青リンゴが収穫出来たら、パイを焼いて差し上げますね。

 おじい様。」


 ここは、クレアモントホール。トリシアは、おじい様の車椅子を押しながら部屋に向かっていた。二人は、屋敷にある果樹園を散策した帰りだ。


「それは楽しみだ。

 お前は、本当にパイが好きだね。」


「ええ、食べるのも焼くのも大好き。

 …いえ、確か私は、クランブルの方が好きだわ。

 パイが好きなのは、キャス。

 よく二人で食べたのよ。

 私は温かいクランブルに冷たいアイスを添えて、溶かしながら食べるのが好きなの。

 それをキャスは、私の食べ方はおかしいって、いつも文句言うのよ。」


「そうかい?」


「ええ、だから、その時は…。」


 車椅子を押していたトリシアは、立ち止まった。


「どうしたんだい?」


「いえ…。」

 彼女は、急に不安になった。


(キャスは、どんな子だったかしら…。)


 とてもよく知っているはずなのに、思い出せない。風になびく長い髪も、自分を見つめるあのキラキラした目も、ほんの一瞬浮かんでは、かき消える。

 今朝からずっと違和感がある。それが何かわからないまま、おじい様と過ごしている。


「いつかその子を紹介しておくれ。」


「…ええ、もちろん。」


 トリシアは再び動き出すと、腑に落ちない様子で車椅子の向きを変え、部屋のドアを開けた。

 するとそこに、長身の若い男が立っていた。切れ長のバイオレットの瞳が、トリシアをとらえる。


「ララ。」

 男は、トリシアを見るとそう言った。


 トリシアは困って、返事を詰まらせた。

 知らない男の口から出た懐かしい響きに、「はい」とも「いいえ」とも言えず。


「この期に及んで客人か。」


 車椅子を自ら動かして、老人が険しい表情で入って来た。


「おじい様…。」


 トリシアは老人の背後に回り、対峙する二人を見つめる。


「招かれざる客というべきかな?御仁。」


「さぁ、それはどちらでしょう。クレアモント卿?」


 ハルは穏やかに、しかし含みのある口調で答えた。


「私を知っているのか。」


 老人が、少し驚いた様子を見せた。


「魔法科に通った者なら、知らない名ではないでしょう。」


 魔法科というのは、ウィザード志望の子女が学ぶ学校の通称だ。名称は地域によって多少の違いがあるが、概ねこれでとおる。リアフェスには最高峰であるミース王立をはじめ、国立、私立がいくつかある。


「そうか。

 少し話が長くなりそうだね。」


 クレアモント卿はそう言うと、トリシアに来客人のお茶を用意してくれないかと頼んだ。



「さて、貴殿はどうやってここに来た?」


 トリシアが去ると、卿はハルにたずねた。


「ララと同じです。

 部屋にあった絵を使って来ました。

 あの絵は、私の自宅にあるので。」


「貴殿の自宅に?」


 卿がいぶかしむ。


「ええ。」


「それで、貴殿の望みは?」


「ララを返していただきたい。」


 卿は、ハルの回答にピクリと眉を動かした。それがまるで、期待に反した言葉であったかのように。


「君は、彼女の何だね。」


「あなたにお応えする義理はない。」


 ハルは丁寧な口調であるものの、笑みは見せない。


「彼女は、家に帰りたいと強く望んでいたよ。

 君の家から来た彼女が帰りたいと願っていたなら、帰る場所は君のもとではないということだろうね。

 よって、私は無理に返すつもりはない。

 今はここが彼女の家だ。幸せそうだろう?」


 卿の言い分は、随分と都合のいいこじつけだった。

 ララの望む『家』とは自分のいた世界。彼女は本当の世界に帰りたいと、眠りながらおそらく無意識に願っていた。

 卿は、ララの望郷の思いを捻じ曲げている。


「それが彼女の意思だと言うなら、なぜトリシアという名で呼ぶのです?」


「それは私の我がままだ、認めよう。

 私が彼女をそう呼びたいのだ。」


「僭越ですが、そのような力の行使は間違っていますよ。

 早く成仏してください。」


 ハルが言い終わるが早いか、二人の放つ気迫が空気中でぶつかり合い、部屋中に弾けるような音がバァンと響いた。

 正確には、クレアモント卿の威嚇攻撃をハルが弾いたと言っていい。

 振動で、室内にあったガラス製品がそこかしこに散る。


 ハルは、クレアモント卿を挑発した。そして卿はその挑発に乗ったのだが、この衝撃にまるで動揺しない若者に、苛立ちを見せる。


「気に入らないな。」


「よく言われます。」


「帰りたまえ。」


「そうはいきません。

 彼女ララの命がかかっていますから。」


 静かな緊張が続く中、トリシア、もといララがお茶を運んできた。


「さっきの音は、なあに?

