7-4.風
灰色の静かな要塞城に、突き上げるような地鳴りがあった。
連なる塔の一群が砕け、石の壁が鈍い音とともに崩れ落ちる。
瓦解した塔の跡に、城の尖端を越えるほど高く枝を伸ばした、広葉の大樹が姿を現した。
それは、静寂を壊す青天の霹靂。
ハルが魔力を注いだ小さな茎は、オルガが作り上げた迷宮を根こそぎ破壊した。
彼は落ちてくる石をよけながら上昇し、木の上に降り立った。
眼下には、角砂糖のように飛び散った瓦礫が辺りに山積している。
鎧の兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げまどい、ある者は座り込み、ある者は躓き、ただ呆然と上を見上げている者もいた。
そこに、彼が探すヴァンチーヒャの姿はない。
ハルは、ガラス玉の残像を探した。
南東の方角に、空中を漂う青い筋が見える。ララは、確かに城外にいるのだ。
(空?…空を飛ぶ乗り物に乗ったのか?)
彼は、微かな青い流れをたどる。
地上では、上空にハルの姿を認めた兵士たちが騒ぎ始めていた。
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ハルは、茶色の大地の上を飛行した。
穀物を刈り取った後の何もない丘陵の先に、空を行く二つの影が見える。
よく見るとそれは、近づいてくる二頭の馬だった。
「ハルー!」
一方の馬上に、大きく手を振るララの姿が見える。
変わった様子はなく、元気そうだ。
隣の馬にいるのはラグレールだが、ヴァンチーヒャが一緒かどうか、確認できない。
ハルは、スピードを上げた。
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「ハルも、迎えに来てくれたの?」
ハルと合流したララが、嬉しそうにたずねた。
「ああ…。」
彼は言いながら、ラグレールの馬を一瞥する。そこに、小さく丸まった白猫がいた。
「ハルったら、箒に乗ってないからびっくりした。」
ララは、ハルが使いこなす銀色の球―今はステッキ状になっている―を見て言った。
彼女は、細い柄をスケートボードのように乗りこなすハルの姿をこの時初めて見たのだった。
「箒は好きじゃないんだ。」
「好きじゃない?…そっか。」
ララは少し考えた後、ふわりと笑った。
以前にも、誰かと同じような会話をしたことがある。
あれは、ウィッスルの町で出会い、刻の水底を一緒に脱出したギルだ。
彼はウィザードのようにステッキを持ち、魔法を使い、箒に乗っていたが、ウィザードも箒も嫌いだと言っていた。
(今日はよく思い出すな。彼は元気かな?)
ララは、心の中で懐かしそうに呟いた。
「ごきげんよう、クレアモントの後見人殿。
例のモノは、ご堪能いただけましたか。」
ラグレールが、薄い微笑みを浮かべて割って入った。
「ああ、十二分に。
挨拶代わりの爪痕も残してきた。」
「爪痕?何の話?」
ララが不思議そうな顔をする。彼女には、話の内容がさっぱり見えない。
「剣技も舞踏も中止となってしまいましたから、後見人殿のご要望にお応えして、とあるスリリングな部屋をご紹介したのです。」
「スリリング?」
それは、自分が入ろうとしたあの暗くて広そうな部屋だろうか。
「ララは聞かない方がいい。」
ハルが、それ以上の詮索は無用だ、と言わんばかりに会話を断つ。
そこでララは、話題を変えようと掌を合わせてパチンと鳴らした。
「そうだ、ハル!あのね、私、森で猫族の女の子に会った。
実はラグレールも、猫族なんだって!オルガンド王国は、猫族の国だったのよ。」
「奇遇だな。
オレもついさっき、ここが猫族の国だと知った。
