1-3.天才
それは、極上の寝覚めだった。
カーテン越しに感じる早朝の陽、一日の始まりを歓迎するなめらかな鳥のさえずり。起きたてに素晴らしいと思える朝なんてそうそうない。清々しいという言葉は、きっと今朝のためにある。
否、私は自然に目を覚ましたというより、誰かの呼び声で目覚めた。
「トリシア。」
トリシア?
誰かが、『トリシア』を呼んでいる。私は、ベッドの中からそっと辺りを観察した。
赤色の高い天井、壁にはめられた大きな窓、身体を包む雲のように柔らかな寝具。初めて見る広い部屋。ここは、どこ?
「トリシア。」
広い部屋の続きの間の向こうから、また声がする。
私はベッドから抜け出し、やわらかいバーガンディの絨毯にそっと足を下ろした。ふかふかで、足音一つしない。静かに近づいて覗いてみると、続きの部屋には大きな天蓋ベッドに上半身を起こした、初老の男性がいた。
近くに車椅子が置いてある。
「目が覚めたか、トリシア。」
シルバーグレーの整った髪、同色の口ひげ。彼は私を見ると安心したように微笑んだ。
でも、トリシアって誰?
私の名前は…。あれ?なんだっけ?
「どうしたんだい?怪訝そうな顔をして。
私を忘れたのかい?」
冗談っぽく笑う彼を見て、私は狐につままれたような気分だった。私を知っている彼を、私は知らなかった。私たちの年齢差は、見方によっては親子、もしくは祖父と孫娘くらい。でも彼は、私のお父さんでもおじいちゃんでもない。
「大丈夫かい、トリシア…?」
じっと考える私を心配したのか、冗談めかしていた彼の表情が寂しげなものに変わった。その様子に、なぜか心が痛む。
「トリシア…は、私?」
どんな答えを期待していいのかわからないまま、恐る恐るたずねる。
「ああ、そうだよ。おかしなことを聞くね?
さぁ、顔を見せておくれ。」
彼は再び優しい微笑みを浮かべると、手を伸ばした。
私は、その手をとる。彼の手の温もりに、不思議と心が落ち着いた。これで良かったんだ。
「よく眠れたかい?」
「ええ、とても。…とてもいい香りのお香を貰ったから。」
「そうか。それは良かったね。」
「誰にいただいたのかしら…。」
彼女は考えた。手渡されたことは記憶にあるのに、それが誰だったのか思い出せない。
「思い出したら、教えておくれ。」
「ええ、そうするわ。」
(何か大事なことを忘れている気がするけれど…。きっとそのうち思い出すわ。)
「もうすぐ朝食の時間だ。さぁ、服を着替えておいで。」
そう言われて、トリシアは自分の姿を見た。就寝用のままだ。
「おじい様、私の服はどこだったかしら?」
「隣の部屋だよ。」
「あら、そうだったわ。」
そんな当たり前のことをたずねるなんて可笑しいわねと、トリシアはくすりと可愛い笑みを見せた。
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サウィーンが明けた朝、いつもと変わらない時間に、ハルはキッチンダイニングのテーブルにいた。
昨晩突然の訪問者が来たとは思えない、普段通りの静かな朝。朝食を済ませ、コーヒーを飲みながらホログラム新聞に目を通す。
キッチンでは、ラベンダーグレーのメイド服を来た家屋精霊のシルキィが、機嫌よさそうに朝食の後片付けをしている。
ハルは時計に目をやった。ララはまだ、起きてこない。
