6-7.収穫
フギャッ
「えっ?」
獣のような、不吉な声がした。
私は、何か踏んだ。
たしかに柔らかい何かを踏んだのだけれど、足元には何もない。
「ゲホゴホッ…おえっ。」
(おえっ?)
どこからか嗚咽が聞こえる。誰かいるらしい。
警戒していると、茂みから茶色い何かが飛び出してきた。
「ちょっと!シッポ踏んだの誰?!気をつけな…」
「☆✕@%&?」
私たちは、同時に叫んでいた。
目の前に現れたのは、顔中血だらけの動物。
(え?…け、獣?!)
自分が見たものを受け入れるには、あまりにも突拍子すぎることがある(特にリアフェスでは)。
この場合、それが人間なのか獣なのか、私はすぐに判別できなかった。
人間のような獣のような、強いて言えば、猿ではない二足歩行の獣。
もしくは獣のコスプレをした、人間?
頭には乱れた茶色の毛髪、身体には薄茶色の獣毛。
顔中にこすりつけたような赤があるけれど、特に口元が食後の肉食獣みたいに血に染まっている。
私は驚きのあまりよろめいて地面に尻もちをつき、相手はポカンと口を開け、お互いにあり得ないものを見つけたような形相で見つめ合っていた。
白昼堂々、森で人とも獣ともつかない女の子に遭遇するなんて、予測の範疇にない。
ペロリ
女の子の口からネコ科の舌が出て、口の周りを舐めた。
(ひぃぃっ。)
「たっ、食べないで!美味しくないわよっ。」
私は、震えながら牽制した。
けれど彼女は、無言のまま二足歩行で茂みをかき分け前進してくる。
手足には艶のある短い毛並み、毛髪から飛び出たネコ科の耳。人間と同じ目。鼻と口はちょっとネコっぽい。そんなものがこっちに近づいてくる。
「美味しくないの?」
洋服を着た小柄な体から、ぬっと手が伸びてくる。手先は猫のそれじゃなく、人間のような指が五本。ただし、赤く汚れている。
「ひっ。」
私は両足で地面を蹴り、のけ反るようにして後ろに下がった。
「美味しくない!絶対に美味しくないっ!」
「そう。」
彼女は人差し指を突き出して、私の身体に触れた。
ツンツン
「ひゃっ。」
「わ、思ったよりぷにぷに。」
真っ赤な口元が、ニタリと大きく笑った。
「旦那さまっ。」
時雨の声が聞こえ、私と獣の女の子は同時に空を見上げた。ものすごい勢いで、人形のような時雨が頭から落ちてくる。
「時雨っ!」
「くせもの!」
女の子と私の間に、長い黒髪の白装束が降り立った。
それは般若姿になった時雨で、額にまかれた長い襷の端が、あの時のようにゆらりとなびいていた。
女の子に向けられた二つの眼光は、鬼と見まごうばかりの鋭い金色。
「フギャぁっ!オルガ!」
身体の芯から凍りつきそうな異形に、私じゃなく女の子が震える声で叫んだ。
今度は彼女の方が尻もちをつき、唖然と時雨を見上げている。
彼女の怯えた表情に、私は逆に冷静さを取り戻した。
よく見れば相手は私よりずっと小柄で、幼い。今の私なら、十分に対処できるはずだった。
「しぐれ、」
さすがにその姿はちょっとやりすぎでは?
そう言葉を続けようとしたとき、女の子は立ち上がり、威勢よく啖呵を切った。
「やい、オルガ!お前みたいなちっさくて弱っちいの、めっためたにしてやるんだから!ニャァッ。」
小柄で幼い見た目とは裏腹の、強気で威勢のいい声が放たれた。
「オルガ?って時雨のこと?」
私は時雨の後ろから顔を出し、女の子に尋ねた。
「はっ?あなたさぁ、わざととぼけてんの?オルガって、コレのことでしょ?大きくて目が金色で、女は髪が長くて、肌はみど…れ?肌は緑…じゃないわね。」
女の子の瞳からはいつの間にか恐怖の色が消えていて、彼女は何度も瞬きしながら遠巻きに時雨を観察した。
「私めはオルガではありません!それにオルガの肌は緑ではなく、青緑です!」
時雨が、いつもの声で言った。
「そんな細かいこと知らないわ。
私、本物のオルガを見たことないんだから。
あなた、オルガじゃないなら何なのよ?」
女の子は怖がる様子もなくずかずかと時雨に近づくと、彼女を確かめるように手で叩いた。
なんと物おじしない子!
