6-3.王国
夢を見ていた。
馬に乗って、夜空を駆ける夢。
筋雲が風に流れ、空高く飛んでいるはずなのに、なぜか怖くない。
心地よいトロットのリズムと軽やかな蹄の音が、無垢な鈴音のようにあたりにこだまする。
細くて青白い月がつり針のように薄い弧を描いていて、地上よりもずっと近くに見えた。
優しく誘うような、祈るような調子の声が、耳に届いたり消えたりする。
見渡して空を探っていると、遠くに飛び交う三本の白っぽい線が見えた。
(妖…精?)
つり針のように細い上弦の月にたなびく白い線。
それらは、薄い衣を身に纏った人型の生き物だった。
異国の言葉で紡がれる、不思議な唄。
彼ら声を聞いていると、とても大切なものを逃しているような焦燥感に煽られる。
(行かなきゃ…。)
私は、馬を走らせた。
なぜだかわからないけれど、彼らのもとに行かなきゃいけない気がした。
栗毛色の馬が速度を上げる。
たてがみが大きく揺れ、群青色の空を滑るようにギャロップした。
馬には子どもの頃からよく乗っていたから、スピードを出すのは怖くない。
馬を走らせ、突き進む。だけど、私たちの距離は縮まらない。
むしろ、声はそのままに遠ざかっていくように感じた。
(待って、いかないで。)
声にならない声で、叫んだ。
(なんて言ってるの?教えてよ。)
大切な言葉を、聞き逃している気がする。
はやる気持ちとは裏腹に、次第に視界が白くぼやけはじめる。
『サア、ユキナサイ…』
(なに?…どこへ?)
届くはずもない彼らに手を伸ばそうとした瞬間、私は突然何かに背中をグイと引かれると同時に、身体が沈んでいくような感覚に襲われた。
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「…なさま…、旦那さま…。」
今度は、聞き覚えのある声。
少し泣きそうな、けなげな声。これも夢?
私を年よりくさい言い方で呼ぶのは、彼女しかいないのだけれど。
(冷た…。)
冷たくて小さな手が私に触れる。
「しぐれ…。」
「はい、旦那さま。」
私は目を開けた。
私を覗き込む、時雨の小さな顔が見える。
その様子は初めて会ったときとは違い、私が彼女を人として認識するにつれて、ますます人間らしい顔つきになっていた。
今はピクシーの少し大きめバージョン、大和撫子風。
「ああ、お目覚めになって良かったです。」
時雨は、安心したように深く息を吐いた。
「私、寝ちゃってたの?」
「少し、うなされていらっしゃいました。」
「うなされて…。
ちょっと変な夢見てたかも。
起こしてくれてありがとうね。」
私は身体を起こした。
ここはまだ、移動中の馬車の中。ハルは、まだ寝ているみたいだ。
馬車を引く馬の音がする。
もしかすると、あの音のせいで馬にまたがって空を飛ぶなんていう夢を見たのかもしれない。
まったく、我ながら単純。
「あれ?カーテンが開いてる。
大丈夫なの?」
私は、曇りひとつないガラス窓を見た。室内はさっきまでの閉鎖的な雰囲気とは違って、かなり開放的な空間になっている。
「はい、森を抜けたので許可をいただきました。
もうすぐ到着だそうです。」
「ふうん…。」
私は、自然と顔を窓に近づけた。
ガラスの向こうに、額縁に収まった絵のような月と群青色の空が見える。
(えっ?んっ?)
驚きのあまり、息が止まった。
何度確認しても、夜空に浮かんでいたのは、今しがた夢に見たのとそっくりなつり針型の細い月なのだ。
クレアモントホールの夜空に浮かんでいた三日月とは、どう繕っても違う。
(ええっ?えええっ?)
