1-1.選択
人生は選択の連続である。
そう言ったのは、誰だったっけ。
私は目の前の老人を見ながら、考えていた。
ここは、ロンドンから数百キロ離れた田舎道。
時刻は午後八時をまわったところ。さっきスマホを落とした時、表示を見た。
簡単な話だよ、と彼は言った。
「お前が選ぶのは二つに一つ。
引き返すか、留まるか。」
確かに、すごく簡単に聞こえる。
だけどこれは少し考えなきゃならない。
二者択一の一つ目『引き返す』。
つまり、宿泊している古城に帰る。
時間にして十分強の距離。
友だちを置き去りにする度胸があるなら、アリ。でも私にはないから却下。
二つ目は『とどまる』。早くキャスに追い付きたいから、ここで止まるのはムリ。これも却下。
選択肢を一つ増やそう。三つ目『先へ進む』。これが今一番やりたいこと。
ああそれから、四つ目の選択肢『早足で逃げる』も加える。
というのも、私に選択を迫った彼は明らかにおかしな風貌だからだ。
伸ばしっぱなしの、背中の真ん中まである白髪。灰色の混ざった、胸まで届きそうな顎髭。金糸銀糸の曲線の刺繍が施された長い袖。足先しか見えないドレープのある衣装。夏の夜に全身白色の魔法使い装束とは。
世の中には色んな人がいることくらい、十七歳にもなれば理解している。
だけど、夏の夜に田舎道で老人がたった独り魔法使い装束というのは、どう解釈しようか?
宿泊客しか入れない古城の敷地で、野外の集いでもあるの?ん?あれは悪魔の集いだっけ?
あれこれ考えていると、老人は次にこう言った。
「私は引き返すことをお勧めするがね。
エトラ殿。」
「エトラ?」
私の名前はララだけど。
「エトラは、異界からの客人に対する呼称だよ。」
最適解は四つ目の『早足で逃げる』。これだ。
「今宵はサウィーン。
普通の人間は出歩かん。
見慣れぬ服装、聞きなれぬ言語。
私は偉大な魔法使いだからお前の言葉がわかるが…。
要するにお前は、異界人。」
イヤイヤイヤイヤ…。
見慣れない服装、意味崩壊の言語。あなたの方がよっぽど…。
老人の講釈に、私の方が頭がおかしくなりそうだ。さっさと見切りをつけないと、逃げるタイミングを失ってしまう。
「ごめんなさい。
急いでいるので。」
彼の言葉を無視し、会話をぶった切る。
この場合、急いでいなくても当然急いでいると言うけれど、私は本当に急いでいた。
「案外と飲み込みが悪いな。」
老人の冷めた口調は、まるで私が間違っていると主張しているみたいだった。
百歩譲ってハロウィーンの夜ならその余興にのってあげてもいいけれど、今はそこまでの余裕がない。
「お前の友人なら、そこにいる。
今しがた石になった。」
「は?」
自称偉大な魔法使いは、真顔ですぐ傍にある石の塊を指した。
動きに合わせて、振袖のように長い袖が揺れた。
よく見れば、朧に白く発光する神秘的な服。
「あの娘を追いかけてきたのだろう?ひと足、いや、ひと足どころか…。
遅かったのう。」
同情しているようでしかし感情がこもっていない声は、ふざけているようにしか聞こえなかった。
頭のてっぺんが禿げあがった長い白髪。少し灰色が混ざった、先細りの長い顎髭。白で統一された足の見えない衣装。
まるで何もかも知っているような、意地の悪い口ぶり。
『偉大な魔法使い』
ここに来るまでの胸騒ぎも手伝って、私は何かがおかしいと感じ始めていた。
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時はほんの少し前―…。
「宿命の守護者ステラよ、我らの約束をその名のもとに成就させたまえ。
私たち二人が、遠く離れてもずっと、ずーっと友達でいられますように。」
ここは私たちが宿泊している古城の敷地。その内にある丘の上。
夏至の日の夜、この丘の古塚の前で誓った約束は成就する。
そんな言い伝えがあるのだそうだ。
教えてくれたのは昼間に訪れたカフェ『ホワイトステラ』の店主。
一年に一度だけなんだよ。ちょうど夏至の日に来るなんて、あんたたちラッキーだね。
店主の軽い一言に、絶対に行かなきゃ!と親友のキャスが盛り上がった。
盛り上がる理由というのは、たぶん好奇心とかお祭り好きだとか、迷信好きだとか、その他諸々あるけれど、一番は私が日本に帰国したら、次はいつ会えるかわからないという事情があったから。
寄宿学校で出会った、唯一無二の親友キャサリン。
彼女がいたから、私の五年間はかけがえのないものになった。
ここから極東の街東京まで距離は約九千七百キロと少し。
ITが世界を縮めた現代なら、遠く離れても連絡を取る方法はいくらでもある。だけど、同じ空間を共有する喜びには限界がある。
迫る帰国に口には出さない寂しさを抱えていれば、約束が成就する、なんて聞いたら拝みに行きたくなるのが人ってものじゃない?