「はわわっ、わっ、私めは私めにございます!その真っ赤な手で叩かないでくださいまし!」
「質問の答えになってないわよぉ。」
女の子は全く子どもらしくない怪訝そうな顔をすると、手の毛についた赤いものをペロリと舐めた。
「ねぇ、顔も手も赤いけど…、何してたの?」
生々しい赤だけれど、血の匂いがしない。
私は思い切って尋ねてみた。
「そこの茂みになっているベリーを食べてたの。
あなたに尻尾を踏まれたときに、むせちゃって。」
「ごめん…。」
「ここは私だけの秘密の場所だったのよ、あなたたちに知られるまでは!
仕方がないから食べさせてあげる。おいで!」
彼女は、まるで自分の子分を扱うように片手でこっちに来いと合図した。
私は黄金葡萄の葉について何か聞きだせるかもしれないと思い、小さく頷くと、時雨に言った。
「時雨、私は大丈夫だからもとの姿に戻って。」
「かしこまりました、旦那さま。」
時雨は答えるやいなや元の和服姿に変化し、それを見た女の子は口を大きく開けて無邪気に笑った。
「面白い!どっちが本当のあなた?こっちは私よりちっさいわね!あはは。」
「はわわっ!小さいとはなにごとですかっ。
こちらもあちらも、どちらも私でございます!」
時雨はどうもペースを乱されているようで、いつになく憤慨している様子。
それでも今日の彼女は、書庫の時みたいに刃物を飛ばすような攻撃的なことはしなかった。
前回ハルを追い詰めて殺める寸前だったから、反省してちゃんと相手を見ているのだと思う。
あの時みたいな調子で向かっていたら、ベリーじゃなく本物の血を見ていた可能性が高い。
私は、目の前の女の子が血まみれで白目をむいているところを想像してしまい、ゾッとした。
(ハル、恩に着るわ。最初の餌食になってくれてありがとう…。)
時雨が力加減をするようになっただけ、最初の相手がハルで良かったと言うべきかもしれない。
心の中で、こっそり彼に感謝する。
「ねぇ、ちっさなあなた、オルガじゃないならあなたは何なの?」
女の子は、すっかり時雨に懐いた様子だった。
性格は、人懐こくて怖いもの知らず。
幼さがそうさせるのか、彼女本来の性格なのかはわからないけれど、異邦人にも全く動じない度胸には脱帽する。
「私めは、スプリタスでございます。
それから時雨という素敵な名前がございます、猫族のお嬢様。」
「時雨はスプリタス!私、スプリタスを見るのは初めて!面白い!あはは。」
彼女は、何を聞いても楽しそうに笑う。
「ねぇ、今、彼女のことを猫族って言った?それにさっきから叫んでるオルガってのは何?
分からないことだらけだわ。」
私は隣の時雨に耳打ちした。
「あれ、もう一人のあなたは何も知らないの?」
流石猫耳地獄耳!可愛らしい耳をピクリと動かした女の子が、時雨よりも先に口を開いた。
「ちっさい時雨が言った通り、私は猫族。
名前はアリィよ。
オルガは遠くの森に棲んでる怪物。
肌がみど…コホン、青緑で目は金色。
男も女も怪力だけが取り柄の頭の悪い種族。
ずっと昔、巨人みたいに大きなオルガがやって来てこの国を支配していたけど、ウルザン国王がやっつけて一族を追い払ったの。
ついでに言うと、この国の名前はオルガを追い払った時につけられた名前。
どう?これで分かった?」
「オルガザアル グルムンド(オルガを追い払った土地)でございますね。」
「あ、そう、ソレ。
スプリタスは物知りね、時雨。」
「スプリタスもいろいろおります。」
「あ、そう。
ってことはもう一人の弱そうなあなた、あなたもスプリタス?」
「えっと…私の名前はララ。
私はスプリタスじゃないわ。
生身の人間よ。」
「ニンゲン?まさか!どうしてニンゲンがここにいるわけ?」
アリィの目が、途端にまん丸くなった。
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オルガンド王国は、猫族の国。アリィは、そう言った。
つまり、猫の属性を持った人々が暮らしている。
そして彼女の知る限り―といってもまだほんの九歳だけど―人間が自分たちの土地に来たことはない、とも。
「ニンゲンを見るのは初めて。
くふふ、後でみんなに自慢してやるわ!
