7-2.塔
「さぁ、参りましょう。」
ラグレールは微笑み、廊下の奥へと向かった。
ハルは、ララが残したガラス玉の残像を見ていた。
残り香のように揺れる青い筋は、微かにもラグレールが進む先には続いていない。
何食わぬ顔でうそぶく相手の様子に、ハルは確信する。
ララの動線と、ラグレールが示した小瓶の割れた場所は一致している。
正義感を発揮したララがコレクションの部屋―動線が示す扉の向こう―に入らず、来た道を戻って谷へ向かったとするのは想像に難くない。
彼女の単純な性格を把握していれば、城外に出るよう仕向けるのは容易いことだ。
ラグレールの奸計、もとい、国王の意思が働いていることは疑うべくもない。
ハルは、ラグレールの後に続いた。
自分一人に及ぶ危害なら、どうにでも対処できる。
彼の意識下には、いかなる事態も切り抜けられるという、植え付けられたような自負があった。
「おや。」
ラグレールが足を止めた。
「白猫…。」
ハルが呟く。
どこから現れたのか、黒い眼帯をした国王の愛猫が廊下の真ん中にうつぶせていた。
白く長い毛並みの、狐のそれのように見事な尻尾をパタパタと絨毯に打ち付けている。
「ヴァンチーヒャ。」
ラグレールは、恭しくその名を呼んだ。
高貴な白猫は二人を見ると、身体を起こして行儀よく座った。
姿勢よく背筋を伸ばした佇まいは、王の猫というよりは「猫の王」と形容したくなるような風格がある。
凛々しい表情の中に収まる繊細な、びいどろのような美しいアクアブルーの片目がじっとハルを見た。
ヴァンチーヒャは前足を一歩出すと、弧を描くように二人の前を横切り、優雅に歩いた。
軽やかなステップで傍にあったコンソールに飛び乗り、くるりと向き直る。
白猫は、再びハルを見た。
(?!)
いぶかしむハルの眉根が、僅かに動く。
ヴァンチーヒャが不適に笑ったように見えた次の瞬間、白猫はコンソールを蹴ると、身体を伸ばした大きな跳躍でハルに飛びついた。
「おっと。」
ヴァンチーヒャの前足がハルに触れ、彼を廊下に押し倒す。
途端にハルが顔を歪め、低い声を発した。
「くっ…体が。」
猫が一匹、身体の上に乗った。
ただそれだけのはずが、縛られているかのように全身が硬直する。
動きが封じられ、声も思うように出せない。
しかしハルは、僅かに動かせる指先で抵抗した。
ヴァンチーヒャは、ハルの微かな動きを察知するや相手をけん制するように身体の大きさを二倍にした。
表情が険しくなり、繊細なアクアブルーの目が子ネズミを捕えた野生の眼に変わる。
ハルを押さえつける重みは空気圧となってさらに増し、彼は指一本動かせなくなり、魔力を封じられた。
王の猫が、ゆっくりと頭を垂れる。
彼は、自分を睨みつけるハルの胸元に顔を近づけ、鼻先をその上着に押しあてた。
離れ際に、しなやかな足のバネを使って大きくジャンプする。
ヴァンチーヒャの口元で、小さな光がきらりと反射した。
「おいっ!」
身体の自由を得たハルが、起きあがりざまに叫ぶ。
白猫は廊下に着地するとそのまま駆け出し、ハルは後を追った。
ヴァンチーヒャが咥えていたのは、ウィザードの徽章だったのである。
「くそっ。」
ハルが悪態をつく。
ただの猫ではないと思ってはいたが、こんなかたちで襲われるとは想定していなかった。
奪われたウィザードの徽章は、その身分を証明し、職を保証する重要な証だ。
ウィザードは常に徽章を身につけることを義務付けられており、価値あるものであると同時に、紛失しても簡単に再発行が許可されるものではない。
大切な徽章をたかが猫に盗まれたとあっては、階位セドの力量を疑われる。
ハルの悪態は、そんな感情がこぼれ出たものだった。
赤い絨毯の上を走っていた猫が振り返り、見透かしたように挑発する。