半月が空に浮かぶ静かな夜、私たちはずっと友だちでいたいと願ったんじゃない。友達でいる、と誓い合った。
言葉にできる場所と口実が欲しかっただけ。
「あれ。
ねぇ、ララ見て?何か光ってる。」
キャスが、灰色の石で作られた背の高い塚を覗き込んだ。
塚の正面は大きな石だけど、一部はこんもりと土が盛られていて青草におおわれている。
中に光るものが見えるらしい。
「行ってみよう。」
私が覗くよりも早く彼女はそう言うと、ポケットからスマホを取り出してライトの代わりにした。
「え?入るの?あ、ちょっ、待って!」
キャスはいつも自分の好奇心に素直だ。
躊躇うことなく、明かりを手に塚の隙間に滑り込む。出られなくなったらどうしようとか、暗くて怖いとか、私が思いつくような不安要素は皆無。
私は塚を覗いた。彼女の背中を追いかけないほど好奇心がないわけじゃないけれど、ためらってしまったのは暗い所が苦手だから。
キャス曰く、私は追い詰められないと行動しない性分。まさに今もその性を存分に発揮し、勇み足でグズグズしている。暗い所に入るのは怖いけれど、夜の丘で一人待つのも心細い。
ああ、もう!
結局は、踏み込むという選択肢を選ぶ。一人で待つより、追いかけて二人でいる方がまし、という結論。
石と石の間に肩を入れ、目をつむって塚の中にえいや、と足を入れた。
スッと身体が抜け、それと同時に目を開ける。
だけど光るものなんてどこにも見えなくて、目を閉じている時と変わらないぐらい暗い。
こんなに空気が重くて薄気味悪い所に、よくもためらいなく入れるなと、私は顔を歪めながらキャスに感心した。そしてスマホの明かりを頼りに、一歩ずつ足元を確かめながら進んだ。
「あっ。」
および腰で歩くから、さっそく木の根に躓いた。スマホが手から滑り落ち、カシャンと音を立てる。
「ララー!早くおいで!面白い所に出たよ!」
奥から楽しそうなキャスの声が響いた。
彼女は、私が悩んだ挙句に追いかけてくることを知っている。大体それがいつものパターン。
「今行く!」
私はスマホを拾うと、急いで後を追った。この時、時計の時刻は午後八時。
飛び出した木の根っこや、隆起した土塊が邪魔だった。ごつごつした道を注意しながら急ぐ。そして出口を抜けようとしたとき、ゴオッという突風のような音が向こうから響いた。
吹き込んできた冷気と殺気に、背筋が凍る。
続けて、白い閃光が差し込んだ。
「きゃっ。」
眼を固く閉じ、驚きとともに一瞬たじろぐ。
なんだろう、あの異様な光は。隕石でも落ちた?
同時に沸き起こる胸騒ぎ。キャスの声がしないことが気になった。あんな光を見た後なら、よくも悪くも騒ぐはず。
私は彼女に追い付くべく、駆け足でトンネルを抜けた。
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とまあ、以上のような経緯で今に至る。
塚の反対側に抜け出て最初に遭遇したのが、この自称偉大な魔法使いだった。
「私は誠意をもって事実を伝えているのだがね。
もう時間がない。どうするね?」
自称偉大な魔法使いは、落ち着いた表情で向こう側を見た。それは、私が走って来た方角だった。
「?!」
信じられないモノを見たとき、人はまず何を信じるだろう。自分自身?それとも目の前の光景?
私は一瞬、自分が眩暈を起こしたのだと思った。まずは自分を疑ったわけ。
見たままを言えば、眼前の空間の一部が、水飴のようにグニャリと縦に歪んでいる。
私の三半規管が壊れてしまったのか、本当に空間が歪んでいるのか、すぐに判別できなかった。
「何あれ?」
壊れたのは私じゃない。
「あちらとこちらの境界だ。」
自称偉大な魔法使いは、名所案内のガイドよろしくさらりと説明した。目の前の異様な光景が、ごく日常の風景であるように。
「境界?」
「さよう。
お前はあちらから来た。
もうすぐ境界が消える。」
「あちら?ここはどこ?」
「ここはリアフェス。
ミースの王メイヴが治める国。」
「リアフェス?」
そんな地名、聞いたことがない。
「おやおや、時は無常。
どうやら時間切れだ。」
「え…。」
それはあまりにもあっという間の出来事で、目の前の光景に思考が止まった。
溶けたガラスみたいな空間がぐるぐると渦巻き、視界が元に戻ったかと思うと、さっきまで見えていた青草のなだらかな丘は姿を消し、代わりに荒れた雑木林が広がっていた。
私が歩いてきた丘の小道は今や草木が茂る行き止まりで、風に乗って知らない土地の匂いが鼻をついた。
枯れ葉は小さく揺れてカサカサと鳴り、細い枝は力を入れるとパチンと折れた。
なんて寂しい場所。
なんてリアルな夢。仕上げに私は自分の頬をつねった。
イタイ。
夢、じゃない…?
