7-3.光
暗く冷たい塔の中に、ハルが灯した火が静かに浮かんでいる。
その高さは、ハルの頭上およそニ、三メートル。
周囲を確認するには、十分な明るさ。しかし、塔の高さや先端の様子まではうかがい知ることができない。
足元に積み上がる白い残骸は、闇間に取り残された孤島のようにぼんやりと明かりを受け、不気味な陰影を落としている。
その上を白猫が音も立てずに移動し、ハルにスッと近寄った。
ハルが、さりげなく距離を取る。
『警戒せずともよい。』
ハルをなだめるように、ヴァンチーヒャが言った。
「三度も騙されるほど、オ…私は腑抜けではありません。」
『今さら語調を整えなくとも、「オレ」でよいぞ。』
白猫がニヤリと笑ったような表情を見せ、ハルはその様子に思い起こしたくもない人物を思い出した。
「仰せの通りに。」
『ふん…よろしい。
しかし、君が優秀なウィザードであることは確かだよ、フォンウェール。』
言いながら、白猫は一歩前へ出た。
「認めていただき光栄です、陛下。
納得していただけたのなら、この暗がりに留まる理由はないのではありませんか。」
ハルは、静かに一歩後退する。
『認めている、そうだとも!私は認めているし、それ以上に君に感心している。
だけど、納得はしていない。
私の疑問はね、どうして君ではなくあの娘がクレアモントの主なのかということだ。
彼女が悪いというわけではなく、どちらがよりふさわしいか、ということについてだよ。』
「それはクレアモント卿がお決めになったことです。
オレは何もお答えできません。」
『では、リンゼイがそう決めた根拠はなんだろうか?
君はその場にいたんだろう?彼が屋敷の行く末を心から案じていたなら、もっと賢明な選択があったはずだと私は信じているのだが。
なぜリンゼイは、友人と家族のもとに帰ることしか頭にない娘を選んだのだろうね?彼女は自分の望みが叶えば、屋敷を見捨てる。
そうだろう?』
白猫は、確信に満ちた口調で言い切った。
彼の言い分は確かに、である。
これまでそうだったように、ララは今後も、石化した友人を元の姿に戻すことしか眼中にないだろう。
ハルは、そう考えている。
彼女がリアフェスにとどまった理由は、その一点に尽きるからだ。
ララがシルフの風を受け取り、クレアモントホールを継承したのは、リアフェスでの拠りどころを確保するためだった。
昨夜の会話を鑑みるに、館の将来について真剣に考えている様子はない。
しかしハルは、ここで白猫に同調するわけにはいかなかった。
ララが去った後のクレアモントホールを請け負う気など、彼にはさらさらない。
「仮にそうだとして、陛下やこのオルガンド王国にどんな不利益があるというのです。
クレアモントホールがなくなれば、屋敷を警護する必要はなくなります。」
『クレアモントホールがなくなるだと!』
白猫が飛び上がり、その足元で乾いた音が響いた。
「ええ、そうです。
むしろ屋敷の護衛を自国にまわすことで、国は今よりも強固になる。
なにも問題はないでしょう。」
『問題は大ありだ!
館の消失は、リアフェスを含む我々の世界においてその存亡を左右する最大にして最悪を避けようもない事態に追い込むということだぞ!わかるかい?』
(は…?)
当然のことながら、ハルには分かるはずがなかった。
けたたましくまくし立てるヴァンチーヒャは、まるで世界の崩壊を予告するようなもったいぶった言い方をする。
ハルは呆れて、相手の言っていることが一瞬理解できなかった。
三十年もの間、主不在とされてきた北の国ノウルドの一つの館が消滅したところで、今さら気に掛ける者などいない。
リアフェスを束ねる首都国家ミースから遥か北に位置する辺境の館の存亡に、外界の国王がムキになって声を張り上げる。
そのこと自体が、ハルにとっては奇妙な光景だ。
「大袈裟な。」
『大袈裟ではない、これは断じて大袈裟ではないのだよ!