だがラグレールは、どう見ても人間のなりだ。
それについては、どう説明するんだ?」
「うふふ、なかなかの鋭いご指摘をありがとうございます、後見人殿。
実は、この仮面のカモフラージュのおかげで、お二人の目に人間の姿で映っているだけなのです。」
「本当の姿を見せたら私たちが不安になるんじゃないかって、心配だったんだって。
そんなこと、全然気にしなくていいのに。
でしょう?ハル。」
「そうだな。」
ハルは、眼を閉じて丸まったままの白猫を警戒しつつ、いつもの落ち着いた口調で答えた。
「そのお言葉に、感激いたしました。
我らが国王陛下も、お喜びになることでしょう。」
ラグレールが微笑む。
しらじらしい―。ハルは、冷ややかな目でラグレールを見た。
「おや?お城の様子が何だか妙です、旦那さま。」
ララの懐にいた時雨が、城の方角を指差して言った。
「ほんとだ、何あれ?」
ララは、目を凝らした。
朝出かける時には気にも留めなかったが、はたして城の背後に、あんなものがあっただろうか。
「こっ、後見人殿っ?」
ラグレールが、青ざめた顔でハルを見た。
城には大小の塔があるが、北側は特に大きい一群がある。
そこは、かつてオルガが作り上げた迷宮のはずだ。
しかしどう見ても、その場所にあり得ないほど巨大な、青々とした樹木が出現している。
「言っただろう、爪痕だ。」
「で、ですが…。」
「おや、何か来ます。」
言葉を詰まらせるラグレールをよそに、時雨が言った。
それは、同じように空を飛ぶ、馬にまたがった三人の鎧の兵士だった。
彼らはラグレールの姿を見つけると、大声で叫んだ。
「ラグレール様!ラグレール様、大変です!…ややっ、あれは塔の破壊者ではないかっ?捕えろ!」
ラグレールの名を呼んでいた兵士たちは、ハルを見るなり急にその矛先を変えた。
『ふははっ!なかなか派手にしてくれたようだ。』
聞き覚えのある、しかしここにいるはずのない人物の声がララの耳に届いた。
「んっ?」
辺りを見回し、ラグレールのそばにいた彼に視線を落とす。
それは、馬の背に器用に四本の足で立つ、国王の猫。
ララは胡桃色の瞳を大きく見開いて、文字通り目をまん丸くした。しかし、しゃべる猫に驚いていたわけではない。
彼女は以前にも、黒妖犬と言葉を交わしたことがある。
言葉を操る動物との遭遇は、さすがに二度目ともなると大した衝撃はない。
驚いたのは、むしろその声がウルザン国王のものとそっくりだったからだ。
「陛…下?」
猫族…、まさかね。そんなはずはない。
否定しながらも、思ったことがつい口をつく。
ララは、白猫を見つめた。
「そいつから離れろ、ララ!」
危険を察知したハルが、ララの手綱をグイと引きよせた。
ヴァンチーヒャがララの身体に触れたらどうなるか、シナリオは見えている。
「えっ?やだちょっと、何するのっ!」
ララは驚いて、ハルに抵抗する。
彼女は、相手の強引な行動が理解できず、その手を振りほどこうともがいた。
「離してっ!わっ…危ないハルっ、後ろ!!」
ハルを捕えようと、槍を持った兵士たちが三方から突っ込んでくる。
ハルはララから離れると、ステッキを足場に大きくジャンプした。
カシャン!
残されたステッキが回転し、槍を弾く。
「ぐわっ。」
兵士たちは跳ね返され、散り散りになりながらも執拗にハルを追った。
「きゃっ。」
ララが小さな悲鳴を上げる。
騒動の隙をついて、ヴァンチーヒャが易々とルイの背中に飛び乗った。
アクアブルーの瞳でララを見つめ、前足を使って彼女に体重をかける。
ララは一瞬にして身体の自由を奪われ、ルイの背中から滑り落ちた。
硬直して空を見つめたまま、彼女は声を出すこともできない。
(くっ、苦しい…!)
