6-6.谷底
風を切り、空を駆け、馬は進む。
心とは裏腹に、流れる風は爽快。
私は今、オルガンド王国の上空を馬で走っている。
つまり、蒼穹の空に月はないけれど、一昨日の夢は正夢になった。
穏やかな一日の始まりが急転、なんでこの国の空を馬で疾走しているかというと、それは散歩中に起きた事件のせい。
悪い予感は、よく当たる。あの時の私の直感は、見事的中した。
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「さぁ、こちらへどうぞ。」
時は、朝食前の散歩の時間。
素敵なコレクションを見ないかと誘われた私たちは、ラグレールに先導されて城内の一角を歩いていた。
「広いお城ね。
どこをどう歩いているのか全然わからない。」
私は、不安を隠しつつラグレールに言った。
灰色の要塞のようなこのお城は、幾つもの塔がある。
大小の塔が連なっている箇所もあれば、廊下橋で繋がっているところもあり、見かけ以上に複雑。
私たちが宿泊している塔は、高価な調度品や絨毯のおかげで区別しやすくなっているけれど、この辺りは殺風景で簡単な装飾すらない。
そこに加えて等間隔に松明が掲げられているものだから、次の廊下に出たとたん、自分がどこにいるのかわからなくなる。
「そうですね。ゲストの方は大抵そう仰います。
かくいう私も、最初は覚えるのに苦労しました。
一度迷い込むと、抜け出るまでに何年もかかる塔もあるらしいですから。ふふ。」
ラグレールは、他人事のように微笑んだ。冗談なのか本当なのか、良く分からない。
彼の第一印象は、礼儀正しく丁寧な人だった。それは今でも変わっていないけれど、実は彼の穏やかな笑みは掴みどころがなく、相手を疑心の沼へと引きずり込むトラップのよう。
悪意が含まれているようにも見えるし、そうでないようにも見える。
「何年もかかるなら、抜け出す前に死んでしまうじゃない。」
私は彼の薄ら笑いを見なかったことにして、極めて真面目に切り返した。
「ええ、その通りです。
ですから、白骨化した死体が今でも残されたままになっているらしいのです。」
「白骨化っ?」
私は、無意識に自分の両の二の腕を掴んでいた。
この城に感じる冷たくてよそよそしい違和感の正体は、コレだったのかもしれない。
「しかし、理由があるのですよ。
この作りは、侵入者を混乱させるための工夫だったのです。」
「侵入者…、敵がいたの?」
「ええ、敵というよりは、侵入者。
昔の話ですが、オルガンド王国では争いが頻繁に起きていたのです。
ウルザン国王の御代にあっては、想像もできないことですがね。
…さぁ、到着しました。」
回廊を抜け、どこをどう歩いたのかわからないままやって来たのは、とある廊下。
ここには大輪の花模様が描かれた赤い絨毯が敷かれていて、全ての巨大な扉の横に、花や調度品が飾られたコンソールが配置されていた。
雰囲気から察するに、特別な廊下なんだということが感じられる。
「おや。」
時雨が動きを止めた。
「どうしたの?」
彼女の視線はコンソールに向けられていて、その先にパタパタと絨毯を叩く白い何かが見える。
時雨は無言のままスッと宙を移動し、その正体を確認するなり言った。
「いつぞやの、国王陛下…の」
「猫ちゃんね。」
パタパタの正体は、猫の尻尾だった。
柔らかい白の毛並みに、ガラス玉のようなアクアブルーの目。片側に黒の眼帯をつけた、ウルザン国王の愛猫。
「名前は確か…。」
「おや、ヴァンチーヒャ。
本日の居場所はここなのですね。」
私の背後から、ラグレールが遠巻きにコンソールの向こうを覗き込んだ。
そう、ヴァンチーヒャ。それが猫ちゃんの名前。
「ヴァンチーヒャ…?」
時雨が頭を傾げ、考えるようにポツリと言った。
「さぁ、お見せしたいコレクションはこの中です。
早速入りましょう。」
ラグレールが私を促す。
彼は手にしていた銀色のトレイをコンソールに置くと、両手で巨大な木製の扉を押し始めた。
「おや、重いですね…。
すみませんがクレアモントの御主人、扉を開けるのを手伝っていただけませんか。」