リンゼイが何も教えていないだけなのだ。
あの娘が何も知らない以上、私の口から君に話すことはできないが…。
その時が来ても、あの頼りない娘では何事も為せない。
きっと逃げ出してしまうだろう。
しかし君のようなウィザードであれば…。』
そう言って、白猫は美しいアクアブルーの片目でハルを見た。
『なぜリンゼイがあのように魔力も知識もない娘にクレアモントホールを託したのか、私には理解しかねるよ。』
白猫は、首を左右に振りながら酷く落胆した様子で言った。
彼は、ララの魔力が微塵もないことを見抜いている。
「なぜ、ウィザードにこだわるのですか。
クレアモント卿はウィザードではなかったと記憶していますが。」
『クレアモントホールの主はウィザードであること。
もしくは、それに相当する能力を有していること。
これが望ましいと形だと私は考えている。
リンゼイは君の言う通りウィザードではなかったが、確かな知識と魔術道具を使いこなす術を持っていた。
そして強い理想と信念…主たるには十分だったさ。
小娘にほだされるような男では断じてなかったはずだがね…。』
最も望ましい形を体現し得る理想的なウィザードを目の前にして、白猫は悔しそうに前足で近くの骨を小突いた。
あの娘は、自分のことしか頭にない―。
国王にとって、昨夜相まみえた新たなクレアモントホールの主は、彼を不安にさせるほど頼りない存在として映っていた。
彼は、リンゼイの判断に納得できないままでいる。
ララの主としての資質を暴き、自分の理想とするこの若きウィザードの首を縦に振らせることもなしに、二人をリアフェスに帰すわけにはいかないのだ。
願わくば、ララが黄金葡萄の崖で毒蛇にでもやられてしまえばいい、と本気で考えていた。
「いくつか事実を申し上げるなら。」
白猫に向かって、ハルが静かに言った。
『なんだね?』
「昨晩申し上げた通り、オレはクレアモントホールを自由に往来できる『絵』の所有者です。
しかし一年前、その絵に封印をかけたのもオレでした。」
『なに?』
白猫の髭が、ピクリと反応する。
「その封印を雑作なく解いたのは、他でもないララです。
つまり、彼女が現れなければ、クレアモントホールが忘れられた存在になるのは時間の問題だったわけです。」
『君が館を封印し…そして解いた…あの娘が?』
「ええ、彼女が。
率直に申し上げて、オレはクレアモント卿の遺言には関心がありませんでした。
ララがいなければ、あの絵は今も封印されたままだったはずです。
つまりオレが館を継承した時点で、再び封印される可能性は大いにあるということです。」
『いいや、君が真実を知れば、封印などするはずがない。』
「どうでしょう?オレはララが抱いているような愛着を、あの屋敷には持っていませんよ。
封印をかけないという約束はできません。
しかしララなら、そのようなことにはなりません。
この事実をもってしても、陛下はオレのほうがクレアモントホールの主にふさわしいとお考えですか。」
『うぬぬ…君が封印を…あの娘が…。』
白猫は目の前の空を見つめ、考え込むように呟いた。
「それからもう一つ。」とハルが続ける。
「クレアモント卿は、オレを見て『気に喰わない』と言われました。
卿にとって『館の主』たるにふさわしい資質は、ウィザードであること以上に大切だった別の要素です。」
『別の要素…。
あの娘が、どんな価値ある要素を持ち合わせているというんだ。』
白猫が、不思議そうに首をひねる。ひねり出したところで、とうてい納得のいく答えは出て来はしない。そんな表情だ。
「さぁ、何でしょう。
しかし卿の真贋からすれば、ララはそれを持ち合わせているということです。」
『真贋とぬかすか?
孤独に耐えきれなくなった年寄りの目が節穴になっただけではないのか?』
「オレが知る限り、そのような後ろ向きな方には見受けられませんでしたが。
どちらにしろ、クレアモント卿が判断を誤ったと結論付けるのは早計です。」
『むむむ…。』
白猫は低く唸りながら、今度は自分の長い尻尾を追いかけるようにその場をクルクルと歩き始めた。
ハルは、白い残骸の上で器用に歩き回るヴァンチーヒャを見つめる。
ララにあって、自分には無いもの。
その答えは、実は至極簡単だった。
それは、大いなる力を引き寄せる力。
他者から必要な助力を得る、生まれながらの資質。
ララは彼女なりに努力はしているが、周囲の目を引くほど何かに秀でているわけではない。
この世界においては無知で地位も力もなく、当たり前とされる魔力すら備えていない。
リアフェスは、本来異界人が生きていくには残酷な世界だ。
しかし彼女は、魔性が跋扈するサウィーンの夜に、空を駆けるワイルドハントから幸運にも逃れ、普通ならば彼女の友人のように石となり朽ち果てるところをオルランドに助けられた。
この始まりが、全てをもの語っているのである。
