1-2.弟子
過ぎた禍を嘆いていると、新たな不運を招く。
そう言ったのは、誰だったっけ。
それはまさに、彼女がしないこと。彼女なら、地球みたいにきれいな青い目をキラキラさせて、二人でやればできるわよ!って絶対に言う。いつだって前向きで、弱音を吐くところを見たことがない。私にとって、彼女の言葉は過去も未来をも変えてしまう力があった。
「キャスの石化を解いて元の世界に帰る。」そう言い切ったものの、人の性はそう簡単には変わらない。元来がネガティブ思考。追い詰められなきゃ動けない。暗い場所は苦手だし、つくづく自分を小心者だと思う。
無理やり気持ちを切り替えたものの、本当はそんなに物分かりのいいやり方でもなくて。他の不安要素を考えないようにすること。それで限界。自分の限界を感じつつも、それでも私はもう一度、彼女に会いたい。願うことは、ただ一つ。
「どうすればキャスの石化が解ける?」
強い決意を添えて、私は今のところこの世界唯一の知り合いである、自称偉大な魔法使いに教えを乞うた。
「オルランド。私はオルランドだ。」
「私はララよ。翠川ララ。」
「ララ、さっきも話した通り今宵はサウィーン。
実のところ、長々と立ち話は出来ないのだよ。」
白髪頭のオルランドは言いながら、マジシャンのようにどこからともなくレースの縁取りがある白いベールを取り出し、私の頭にかけた。
その上から、両の掌で私の頭を包むように軽く押える。服装のせいかもしれないけれど、私の頭がその胸にすっぽりと埋まってしまうほど、意外にもオルランドは大柄だった。
「この世界の言語を与えた。
これで、ここの住人と意思疎通ができる。」
頭に電流が走ったわけでも、急に言葉が流れ込んできたわけでもない。特別な変化を何も感じなかったけれど、彼が私の頭から両手を放したとたん、周囲からボソボソと呟く声が聞こえ始めた。
何を言っているのか判別できないほど小さく、砂利を口に含んだような不快感。
ザワザワと胸騒ぎがするほど居心地が悪く、それは初めて耳にする感覚だった。
私が露骨に不快な顔をしていたので、オルランドはニヤリと笑った。
「ようこそ、我らの世界へ。」
「この声は何?」
「それは魔性たちの声だ。
先程も、ワイルドハントが駆け抜けたばかりでね。
お前の友人を石に変えたのは、一行の中にいたゴルゴ―だろう。」
「ごめん、さっぱりわからないんだけど。」
聞いたこともない固有名詞が並び、私は混乱した。
わかるのはそれらが何か善くないものであり、親友を石に変えた仇敵はゴルゴ―という名だってこと。
「それも仕方がない。ふむ。」
オルランドは、おもむろに自分の長い髭を一本抜きとった。
「ほれ。」
「はぁっ?要らないわよ!
髭なんか私に持たせてどうするつもり?」
もうすぐ18になる多感な女子に自分の、よれよれの白くて長い髭を持たせるなんて神経を疑う。
「歳を取るとデリカシーもモウロクするのね。」
私は断固拒否した。
「早速野垂れ死にしたくなければ、持って行け。
私はもう行く。」
「行くってどこへ?
この世界に来たばかりの新参者をこんな行き止まりに置き去りにするなんて、魔法使いとして間違ってない?
力を貸すって言ったの誰よ?」
「こう見えて忙しい身なのだよ。
ほれ、落としてしまうぞ。」
オルランドはふわりと宙に浮き始めた。
(うっ、浮いた?!)