ララはここに何しに来たの?まさか、そんな弱っちいなりで私たちを襲うつもりだったとか?人間は弱いくせに凶暴だって聞いたことがあるわ。」
茂みに実ったベリーをつまみながら、いつ食べていつ話しているのかわからないくらい器用にアリィは話し続けていた。
真っ赤に熟れた実と汁は、鮮血のような紅色。
やめられないほどおいしいけれど、食べた後の歯は血を啜ったドラキュラみたいに見える。
「襲う?まさか!黄金葡萄の葉を取りに来たの。」
「黄金葡萄の葉?あんなもの何にするの?おかしなものを欲しがるのね。」
「その葉から、作り置きができない貴重なシロップが取れるらしいわ。」
「ぷっ!なにそれ?黄金葡萄の葉からシロップが取れるなんて、聞いたことがない。
でもいいわ、欲しいなら案内してあげる。」
「いいの?」
「もちろん!
その代わり、ここのベリーのことは他言無用、誰にも言っちゃだめだからね!!」
「わかった、約束する。」
「よろしい!」
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「ふん ふふん♪」
私たちはアリィを先頭に、道なき道を進んだ。
彼女は上機嫌で鼻歌を歌いつつ、草葉の小枝を大胆にガシガシとかき分けながら斜面を登る。
そして時々立ち止まり、鼻を動かしては匂いをかぎ分けていた。
黄金葡萄には、彼らにしか嗅ぎ分けることができない独特の匂いがあるらしい。
「なかなか、奥深いところにあるのね…。」
私は、息を切らしながら感想を述べた。
時雨は宙を飛んでいるし、そもそもスプリタスに疲れとか関係なさそうだから問題ないとして、生身の人間には足腰の強さが要求される体力勝負。そろそろ弱音を吐きたくなる時分。
「旦那さま、これを私たちだけで探すとなると、ずいぶん面倒なことになるところでございました。」
「そ、そうね…。
それには同意。」
「ほぉら、なに二人でブツブツ言ってるの?あの上まで行けば見えるはずよ!」
「見える…?」
わたしと時雨は、顔を見合わせた。
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「わぉ…。」
私は登りきった斜面の上から、ほぼ垂直に切り立った崖を見下ろしていた。
はるか眼下には、青草に覆われた岩場が続いている。
足元にはシロツメクサのような花がたくさん咲いていて、U字型にうねりながら水平に続く崖の上にも、ところどころ小さな花が群生していた。
「ほら、この真下。
あそこにあるわよ、黄金葡萄の葉。
ついでに言うと、実の方が断然おいしいけどね!!」
私は、アリィが目を輝かせながら指差す先を追った。
小さな楓のような葉型の、蔓性の植物が岩を這うようにこんもり覆っている場所がある。
確かにこれは、「見える」といったほうが正しい表現。
「なんか、クラクラしてきた…。」
私は崖から目をそらし、こめかみと額を支えるように指で押さえた。
いやいやいや…岩場に生息してるってラグレールは言ってたけれど、こんなのどうやって採ればいいの??