続いて、目が飛び出そうなほど心の中で絶叫した。
窓の風景の奇妙な違和感が、まだ夢の中なのではという不信感を抱かせる。
「ねえ、時雨?」
「はい、旦那さま?」
「これは、夢かな。」
「はい?」
「夢なら夢と言って。
この馬車、もしかして空を飛んでる?」
「はわわ…。」
時雨はそう言うと、私のそばにやって来て窓の外を覗いた。
「ええと…、そうですね、まだ飛んでおります。」
言いながら時雨は、私を見た。
返事のしかたはどこか自信なさげで、私の反応をうかがっている。
「そうよね…。
空を飛んでる。
びっくりしないの?」
「ビックリ…。
はっはわわっ!空を飛んでおります、旦那さま!」
時雨は両手を口元にあて、棒読みの台詞を読むような驚き方をした。
「いや、その言い方は説得力ないから。
そこまで気を使わなくてもいいよ、時雨。」
私は窓枠から手を離すと、背もたれに寄りかかった。
時雨の反応から察するに、空飛ぶ馬車もまた、リアフェスでは当たり前のこと。
「はわわ…。
申し訳ありません。
空を飛ぶ馬車は、お嫌いでしたか?」
「ううん、嫌いじゃないよ。
ちょっとびっくりしただけ。
私の世界では、馬車は空を飛ばないから。
飛べるとしたら、空想物語の中だけよ。」
「なんと!そうでございましたか!」
時雨の声には、今度は純粋に驚きがこもっていた。
「ということは、ここは本当に外界だな。」
ハルの声がした。
「ああ、ハルさま。
お目覚めですか。」
「おはよう、ハル。
それ、どういう意味?」
「前に話しただろ。
リアフェスで空を自由に飛ぶことが許されているのは、ウィザードと翼を持つ生き物だけだ。
それ以外は上王の許可が必要になる。
この馬車が上王の許可を取っているとは、考えられない。
それにほら…、月が違う。」
ハルが窓の外をチラリと見た。
私の世界とリアフェスの月が違っていたように、ここも月が違う。
空に浮かぶ月が、きっと異世界の証明になっているんだ。私は、そう理解した。
「馬車は随分と下降しておりますよ、旦那さま。
ほら、あちらにウルザン国王のお城が見えてまいりました。」
時雨が指す方向に、城を照らすオレンジ色の灯りが見えた。
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私たちを乗せた馬車は、高級列車が駅に到着するみたいに、滑らかに地上に降り立った。
ゆっくりとドアが開き、馬車から続く赤い絨毯を踏みしめる。
私は、目の前にそそり立つ王の居城を見上げた。
馬車の窓から見えたオレンジ色の灯りは、どれもかがり火。ここには、電気がない。
灰色の城壁は、優雅というよりは重厚で堅固な要塞。そこにあるだけで押し潰されそうな威圧感がある。
漂う空気は重々しくて暗く、地下にある拷問部屋(あるかどうか知らないけれど)から、断末魔の悲鳴が聞こえてきそうだった。
「ようこそいらっしゃいました。
クレアモントホールの御主人と御付きの方々。」
出迎えてくれたのは、屋敷に迎えに来てくれたあの派手な羽根付きの仮面男。
「お部屋へご案内いたします。」
恭しく慇懃な態度が、この空気では逆に不気味に映る。
私は少しの緊張と、想像もしていなかったお城の様子に圧倒されて足がすくんだ。
かがり火の届かない暗がりの中から、何かが私を見ている。
見えない目にじっと観察されているような恐怖が、呪縛のように私をとらえて離れない。
「どうした、行くぞ。」
ハルが、先頭に立つ私に後ろから声をかけた。
私は我に返り、助けを求めるようにハルを振り返った。いつもの場所に、私を見下ろすヴァイオレットの瞳を見つける。
「そんなに不安そうな顔をするな。
なにも問題ない。」
冷静な眼差しと落ち着いた声に、なんとか自分を取り戻せた気がした。
「うん…、そうだね。」
私は首もとの青いガラス玉を握りしめると、勇気を奮い起こした。
『大丈夫よ、ララ!』
脳裏に浮かんだ大好きなキャスの笑顔が、私を励ましてくれる。
(ここは、怖いところじゃない。私は、クレアモント卿の友達に会いに来たんだ。)
私は心の中でそう呟くと、足を一歩前に踏み出した。
巨大な木製の扉が、鈍い音を立ててゆっくりと開く。
両脇には、クレアモントホールの衛兵にそっくりな銀色の鎧の兵士が、大きな槍を持って立っていた。
ただ一つ違うのは、兜のてっぺんにあるふさふさの羽根が、赤色ではなく緑色だということ。
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扉をぬけると、そこは巨人の棲みかのように大きな四角い広間だった。天井は、屋根の高いイーリーベルがすっぽり収まりそうなほどずっと上にある。
かがり火に照らされた大小の銅像が何体も置かれていて、両脇の壁には大きなタペストリーが掛けられていた。
私たちは、さらに奥の扉をぬけて廊下を歩いた。そして、また別の大広間にやって来た。