「ちょっと待って!」
宙に浮いたオルランドの姿に動揺しつつも、私は慌てて彼の指先にぶら下がっている今にも飛ばされそうな髭に手を伸ばした。
これがないと野垂れ死にするなんてどうせ脅しだろうけど、本当だったらそれはそれで困る。
だって今つかみ損ねたら、蜘蛛の糸みたいな爺さんの髭を、暗闇の中で這いつくばって探さなきゃならなくなる。そんなこと、絶対にしたくない。
「まだ何も聞いてない!」
髭を指に引っ掛け最悪は回避したものの、私はなおも抵抗した。本当に、お願いだから置いていかないで。
「今必要なことは話した。
ララ、この道を二又に出たら左の道を進め。
その先に私の弟子が住んでいる。
やつにそれを渡すのだ。
それから道中、決してベールを取るでないよ。
命の保証はない。」
自称偉大な魔法使いは軽くウィンクすると(それも、楽しそうに)キラキラと輝く粉の筋になって消えた。
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知らない土地に、私は独り残された。シィンと空気が鳴り、途端に辺りがさっきよりも静かに、そして暗くなった気がした。
なんて薄情な自称偉大な魔法使い。消える間際、あいつは確かにニヤリと笑った。
ポカンと空を見上げていた私の耳を、あの耳障りな声が撫でた。
「ひぃっ。」
小さな悲鳴がもれて、全身に悪寒がはしった。体中を舐め回すような雑音が、心底気持ち悪い。
声は、薄いベール一枚を隔てた向こうから聞こえる。視線を感じる。ナニかが、こちらを見ている。魔性たちが地面を徘徊しながらザワザワと近づいてくる。
コワイ。
ただでさえ暗い所が苦手なのに、このままでいると本当に動けなくなる気がして、私は力の限りに最初の一歩を動かした。ここに居てはいけない。恐怖に打ち勝とうとする本能が、砂利を蹴って駆け出す衝動をくれた。
頼りは、オルランドの服と同じようにほのかに白色に発光するこのベールと、大きな満月の明かり、そしてその光を受ける白い砂利道だけ。
すぐに、オルランドが言ったとおりの二又道に出る。
私は止まることなく、幾分細い左の道を選んだ。
落とさないように、自分の身を守るように、ベールを被ったまましっかりと縁を握りしめていた。
聞こえるのは、息を切らす自分の呼吸だけ。その先へと続く道をひたすら目指して、前だけを見た。止まりさえしなければ、やがて教えられた場所に辿り着ける。そう信じて。
やがて、周囲はひらけた林のような場所に変わった。本当にこんな場所に家があるのだろうかと思い始めた頃、ついに屋根のある物影が姿を現した。実際にはそれほど遠くなかったのだけれど、私には長い長い時間だった。
私は家にたどり着くと、正面の玄関扉にある鉄製の輪をグッと握りしめた。
ガンガンガンッ ガンガンガンッ
鉄がぶつかる鈍い音が、月夜の林中に響く。
私は夢中になって、ひと気のない暗い建物のドアを叩き続けた。
だけど最初に聞こえたのは、明らかに歓迎されているものじゃなかった。
「立ち去れ!」とドア越しに男の声。
「ここはお前の来る場所ではない。」
救いを求めている時分に、この先制攻撃は堪える。私は、用件を伝える前に拒否されてしまった。
「怪しい者じゃありません。お願いです、開けてください。」
「サウィーンの夜にドアを開けるバカはここにはいない。」
(またサウィーン?だからサウィーンって何なのよ?)
オルランドといいドアの向こうの男といい、彼らはやたらとサウィーンというものを警戒している。
今夜が警戒に値する、恐ろしい晩だということはさっき理解した。気味の悪い何かが徘徊しているのも、知っている。だけど、いや、だからこそ、どうしてそんな人でなしみたいな返事ばかり返してくるのか、理解できない。
(人類皆兄弟!こんな時は助け合おうよ!)
私はお腹のあたりから沸き上がる少しの怒りと不安を抑えながら、もう一度丁寧にお願いした。たぶんこの家を逃したら、今夜の寝床はない。人生初野宿だ。
「そんなこと言わないで。オルランドに言われて来たの。
ここに…」
ドスッ
内側からドアを叩く、いや、ドアを殴る音がした。
「何と言った?」
「え?だからオルランドが…」
「オレに向かって軽々しくその名を口にするとは、殺されても構わないという意思表示だな?」
ええと、コロス…ってナニを?
控えめに言って…聞き間違えた…かな?
今夜は色々な意味で何度も裏切られているけれど、予想してもいなかった台詞にうっかり言葉を失った。
師匠の名前を聞いて殺すと叫ぶ弟子。このいびつな師弟関係は成立する…んだろうか?