彼は本当に、こんなところに毎日採りに来てるんだろうか。
今となっては信じがたいけれど、こんな場所なら一日に二度も来たいとは絶対に思えないだろうと彼に同情する自分もいる。
(どうせなら、場所よりも採取方法を伝授してほしかった…。)
「おや、黄金というわりには黄金色ではないのですね。
意外でした。」
時雨は覗き込みながら、どうでもいい点について几帳面に観察している。
「おお、侮るなかれ、時雨殿!これが黄金色になるんだよ、えっへん!」
アリィは両手を腰に当て、鼻を鳴らしながら言った。
「と、おっしゃいますと?」
「黄金葡萄はね、西に面した岩場にしか育たないの。
そして一日の終わりの夕暮れ時、その実と葉は西日を浴びて美しい黄金色に染まるのよ。」
「なるほど、それが名前の由来でございますか。」
「そういうこと。
でも、どうやって採りに行くつもり?旬の頃は崖一面を覆うくらい広がるから採りやすいけど、今は時季外れだからあんなに小さくて遠いのよ。」
「心配はご無用でございます。
私めが、つつと下りてまいります。」
時雨は従者らしくかしこまり、私に向き直った。
「汚名挽回の機会をいただけますか、旦那さま。」
その表情は許可を求めるというよりは、決意のように見えた。よほど、責任を感じているらしい。
「そうね、時雨は飛べるわけだし…。
あなたが問題なければ、行ってくれる?」
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私とアリィが見守る中、時雨は性能の良いエレベーターみたいに垂直に崖を下った。
私たちの場所から一番近い黄金葡萄の茂みまで、ざっと七、八メートルはある。
彼女はそのすぐそばまで行くと一旦動きを止め、私たちを見上げた。
「その調子!」
小さく茂る黄金葡萄の葉に手を伸ばし、彼女は一枚、二枚と順調に摘み取る。
必要な葉はほんの数枚。
(何事も起きませんように…。)
何事も起きるはずがない。そんな状況でさえ、何かに祈らずにはいられない。
早まる鼓動などお構いなしに、時間は丁寧にすぎていく。
「そのくらいでいいんじゃない?時雨。」
私は待ちきれず、上から声をかけた。
「かしこまりました。」
時雨がこちらを見上げ、大きく返事する。
「ねぇ、葡萄は残ってる?」
隣で、アリィが叫んだ。
「小ぶりですが、少しございますよ。」
「やったぁ!」
もろ手を挙げて無邪気にはしゃぐ姿はやっぱり幼くて、心が和む。
私たちのミッションは、間もなく終了。城に戻れる。ホッとしてそんなことを考えていた矢先のことだった。
突然、黄金葡萄の茂みから草色の細いものが飛び出し、時雨を弾き飛ばした。
彼女は宙を舞い、吸い込まれるように落ちていく。
「時雨?!」
その時の行動は、後から冷静になって考えても説明がつかない。
鳥でもウィザードでもない私は無謀にも、海に飛び込むみたいに時雨を追いかけて崖を飛び下りていた。
「ララっ?!」
アリィが叫ぶ声が聞こえた。
万物の法則に従い、私は強い力に引っ張られるように落下。
耳元で風を切る音が鳴り始めて、自分がしてしまったことに気がつく。
決して後戻りできない死へのダイブ。策もなく時雨の後を追うだけでは、ナニもナラナイのに。
(ど、どうしよう?私はなんてことを!!)
頭の中が、目まぐるしく錯乱した。狂った機械みたいに高速で回転しているけれど、最適解が出てこない。
周囲の景色は刻々と変わり、高度がぐんぐん低くなる。
宙を切り裂く冷酷な風の音だけが鳴り続け、行きつく先は緑の絨毯が敷き詰められた岩の上。
(ああ、どうしよう!どうしたらいい、ハル!!)
心の中で、思わず彼の名を呼んだ。
彼がここにいたなら、慌てた顔一つせず易々と私たちを助けてくれるはずなのに!
厳しくて正論ばかりで優しさのかけらもないけれど、誰よりも頼りになる…。
(バカバカ!私のバカ!いない人に助けを求めたって!ああ、どうしよう…どうしよう…。どうしよう。)
『あきらめるな。』
弱気な心の声を打ち消すように、ハルの声が聞こえた。死に近づいている幻聴だろうか。
気がつくと首にかけていたネックレスのガラス玉が、同じように宙に浮いてきらりと青く光っていた。
(キャス!)
いつも私を勇気づけ、引っ張り続けてくれた地球のような青い瞳。
私が今この世界にいる、たった一つの理由!
