7-1.扉
ララと時雨が城を出て谷に向かっていた頃、ハルは部屋に一人、不機嫌な顔つきでいた。
朝のリズムは、どこにいようと変わらない。
寝起きざまの食事が取れない質で、いつも早めにベッドから出る。
寝起きも悪くはない。しかし、今朝は違った。
これまでの人生の中で五本の指に入るほど、寝覚めが悪い。
昨夜ララに説教した余韻、いや、説教ではなく正しく己の感情に向き合うなら、くだらない言葉を放った自分自身に嫌気がさしていた。
(運命に抗う、か…。最悪だ。)
あれは、誰に向けた言葉でもない。
この一年、何も変えることができなかった自分への苛立ちが露呈しただけのこと。
運命に抗う自分が、最も運命に囚われている。
昨日の一言がそれを証明したように思えて、ずっと居心地が悪い。
彼は、苛立ちの元凶を覆い隠すように瞼に手をあてた。
コンコンコン
廊下側のドアをノックする音が響き、視線をやる。
朝食前の時間に、不意に訪れるノック音。
経験上、こういう時はロクな知らせがない。
「おはようございます、クレアモントの後見人殿。」
開いたドアの向こうに立っていたのは、穏やかな微笑みを携えた、羽根付き仮面のラグレールだった。
---------
「…というわけでございまして。
クレアモントの御主人は、お付きの方とともにご出発なさいました。」
簡単な挨拶の後にラグレールが告げたのは、早朝に起きた一連のシロップ騒動の経緯だった。
朝っぱらから一体何をしているのやら…と小言を吐きそうになるが、ハルはララが自分のもとに泣きついてこなかったことが少し意外に思えた。
「そうか、わかった。」と冷静に返す。
「…何か?」
ラグレールのかすかな表情の変化に、ハルが反応した。
「いえ。
案外と落ち着いていらっしゃるものですから。」
「あいつは、予測通りに動かないたちでね。
驚きはしない。」
「さようでございますか。
確かに、責任感は申し分なくお持ちのようです。
あのような場所に、自ら採取に向かうと申し出てくださったほどですから。」
ラグレールが、含みを持たせつつ相手を見る。しかしハルは、その挑発に乗らなかった。
「侍従の失態は主人の預かるところ。
クレアモントホールの主としての自覚が出てきたというところだな。
それで、朝食後は予定通りに?」
「はい…、と申し上げたいところですが、我らが国王陛下の意向により、剣技と舞踏の観覧は中止となりました。
あなた様だけでもご列席いただきたいとクレアモントの御主人から言付かっておりましたのに。」
「そうか。」
「我らが国王陛下も、心を砕いておられます。
しかし、真にクレアモントの主人であるならば、難しいことではないだろうと全幅の信頼をよせておいでです。
頼もしい限りでございますね。」
柔らかい微笑みは、人当たりよく儀礼的。しかしそこに、他者と距離を縮めようとする意志は欠片もない。
「そうだな。」
食えない男だ、とハルは思った。
---------
朝食は、大層広い例の部屋で一人で取ることになった。
周囲に給仕が三人ほどいるものの、その気配は存在を感じさせない。
調度品に囲まれた豪奢な部屋に、食器の音だけが品よく響く。
ハルは、こんなに静まり返った朝食を取るのは久し振りだ、と考えていた。
イーリーベルのキッチンダイニングで食事をするときは、いつもシルキィがいる。
水の音、調理器具の音、油の音。彼女が奏でるキッチンの音は、すっかり朝の一部だ。
朝食時に決まって郵便物を持って来るリビエラは、テーブル向かいに陣取り、他愛ない話を面白そうに仕掛けてくる。加えて、静かに帰っていくということがない。
そしてサウィーン以降は、ずっとララが居る。
慌ただしく始まった居候との生活は、よそよそしさが入り込む隙もなかった。
イーリーベルは自然にララを受け入れ、彼女との食事風景は、ハルの中でも定着しつつある。
彼はふと、目の前の誰もいない椅子に目をやった。
昨日そこに居たララが、今朝はいない。
ありふれた日常の中に、そんな一日や二日は当たり前にめぐってくる。
不在を疑問に思わないのは、相手がまた戻ってくると知っているからだ。
彼女が異界からやって来て、約一月半。
大して長い期間でもないのに、自分の風景の中に溶け込んでいたララ。
リアフェスの一年で最も物騒な夜に突然現れた彼女が、ある日突然跡形もなく消えることはないと誰に言い切れるだろう?