「ララ!」
馬にまたがった鎧の兵士達の向こうに、ハルが見える。
(何これ?身体が…動かない…。ハル…。)
彼女は窒息するような衝撃に耐えかね、気を失った。
ハルの目の前で、ララが落ちて行く。
とその時、彼女の懐から時雨が滑り出てきた。
時雨は等身大の般若に姿を変えると、空中でララを抱きとめた。
ヴァンチーヒャの手から離れてしまえば、体の自由は取り戻せるのだ。
時雨は、この時をひっそりと待っていた。
「よくやった、時雨!」
ハルが、叫んだ。
『そうはいかないよ。』
空を駆けるヴァンチーヒャが、時雨を追いかける。
「あいつに触れるな、時雨!」
「承知しております、ハル様!」
「すぐに行く、待っていろ!くそっ、邪魔だ!」
ハルは兵士に向かって悪態をつくと、炎を放った。
猫族は、人間よりも身体能力が優れている。
彼らの力強さは、先日のクレアモントの騒動で目の当たりにした。正面からやり合う時間はない。
ハルは、相手がひるんだ隙に魔法で槍を奪い、矛先で馬を叩いて別々の方向に走らせた。
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時雨は、ララを抱えたままヴァンチーヒャから逃げていた。
彼女は地上に降りようとするが、相手は常に遮るように先回りしてくる。
腹立たしいのは、狩りを楽しんでいるかのように少しずつ距離を詰めてくるやり方だ。
このまま俊敏な白猫をかわし続けるのは、当然限界が見えている。しかし、そう簡単に主人を手放すわけにはいかない。
時雨は、やっとの思いで向かってくるハルを見つけた。
「ハル様!旦那さまをお頼みします!」
ここでヴァンチーヒャを引き付けておけば、ハルが必ず地上に連れて降りてくれる。
相手を信じればこそ、時雨は返事も待たずにララを空中で手放した。
彼女は主人を庇うように身をひるがえすと、白猫に向かって素早く短刀を投げつけた。
『スプリタスの分際で、なかなかに小賢しい。』
「旦那さまには指一本、いいえ、その肉球一つでもっても触れさせは致しません!」
時雨は、ララを追いかけようとするヴァンチーヒャの前に立ちはだかった。
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時雨の腕を離れたララは、気を失ったまま、射抜かれた鳥のように頭から落下していった。
ハルは空中でステッキをおさめ、ララに向かって滑空する。
二人の距離は、箒では間に合わない。
時雨がヴァンチーヒャを足止めしている間にララに追いつくには、この方法しかなかった。
彼は、銀色の球を伸縮する長いロープに変えると、彼女の身体を絡めとってグイと引き寄せた。
「くっ。」
ハルの頭に刺さるような痛みが走り、一瞬、目の前でチカチカと火花が散る。
オルランドの小屋で、初めて妖精の装飾を身につけた時と同じ感覚だ。
彼の身体は今、猛烈に悲鳴を上げている。
(まだ完全じゃないのか。)
ハルは、悔しそうに独り言ちた。
猫族の残骸を養分にしたとはいえ、小さな茎を大樹に変えた魔力は莫大だ。
妖精の装飾に秘められた無尽蔵の魔力を大量に使うことは、人間の身体に大きな負荷を与える。
彼の身体は、その酷使に耐えられるほどまだ完全に順応できてはいない。
刺すような頭痛とめまいは、その表れだった。
ララを腕に抱き、空を切って落下する。
重くなる身体に抗いながら、ハルは気力を奮い起こした。
ここで終わるわけにはいかないのである。
彼は、痛みを承知で自分の周囲に風を起こした。
落下の速度を緩め、着地の衝撃を少しでも和らげるためだ。
しかし自分はまだしも、この程度の風では彼女の身体は衝撃に耐えきれない。
「ララ…!」
守りたい―。
そしてそれができるのは、自分だけだ。
彼は、苦痛をはねのけるように渦巻く風を強めた。
「くうっ。」
あの時と同じ強烈な頭痛が、ハルを襲う。
意識が飛びそうなほどの激痛にも、彼は決してララを抱く両腕を放そうとはしなかった。
守りたい。
そのためならば、いくらでも耐えてみせる。
ハルは再び、風を強めた。
「ぐぁっ。」
【…ディア!】
ハルの唸りとともに、知らない男の声が頭に響いた。
「うっ!…な、なんだ?」
思わず、目を見開く。
【…逃げろ、…ルディア!】
今度ははっきりと叫ぶ声が響き、脳裏に見たこともない森の残像が閃いては消えた。
とたんに朦朧としていた意識が目覚め、身体が解放されたように軽くなる。
(魔力が…!)
