7-5.萌ーきざしー
温かくて、柔らかくて、心地いい。
ここはどこだろう。
浮いているような感覚の中で、私は目を閉じたまま考えていた。
自分が何をしていたのか、よく思い出せない。
今日は何曜日?…いや、そうじゃない。
私はどこにいたんだっけ。
時雨と、アリィ。葡萄…。
今朝は時雨と散歩して、ラグレールに…。
猫族…、ハルにそう言ったんだ。
ハルを見たのは…空の上。
空から…。白猫が来て、
落ちた!
とたんに、甦った記憶に叩き起こされる。
(あれっ?)
まばたきしたその先に、今朝と同じ天蓋があった。
さっきまで、空の上にいたはず。
ルイの背中から落ちたのは、夢…。
いや、そんなはずない。
私は仰向けになったまま、右手を出して指先を確認した。
ベリーを摘んだ時の赤い名残が、うっすらと残っている。
「旦那さま!」
感極まった声が聞こえ、小さな手が私の右手を包む。
「あぁ、ようございました。」
時雨は嬉しそうに声を漏らすと、次にこう叫んだ。
「ハル様、旦那さまがお目覚めです!」
身体を起こすと、椅子に座って本を読むハルの背中が見えた。
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『さて、どこから話せばいいのだろうね。』
目の前の白猫、つまり、ウルザン国王が言った。
猫族の王様は、私が目を覚ました後、ラグレールを伴ってわざわざ部屋まで来てくれた。
『まずは謝罪か。
ララ、突き落としてすまなかった。』
一人掛けの椅子に品良く座り、ガラス玉のような涼しい目で私を見る。
ハルから大体の話は聞いていたものの、率直に謝罪されると神妙。
「えっと…。
私は突き落とされたんですね。
不慮の事故ではなく。
なぜあのようなことをなさったのか、教えていただけますか。」
向かいのソファに腰かけていた私は、失礼のない程度に、昨日とは全く違う姿の「国王」を見つめ返した。
背もたれの後ろにはハルがいて、彼の気配を感じているだけで、自分を保っていられる。
『理由か?…コホン、そうだな。』
彼は少し口ごもり、気まずそうに咳払いした。
私は、国王が話し始めるのを待った。
結果として、私は生きている。突き落とされたことはどうでもいい。
知りたいのは、あんなことした理由だ。
『戯れ、と言えば誤解を招いてしまいそうだ。』
白い尻尾が、上下に揺れる。
『なぜリンゼイが君を選んだのか、納得のいく理由が欲しかったのだよ。
クレアモントホールの主人足るに相応しい資質を君がどの程度持っているのか。
要は力試しだ。』
「力試し…?試験、ですか。」
私は拍子抜けした。
クレアモントホールの主人として分不相応なことくらい、私自身が一番良くわかっている。
抜き打ちの試験なんて、意味がない。
『シケン?いや、そうだな。
そういうことになるな。』
猫の表情は読み取れないけれど、声にはためらいがある。
クレアモント卿が私を選んだ理由―。
それは誰にもわらない、私たち共通の謎。
だがしかし。
主人としての資質なら、私には最初から備わっていない。
リビエラだってあの時、志を違えることにならないか、とクレアモント卿に釘をさした。
卿が私に館を譲ろうなんて考えたのは、いわゆる魔が差したってやつだ。
私に対する同情心や詫びの気持が判断を鈍らせたのだとしたら、ウルザン国王が納得できないのは当然のこと。
成り行きで館の主になってしまったことを謝って、ハルに譲るのが一番いい。
昨日はこっぴどく叱られたけれど、国王が承認すれば、彼も文句は言えないはず。
つまり、こんなに手っ取り早い方法はない。
私は姿勢を正し、すぐにでも主の座をハルに譲るつもりでウルザン国王にたずねた。
「それで陛下、試験の結果はいかがでしたか。
落第点なら、私は…。」
『点数など、つけるに及ばなかったさ。』
白猫が右の前足で椅子を叩いた。
『君は君のままで、それでいいんだということが理解できたからね。』
「そうですね。
私は、ハルの方が相応しいと思うんです。」
身体が自然と前のめりになる。
『何を言っている。』
「え?」
相手の不思議そうな表情に、私は全く同じ台詞をはきそうになった。
「…ですから、私には期待されるような資質はありません。
