6-5.責務
「死んだ魚の目だな。」
なぜか、ハルの声が降ってきた。
私はソファに身を投げ出し、天井を見上げている。
国王との宴も終わり、さっき城内の自室に戻ってきた。
両の目で天井を見ているというよりは、天井が視界に映っている。
無意識に映しているのだから、これは死んだ魚の目と同じかもしれない…。
『館から離れて生きていくことは許されない。』
私の中に、ウルザン国王の言葉が轟く銅鑼のように残酷な余韻を残している。
もはや振動に麻痺して、他人事みたいな感覚にすっかり意識が吹っ飛んだ。
私の脳はソレについて疑問詞をつけて考えることをやめてしまい、悲しいとか寂しいとかいう感情がまったくわかない。
私だけ、帰れない。
リアフェスに足を踏み入れたあの時、既に運命は決まっていたのかもしれない。
頑張れば元の世界に帰れると期待していたけれど、どうにか戻ろうと足掻いているけれど、問題が浮上しては振り出しに戻っている気がする。
「なぜ」という疑問を投げかけるのは、意味がない。
答えをくれる人なんていないんだから。
これから、どうやってリアフェスで生きて行こう…?
キャスの石化を解いた後、彼女になんて説明しよう?
彼女はどんな反応をするかな。私を残して、元の世界に戻っていくかな。それとも…。
「ウルザン国王の言葉を鵜吞みにしているのか?」
再び、ハルの声が聞こえた。
「え?」
驚いて上半身を動かす。
さっき部屋の前で別れたはずのハルが、向かいのソファでくつろいでいた。
服装は、ウィザードの正装から普段着に戻っている。
「なんでっここにいるのっ?」
(っていうか、今なんて言った?)
「はわわ、私めがお願いして来ていただいたのでございます。」
時雨が、潤んだ瞳で私の視界に飛び込んでくる。
「お部屋に戻られてからというもの、旦那さまのご様子がおかしいので…。
何を申し上げても、まるで死人のように黙ってぼんやりなさるばかりで…ううっ。」
「わっ、泣かないで、時雨。
ごめんね、心配かけて。」
しおらしく涙を抑える時雨に、私は慌てて身体を起こした。
「ちょっと疲れてたの。
もう泣かないで?
で、ハル。
あなた今、国王がどうのって言わなかった?」
私は伸ばしていた足をソファから下ろし、ハルに向き直った。
「ウルザン国王の言葉を鵜吞みにしているのか、と言ったんだ。
死んだ目をしていた理由はソレだろ。」
ご明察。まぁ、あれだけ国王の前で動揺した姿をさらしていたんだもの、気がついて当然かとも思うけれど。
「彼が私に嘘をついている、と言いたいの?」
しかし私はハルの真意がつかみ取れず、聞き返した。
「嘘をついているとは言っていない。
相手が誰であれ、十分に検討も確認もしないで鵜呑みにするのは賢明じゃない。」
「賢明?そんなこと言ったって、確認のしようがないでしょ。
クレアモント卿は亡くなってるんだから。
屋敷の警護まで預かってる彼の友人の言葉を信じない理由がどこにある?」
「オレからすれば、信じるに足る根拠とは言えない。
それよりもまず聞くが、ウルザン国王は何と言った?」
ハルは胸の前で組んでいた腕を崩し、左腕を私の方に向けて動かしながら言った。
「あの屋敷から離れて生きていくことはできないって。
そう言ったわ。
これのどこを検討しろと?」
「ほらな。」
「ほらな?どういう意味よ。」
「都合のいいところだけ切り取るなよ。
あの館の主人である限り、離れて生きていくことは許されない、だ。」
ハルの念を押すような口調に、私はハッとなった。
何か腑に落ちたような、目からうろこが落ちたような、感情をせき止めていた引っかかりがポロリと落ちたような気持ちだった。
「そんな大切な部分、すっかり抜け落ちてた。」
大きな脱力感と共に、背もたれに身体を預ける。