処方した薬香がよく効いたのだろうと彼は考えていた。
(効果は切れているはずだが、無理に起こすこともない。)
そう思いつつも、時計に目をやる回数は無意識に多くなる。
サウィーンの夜に現れた娘は、よりにもよって異界人。ドアの向こうで月下にベールを纏ってしゃがみ込み、胡桃色の潤んだ瞳を見せた姿は一瞬、儚げな妖精のようだった。
(いや、あれはサウィーンの夜が見せた妖しい幻想だ。)
ハルは、ほんの一瞬でもララが妖精のように見えたという事実を、心の中で強く否定する。
(それにしても、何も知らない異界人をたった一人で来させるとは。)
オルランドの無謀ぶりが頭を過り、静めたはずの怒りが再燃した。
届けられたのは、髭一本のメッセージ。
『いじけた隠遁生活は楽しいか?ハートルード。異界人を拾った。面倒を見てやれ。どうせ暇だろ?』
最後にニタリと笑う姿が浮かんで、忌々しいほどにイラッとする。
こうやって軽快に一方的に厄介事を置き逃げするのは、オルランドの常套手段だ。優秀な魔法使いであることは否定のしようがないが、人格的には非常に問題がある。
(それにオレは暇じゃない。)
彼は、心の中でぶつぶつとオルランドに悪態をついた。
ハルは、オルランドに育てられた。己の出自を知らず、物心ついたときにはすでにオルランドと生活をともにしていた。言い方を変えれば、幼少の頃から一流の魔法使いに魔法や魔術の手ほどきを受けて育った。しかし、魔法使いを育てるのと人を育てるのは別の才。いいかげんなオルランドのせいで、彼は幾度も死の間際までいった。自分がまともに育ったのは、オルランドではなく彼の周囲にいた人々のおかげだとハルは認識している。
とかく非常識なあの男が、サウィーンの夜になぜ出歩いていたのかという愚問はさておき、どこをほっつき歩けば都合よく異界人を拾うのか、ハルには甚だ疑問だった。異界人はどこにでも転がっているものではないし、拾ったなどと簡単に済ませられるような代物でもない。よからぬ魂胆があるに違いなかった。
「クソじじい…。」
苛立ちから思わず漏らした言葉に、シルキィが反応し、振り返ってハルをじっと見る。
(私のいるところで、そんな言葉遣いをしないでください!)
いかにもそう訴えている表情だった。
「すまない…。」
ハルは素直に謝る。
この家の主人はハルなのだが、彼は、シルキィの機嫌を損ねるようなことを決してしない。
「おっはよう!」
庭に続く戸口から、荷物を持った人物が勢いよく飛び込んできた。
翡翠のように美しい青みがかった髪が、爽やかな朝の香りを纏い、静かだったキッチンダイニングがぱぁっと明るくなった。
「やあ、シルキィ。今日も可愛いね。」
お決まりのあいさつとともに、ハルのテーブル向かいに腰かける。
「ピクシーたちから聞いたよ、ハル。
夕べ女の子が来たんだって?」
さすが、情報が早い。まぁ、開口一番そう切り出すだろうと予測していたが。
「荷物をよこせ、リビエラ。」
ハルはリビエラの質問を無視した。
「それで、女の子はどこに?
まさか追い出したりしていないだろうね?」
リビエラは右手で荷物を渡しながら、詰問する。
「だったらどうする。」
ハルは手渡された封筒、そして小包を確認しながら言った。
「どうもしないよ。ハルの神経を疑うけど。
サウィーンの夜に助けを求めて来た女の子を追い出すなんて、君はそこまで薄情じゃないよね?