『ララの願いを叶えるのだ、ハートルード。』
師匠の言葉が甦り、ハルを煽る。
彼は奥歯をかみしめた。
(出てくるな、くそジジィ…。)
遠く離れていながら、オルランドは常にハルを刺激する厄介な存在だ。
時にハルを挑発し、嘲笑し、心の揺らぎに入り込んでは彼の焦燥感を煽り立てる。
ハルは、食事の手を止めていた。
彼には、オルガンド王国にくる以前に疑問があった。それは、クレアモント卿がどうやってこの国と繋がりを持ったのだろうか、ということだ。
彼の蒐集品にもっと別の側面があったとすれば、そこに死後三十年間守り続けた真の理由があるのかもしれない。
リアフェスの掟が通用しないこの国に、クレアモントホールの主人が消えて喜ぶ者がいたとしたら。朝の一件が、仕組まれていたものだとしたら。
あいつは、戻ってこられるのか?
そもそも、ラグレールの言う通り本当にこの城を出たのか?
妙な勘繰りが、ハルの脳裏をよぎる。
彼は、昨晩のことを思い出していた。
対面したウルザン国王からは、腹黒さや下心があるような気配は感じられなかった。
しかし、何かが引っ掛かる。第六感とでもいおうか、まるで洋服の裾を引っ張られているような、妙な違和感を拭えないでいる。
(リアフェスの外に、人間の国がある。おかしな話だ。クレアモントホールの衛兵は、人間じゃない。だとしたら、ここの連中は何者だ?)
ここは外界。知りうる限り、人間などいるはずがなかった。
しかしこの城内では、ラグレールをはじめ給仕さえも人の姿をしている。
人型に姿を変える術を持っていたとしても、相当な魔力が必要になる。長時間は難しいはずだ。
(白々しい薄笑いの男の言葉を鵜呑みにするほど、オレはヤツを信用しているのか?)
ハルはテーブルナプキンを置くと、イスから立ち上がった。
「部屋へ戻る。
ラグレールを呼んでもらえないか。」
(化けの皮を剥いでやる。)
彼は踵を返し、足早に広間を出た。
皿には食べかけの朝食が残されたままで、ここがイーリーベルなら、絶対に後からシルキィに小言をくらっていたに違いなかった。
---------
明るい石造りの外廊に、二つの人影があった。
「コレクションに興味をお持ちくださるとは、嬉しい限りです。
後見人殿。」
ハルを先導しながら、二つの影の片方、ラグレールが言った。
柱と柱の間の向こうには、立ち並ぶ大小の塔が見える。
「忙しいところ、悪いな。」
ハルが答える。この場合、実際にどう思っているかは関係ない。
彼は部屋に来たラグレールに、ララが最後に立ち寄った場所、つまりラグレールが勧めたコレクションの部屋に自分も行きたいと申し出たのだった。
「どうぞお気になさらず。
ゲストのおもてなしは私の勤め。
剣技も舞踏もあいにくの中止となってしまいましたから、私も少しばかり余裕がございます。」
そう答えたラグレールは、口元に手を添えると、何か思い出したようにクスリと微笑んだ。
「どうした?」
「いえ…。
部屋にお呼び出しを受けたときは、てっきり後見人殿も谷へ行かれたいと仰るかと思っておりました。」
「…。」
「大切なクレアモントホールの主人をお一人で…いえ、大して役に立たちそうにもない従者を連れておいででしたが、オルガの脅威にさらすようなことは普通なさらないでしょう?」
「オルガ?あの、オルガ族か?」
ハルが聞き返す。
彼が文献上で知っているのは、男女ともに屈強で青緑色の肌をした大柄な種族。
強い陽の光を忌み、男は大食漢の酒飲みが多く、女は髪が長ければ長いほど美しいとされる。
リアフェスには存在しないため、ハルは実物を目にしたことはなかった。
「ええ、そうです。
怪力だけが取り柄の愚鈍で乱暴な、あのオルガ族です。」
「オルガ族も、この辺りに暮らしているのか?」
「はい。
正確にはこの国の辺境に、と言うべきでしょうか。
かつて彼らは、この国を暴力的に支配していました。
ウルザン国王による王国の奪還以来、滅多なことではこちら側に来ることはありません。
しかし、淘汰されたというわけでもないのです。」
「ウルザン国王の?では最近の話なのか。」
「いいえ、最近の話ではありません。
この国の国王は、初代の勝利にあやかって代々ウルザンの名を引き継ぐのです。
クレアモントの御主人が行かれた谷は安全ですが、かといって御身の保証は出来かねます。