国王の文言は、正しくは条件付きだった。次の主を見つけさえすれば、私は自由になる。あの屋敷から一生離れられないわけではない、ということだ。
「ねぇ、ハル。」
「なんだ。」
「つまりあの屋敷の主人でなくなれば、私は元の世界へ戻れる可能性があるってこと…よね?」
「そうなるな。」
「それじゃ、ハルがあの屋敷の主人になってくれるってことでいいの?」
「どうしてそこまで飛躍する?なるわけないだろ。」
「えっ?なんで?今の会話の流れは、そういうことじゃないの?屋敷はイーリーベルと繋がっているんだし、私は心置きなく晴れて元の世界に戻れるし!ハルが私の代わりにあの屋敷の主人になれば、全部ま~るく収まるじゃない?」
「だが断る。
会話の流れを勝手に解釈しないでくれ。
オレはそんな提案をしにここへ来たんじゃない。
不必要に放心状態に陥っているお前に、喝を入れに来ただけだ。
理解したのなら、その先は自分でどうにかしろ。」
冷たい氷のような視線が私に向けられていた。
前にもハルが見せた、この世の全てを拒むようなあの瞳。
「…ごめん。」
私はうつむき、口をつぐんだ。
安易だと言われてもしょうがないけれど、私は本気でとてもいい案だと思っていた。
こんなに真剣に怒られるなんて、やっぱりハルがよくわからない。
「シルフの風を受け取ったのはお前だ。
誰に強制されたわけでもない。
その覚悟と責務を果たせ。」
彼が放つ言葉の一つ一つに、重みがあった。
それらが重なり積み上がって、私の上に鈍い音を立てて落ちてくる。
わかったのは、あの日軽い気持ちで受け取った世にも美しいブローチには、私の想像を超える責務が添えられていた、ということ。
クレアモント卿が死後も守り続けた重みの意味を今やっと、ハルの言葉を通して実感する。
(それならなんで、あの時止めてくれなかったの…。)
私はハルにそう言えないまま、心の中に不満を漏らした。
「正気に戻ったのなら、もう用はないな。」
ハルは立ち上がると、私の返事も待たず去ろうとした。
相変わらず正論ばかりで、自分にも他人にも厳しくて、優しさのかけらもない。
私は、何も言えなくなっていた。
「道が閉ざされたわけじゃないんだ、簡単に投げ出したりするな。」
ハルが立ち止まり、背を向けたまま言った。
「私は…、ハルみたいに強くないから…。」
「どう生きるかは、お前の自由だ。
自分の世界に戻れないことを受け入れられるというなら、それで構わない。
だがオレは抗う。
運命とやらに振り回されて生きていくのは、ごめんだからな。」
静かにそう言い残したハルの声は、怒りが込められていたような気がした。
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運命は星が決めるものじゃない。
そう言ったのは、誰だったっけ。
舞台の台詞ならともかく、運命を意識するほどの壮絶な人生なんて私には無縁だと思っていた。
『どう生きるかは、お前の自由だ』と言われても、ただ帰りたいと願う以外に特別な望みは何もない。
私は、友だちや家族、大切な人たちにまた会いたいだけ。ただそれだけ。
それなのに、ここに来て自分の生き方に向き合うことになるなんて思ってもみなかった。
リアフェスには、来たくて来たわけじゃない。
迷い込んだのは、あの日、あの丘の塚に行ったから。
塚の前で誓った約束事は叶うと、教えられたから。
宿命の守護者ステラに願いを唱えたから。
こんなことになっているのは…その代償?
「わ…。」
自分で導き出した答えにゾッとして、全身に鳥肌が立った。
そうだ、古今東西、願い事には代償がつきものだって相場が決まってる。
つまり、これは運命じゃなく代償。
いや、待ってよ。私たちの「遠く離れてもずっと友だちでいる」という誓いは、全く成就されていない。それなのになんで、キャスは石にされてしまったの?なんで私は、リアフェスにいるの?