着の身着のままだったっていうじゃないか。
あ、ありがとうシルキィ。」
リビエラは、にこやかにシルキィにお礼を言った。
コーヒーを一口ふくみ、喉を潤す。
「サウィーンだから危険なんだ。
魔性が姿を変えている可能性もあるんだぞ。」
ハルは、より分けた一通をナイフに開封させながら言った。
「そのくらい、君なら見分けられるだろ。
で、その子は今、どこにいるの?」
「まだ寝ている。」
「ちぇ、もったいぶるなぁ。」
「それで、町の様子は?」
ハルは話題を切り替えた。このままでは、リビエラはララの話しかしない。
「例年通りだね。
今年もあちこち酒樽と酒瓶だらけで酒臭いよ。
皆、後片付けに追われてる。
あ、集会所の屋根にズーリ婆さんとこのヤギがのっかってた。
あいつは来年まで乳が出ないな。
ハルが降ろすって言っておいたから、まずはそれだね。」
ハルの顔が一瞬曇る。
「そんな顔するなよ。
これも地域貢献、顧客拡大のチャンスだよ。」
「お前が請け負ってこなくていいんだ。」
「とかなんとか言って、今日はそのためにスケジュール空けてあるんだろ。
早く手伝いに行こう。」
リビエラは、ハルの予定をしっかり見透かしていた。
とはいえ今日はサウィーンの翌朝、するべきことは当然決まっていた。
一年に一度、闇の世界に属するもの(力あるものから「魔性」とひとくくりにされる微力な存在まで)がこの世界をかりそめに征服する一夜、サウィーン。
日没から翌朝まで、ワイルドハントと呼ばれる闇の世界の一団が世界を駆け巡り、その一行に入れないものは近傍を徘徊する。
人々は家に籠り、カーテンを閉じ、極力灯りを消してやり過ごす。
『みてはならぬ。きいてはならぬ。こたえてはならぬ。』という三原則を粛々と守るのだ。
ハルが暮らす山間の小さな町イーリーは、毎年サウィーンの夜に家畜が襲われたり、家屋が破壊されたりと被害が発生する。そのため、町民は町中の酒という酒を準備し、彼らに振舞うことで早々に泥酔させ、被害を最小限に抑えている。
一体いつから行われているのか、その始まりは何だったのか、誰も知らないこの古の風習の翌日というのは、リアフェスの片隅にある小さな町に限らず、どこも台風一過のような有り様だった。
そしてイーリーでは、町民総出で町の後片付けをする。
人付き合いが得意ではないハルも、リビエラに先導され、手伝いへと向かった。
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リアフェスは今、リードの月と呼ばれる十一月。
午後二時の陽は、かなり傾いている。そろそろ町の片付けも終わり、待ち人は戻ってくるはずだ。
玄関口の前を行ったり来たりしながら、若い主の帰りを落ち着きなく待つ、シルキィの姿があった。
シルキィは、家屋精霊と呼ばれる精霊の一種。彼女は、基本的に自分の憑りついた家から出ることはない。玄関前とはいえ、これは少し異例だ。
質の良いシルクのスカートをシャリシャリと鳴らし、ソワソワと何往復しただろうか。首を長くして待っていると、聞きなれた声に二つの人影が見えた。
町の後片付けの手伝いを終え、返礼の品々を両手両脇に抱えたハルとリビエラが、何やら話している。
最初にシルキィに気づいたのは、ハルだった。
「どうした?シルキィ。」
駆けつけた二人に、シルキィは一生懸命に訴える。
事情を聞いたハルとリビエラは、ララの部屋へと急いだ。
「ララ、入るぞ。」
廊下の奥の左側の部屋。
ハルは、返事を待つことなくドアを開けた。
窓際にあるベッドの白いシーツの中で、ララは健やかとは程遠い血の気のない肌色をして、眠っていた。
その顔は活力を失い、実際の年齢よりも五、六年老けて見え、死期を間近に迎えた病床の患者のようだった。
「この子がララ?」
続けて部屋に入ったリビエラが言った。
ハルはララの首に指をあて、脈をはかる。
「脈が弱い。」
「エトラなんだろ?