彼は、どう見ても無駄に巨大な木の扉をポンポンと叩きながら言った。
私一人が加わったところで効果があるとは思えないけれど、ラグレールはその点については疑っていないらしい。
「いいわよ、押せばいいの?」
「ええ、ご一緒に押していただけると助かります。」
私はラグレールの横に並ぶと、力一杯扉を押した。
「何これ!!鍵がかかってるんじゃない?」
見た目通りの重さに、驚愕。扉は鋼鉄のように重く、二人の力では数センチも動く気配がない。
「ええ、かかっておりませんとも。
鍵をかける必要もないほど重いのですから。
…しかし、今日は一段と重い。」
「今日は?何それ?日によって重さが変わるの?」
「うふふ。面白いですね。
もう少し力を入れていただけますか、クレアモントの御主人。」
「精一杯押してる。私をからかってるの?」
私はラグレールの微笑みにイラッとしながら、歯をくいしばって扉を押し続けた。
「だっ、旦那さまっ!」
突然、時雨がコンソールの影から飛び出して声を荒げた。
「私め、思い出しましたっ。」
「は?え?なにを?それより手伝ってくれない?この巨大な扉、馬鹿みたいに重くって!」
「はわわっ。
かしこまりました、旦那さま、ただいま…。
わわっ…。」
ギィィ…
まるで巨人の扉が、音を鳴らしてゆっくりと開き始めた。
「動いたっ?!」
「よろしい、もう一息です。」
ラグレールの一声の後、扉は自らの重みで自然に開くと、私たちが難なく通れるほどの間隔を残して動きを止めた。廊下の明かりが、扉の隙間から筋となって抜けていく。奥に、広い空間が続いている。
「さぁ、入りましょう、お楽しみまでもうすぐです。」
ラグレールの穏やかな微笑みが、私を振り返る。
「え、ちょっと…暗いんだけど…?」
いつものごとく、私は尻込みした。
扉にしがみつき、ラグレールを睨み返す。
暗くて様子もわからない室内に灯りもなく入るなんて!
声を大にして言わせてもらうけど、こんな肝試し、朝っぱらからやることじゃぁない。
「ああ、灯りが必要ですね。
すぐに灯しましょう。
少々、お待ちください。」
ラグレールは私の形相を察知したのか、スッと部屋の中に消えた。
そしてちょうどこの時、私は時雨が傍にいないことに気がついた。
巨大な扉は部屋の内側に向かって開いたから、私は廊下から入り込んだところに立っている。
ふと、不穏な静けさを感じた。
「時雨?」
「ひっ、ひゃあっ」
カシャン
パリン
私が時雨を呼ぶ声と同時に、金属音とガラスの割れるような音がした。
「時雨っ!」
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時雨は、床に座り込んでいた。
銀のトレイは彼女のそばに落ちていて、小瓶は割れて液体が飛び散っている。
「何があったの?時雨…?」
「いえ…、い…え…。」
時雨はかすれた声で何か言おうとして、首を左右に小さく振りながら私を見つめていた。
「おや、これは。」
私の後ろでラグレールの声がし、時雨がビクリと身体を震わせた。
「なんと、困りましたね。」とラグレールが言った。
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ぐすっ ぐすっ ひっく…うう ぐずずっ
爽やかな空に不釣り合いなすすり泣きが、私のみぞおち辺りから延々と聞こえている。
「もう泣き止んで。
あなたのせいじゃないんだから。」
私は、涙とそれ以外のもので顔中ぐしゃぐしゃにし、しゃくりあげている時雨に訴えた。
「泣いて…おりません、泣いて…おりませ…ひいっく…が、止まら…ないのでごじゃ…います。」
灰色の城を出てから、彼女はずっとこんな調子で袖を濡らしている。
あまりに泣きすぎて、そろそろ干からびるんじゃないかと心配になってくるほど。
「わた、わたく…しめは…うぅっ。」
泣いてるじゃん…。
「シロップの材料になる葉を採りに行くだけよ、たいしたことじゃないから。
それに、私はあなたを信じてる。」
「だ、旦那…さまぁっ。」
ずびびっ
シロップの小瓶を割ったのは誰か。