「あー、もう!わけがわかんない!!」
私は、叫びながら頭を抱えた。
今の状況に納得のいく理由をつけようとしても、頭が混乱するばかり。
「旦那さま。」
ふと、緑茶の薫りがした。
顔を上げると、湯吞みを盆にのせた時雨が寄り添うようにそこにいる。
立ち上る湯気に揺れる、香ばしい香り。
カオスに足を突っ込んで溶けそうになっていた私は、時雨の呼び声で正気に引き戻された。
「どうぞ。」
「ありがと…。」
差し出された湯吞みを手に取り、それを両手に包み込むようにして膝に置く。
音もなく現れては、立ち消える湯気。
まるで、凝縮された無常の小宇宙。
見ているだけで、心が落ち着く。
「あの、旦那さま。」
おもむろに、時雨が口を開いた。
「うん、なに?」
私は顔を上げた。
「私めは、旦那さまがクレアモントの主人であることを心より嬉しく思っております。」
「そう?ありがと。」
「はい。
あ、これはハルさまが嫌というわけではございませんよ…ハルさまはとてもお優しくて、良い方でございますから。」
「そうね、悪い人じゃない。」
私は、そっけなく答えた。
ハルに不満があるわけじゃない。彼は十分にいい人だけれど、私の望む優しさをくれない。
時雨が言う優しさは、一体どんな優しさなんだろう。
「時雨は、旦那さまがご自分の世界にお帰りになりたいと望まれていること、承知しております。」
「え?」
「寂しいですけれど…いつかお別れの日まで、心を込めてお仕えしようと決めております。
あの、ですから旦那さま、あまりお一人で悩まないでくださいませ。
たいしたお力添えは出来ませんけれども…私めは、いつもお傍におります。
お疲れになった時は、こうやってお茶をお飲みになって心を落ち着かせれば、きっと、良い解決策が浮かんでまいります。」
「時雨…。」
いつになく饒舌な時雨。優しく声をかけてくれる彼女を、私はじっと見つめていた。
「はわわっ。
ぺらぺらとおしゃべりしてしまいました。」
時雨は私の視線に気付くなり、自分でも驚いた様子で頬を紅色に染め、急に恥ずかしそうに手にしていたお盆をいじくった。
彼女は、私がいつかリアフェスを去る日が来ると思っている。
私自身、そんなことが叶うかどうか自信を失くしているというのに。
いつ訪れるかもしれないその日は、紛れもなく彼女と別れる日。
時雨の言葉に、私はそれが一年後だろうと二年後だろうと、どんな結末にも誰かとの寂しい別れがつきまとうのだということを知った。
「ありがとう、時雨。
あなたの言葉に、もう少し頑張れる気がしてきた。
そうだよね、私は一人じゃない。
時雨が傍にいてくれて良かった。」
「はわわっ…それはようございました。」
「うん、これからもよろしくね。」
「はい、旦那さま。」
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就寝の支度を整え、私はベッドにもぐりこんだ。
昨日と同じ柔らかな感触と良い香りが、頭から足の先まで全身を包み込み、心地よい眠りへと誘う。
今の私は、部屋に戻った時とは比べものにならないほど穏やかな気持ちで眠りに就こうとしている。
時雨の説明によると、明日の昼は国王と剣技や舞踊を鑑賞。そして夕方、この灰色の城を出立してクレアモントホールに戻ることになっている。
収穫と言えるモノは、今のところ何もない。
妖精の領域に行く方法について話題に出す余裕もなかったし、クレアモントホールの衛兵が人間じゃないという確認もできていない。
いやいや、そもそも人間じゃないなんてことある?