今なら、力を引き出せる。
彼は素早く体制を立て直すと、渦巻く風を一層強めた。
薄茶色の地面はすぐそこだ。
彼は、ギリギリのところで両足で地上に降り立ち、全身で衝撃を受け流した。
ブワッ
辺りの砂が巻き上がり、風が音を立てて舞う。
「はあっ。」
肩で呼吸し、息を整える。
僅かの後に、風が止んだ。
抱きかかえたララが無事であることを確認し、その表情からはうかがえないものの、彼は腕の中の温もりを守り抜いたことに、心の底から安堵していた。
頭痛は消え、頭の中に響いた不思議な声も、嘘のように何も聞こえなくなっている。
(ルディア…。あの声は、誰だ?)
ハルには、男の声にもルディアという名にも聞き覚えがなかった。
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ハルはふと、上空に気配を感じた。
時雨は、無事だろうか。見上げると、何かがこちらに向かって斜めに落下してくる。
それは瞬く間に大きくなり、ドンッと鈍い音をさせてすぐそばの地面に叩きつけられた。
砂にまみれているが、うずくまる白い塊、毛並みの長い狐のような尻尾は、紛れもなくヴァンチーヒャだ。
(風?)
大地から大きく渦を巻くような、不思議な風の動きがあった。
一見ただの風だが、何かが違う。ハルは警戒した。
ゆっくりと、しかし力強く巡る風が、ぐったりと動かない白猫の身体を拾い上げる。
ヴァンチーヒャは浮かび上がり、首をもたげたまま、まるで磔にされたように手足を広げて静止した。
風は、ヴァンチーヒャとハルを中心に、彼らを取り巻いて大きくゆっくりと巻き続ける。
『うぐぐ…。』
意識を取り戻して声を発する白猫に向けて、巡る風の中から不思議な声がした。
【ヴィ―ア・ヴァンチーヒャ。】
発せられたのは、妖精の言葉だ。
【クレアモントの主を裏切るおつもりですか。】
『裏切る?』
ヴァンチーヒャが顔を上げた。彼は、何かを見ている。
『見極めたかっただけだよ。
私には、そうする義務と権利があるだろう?』
白猫は、目の前の空に向かって威勢よく訴えた。
ハルは、黙って辺りを観察する。
【ならば、結論は得られましたか。】
『ああそうだね。
君が現れた時点で、受け入れるしかないということがわかったよ。』
白猫は、今度は拗ねた口調で顔をそむけた。
国王と姿の見えない声は、どうやら旧知の仲のようだ。
【私が出てこなければならないほど、あなたが酷いことをしたのです。】
ムッとした声色が、風の中から聞こえる。
『私がここまでしなければならないほど、リンゼイが解せぬことをしたんだ。
不満があるならあいつに言って欲しいね。』
【亡くなった者の悪口とは、それこそ解せません、ヴァンチーヒャ。
どうぞ、穏便に。】
『わかっている。
もう十分に理解した。
君が現状維持を望むなら、それを認めよう。
いい加減降ろしてくれないか。』
【認める?…私を目覚めさせておいて、随分な言い草です。
私は彼の意思を尊重したまで。
あなたも邪なことはやめて、為すべきことをなさい。
次は、ありませんよ。】
ドサリ
周囲の風が凪ぎ、ヴァンチーヒャは崩れるように地面に落ちた。
ハルは、この土地に漂う空気とは明らかに違うものを風の中に感じ取っていた。
姿は見えず、しかし意志を持った風。それが、ふいにハルの前を横切り、彼は誘われるように空を見た。
「時雨…。」
彼女もまた意識を失っているのか、横たわる黒髪の小さな人形が、羽毛のように静かに落ちてくる。
あるべき場所に収まるように、時雨は、ハルが抱えるララの胸の上にゆっくりと戻ってきた。