そこには立派な階段があって、彫刻が施された階段の柱の上に、一匹の白い猫がちょこんと行儀よく座っていた。
毛並みは長く艶があり、尻尾は大きくて胴体と同じくらいの長さ。両耳の先っぽは淡いグレー、瞳は美しいアクアブルー。そして、左の目に黒い眼帯が取り付けてあった。
「時雨、見て。
猫がいる。」
私が小声でそう言うと、前を歩いていた仮面の男が答えた。
「あの猫は、我らが国王陛下…の白猫でございます。
ああやって、気ままに城内を散歩するのですよ。
猫はお嫌いですか?クレアモントの御主人。」
「いいえ。
お行儀が良くてきれいな猫ちゃんですね。」
「それは良かった。
我らが国王陛下も、お喜びになることでしょう。
猫がお嫌いでは、話しになりませんからね。」
仮面の男は、くすりと含み笑いをして言った。
私は、ウルザン国王は相当な愛猫家なんだろうと思った。
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やがて、私たちの部屋に着いた。
時雨と私は同室。ハルは、ドアで繋がれた隣の続き部屋。
室内は広々としていて、城の外観のような質実剛健な雰囲気はなく、美しい模様が織り込まれた絨毯と、白を基調とした家具が置かれていて華やかだった。
「それでは皆様、今宵はこちらでごゆっくりお過ごしください。
明日の朝食の時間に、お迎えにまいります。」
仮面の男が言った。
ハルはさっそく、飾られた調度品を興味深そうに観察している。
「あの、朝食には国王陛下も?」
「いいえ、クレアモントの御主人。
皆様が陛下とご対面なさるのは、明日の晩餐会です。
日中は、私が城内を一通りご案内することになると思います。」
「わかりました、ありがとう。」
「はい、それではまた明日。」
仮面の男は一礼すると、部屋を去った。
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「あー、疲れた!」
部屋のドアが閉じられ、ハルが隣の部屋に消えるなり、私は発散するように声を出して天蓋付きのベッドにダイブした。
馬車に乗って移動しただけなにの、とてつもなく疲れている。
白くて清潔でふわふわで、それも飛び切りいい香りのするベッドに埋もれ、このまま眠ってしまいそうだった。
私は仰向けになり、両腕を大きく広げた。じっくりと、部屋の様子を感じ取ってみる。
馬車を下りた時に感じた、監視されているような嫌な気配はどこにもない。
雰囲気にのまれて悪いほうにばかり考えてしまうのは、私の悪い癖だ。
(ほんとに、私ってば小心者よね…。)
「旦那さま、お召し物はこちらにご用意しております。」
時雨がフワフワと浮遊しながら、着替えを持ってきてくれた。
「ありがと。
ねぇ時雨、お茶を入れてくれない?」
「かしこまりました。」
時雨はそう言うと、嬉しそうにいそいそとお茶の準備を始めた。
「なんだか嬉しそうね。」
私は着替えながら言った。
「もちろん、嬉しゅうございますよ、旦那さま。
こうしてお仕えできることが、私めの最上の喜びでございますから。」
「本当に?」
「ええ、本当でございます。
…はて、旦那さま?しかしそれはどういう意味でございますか。」
時雨はお茶を入れていた手を止め、不思議そうに私を見た。
「え?あ、ううん、特に意味はなくて。
時雨は、もしかすると他にやりたいことがあるんじゃないのかなって思っただけ。」
反射的に聞き返してしまった些細な一言に、私は自分でも驚いていた。
他人に仕えることが最上の喜び、だなんて私には理解しがたい。今のは本当に、時雨の本心?
そんな素朴な心の声を無意識に言葉にしてしまっていた。
「そうでございましたか。
旦那さまは、お優しい方でございますね。
私めは、幸せでございます。」
時雨は小さな手をほんのりと胸に当ててそう言うと、盆に湯飲みを乗せた。
「そっか…。
時雨が幸せなら、それでいっかな。」
私は、時雨に笑顔を向けた。
理解しがたくても、彼女のいう「最上の喜び」を否定することはできない。
「んーん、安定のおいしさ。」
私は湯飲みを手に、ほっこりした気分で呟いた。
入れたての香ばしい緑茶を口にすると、どんな時でもどんな場所に居ても心が休まる。これはきっと、子どもの頃の記憶がしみ込んだ、刷り込み効果だと思う。
異世界の更に外界のお城の中で緑茶を飲んでいる人間なんて、世界広しといっても私くらいよね。
ふぅ…。
私は湯飲みを盆に戻すと、ベッドにもぐりこんだ。
「明かりをお消しします、旦那さま。
ごゆっくりお休みください。」
「うん、時雨は?」
「私めに睡眠は必要ありませんので。」
「そうだった。
スプリタスは眠らなくていいんだったね。
おやすみ、時雨。」
「おやすみなさいませ、旦那さま。」
部屋の明かりが消され、王国での最初の夜はこうして静かに更けていった。