不安になった時って、自分が何かどこかで間違えたんじゃないかと考えてしまう。そこから芋づる式に反省する。「聞き間違えたのかもしれない」とか「叩くドアを間違えたかもしれない」とか「途中で道を間違えたのかもしれない」とか「オルランドに騙されたのかもしれない」とか。
…だけど、あの場所からここまで、間違える要素なんて確かにどこにもなかった。
そこで私は一つ一つ確認し、自分を鼓舞する。
聞き間違えた?いいえ、自信を持って大丈夫。あんなに殺気立った物騒な言葉、聞き間違えたりしない。答えはNO。
叩くドアを間違えた?いいえ、他に家はなかった。だからここしかないでしょ。これもNO。
途中で道を間違えた?いいえ、二又を出て絶対に左に曲がった。他に道はなかったでしょ?だからNO。
オルランドに騙された?えっと、彼は力を貸すって言った。貸すと言いつつも、あの男は消えた。そして別れ際のあのニタリ顔。あれが頭にこびりついて離れない。
なんだろう、自信を持って否定できないこのモヤモヤは。
思い返せば、境界が目の前で閉じたときもそうだった。あの男は「最悪全てを失う」と言いながらククッと笑った。あれは、他人の不幸を笑う男だったんだ。
彼が浮いたとき、髭じゃなくて服を掴めばよかった。あのまま一緒に飛べばよかった。私は、ドアの向こうの存在を忘れてしまいそうなほど激しく後悔していた。
「警告はした。
サウィーンだからといって、オレは容赦しないぞ。
立ち去れ。」
殺気めいた口調に圧倒され、はっと我に返る。
できれば、人生初野宿は回避したい。それに、もとの場所に戻って薄気味悪い魔性とお友達になるのも勘弁。あれらは絶対に関わらない方がいい類。同じ怖いなら、人間の方がまだまし。ここで黙っていても始まらないと腹をくくり、私は大きく息を吸い込んで気合いを入れた。
「あの…ひ、髭を持って来たんです。
これを渡せと言われて来たの。
渡したら立ち去るから、受け取ってください。」
握りしめていた髭に、あれほど触りたくなかった髭に、私は一縷の望みを託した。
ドアの隙間から、オルランドの髭を差し込む。
ほどなく手応えを感じて、ドアの中の男がクイと髭を引き抜いた。
私はホッとして、家の壁に寄りかかった。力が抜けて、ズルズルとしゃがみ込む。
吐き出す白い息が月の光に反射した。
「さむっ…。」
急に皮膚感覚が目覚めた。
夏の夜とは思えない寒さ。空を見上げると、満月が高い位置にあった。
キャスと丘を上っていたとき、もとの世界の月は半月だった。
今更ながら、ここが別世界なのだと思い知らされる。
「不思議。地続きだけど、地続きじゃないのね…。
ここは、どこなんだろう?」
声が震えたのは、寒さのせいじゃない。
目頭が熱くなって、涙が込み上げてきた。今さらホームシック。
私は被っていたベールで体を包むようにして、ギュッと自分を抱きしめた。
なぜだかわからないけれど、今は手にしているこれだけが心の拠りどころだ。
ガチャリ、と音がした。
「そこで何をしている。」
長身の若い男が、不機嫌そうな顔を覗かせて見下ろしていた。
隠した心まで射抜いてしまいそうなほどの、強い眼差し。
月の光を受ける、ダークブロンドの髪。
月夜に現れた美しく妖しい、精霊…なわけない。
月と彼の絶妙な絵面に、不覚にも見惚れて一瞬時間が止まった。
「えっ?あっ、えっと…」
不意打ちの展開に、しどろもどろになる。
早く立ち去らないと、本当に殺されかねない。
初日リタイアなんてあられもないわ。
「早く入れ。」
「ん?」
「オレの言葉は理解できるんだろ?」
「あ、はい。」
「同じことを二度も言わせるな。」
「は、はい。」
相手は今、確かに『入れ』と言った。
私は彼の機嫌をこれ以上損なわないよう、黙って従った。どうやら野宿は回避できたみたいだ。
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「名前は?」
「ララ。」
「オレはハル。部屋へ案内する。」
彼はクルリと私に背を向けた。
ハッキリと見えないけれど、私より年上なのは確かだ。
玄関から延びる廊下を歩きながら、ハルは振り向きもせず家の間取りを説明し始める。
家内は薄暗く、明かりはハルが持っている灯りだけ。
私は半分聞いているような聞いていないような、とにかく彼の背中を見失わないようピタリとついて歩いた。
あからさまに、機嫌はよくない。
怒りに似たオーラが、背中からピリピリと伝わってくる。