真犯人は謎のまま。というより、大人の事情がうやむやにさせた。
現場状況は時雨を指していたけれど、彼女は頑なに首を横に振り続けていた。
小瓶が勝手に落ちたとか幽霊の仕業だとかの怪奇現象は却下するとして、他に考えられるとすれば、そばで優雅に毛繕いをしていた猫。
「国王の猫を犯人にするわけにはいかない。
そういうことでしょ、時雨。」
「うぐぐ…。
はい、…いえ、ちが、違うのです、私めの…、この涙は…。」
「だから、もう良いって…。」
かの白猫に疑惑の目を向けないのは、暗黙の了解。
クレアモントの従者である時雨が王の愛猫を名指しすることはできない。
誰の仕業かを尋ねるのは、野暮なこと。
それに、ラグレールは犯人の追及そっちのけでシロップの心配ばかりしていたから、どう考えても最重要事項は新しいシロップの材料を手に入れることだった。
彼は人が変わったように狼狽し、大げさな身振りで我らが国王陛下のシロップは作り置きができない厄介なシロップなのだと何度も繰り返した。
「素晴らしいコレクションをお見せしたいという私のささやかな善意が大事なシロップを台無しにすることになるなど、一体誰に予測できたでしょうか。
予測できるくらいなら、誰しも善意や親切心などという気持ちをおこしたりするものですか。
そうでしょう?ああ、どうしましょう。」
なんて言われて、私も呑気に突っ立ってるわけにはいかなかった。
これじゃ、世の中のあまねく善良な行為は無意味だと言っているみたいじゃない?
気がつくと、私は自分からシロップの材料を取りに行くと申し出ていた。
従者の失態は主人の預かるところだし、ラグレールの面目も保たれる。後悔はしていない。
今目指している目的地は、黄金葡萄の葉が採れるという谷。
ラグレールが用意してくれた美しい栗毛色の彼「ルイ」が連れていってくれるから、私は落ちないように手綱を握っているだけでいい。
灰色の城を出発して、道なりに収穫が終わった茶色い畑を幾つも通りすぎた。
ここは、上空といっても地上からそんなに高くない。
歩いている人なら簡単に確認できそうな距離だけれど、私たちは誰に会うこともなく走り続けている。
静かなのは、灰色の城の中だけじゃなかった。
やがて、反り上がった小高い丘が見えた。
木で作られた、頑丈で背の高い塀のような柵が張り巡らされている。
ルイがその柵を易々と越えて行くと、その先は開けた谷になっていた。
「見て、時雨。
きっとこの下よ。」
ビュウッ
一瞬、谷底から吹き上げる風に身体を持っていかれそうになる。
「ルイ、どうっ!」
私は手綱を引き、馬を止めた。
これでは、空中から下に降りるのは難しい。
私が心配していると、ルイは心得たように崖に沿って続く坂道のすぐそばに降り立った。
「そうね、この道を下るのが安全だと思うわ。
たぶん…。」
「ですか…?危険度は、あまり違わないように思いますが…。ずびっ。」
尻すぼみになる私の言葉に続けて、時雨が不安そうに言った。
切り立った崖に沿った道幅は、馬が一頭、場所によってはニ頭がギリギリすれ違える程度。それが続いているように見える。
時々、下からの強い風が音を立てて吹き上げてくる。
「ここの他に道は無さそうだから仕方がない。
行こう。」
私たちは馬を進めた。
(ママ、あなたに感謝だわ。)
私は、もしかすると人生で初めて心の中で母に感謝した。馬に乗る技術は、能天気な母の趣味のおかげなのだ。
「ねぇ、時雨。」
私は下を見ないよう、気持ちを紛らすために時雨に話しかけた。
「はい、旦那さま?」
彼女が鼻をすすりながら答える。
「ここに来るまで、誰一人見なかったわね。」
「そう…でございますね。」
「この先に人がいるとは思えないけど、オルガンド王国の人々はどこに住んでいるんだろ。」
「そのことでございますが、旦那さま、」
「きゃっ!ルイ?」
突然、ルイがスピードを上げた。
彼は細い崖の道を飛び出すような勢いで駆け、私の指示に耳もかさずに谷底へ向かい始める。
「はわわっ、何事でございますかっ?」
「わからないっ、ルイが勝手に走りだしたの!」
「なんですと?」
「大丈夫!