 二人とも大丈夫ですか?…おじい様?!」


 ララは卿の頬に滲む血をみとめると、驚いて駆け寄った。


「あなた、おじい様に何をしたの?」


 少し震えた声で、ララがハルを睨む。

 完全な濡れ衣。しかし、ララの心はクレアモント卿に侵食されていた。嫌悪を帯びた胡桃色の瞳は、ハルを敵とみなしていた。


「大丈夫だよ。ガラスが割れたんだ。」


 卿はララの腕に手を添えると、優しくなだめた。

 ララは今、彼の手中にある。


「うわっ!とと…。」


 大声とともに、ハルの後ろの壁から一人の人物が現れた。勢いよく出てきたので、やわらかい絨毯につまずいて転びそうになる。慌ててバランスをとり、体勢を整えた。


「なんだここ?豪華だな、ハル。」


 開口一番、わかりやすいせりふを吐くところがリビエラらしい。

 伯爵家の邸宅なのだから、豪奢なのは当然だ。

 青みがかった翡翠色の美しい髪をクシャリとかき上げながら、物珍しそうに室内を見回す。


「あれっ?やぁ!ララ!」


 リビエラはララを見つけると、空気も読まずに愛想よく手を振った。

 一方のララは、相手の愛嬌の良さに怪訝な顔をした。自分が寝顔を見られているとは、知るよしもない。


「あの爺さんは、誰だい?ハル。」


 リビエラは、ララの側にいる初老の男性を見てたずねた。


「クレアモント卿だ。調べて来たんだろ?」


「うん。でも、クレアモント卿は三十年前に亡くなってるよ?

 爵位も返上されてる。」


「あれは、卿のスプリタスだ。」


 ハルは確信していた。

 スプリタスとは、霊の一種。地縛霊の類い。


「ええっ?ここ、クレアモントホールだろ?

 死んだ後も、自分の屋敷に居ついてるの?どうして?」


「厳密には、魔法空間に存在するクレアモントホールだ。

 なぜここにいるのかは、本人に聞かないとわからない。」


 だが、三十年前の『クレアモントの遺産』と呼ばれる出来事は有名な話だ。

 ハルは、老人が自身をクレアモント卿であると認めた時点で、それ絡みだろうと推測していた。


 ------------------------


 クレアモント卿 ローレンス・エドワード・シャタック。


 リアフェス北部の国ノウルドにある私立の高等教育機関、カシリーズ魔術学院最大のパトロンにして、稀代の魔術道具蒐集家。


 三十年前、彼は一通の遺言書を残して亡くなる。

 その内容は、彼が所有するエメラルドのブローチ『シルフの風』を見つけたものに爵位を除く全財産を譲渡するというもの。


 彼の死後、多くの有志が『シルフの風』を求めて方々を探し回ったが、遺言は執行されることなく現在に至る。


 当時、クレアモント卿には一人娘のソフィアとその幼子マックスがおり、ソフィアは卿の死から三年後に爵位を返上し、国外へ移住したと伝えられている。


 なお、彼の所有するクレアモントホールは、卿が愛した館として知られている。


「稀代の魔術道具蒐集家か。

 クレアモントの遺産は、ウィザードなら垂涎ものだね。」

 リビエラは感心して言った。


「ウィザードだけじゃない。

 一獲千金を狙う奴らにとっても極上の話だ。

 ゴールドラッシュ並みの騒ぎだっただろうな。」


 事実、当時は中央のミースでさえ獲得に工作したほど、クレアモントの蒐集品は価値があるものだった。


「それで、家の方は?」


「調べて来たよ。」


 リビエラは、ハルに小さなメモを渡した。


 通称イーリーベル(イーリーの宝石)と呼ばれる美しい家屋。


 当時村だったイーリーに移住してきた、リンゼイ・エドワーズという資産家が建てた家。

 彼は病気がちで家に籠ることが多かったが、多くの才ある若者を支援し、その影響で芸術家や魔術を生業とするものが、イーリーに住みついた。

 イーリーがリアフェスの辺境にありながら、現在でも芸術と魔術の地として一目置かれているのは、彼の功績によるもの。


 イーリーベルは彼の死後二十九年間、誰一人として所有者が付かず、数年前からは幽霊が住みついていると言われて地元住民すら近づかなくなっていた。


「幽霊ね…。」


 ハルは知っていた。住みついていたものの正体は、幽霊ではなく家屋精霊シルキィだと。

 シルキィは憑りついた家を護る一方で、気に入らない対象には徹底的に攻撃する。これまで悪戯に訪れるものを威嚇していたのだろう。


(そして二十九年目にしての所有者がオレか。ついてないな…。)