よくよく考えれば当然だとも思う。
サウィーンという何かしら歓迎できない特殊な晩に、突然知らぬ女が訪ねて来たのだから。
この人は私を家に入れたくなかったに違いない。
オルランドはハルのことを弟子と呼んだけれど、それだけではない理由によって、この人は私を家に入れざるを得なかったのかもしれない。
さっきは、どうしてすぐにドアを開けてくれないのかと腹を立てたけれど、冷静に考えると、ありがたいと同時に申し訳ない気持ちになった。
「ここで寝るといい。」
ハルは、廊下の一番奥のドアの前で立ち止まった。
「ありがとう。あの…」
「何も言うな。話は明日聞く。
オレは向かいの部屋にいる。何かあればよぶといい。」
「はい。」
「余計な物に触るなよ。」
ハルはそう念を押すと、私に灯りを渡して自室に入った。
用意された部屋は、しばらく使われていないようなツンとした匂いがした。
家具や道具は布に覆われ、照らして見る限り物置部屋といった感じ。
それでもベッドシーツは丁寧にアイロンがかけられていていい匂いがするし、親切にも部屋着まで用意してある。
私はベッドの横にあった大きめのチェストに、灯りとスマホを置いた。
すぐそばの、伏せてある大きめの写真立てに目がとまる。手に取ると、それは写真ではなく中心に立派なお屋敷がある風景画だった。
「クレ…ア…モント…ホール?」
絵の隅に、そう記されていた。
初めて見る文字列なのに、不思議と読める。
これはズルい。
(これならどんなテストでもフルスコアだよ…。オルランドって本当に魔法使いなのね。さっきは他人の不幸を笑う男なんて言ってごめんなさい。)
深々とため息をつき、ベッドに横になる。
目が覚めたら、全部夢だったってことはないかな?
淡い期待、もとい往生際の悪い願望を抱きながら、私は清潔で心地のいいベッドで安らかに眠れ…なかった。
突然、低い男の声が聞こえたからだ。
それはうめくような声。何かを探しているような、求めているような微かな呟き。
私は怖くなってベールを手繰り寄せた。
「だ…れ?」
声を振り絞って、やっと二文字。これも、サウィーンだから?
『…だよ…』
ぼんやりした明かりの中、室内に響く声が少し大きくなる。
これは幻聴じゃないし、魔性たちとも違う人間みたいな声。
『…たし…。』
耐えられなくなった私は、次の瞬間ベールを掴んで部屋から飛び出していた。
ドンドンドンッ
「ハルっ。」
必死に向かいの部屋のドアを叩いた。上品にノックはしていられない。
「なんだ?」
何かあれば呼べと言ったのに、ハルは機嫌悪そうに出てきた。
「ねぇ、こっちの部屋で一緒に寝ちゃダメ?
床でもどこでもいいから。お願い。」
「はぁっ?」
私は事情説明をすっ飛ばして、とんでもないお願いをしていた。
「ダメに決まってるだろ。」
「床でも部屋の角でもどこでもいいよ。
私は平気だから!」
「オレは平気じゃない。
寝言言ってないで部屋に戻れ。」
「ねごと?
うん、怖い夢見て、全然寝られなくて、その、怖くなって…すごく怖くて。」
自分でも何を言っているのか、よくわからなくなった。でも、変な声が聞こえてくるなんて言えない。
せっかく泊めてくれたのに、食事をほどこされたホームレスが「飯がまずい」と悪態をついているみたいだ。恩を仇で返せない。
ハルはため息をつくと、ドアを大きく開けた。
部屋に入れてくれるのかと思いきや、私の前をスッと通り抜ける。
「どこに…?」
「そこにいろ。」
「う、やだ、ついていく。」
私は、一人になるのが怖かった。
ハルが向かったのは、斜め向かいの部屋。つまり、私が寝ている部屋の隣だった。
彼は窓の近くにある机の灯りをつけると、周囲の引き出しから箱を幾つか取り出した。
手慣れた仕草で必要なものをあちこちからひっぱり出し、何かしている。
きっと時間はそれほどたっていない。ほんの二、三分のことだと思う。
作業を終えると私の前にやって来て、手にしていた豆皿ほどの器に火をつけた。
優しくて微かに甘い香りが立ち上がる。
「いい香り。」
心がふわり、とろけそうだ。
「これを持って行け。
眠りやすくなる。」
ハルの言う通り、香りに包まれていると心地よい眠気が襲ってきた。
全ての心配事や不安が消えていく。
きっと疲れていて、何でもない音が人間の声に聞こえちゃったのだ。
私はおとなしく自室に戻り、チェストの上に器を置くと、あっさりと、ぐっすりと眠りに落ちた。