ハルは、すばしこいヴァンチーヒャを追った。
「確信犯め、人をからかうのもたいがいにしろ。
国王の猫だろうと、オレは容赦しないぞ!」
たかが猫に向かって、ハルが叫んだ。すると、ヴァンチーヒャの声が廊下に響いた。
『おもしろい。
力比べと行こうか、若きウィザードよ。』
ハルの飛ばした銀色の球が、凄まじい勢いで白猫に向かう。
銀色の球は分裂し、広がり、回り込みながら白猫の動きを封じようと縦横無尽に飛び回った。
ヴァンチーヒャは、それらを強靭な跳躍と俊敏な動きでかわす。
研ぎ澄まされた野生の反射神経は、襲い掛かる敵の動きを全て察知していた。
壁を蹴り、天井を逆さに走り、コンソールを蹴散らし、調度品の破片と花瓶の水が辺りに飛び散った。
一匹とウィザードが駆け抜けた廊下は、今や大嵐が通り過ぎたような有り様だ。
追いつ追われつの攻防戦は続き、赤い絨毯の廊下は、靴音を響かせる灰色の石畳に変わっていた。
飾られていた調度品は消え、左右にうねる通路は狭くなり、足音が壁に反響する。
枝分かれする道は、まるでウィザードの修練場である迷宮を走っているかのようだ。
しかし追う側としては、狭い通路は有利にはたらく。
ハルは左の壁に手をつくと、魔法を発動させた。
稲妻のような氷の筋が壁に沿って走り、ヴァンチーヒャを追い越す。そして迎え撃つ氷の波となって白猫に襲いかかった。
ヴァンチーヒャは尻尾を使って急旋回、反対側の壁と氷の波の隙間をすり抜けようとしたところを銀色の球に挟み撃ちされた。
「ギャッ。」
白猫が叫ぶ。
銀色の球は氷の波に激突し、砕けた氷片が爆発物のごとく飛び散った。
「徽章を返せ。」
『まだまだ。』
迫るハルに、ヴァンチーヒャは聞き覚えのある声で拒んだ。
彼が野生の眼で石の壁をひと睨みすると、そこに一つの扉が現れた。すかさず体当たりで押し開け、逃げ込む。
たかが猫は、ただの猫ではなかった。
彼が使いこなしているのは、リアフェスのウィザードにも引けをとらない魔力と力技である。
ハルは、再び白猫を追った。
駆け込んだ通路は、傾斜の急な階段が上へと続いている。
ガシャン!
ハルの背後で、何かが勢いよく下りる音がした。
頑丈そうな鉄の柵が、退路を断つ。
追うものと追われるものは、構うことなく上へと駆け上がった。
到達点のような場所の頭上には、青空らしきものが見える。どうやら外に続いているようだ。
広い屋外に逃げられては、取り逃しかねない。
(逃がしてたまるか!)
ハルは銀の球を収めると、今度は箒を出して飛び乗った。
柄の長い箒は狭くて曲がり角の多い通路には不向きだが、直線なら思う存分スピードが出せる。
ハルは数段飛びで階段を上るヴァンチーヒャに瞬く間に追いつき、一匹と一人は同時に外の光が差し込む塔内の一番上に躍り出た。
ハルがヴァンチーヒャの尻尾を掴み、箒の勢いに乗って振り上げる。
対する白猫はそのまま空中で身体をひねり、ハルの腕をねじり上げるように回転した。
箒が反転し、塔の壁に突っ込む。
ハルはヴァンチーヒャを壁に叩きつけると、その反動でなんとかバランスを取り、壁を蹴りながら床に降り立った。
壁に打ち付けられたヴァンチーヒャの口から、ウィザードの徽章がポロリと落ちた。
ハルはゆっくりと近づき、徽章を拾い上げた。
彼は警戒しつつ、白猫の状態を確認する。息はあるようだ。
『なかなかやるな、若きウィザードよ。』
横たわる王の猫の前足が、床についたハルの手元に触れた。
「あなたも相当の手練れです、国王陛下。」
アクアブルーの目が、ハルを見上げた。
『おや、いつ気がついたのだ?』
「あなたが声を発せられた時に。」
『ふふ…有能なウィザードだ。
もうひと遊びするとしようか。』
アクアブルーの目が妖しく光る。
(しまった!)