「リビエラ、ララの身体をイーリーベルから運んで来てくれないか。」


「了解っ!」


 そう言うが早いか、リビエラは踵を返して壁の中に姿を消した。


 ハルの推測が正しければ、ララがこちらに呼び寄せられたのは、おそらく就寝後眠りが深くなってからのことだ。身体の様子からして、半日はゆうに経過している。

 時間の経過とともに心は侵食されるため、彼女の振る舞いも言葉遣いも、昨夜とは別人のようにおしとやかな、お嬢様風に変わっている。

 このまま侵食が続けば、最悪の結末は『死』。早く連れ戻さないと、取り返しのつかないことになる。


(下手を打てば、クソじじいに一生ネタにされそうだ。)


 ハルは、ララに声をかけた。


「ララ!君の名前はララだ。

 トリシアじゃない。

 オレと一緒に帰ろう。」


「な、何を言って…。

 会ったばかりの人の話を、信じるわけがないでしょう。

 おじい様、この失礼な方はどなたですか?」


「さあ、私も知らないのだよ。」


「オレは、ハル。君が昨晩訪ねて来た、イーリーベルの主だ。」


「イーリーベル…?」


 そう呟いたのは、クレアモント卿だった。


「では聞くが、君はいつからクレアモント卿を知っている?」


「え?そ、それは…。」


 彼女は狼狽えた。改めて聞かれると、答えられない。


「君にとって、クレアモント卿はオレと同じように会ったばかりの人だ。

 君は、ずっとここに住んでいると思わされているだけだ。」


「そんな…。」


 彼女は、卿を振り返る。何の弁明もしない卿に不安になりながらも、ハルに抵抗した。


「でも、この服は私の服よ。

 私にぴったりだったもの。」


 彼女は、若草色の綺麗なワンピースに触れながら言った。正真正銘、今朝自分の部屋のワードローブから取り出した服だ。服に限らず靴までもぴったりなのに、これらが自分の物でないなら、一体誰の物だとこの男は説明するつもりだろう?


「それでは、君の本当の身体が今どうなっているか、見せてあげよう。」


 ハルがそう言うと、部屋着姿のララを背負ったリビエラが再び姿を現した。


「ひぃっ、いやぁっ。」


 彼女は両手を顔に当てておののいた。


 うなだれた首、ぶらさがる腕、やつれた身体に土気色の肌。自分にそっくりの生気がない自分がいた。

 クレアモント卿ですら、驚きを隠せない。


「今、君の身体と意識は別々になっている。」


 ハルは続けた。


「これはオレの責任でもある。

 オレが処方した薬香で、君は眠った。

 そして意識だけが、ここに来てしまった。」


(薬香…?)


 ララは今朝、誰に貰ったのか思い出せなかった香りのことを思い出した。その人のおかげで、ぐっすりと眠ることができたのだ。


(初めて会う人だけど…。あの香りは、この人がくれた?)


「この状態が続けば、君の身体は朽ち、この屋敷から出られなくなる。

 君が帰りたいと願った本当の場所に、帰れなくなる。」


(帰りたい…?私はどこに帰りたい?)


 ララの中で、何かがフラッシュバックした。知らない笑顔、知らない思い出。それなのに、心がジンと温かくなる。


(この人たちは、誰…?)


 風になびく綺麗な長い髪、自分を見つめるキラキラした青色の瞳。

『ララ!』

 記憶の中の女の子が、ララを呼んだ。


(そうよ、あの地球みたいにきれいな青い瞳…。)


 ララは、死人のような自分が掴んでいるベールを見た。


(あれは、何だったかしら。)


 すごく大切だった気がする…。


 そこへすかさず、ハルが話しかけた。


「見覚えがあるか?

 初めて会った時、君はこれを被っていた。

 オレの家のドアをしつこく叩いて、泣きそうな顔でしゃがみ込んでた。」


「うん。

 すごく怖くて、それから寒くて…。」


 言葉にしたとたん、皮膚があの時の寒さを思い出した。ララの口調が変わり始める。

 月を見ながら泣きそうになった夜、林の道を走った時も、ベールが心の拠りどころだった。

 魔性から逃げてきた恐怖を覚えている。

 決して頭からとってはならないと言われた、オルランドに貰ったベール。


「おじい様、私、帰らなきゃ。」


 キャスが、待ってる。


 ララはそう呟くと、リビエラが背負う自分の身体に近づいた。


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