自分を含め、ララと関わった人物は不思議と彼女に手を差しのべる。
この世界において、何の価値も持たないはずの彼女に。
正直に言えば、クレアモント卿が何を考えてララに屋敷を託したのか、ハルにも本当の理由はわからない。
孤独にさいなまれた老人の、最後の気まぐれだったことも否めないのだ。
しかし今は、この塔から抜け出すことが先決だ。
そのためには、ララがクレアモントホールの主であることを国王に承知させなければならない。
『最後に一つ、聞いてもいいかね。』
白猫が足を止め、ハルを振り返った。
「何でしょうか。」
『君はなぜ、あの娘の後見人なのだ?』
「ある人物から、指示を受けたからです。」
『ある人物?それは誰だね。』
「申し訳ありません。
陛下であっても、申し上げることはできません。」
ハルは、師匠の名を口にすることをはばかった。
その存在すら定かとされていない白の魔法使い「オルランド・プランタナ」の名を出せば、たとえ外界であっても相手に疑念を与えかねない。
オルランドは、それほど虚ろな存在なのである。
『ふ…ん、なるほど。
それでは君が後見人という立場なのは、自らの意思ではなく、誰ぞの指示を守っているということか。』
「ええ、そういうことになります。」
『そうか、それでは万が一あの娘の身に何かがあれば、クレアモントホールは君が継承することになるな。
そして律儀な君は、それを守らねばならない。
私には、十分な理由だ。』
白猫は眼の奥を妖しく光らせた。
「何をなさるつもりです。」
ハルが、厳しい口調で白猫を睨んだ。
『あの娘がどのような資質を持っているのか、私はがぜん確かめたくなったぞ。』
白猫はそう言い放つと、ハルに向かって勢いよく走りだした。
身体を触れないよう警戒するハルのわきを勢いよくすり抜け、そのまま塔の壁を走るようにらせん状に駆け上がり始める。
『フォンウェールよ、私は一足先にここを出る。
あの娘を守りたければ、君も早くここから出たまえ。
ふはは!』
「陛下!」
ヴァンチーヒャの笑い声とハルが叫ぶ声が重なり、塔の闇に吸い込まれる。
白猫は頭上の灯りの更に上へと消え、瞬く間にその気配を消した。
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この塔から生きて出た人間はいない―。
ヴァンチーヒャの言葉が、ハルの脳裏をよぎる。
「猫は例外というわけか。」
彼は落ち着いた声で一人呟くと、銀色の球を取り出し、それをステッキの形状に変化させた。
横たわるステッキに立ち、高度を上げる。
ハルは元々、箒をあまり使わない。
柄が長く小回りが利かない箒よりも、このやり方の方が移動しやすく、遠目が効くのだ。
上昇にともない、頭上の明かりが彼の周囲に集まる。
(どこかに、空気口があるはず。)
ハルは、寸分の隙間もなく積み上げられた灰色の石の壁を調べ始めた。
灯した焔が、微かに揺れる。それをたどりながら、彼はすぐに空気口を見つけた。
耳をあてると、微かに風の通る音がする。
外に繋がっていることは確かだが、人間が通り抜けるには小さすぎる。
月明りがなければ、ハルは変身の術が使えない。
(まてよ…。)
ハルはふと思い立つと、上着のポケットに手を突っ込んだ。
そこから取り出したのは、葉を数枚残した、萎れかかった短い茎。
ヴァンチーヒャを追いかけて赤い絨毯の廊下を駆け抜けていたとき、ハルに飛び散った花の残骸だ。
何かの役に立つかもしれないと、彼は無意識にポケットに入れていたのだった。
「さあ、伸びろ。
ここでなら、いくらでも暴れられるぞ。」
ハルはそう言うと、緑色のしなびた茎に魔力を注いだ。
みるまに、茎がいきいきと背を伸ばし始める。
柔らかな芽が芽吹き、筋のような新芽が這うように空気口に触れた。
下に伸びた茎の一方は壁をつたい、もう一方は下へと伸び続ける。
ハルはさらに意識を集中させた。
彼の左耳に飾られた妖精の装飾が、鮮やかに煌めき始める。
そこに込められているのは、森を操れるほど強力な妖精の力。つまり、植物との相性が格別にいいのだ。
力を注がれた茎は幹となり、新芽は枝となり、茂る枝葉を軋ませながら猛烈な速さで成長を続けた。
『地に張れ、その懐とせよ』
ハルの詠唱が、魔法を加速させる。
木の根は白い残骸を取り込み、瞬く間にその養分を吸い取ると、灰色の石を突き破って大地に食い込んだ。
『萌ゆる地の御霊よ、蒼穹を割く不動の柱となれ』
幹がねじれながら肥大し、空気口に伸びた枝はその内側から塔を破壊し始めた。
ゴゴゴ…
地響きのような重たい音とともに、石の壁に亀裂が生じる。
と同時に、数本の光線が筋となって塔内に差し込んだ。
枝葉は成長し続け、殻を破るように塔の尖塔から突き抜けた。
灰色の塔はまるで雪崩のように崩壊し、瓦礫は轟きながら、灰のように大地に降り注いだ。