薬香が効きすぎたのかな?」
「いや、効果はとっくに切れている。
シルキィ、気にかけてくれたんだな、ありがとう。」
ハルは、心配そうに様子をうかがっていたシルキィに礼を言った。
彼女は、いつまでも起きてこないララの様子を見に部屋を訪れ、異変に気付いたのだった。
「この顔色を異常に感じるのは、僕だけかな?ハル。」
丁寧に観察すれば、異常なのは明らかだ。しかし異界人が自分たちと同じ肌色だとは限らない。それを踏まえての発言だった。
「異常だ。夕べはもっと血色が良かった。
それに、あの薬香だけでこんな土気色の肌になるとは思えない。
まるで生気を吸い取られているみたいだ。」
「昨日はサウィーンだし、もしかしてここに来る前に…。」
「いや、それはない。」
ハルは躊躇なく否定した。
「ララが持っているベールは、魔性を遠ざける。
彼女はこれを被って来た。
ここに来る前に襲われていたとは考えにくい。」
ハルはそれ以上言葉にしなかったが、ベールにはオルランドの紋がある。つまり、オルランドがララに与えたものだ。
彼の小道具はどれも値段がつけられないほどの一級品。魔性ごときが容易に近づけるものじゃない。
(道中でないとすると、この部屋か?)
ハルは突然、室内を歩き回り始めた。
「ハル?」
「原因はこの部屋かもしれない。
ここはオレが買い取った時のままなんだ。」
一年前に買い取って以来、この部屋はほとんど手をつけていない。
先代の家主は道楽でこの家を建てた正体のはっきりしない人物であったと聞いたことがある。
不要な魔具は全て封印しておいたが、何かララに影響を与えるものがあったとしても不思議じゃない。
ハルは、チェストの上に目をとめた。
見慣れないものが二つある。
一つは長方形で、薄型の黒い物。初めて見るそれは、この世界の気配がしない。これほど奇異なものなら記憶に残るはずだから、おそらくはララのものだろう。そしてもう一つは、どこかの屋敷が描かれた小さな風景画。
絵の隅に、クレアモントホールと記してある。
(封印が、解けている?)
絵に触れたとき、ハルの表情が一瞬動いた。
「リビエラ。」
「なんだい?僕の出番?」
じっとハルの様子を見守っていたリビエラが答えた。
リビエラとハル。この二人の付き合いは、まだ日が浅い。しかしリビエラは、ハルの噂にたがわぬ優秀な頭脳と、噂通りの偏屈ぶりが気に入っている。
ハルは十六歳の時、史上最年少でウィザードの階位十一階位のうち、第六位『レト』を取得し天才と称されたという。
ウィザードというのは職業としての魔法使いの呼び名で、リアフェスでは国家資格とされている。
国家試験は法律上、十五歳から受けることができる。しかし、中等教育が修了するのが十四歳。その後専門的な知識を学ぶためには、高等教育へと進まなければならない。
ウィザードになるためには、魔法科が設置された高等教育機関で学び、その多くが卒業と同時に国家試験を受ける。
ウィザードの階位は、第十位マルクトから第一位ケテまでの十階位。そして、その上のゼロ階位と呼ばれる、いわば名誉階位エスが存在する。
通常なら、十七歳で第十階位マルクトだ。
一年前にハルがイーリーに越して来た時、山間の小さな町は、一時期ハルの噂で騒然とした。
いくらこのイーリーが芸術と魔術の町としてその名が知られているとはいえ、将来を嘱望された若き天才ウィザードがイーリーの町外れに越してくるなど、悪い理由以外に考えられないと皆が噂したのだ。
去年の夏休みにたまたま帰郷していたリビエラは、休みの間、郵便物を届けるアルバイトをしてくれないかと局長に頼まれたことがきっかけで、ここに来るようになった。(というのも、いくつかの事情により誰もこの家に来たがらない。)以来、郵便物がなくとも、暇さえあればここに顔を出している。
「この家の以前の所有者と、クレアモント伯爵についてしらべてくれないか。
もしオレが戻るより先に調べがついたら、お前も来い。」
リビエラにはハルの切れ長の目が、何かをつかんでいるように見えた。
「了解。君はどこへ行くの?」
「絵の中だ。」
ハルはそう言うと、不安そうにしているシルキィを見た。
「心配するな、シルキィ。夕食には戻る。」
真白なエプロンを握りながら不安そうに見ていたシルキィは、コクりと頷いた。
ハルが絵の中心に触れると、その体は吸い込まれるように消えた。