この瞬間、走馬灯のように巡っていた想いが一つの解を導き出した。
『こいつは使役者の心ひとつで、身を守る盾にも他者を傷つける刃にもなる。忘れるな。』
いつかのハルの言葉が蘇る。
使い方は私次第だというのに、その存在をすっかり忘れていた。
私は腕を上げ、髪に結ばれたリボンを掴んで思いっきり引っ張った。
「あれっ?ほどけない?」
力を込めてグイと引っ張る。だけどリボンは、髪を締めつけるばかりで外れない。
募る焦りが絶望を引き寄せ、黒い魔物のように私を襲う。
目の前が、真っ暗になった。
『ベールはララの精神面に強く反応する。』
『意識を集中させて、念じるんだ。』
再びハルの冷静な声が響く。
「意識を集中させて…。」
心に思い描いた刹那、髪に結ばれていたリボンは白い箒に変わり、私をすくい上げていた。
私は、視界を取り戻した。
ベールは私と一心同体。心に思い描くだけでいい。無理に引っ張る必要なんてなかったのだ。
私は箒の柄を両手でしっかりと掴むと、馬上と同じように体勢を低くし、力なく大気に身を委ねる時雨めがけて真っ逆さまに降下した。
絶対に助ける。その思いだけで、岩に激突することなんて考えていなかった。
私は決してそうならない。
そう強く信じるだけでいい。
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「しぐれっ、時雨!」
「だ、旦那さま…?」
箒に乗った私の腕の中で、時雨はゆっくりと目をあけた。
手には数枚の黄金葡萄の葉と小さな葡萄がしっかりと握られていて、意識が飛んでも手放さないのはさすが使命感の塊。
私はホッとしたと同時にとても感心していたのだけれど、彼女が口にした最初の言葉は謝罪だった。
「も、申し訳ありません、旦那さま。」
彼女は何度も、自分の失敗を謝る。だけどそれは、私には間違ってるように思えた。
何度も謝る必要なんか、どこにもないのに、と。
「ですが旦那さま、これでは主人に仕える身としてはいたたまれません。
私めがどうにも役立たずであることを証明しているようなものでございます。」
「主従なんて二の次よ、時雨。
昨日の夜あなたが励ましてくれたから、私は頑張ろうって思えた。
時雨がいつだって私に尽くしてくれるように、私は時雨のためなら崖だって飛び下りるんだってことがわかったわ。」
「旦那さま…。」
「あなたが淹れてくれるお茶が飲めなくなったら、私は次こそ立ち直れなくなる。
ね、だからこれでいいの。」
私よりもずっと泣き上戸な時雨を、私は優しく抱きしめた。
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崖の上では、アリィが声をあげて泣いていた。
彼女は、私たちが岩に激突して死んでしまったと思っていたらしい。
けれど、私たちの姿を見るなりさらに大きな声をあげ、喜びの涙を流して飛びついてきた。
「スプリタスは元々死んでおりますから、死と表現するのは不適切ですが…。
意識を失って強い衝撃を受けると、消滅したり記憶を失ってしまいます。
まぁ、生身の人間でいうところの「死」に相当致します。」
森の入り口へ戻る道すがら、時雨は淡々と説明した。
「うん、うん、二人が生きていてよかった!
この葡萄も、今まで食べた中で一番おいしくてありがたみがある!邪悪なる化身の巣窟より救われし黄金の果実よ!いざ、私の口の中へ、あーん!」
アリィは言いながら、小さな葡萄を味わうように口に入れた。
彼女によると、邪悪なる化身というのは時雨を襲った細い草色の正体で、強い電流を放つ毒蛇のような生き物らしい。
「で、ララは人間でもただの人間じゃなくて、ウィザードだったのね。
ウィザードには、いいウィザードと悪いウィザードがいるんでしょ。
ララは絶対にいいウィザードね。」
「ん?私はウィザードじゃないよ。」
以前にもこんな受け答えを聞いたようなデジャヴに陥りつつ、私は優しく否定した。
「うそっ!箒に乗ってたじゃない。」
「んーん、あれは例外。
私は、ウィザードから力を借りてるだけの偽物。
本物のウィザードは、もっとすごいのよ。
箒がなくても宙に浮くことができるウィザードもいるし、どんな状況にも動じない不屈のウィザードもいる。」
「そうなの?そんなすっごいウィザードに襲われたら、私たちの村は大変なことになっちゃうわね。
オルガよりも手ごわそうだわ。」
「心配はご無用ですよ。」
今度は、時雨が丁寧に言った。
「良いウィザードは良い村人を襲いません。
悪いウィザードは良いウィザードが必ずや一掃いたします。
それが、世の理でございます。」
「?…時雨の言っている意味はちょっとわからない。
とにかく大丈夫ってことよね?」
「ええ、そういうことでございます。」
「それならいいや、あはは!…あれ、見て!馬がいるわ。」
無邪気に笑うアリィの先に、栗毛色の美しいルイがたたずんでいる。
アリィはしばらく楽しそうにルイと戯れ、私たちはやがて谷を後にした。