馬は賢い生き物だってママがいつも言ってた。
それに、ルイに任せておけば彼が目的地に連れて行ってくれるって、ラグレールが言ってたわ。」
「そっ、そうですが、あの男の言うことを信用しても大丈夫でしょうか?」
「大丈夫!振り落とされないように捕まってるのよ!」
「わ、わかりましたっっ。」
私は出来る限り態勢を低くし、手綱をギュッと握りしめると、栗毛色の美しいルイに身を任せた。
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「ひっ、ひいぃっ。」
時雨が、私の胸元で悲鳴を上げていた。
ルイは、風のような速さで崖道を蛇行する。
揺れるリズムと蹄の音は、まじないのように集中力を与えてくれる。
私は、前方を確認しているだけでよかった。
「だ、旦那さま…大丈夫でございますかっ。」
彼女は目を回しながら、それでも気丈に私の心配をしてくれた。
「大丈夫、平気。」
「なんだか…、お声が愉しそうですね。」
「馬を走らせるのは嫌いじゃないの。
この子はほんとに賢いわ。
安心して乗っていられる。」
「それなら、ようございました…。
私めは、少々気分が悪くなり…うぷ…。」
「見て、谷底が見えてきた。
もう少し我慢して、時雨!」
「は、はい…。」
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ほどなく道の行きついた先は、草木のないだだっ広い場所で、それと同時に小さな森の入り口のようにも見えた。
ここも他と同じように静かだけれど、鬱蒼とした森というよりは、人が手を加えて整えられている感じ。
「次は動かないつもり?」
私は、ルイに話しかけた。
彼は広場についたとたん、今度はそこから一歩も前に進もうとしなくなった。
「あなた、本当によく躾けされているのね。
ここまで連れてきてくれてありがとう。」
私はルイの背から下りると、彼の首元を優しく撫でた。
「ここからは歩いていこう、時雨。」
「かしこまりました。」
私たちはルイを残して、森へと進んだ。
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「黄金葡萄は、岩場に生息する植物らしいよ。」
私は、それとなく辺りを見ながら言った。
「岩場、でございますか。
そのような場所は全く見当たりませんが。
このまま森を抜けたほうがよろしいでしょうか。」
私たちは、人の往来が自然に作り上げたような、それっぽい道を歩いていた。
周囲は木ばかりで、わずかな岩肌すら見つけられない。
時雨の言う通り、道をたどって森の反対側まで行ったほうが良さそうだ。
「そうね、少し空から様子を見てくれない?」
「かしこまりました。」
時雨はそう言うと、スッと上空に飛んで行った。
森は地面に陽の光が届くようになっているから、下からも十分時雨の姿を追うことができる。
私は上を見上げ、時雨を確認しながら進んだ。
そのせいで、地面の方はあまり注意していなかった。
「フギャ!!」
足の裏に柔らかい感触のものを踏んだと同時に、短い獣の声が響いた。