それは、私自身が一番よくわかっています。」
『それで?』
「それで…?えっと…、」
予想外の反応に、言葉が詰まる。
「突き落とされた時もすぐに気を失って、時雨に助けられましたし…。」
『うむ?時雨に?』
アクアブルーの目が、私をじっと見た。
「はい、そうです。
彼女が私を地上に連れ降りてくれなければ、今頃私はここにいません。
私は元々、考えが浅いんです。
そのせいで、いつもハルに迷惑をかけています。
クレアモントホールのことも…あの時は自分のことしか考えず、軽い気持ちで館を譲り受けました。
ですから、あの、私よりもハ…。」
『ならんね。
君はクレアモントの主だよ、ララ・ミドリカワ。』
彼は私の言葉を遮り、王にふさわしい威厳のある声で言った。
一匹の白猫が纏う空気は、王の貫禄。
その雰囲気だけで、圧倒されそうになる。
だけどここで流されたら、せっかくの好機が逃げていく。
もとの世界に戻るためには、「クレアモントホールの主人」という立場を捨てなきゃならない。
私は踏ん張った。
「陛下、私には魔力も知識もありません。
望まれるような人物にもなれません。
クレアモントの主人としての資質は、ないんです。」
期待に応えられるのは、ハルのような人だ。
理想的な人物がすぐ目の前にいるのに、なんで国王には見えていないんだろう?
『主人足るに相応しい資質。
…言葉足らずな私のせいで、君に誤解を与えてしまったな。』
国王は、頭を傾げた。
『確かに君は、自分の身を護る術を知らないし、魔法も使えない。
だがリンゼイが見抜いたものは、間違いではなかった。
君が持つ唯一無二の価値は、ほら、後ろにいるフォンウェールもよくわかっている。
いってみれば君は、少々厄介な男のせいで理不尽な矢面に立たされたのだ。』
「厄介な男?陛下、クレアモント卿は決してそのような方では…。」
『おや、君はそう考えるのかね。』
国王は乾いた声でそう言うと、大きく伸びをした。
四本足で立つ、堂々とした猫族の王。
同じ猫族のアリィとは全く違うこれが、ウルザン国王の本当の姿なのだろうか。
『ララ、私は君がクレアモントの主であることを認める。
今後、いついかなる状況にあっても、我々は君とともにあることを約束しよう。
助力が必要な際は、いつでも頼って来るがいい。
いいね?』
「はい…。」
『よろしい。
帰りの支度があるのだろう?
私は一旦退室するとしよう。』
国王は、しなやかな猫の動作で椅子から飛び降りた。
尻尾をなびかせ、くるりと向きを変える。
私は慌てて立ち上がり、王の退室をぼんやり見送った。
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「思惑が外れた。
そんなところか。」
落ち着いたハルの声が、うしろから究極に皮肉っぽく聞こえる。
私は少しイラッとしながら、ハルを振り向いた。
「別にっ。
意地悪な言い方ね。」
「ララの望み通りになったんだ。
怒ることはないだろ。」
「怒ってないわよ。
私の望み通りって、なに。」
「外界とのつながりだ。
できることは全てやっておく。
選択肢は多い方がいいんだろ?」
「選択肢?私、そんなこと言った?」
私の何気ない質問に、ハルが一瞬目を見開いた。
「言った。
どんな落とし穴があるかわからない、できることはしておくべきだ、とね。」
「あ、そうだった…かな。」
そういえばそんなこと、言ったかもしれない。
宙を見つめながら、私は館でハルに力説したことをうっすらと思い出していた。
あれは、彼をここに連れて来るためのこじつけだったのだけれど、自分の首を絞めることになるとは。
「もう少し、自分の発言に責任を持て。」
ハルはいつもの瞳で私を見下ろし、私はそんな彼をじっと見上げた。
心なしか、ハルの雰囲気が少し変わった気がする。
私たちは同じ屋根の下に暮らしているけれど、常に一緒にいるわけじゃない。
今日みたいに別々に過ごすのは、いつものこと。
それなのに、すごく懐かしく感じるのはなんでだろう。
「どうした?」
「ううん、何でもない。」
「まだ休息が足りないのなら…。」
「ん、大丈夫!もう十分休んだ。」
「そうか、それなら出立の準備を。