ウルザン国王も羽根飾りの仮面をつけたラグレールも、人間にしか見えない。
クレアモントホールの衛兵たちのことを人間じゃないと言い切っているのは、ハルだけ。
衛兵より大柄なここの兵士たちが人間じゃないという証拠はない。
(何もかもが宙ぶらりん…。)
私は、瞼が少しづつ重くなるのを感じた。
今夜はもう、悩むのも考えるのもよそう。先のことも、いったん保留。
運命や代償についての考察も、本日は終了…。
私はまどろみながら、夢と現の揺らぎの中にいた。
(オレは抗う、か。ハルは、何に抗っているんだろう。)
眠りに落ちる直前、不思議とハルのことが頭に浮かんでいた。
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翌朝、朝食には少し早い時間。
私は、時雨と灰色の城内を歩いていた。
部屋でのんびり過ごすのも悪くないけれど、昨日の晩餐が美味しすぎたせいで体が重い。
朝食の時間まで少し体を動かしてはどうかと、時雨が城内の散歩を提案してくれた。
彼女との時間をこれまで以上に大切にしたいと思うようになっていた私は、勿論二つ返事で答えた。
私たちは部屋を出て、まず外廊に向かった。
廊下は早朝の澄んだ陽が差し込んでいて、明るい。
ここから見えるのは、城内にあるいくつもの灰色の塔。
お世辞にもいい景色とはいえないものの、空は昨日に引き続き抜けるような青の晴天。
大気は適度に湿り気を帯びていて、気温が低いわりに温かい。冬というよりは、秋のような気候。
「静かよね。」
階段を下った誰もいない静かな回廊で、心なしか、私は小声で時雨に呟いていた。
石造りの床を蹴る私の足音さえ、周囲に飲み込まれていくみたいだ。
「そうでございますね。」
時雨も、呼応するように小声で応える。
「おや。」
背後から声がした。
「わっ。」
驚いて後ろを振り返る。
急に声をかけられて、私は心の中で十センチくらい地上から飛び上がっていた。
「これはこれは、クレアモントの御主人。
おはようございます。」
声の主は、ラグレールだった。
彼は、片手に持った銀色のトレイに縦長の細い小瓶を載せ、姿勢良く立っていた。
どんな時も外さない羽根飾りの仮面は、彼のトレードマークらしい。
「おはよう、ラグレール。」
「ごきげんよう、淑女どの。
はて、朝食の時間には少し早い気がしますが…。
お二人でどちらへ?」
彼はほんのり微笑むと、丁寧な口調で言った。
「どちらへって言うわけではないの。
ちょっと散歩しているだけで。」
「そうですか。
今朝は気持ちの良い天気ですからね。」
「うん、とてもいい天気ね…。」
言いながら、私は銀色のトレイに載せられた美しい小瓶に目を奪われていた。
「おや、この小瓶が気になりますか?」
「あ、ううん、気になるというか…とても綺麗な容器だなと思って。」
「ふふ、美しいでしょう?」
ラグレールは、さもそうでしょうと言わんばかりに満足げに微笑んだ。
「我らが国王陛下はああ見えて繊細なところがありましてね、とある植物のシロップを召し上がるのが日課なのですよ。
この小瓶は遮光性が高く液体の劣化を遅らせる特殊な素材でできているため、重宝しているんです。
なんせ、鮮度が命のシロップですからね。
私は毎日その葉を取りに谷へ行き、シロップを作っているんです。」
「毎日っ?」
「ええ、毎日です。
作り置きができないものですから。」
「それは、大変ね。」
「ええ、大変なんです。」
ラグレールがグイと顔を近づけ、一瞬、仮面の向こうの目が妖しく光ったように見えた。
押し売りみたいな口調に圧倒され、私は無意識に一歩、後ずさり。
目の前の微笑みが笑っているように見えず、なんだか嫌な予感がした。
ヘタレの血が騒ぐというべきか、私の直感が早くこの場から離れろと命じている。
「そ、そう…。
では、ごきげんよう。
ラグレール。」
「はい、ごきげんよう。
また後ほど、クレアモントの御主人。」
相変わらずの穏やかさで、彼は薄く微笑んでいた。
(ほっ。私の思い違いかな。)
「おや、そういえば。」
歩き去ろうとする私の背後で、再び同じ声が響いた。
「はい?」
「美しい小瓶と言えば、素晴らしいコレクションがあるのですよ、クレアモントの御主人。
きっとお気に召すと思うのですが、ぜひ鑑賞して行かれませんか。」
「鑑賞?今?」
「はい、勿論今ですよ。
善は急げと言うではありませんか。
お散歩がてらちょうど良いと思うのです。
ねぇ、時雨殿?あなた様も是非ご一緒に。」
「私も、でございますか?」
「ええ、もちろん。」
ラグレールの快い返事に、時雨が従者らしくあらたまった。
行儀よく両腕を前にして手を重ね、指示を待つ忠犬のように私を見る。
「私めは、旦那さまさえよろしければ何処まででもお供致します。
如何なさいますか。」
「あ、うん…、そうね。」
この時、私は不覚にも肯定的な相づちをうった。
勿論、断る理由はどこにもなかったのだけれど。