「なんで?」
「だから言ったであろうが。」
「いや、そうじゃなくて。
なんで景色が変わるの?」
声が震えていた。
一時停止した思考がなかなか作動しない。何が起きたのか全て説明できるのに、心はそれを受け入れていなかった。
「その質問に何の意味がある?
他人の忠告も聞かずにおいて、簡単に元の世界へ戻れるとでも?」
自称偉大な魔法使いの落ち着いた声が、頭をすり抜ける。
まるでベガスのイリュージョンみたいに、目の前で華麗に景色が変わった。手を伸ばしても道はどこにもない。
これは現実なのだと否応にも突きつけられているのに、心のどこかで、夢ならもう覚めてもいい頃合いだけど…なんてまだ考えている。
「さぁ厄介だぞ、エトラよ。
石化解呪は至難の業。
命を落とさないとは言えまいな。
もとの世界に戻る路をも失う可能性もある。
要は全てを失うということだが。ククッ…。
なかなか悲劇的だな。」
彼は愉しそうに顔を弛めた。
「石化解呪?なんの話?」
イレギュラーが続いて、私の脳はキャパを超えようとしていた。
現実を受け入れなきゃと少しずつ思い始めたところなのに、今度は何の話だ。
「お前の友の話だよ!」
「友って…。」
私は自動的に彼の視線を追った。その先に、ほんのりと人型の、私より少し背の低い石の塊がある。
いや、認めない。あの灰色の塊がキャスだなんて。
「嘘よ…、」
そもそも人は、石になったりしない。そんな魔法みたいな話、あるわけが…。
その先に続ける言葉が出なかった。
黙ってこちらを見る自称偉大な魔法使いの冷静な瞳に、私は何も言えなくなった。
「ここはリアフェス。
人が石に変えられることもある。」
自称偉大な魔法使いの、しっとりとした説き伏せるような声に、今度は本気で眩暈がした。もう、悪い予感しかしない。
「あなたさっき、偉大な魔法使いだって言ってなかった?
なんとかできないの?」
私は気持ちを立て直し、少しトゲのある声で言った。理不尽で強引な事の成り行きに、不安と苛立ちが入り混じっていた。
自称だろうが何だろうが、この際肩書きなんてどうでもいい。魔法が使えるのならそれで何とかしてほしい。私は早く現実に戻りたい。
望んでここに来たわけじゃない。現実の世界で死んじゃって、転生したわけでもない。異世界ひゃっほーって飛び上がって喜べるほどお気楽な性格でもないのに。どこで選択を間違えた?!
「私を元の世界に帰して!」
「無理じゃな。
ここにはここのルールがあるのだよ。
何事もなければ、境界は一年後、同じ場所にあらわれるはずだがね。
それまでに解決、つまりは友人の石化を解くということだが、それができれば御の字だろう。」
「一年後?!」
私は声を荒げた。
一年ってつまり、三百六十五日もここにいなきゃいけないの?
長すぎる。家族が心配して警察沙汰になる。
いや、みんな絶対に私たちが死んだと思う。(まだ死んでないのに!)
「ふむ、短すぎるとな?」
「その逆!」
「そうか、それなら不幸中の幸いと思え。
境界によっては数百年に一度しか繋がらない場所もあるからの。」
自称偉大な魔法使いは、すました顔で髭を撫でながら言った。
「数百年に一度…?」
さらに途方もない年月にクラっときた。
それはつまり、竜宮城に行ったウラシマと同じ。
常世の国に行ったオシーンと同じ。
でもここは、人が石にされちゃう場所。日がな歌って遊び暮らせる楽園でもなさそう。
不思議の道具を貰って意気揚々と帰れる物語の世界とは、程遠い気がする。
彼らほどの年月に比べたら、ぐぐっと『一年後』にありがたみすら湧いてくる。
「だろう?」
「それじゃ、一年後にここに来れば、帰れる?一年後に!」
「そうとも言えるな?」
「他に方法は?」
「あれば教えておるわ。」
「だよね…。
それなら、一年後に帰る。一年後、キャスと一緒に。」
私は呪文のように『一年後』を繰り返した。
下を見て暮らせとはよく言ったものね。一年後にもとの世界に戻れるという可能性があるだけでもマシだと慰めになる。
全ては自称偉大な魔法使いの言葉を信じる、という前提に基づいているけれど。
「無知とは残酷だの。
だがそれが運命ならば、私はお前に力を貸そう。」
無知とは残酷。
彼が呟いたさりげない一言が何を意味したのか、その時はわからなかった。
けれど、その先の日々を思う心の余裕すらなかった私には、どうでもいい呟きでもあった。
ただ、今振り返って最も幸運だったと思うことは、リアフェスで最初に出会った人物が『彼』であったこと。それだけは宿命の守護者ステラに感謝したい。