オレはもう済ませてあるから、向こうの部屋で待っている。」
「わかった。」
ハルが、私の前を横切る。
凛とした残り香が、空気に乗ってふわりと通り抜けていった。
思い出せない。けれど、私はいつかどこかで、ずっとあの香りに包まれていたような気がした。
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「帰りは馬車に乗る必要がないなんて、驚きよ。」
午後の空の下で、私は心の底から時雨に言った。
彼女は私の横で、ぷかぷかと行儀よく浮いている。
「行きは招待を受けた公式の訪問でしたので、正式な作法で訪れる必要があったのです。」
「ややこしいわね…。」
「申し訳ありません…。」
「やだ、時雨が謝る必要はないでしょ。
空飛ぶ馬車に乗って綺麗な月も見たし、あれはあれで悪くなかった。」
「さようでございますか?」
「うん。」
私は時雨に返事をすると、城の北側にそびえる大樹を見上げた。
帰る前に一度この木を見ておきたくて、少しだけ時間をもらったのだ。
そそり立つ幹はいくつもの木を束ねたようなおうとつがあり、地上から遥か高みにある太い枝は横に広がり、緑の葉の階層がずっと上に続いている。
ハルが魔法で成長させた巨木は、ノルドの森で見た針葉樹よりもずっと大きく見えた。
「すごい、ハルの魔法。」
なんと形容していいのかわからないほど、純粋に彼の魔力に感動する。
「ウィザードが作り上げたマスターピース、と言っても過言ではありませんね、ララ様。」
隣で、ラグレールの声がした。
派手な羽根飾りの仮面と穏やかな微笑みが、私の視界に飛び込んでくる。
「あなたもそう思う?ラグレール。」
「ええ、勿論ですとも。
フォンウェール殿は、暗い塔に閉じ込められていた私たちの仲間を、再び陽光降り注ぐ空のもとに連れ出してくださったのです。
それも、このように美しい姿で。」
「そうね。」
私とハルへの敬称が、個々の名前に変わっている。
そういうことか、と私は妙に納得した。
国王が私を認めると宣言したことで、私たちはやっと、彼らに受け入れられたんだ。
元の世界に戻る確率は下がったけれど、清々しい気もする。今は、これで良しとしよう。
「ところでラグレール、あなたに聞きたいことがあるんだけど。」
私は親しみを込めて、改めて彼の名を呼んだ。
「はい、なんでしょう?」
「あなたの本当の姿は、どんな姿なの?」
「おや、ご興味がおありですか?」
「うん、そりゃぁまあ、ないと言えば嘘になるけど。」
「おやおや、それではご覧になりたい?」
「あなたが嫌でなければ。」
「かしこまりました。
そこまで仰るなら、私の本来の姿をご覧にいれましょう。」
「いいの?」
「もちろんです。
そのまま、私を見ていてください。
この羽根飾りの仮面を外すだけですから。」
ラグレールは、ゆっくりと仮面に手を添えた。
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『君はなぜ、ララに本当のことを言わなかったのだね?』
背の高い生け垣の上にいた白猫は、毛繕いをしながらハルにたずねた。
ここは、城の敷地内にある一角。
一人と一匹は、ララが戻ってくるのを待っている。
「そのほうが、おさまりがよかったので。」
ハルは生け垣を背後に立ち、猫族の王をその視野にいれることなく答えた。
『おさまり?なんのおさまりだ。
意味がわからないな。』
王が声をあげる。
「大した理由はありません、お気になさらず。」
ハルの涼しい反応に、今度は猫らしい声で小さく唸る。
彼は生け垣の上にそのまま伏せ、質問を続けた。
『君の耳にあるのは、妖精の装飾だな。
なかなかよく使いこなしているじゃないか。』
「お褒めいただき、恐縮です。」
抑揚のない声に、猫の王はつまらなさそうにクシュンとくしゃみをした。
『しかし落下するララを捕えた時、君は既にその力を使いすぎていたね。
身体はもはや限界で、彼女を手放すことも許されたはず。
なぜ、ともに落ちる選択をした?』
「ともに落ちる?ご冗談を。
力なきものを護るのはウィザードの義務。
人道的観点から申し上げても、為すべきことを全うしたまで、ですが。」
『君自身の身と命を懸けてまで?
