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4-2.時雨

 

「お邪魔しまぁす…。」


 ひっそりと静まり返ったクレアモントホール。

 私は、誰もいない部屋に向かって小さく挨拶した。

 この屋敷と繋がっている絵は、今もイーリーベルの私の部屋にある。


 グリンザムからクレアモント卿の書斎について聞いた後、私は勢いだけでここに来た。

 二つの空間を繋ぐ壁、その隣に大きな暖炉。

 ここは、ハルが私を迎えに来てくれたあの場所。


 クレアモント卿と過ごしていた時は、屋敷内は明るくて寂しいなんて感じたこともなかったけれど、今は明かりもなくて、まるで何年も人が生活していなかったかのような、沈んだ生気のない空気に満ちている。

 私は、さっそく一人で来たことを後悔した。


 この陰気臭さと薄暗さは、後戻りするのに十分な理由になる。

 私は、後ろの壁を振り返った。


「今ならまだ引き返せる…。」


 弱気なララが囁いた。壁に向かって手が伸びる。


(だめよ、ララ!)


 今度は強気なララが現れた。

 襲ってくる心細さをぐっと抑え、前に向き直る。


(キャスやリビエラがいなくたって…!)


 私は昨日の夜の悔しさを思い返し、勇気を奮い起こした。


 とはいっても…、ここは広い屋敷。私は自分を叱咤激励しつつ、夜の美術館(朝だけど)を独りで歩いているような心もとない気持ちで、最初の部屋を出た。


 今の私の心は、強気のララと弱気のララがやじろべえみたいに揺れている。


「灯り…せめて明かりがあればいいのに。」


 心の声が漏れ、独り言が口をつく。


 パッ


 とたんにそこかしこに明かりが灯り、屋敷内が明るくなった。


「え?」


(なにここ?人感センサーでもあるの??)


 弱気なララを征して、強気のララが優位に立った。

 屋内が明るい。たったそれだけのことで。

 明かりがついた理由なんて、なんだっていい。


 足取りが軽くなる。

 私は、記憶を手繰りながら廊下を歩いた。

 クレアモント卿と過ごしたのはほんの束の間だったけれど、私たちはたくさん話をした。


 卿は、書斎から見える楡の木と湖が美しいと話していた。そしてザムの話だと、果樹園と楡の木は真逆の場所にあるらしい。


 ふと、廊下の窓から外を覗く。ここは屋敷の二階、正面近く。


(ん?)


 外で、何かがキラリと光った。

 窓にすり寄って目を凝らすと、下の生け垣の隙間に、陽に反射する銀色の塊がチカチカと移動しているのが見える。


(まさか、人?)


 同じ緑の生け垣の少し背の低い箇所で、今度は赤いフサフサの羽根が飛び出して上下に揺れた。


  (ナニ、あれ?)


 驚いていると、チカチカと反射する銀色とフサフサの赤色はすっと見えなくなった。

 目をこすってもう一度窓の外を確認したけれど、何も見えない。


(まあいいや…。)


 今探さなきゃいけないのは、クレアモント卿の書斎だ。

 気を取り直して廊下を進み、楡の木と湖が見えそうな一角をようやく見つけた。


「うわっ。」


 廊下に並んだドアの数に、圧倒される。

 私は途端に気が滅入った。

 どうしてこう、無駄に部屋が多いわけ?

 愚痴をこぼしつつ、最初のドアに向かう。一つずつ確認するしか方法はない。

 私は、ドアノブに手をかけた。


 最初に開けた部屋は、ピアノの部屋。

 次は、小さな椅子と暖炉の部屋。

 その次は、絵画の部屋。そしてその次は、何もない部屋!