そうでなくとも別の危険が潜んでおりますから、やはり勇敢なお方です。」
「というと?」
「黄金葡萄が繁殖するのは岩場です。
この時期は規模も小さくなり、高所にしかありません。
おまけに、有毒で危険な小動物の格好の棲みかとなっているのです。
後見人殿が落ち着いておられるのは、クレアモントの御主人を信頼されてのことしょう。」
ラグレールは、ハルの反応をうかがうように視線を動かしながら、黄金葡萄の葉に潜む危険について語った。
「勿論だ。
その程度なら心配ない。」
ハルは、落ち着きを装っていた。
ララが襲われる可能性は十二分にあるが、ここで動揺を見せては相手の思うつぼだ。
それに、ハルは時雨がかなりの博識であることを知っている。
彼女はクレアモントホールのあらゆる場所と物の所在を把握しており、書庫に収められた書物の内容にも格別詳しかった。
前回書庫を訪れた際、時雨はハルの助手として随分と活躍してくれたのである。
「あのお方はウィザードでもなく、ごく普通の人間。
その若さでセドの階位をお持ちの後見人殿が彼女の力量をそこまで買っていらっしゃるとは、率直に申し上げて驚きです。」
ラグレールが、冷たい瞳でハルを見る。
「ふん、先代のクレアモント卿とオレの目が節穴だとでも言いたげだな。」
ハルは辺りに視線を配りながら、淡々と言葉を返した。
二人が歩く廊下は、松明が等間隔に掲げられたトンネルのような通路に変わっていた。
「いえ、その逆でございます。
ご両人には、先見の明と眼力がおありだったということでしょう。」
羽根付き仮面の男は、相変わらずの薄い微笑を浮かべた。
ハルは、ものは言いようだな、と心のうちで嘲笑した。
ラグレールは、確かに何か企んでいる。
目的がクレアモントホールを手中におさめることならば、最悪はララと自分を消すことだろう。
しかしハルの理性は、この最悪を真っ先に否定した。
本気で消すつもりなら、これほど時間をかける必要はないからだ。
加えてラグレールの言動には、相手を挑発し動揺を誘うような回りくどさが滲み出ている。
彼らが試そうとしているのは、ララの力量か。それとも、自分の後見人としての力量か。
「さあ、到着しました。
こちらでございます。」
ラグレールはハルを促し、恭しく言った。
そこは大柄の花模様が描かれた赤い絨毯が敷かれていて、長い廊下の全ての巨大な扉の横に、花や調度品が飾られたコンソールが配置されていた。
「どの扉も巨大だな。
巨人族の棲みかに潜り込んだかのようだ。」
「ええ、ほんとうに。
なぜこの廊下の扉がこれほど巨大か、お分かりになりますか?後見人殿。」
「いや。」
「先程この国がオルガに支配されていたと申しましたが、実は王国を統治したのは、オルガ族の中でも極めて巨体だった一人の横暴なオルガでした。
ここは、彼が使用していた部屋の数々です。
まさに城に歴史あり、というところですね。
そしてちょうどこのコンソールのあたりが、小瓶が割れた場所です。
もちろん、片付けておりますので影も形も痕跡はございません。」
「そのようだな。」
「お褒めいただき、恐縮です。」
ハルは、ラグレールが示した床を見た。
金色の縁取りの花が咲き乱れる深紅の絨毯には、シミ一つない。
ハルは、浅く息を吸った。
彼を取り巻く空気がわずかに揺れ、ダークブロンドのくせ毛がなびく。
それは、普通の人間ならば気づくこともない微細な変調だった。
彼の瞳は小瓶の痕跡を確認する術は持たなかったが、代わりに、残り香のように細くたなびく、漂う青い線を写していた。
ララの首にかけられていた、青いガラスの残像だ。
彼女がここに来た、動かぬ証拠でもある。
彼女の動線が、曲線となって揺れる。
廊下から目の前に置かれたコンソールの向こうへ、そしてすぐ隣の大きな扉へ。そこからラグレールが示した小瓶の割れた辺りへ。
床の低い位置から上へ移動するのは、一度しゃがみ、立ち上がったからだろう。
青い線は、そのままハルの身体をすり抜けるようにもと来た廊下の方へと消えていた。
「コレクションはこの扉の奥に?」
ハルは、青い残像を残す木製の扉を見上げた。
「いいえ、そちらではございません。」
ラグレールが言った。
「私がお見せしたいコレクションは、もう少し先に進んだ扉にございます。
さぁ、参りましょう。」
仮面の奥にある瞳が、うっすらと妖しく光った。