私は、落下する君たちを見ていた。
今ならリンゼイの選択に賛同できるよ。
あいつのことだ、君がララの傍にいれば心配ない、とでも言ったんじゃないのかい。』
国王の言葉に、ハルは少しの沈黙を置いた。
彼は、クレアモント卿が確かにそう言ったことを覚えていただろうか。
「彼女の望みは、ただ一つです、陛下。
そしてそれを叶えるのが、オレの役割。
傍にいる必要があれば、そうするまで。」
『そうか。
君はあくまでも師匠の言葉に従っている、というのだね、フォンウェール。』
「そうです。」
『まったく君は、本当に厄介な男だな。
もう少し、自分の心に素直になったらどうだね。』
「おっしゃる意味がわかりかねます。」
『次に会う時は、君が理解していることを願うよ。』
王は尻尾をパタパタと遊ばせ、諦めたように呟いた。
二人の間に、束の間の沈黙が広がる。次にそれを破ったのは、ハルだった。
「一つお尋ねしたいことがあるのですが、陛下。」
『なんだね。』
「陛下が話をなさっていたあの風は、妖精とかかわりが?」
『なぜそう思う?』
王はピクリと髭を動かした。
「あれは、この土地の風ではありません。
妖精の言葉を操っていました。」
『ほぅ。
君は妖精の言葉が理解できるのか、フォンウェール。』
「師匠から手ほどきを受けました。
少しですが。」
『君の師匠殿に?
となると、リアフェスでもよほど高名な人物なのだろうね。』
王は驚きを隠すことなく言った。
妖精の言葉は、人間界でいう古代語のようなもの。
リアフェスでは学問としてわずかに命脈を保っているが、話せるものは殆どいない。
『君が我々の会話を理解していたのなら、話は早い。
あれは、シルフだよ。』
「シルフ?」
聞き覚えがある、とハルは思った。
『クレアモントの主人が受け継ぐエメラルドのブローチがあるだろう?あれに宿る風の精霊さ。』
王は相変わらず身体を伏せたまま、こともなげに言った。
『おや、驚かないのだね。
つまらない反応だな。』
「驚いています、多少は。」
ハルは生け垣に寄りかかり、腕を組んだ。切れ長の瞳が、どこともなしに宙を見る。
『そうか。
それで、何か言うことはあるかい。』
「あのブローチに、宿る風の精霊…。
ということは、あのエメラルドは依り代。
本体は、常にあの中に。」
『そうさ。
彼女はあの中で眠りについている。
主人の身に絶対の危険が及ぶと、ああやって出てくるのだよ。
この度は、少し怒らせてしまったな。
君は、落下の最中に身体が軽くなるのを感じなかったかね?』
「感じました…着地ギリギリのところで。」
ハルは、考え込むように答えた。
確か、突然知らない声が聞こえ、その直後、身体が解放されように軽くなったのだ。
『シルフは私の動きを封じ、君が身につけている装飾の力に干渉した。
君が持ち堪えられたのは、彼女のおかげだよ。』
「そうでしたか…。」
ハルは、あの不思議な現象に納得したかのように、しかしどうも腑に落ちない様子で黙り込んだ。
『ふはは。
君が何を考えているか、私には手に取るようにわかるよ、フォンウェール!』
王は嬉しそうに、長いフサフサの尻尾を振った。
顔を上げ、大きく開けた口から、ピンク色の舌と鋭い牙がのぞく。
『さぁ、よく考えてみたまえよ!
依り代、つまりシルフの風はクレアモントホールにある。
あの精霊は、どうやって顕現したのだろうね!』