ハルはとっさに手を引いたが、すでに手遅れだった。
ヴァンチーヒャの魔法は、触れた対象の動きをその眼光で封じることができるのだ。
ハルは、再び身体の自由を失った。
『さて、次はどの塔へ行こう。
君は、この迷宮を抜け出せるかな。』
白猫がそう呟くと、突然石の床が抜け、一人と一匹は真っ暗な中を滑り落ちた。
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ハルは、いつ終わるとも知れない、暗く狭いトンネルを滑っていた。
時折急なカーブがあり、上下感覚が失われる。
『ただ滑るだけだ、心配するな。』
ヴァンチーヒャが言った。
「オレの腹の上で随分と楽しそうですね、陛下。
猫は夜目が効きます。
あなたには見えているのでしょう。」
ハルが、漆黒に染まる前方を見ながら言った。
トンネル内の空気は冷たいが、自分の腹の上でくつろぐヴァンチーヒャの生温かい感触は伝わる。
『脅しがいがないよのう。
見えているというより、行きつく先を知っている。
ほら、出口だぞ。』
ザッ
ヴァンチーヒャの声が合図のようにトンネルが終わり、ハルは相変わらず真っ暗な空中に放り出された。
ザクザクッ
「うっ。」
全身に、軽い衝撃があった。
ハルはどさくさ紛れにヴァンチーヒャから離れ、何かに埋もれるように着地した。
静まり返った空間は、氷窟のように寒い。
沈んでいた空気が乱れ、少しツンとした有機的な匂いが鼻に触れる。
(何の匂いだ?)
身体を動かすと、足場がガシャガシャと音をたてる。
周囲の感触は、貝殻のような、軽石のような、はたまた小枝を積み上げた場所に落ちたように感じられた。
足場の悪い中をハルは立ち上がり、魔法で火を灯すと、宙に浮かべた。
柔らかな明かりが昇りながら、塔の中を照らす。
「これは…。」
白い息を吐きながら、ハルは言葉を失った。
彼が立っていたのは、幾百体、いいや、もしかすると幾千体にも及ぶ白骨死体が重なった場所だった。
分解が進みバラバラになったもの、砕けているもの、洋服を着たままのもの、生きながらにしてここに落ちたのか、壁に手をかけたままのもの。
周囲の壁には削られたような跡や、血の跡が染みついている個所もあった。
『大昔の、我が同胞たちだよ。』
ヴァンチーヒャが、照らされた灯りの中から浮き上がるように現れた。
「大昔の?」
『その昔、我々猫族は一体のオルガの圧政に苦しんでいた。
やがて同族内で争いが起こり、情けないことに、オルガに取り入るものと抵抗するものとに二分した。
ここは、抵抗し続けた同胞たちの無残な墓場だ。』
「墓場…、なぜ城内にこれほどの数が?」
『ふむ、良い質問だな。
君は、オルガの習性を知っているか。
やつらは強い陽を忌み、日中はほとんど明るい屋外に出ない。
この城に住みついオルガを倒すには、城内に侵入して退治するよりほかはなかったのだが、それに対抗して奴が作り上げたのが、この立ち並ぶ塔よ。
一度塔の迷宮に迷い込めば、行き詰まり、歩き疲れ、最終的にここに送られる。
まぁ、それだけでなく、ヤツは娯楽のために同胞たちを城内の闘技場で戦わせ、殺し合いをさせた。
闘技場で息絶えた者も、同じくここに捨てられたのだ。
この塔は暗く、寒く、死者の醸す独特の匂いに息が詰まる。
辛うじて息のあった者も、やがて絶望し餓死するか狂い死ぬ。
この暗闇の塔から生きて出たものは、一人もいない。』
白猫は、自分の前足を舐めながら淡々と語った。
「一人も…。」
ハルは、ふと頭上を見上げた。
宙に浮かべた火が、微かに揺れている。
(風か…。)
壁のどこかに、空気口がある。ハルはそう考えた。
「それで、こんな場所にまで同伴してくださるとは相当の自信をお持ちのようですね、ウルザン国王。
あなたの狙いは、オレをここに閉じ込めることですか。」
ハルは、白猫の姿をしたウルザン国王を見た。
オルガンド王国の国王は、最初からこの黒い眼帯をした片目の猫だったのだ。
ハルとララが行く先々に白猫がいたことも、今なら理解できる。
あれは偶然ではなく、国王はずっと自分たちを監視(ララの言葉で表現するなら観察)していたのだ。
晩餐の時に謁見した国王は、影武者だったのだろう。
『閉じ込める!そうだな。
しかし私は、君と話がしたかったのだよ、若きウィザード。
誰の耳も届かない場所でね。』
密会の場所にしては趣味が悪すぎる。それはハルの感想だったが、彼は言葉にはしなかった。