 次々にドアを開けるけれど、書斎らしき部屋は一向にあらわれない。

 ガチャガチャと同じことを繰りしていると、だんだん腹が立ってきた。


「なによこれ。」


 ガチャ、バタン。


「どこが書斎か、全然わからないじゃない!」


 ガチャ、バタン。


「ネームプレートくらいつけておきなさいよ。」


 ガチャ、バタン。


「こんなんじゃ、クレアモント卿だって迷うでしょうよ!」


 ガチャ、バタン。


 ザザッ


「きゃっ!」


 私とドアの間を、目に見えない何かがかまいたちのように横切った。

 風にあおられ、目をつむる。そして再び目を開けた時、私はさっきとは別の廊下に立っていた。


 クレアモントホールは、階層や廊下によって内装の趣が異なる。

 さっきまでいたのは、黄色を基調にした内装の廊下。そして今立っているのは、緑を基調にした内装の廊下。

 目を閉じた一瞬の間に、私は全く別の場所に移動していた。


 目の前のドアが、誘うように静かに開く。

 ほんの少し、ためらってしまった。だけど、入るしかないんだってことは分かってる。


 紙とインクの匂いが私を出迎える。

 奧から、薄い光が差し込んでいる。奥行きのあるその部屋は、私が知っているクレアモントホールの部屋の中で、一番小さかった。


 左右の壁には、ガラス扉のついた背の高い本棚がある。

 どちらも、上段には同じ背表紙の本がずらりと並び、下段には、書類を収めたような同じ大きさの引き出しがたくさんあった。


 部屋の真ん中には、布張りの長いすと背の低いテーブル。両向かいの壁には、それぞれ別室へと続くドア。

 奥の窓の近くには、重厚な机。そして窓の外に映る景色は、紅葉した木々とキラキラたなびく水面。

 ここが、書斎に違いない。


「ええっと、明かり…。」


 私の呟きに反応して、明かりが灯る。


 本当に、この屋敷は生きているみたいだ。

 明かりが欲しいと言えば明るくなるし、書斎はどこだと文句を言えば、目の前にあらわれる。


 これなら、私が書庫のありかを尋ねたら、教えてくれるかもしれない。


 ここはリアフェス。そう望むことは、おかしなことじゃない。

 最終目的地は、書斎から続く特別な部屋。クレアモント卿が収集した本がおさめられた書庫。

 長いすを挟んで両向かいにあるドアは、鍵がかかっている。


「書庫に行きたい。」


 カチャリ


 私の言葉に、左側のドアが開いた。

 そのままドアを押し開ける。明かりを求めると、庫内にすっと明かりが灯された。


「わぉ…。」


 私は入り口で立ち止まり、天井高く並んだ本を見上げた。

 その部屋は、個人の書庫なんていうこじんまりしたものじゃなかった。

 何列も本棚が並ぶ、まるで図書館。上の方の本を取るには、梯子がいる。

 ここは、部屋の奥が見えないほど広い。食卓テーブルみたいに大きな机もある。


 本の匂いは、嫌いじゃない。

 紙とインクの匂いを嗅いだだけで、少し頭が良くなったような気分になるから。


 だけど、図書館の雰囲気は好きじゃない。

 本から滲み出る沈黙の威圧感は、日本で暮らしていた家を思い起こさせる。


 私が住んでいた家は、日本式庭園がある平屋の純和風家屋だった。

 幅の広い板木の廊下と、襖で仕切られた畳の続き間がたくさんあった。


 架空の生き物や草花が彫られた欄間、鴨居にかかる般若のお面、床の間に飾られた掛け軸、日本刀。そして極めつけは、黒髪のおかっぱ頭の人形。


 そんなものが飾られた部屋を通る時、彼らの存在が怖かった。ただじっと、そこにあるだけなのに。

 本から漂う威圧感は、あの家と同じ。


 明るいだけ、ましかな…。と自分を慰め、ピクシーに関する本を探す。

 少し背を伸ばせば届きそうなところに、『リアフェス精霊図鑑』というのを見つけた。

 手を伸ばすと、本は意思を持っているみたいに棚からスッと出てきて、私の手におさまった。


 大きな机に運び、本を広げる。目次を眺めていると、ほんのり湯気を立てる湯飲みが、お盆とともに差し出された。


「あ、ありがと。」


 白くて柔らかい感触の陶磁の焼き物に、緑茶が入っている。

 私は、ページをめくりながらお茶に口をつけた。


 ぶはっ!


「まっずぅ…。」


 口内に広がる衝撃の味。

 あまりの不味さに、唸り声しかでなかった。

 ()()以外に、こんなお茶を入れる人間がいるとは。


「はわわっ。

 も、申し訳ございません。

 旦那さま!

 ああ、どうしましょう。」


 慌てふためく女性の高い声に、私は驚いて見やった。

 と同時に、手にしていた湯飲みが手から滑り落ちる。


「はわわっ。」


 床に落とした湯飲みを見て、声の主が慌てて拾いにかかる。


 私のすぐ近くに浮いていたそれは、小さな人形だった。

 髪は黒髪のおかっぱで、上品な抹茶色の着物を着ている。それがすうっと私の足元に近づいたものだから、私は驚いて、座っていた椅子から落ちそうになった。


「わっ!な、なに?

 あなた、どこから出てきたの?」


「はわわっ。

 申し訳ございません。」


 彼女は急いで私から離れると、さらに少し高めの声で言った。

 たすき掛けをした着物の袖から、色白の華奢な腕をのぞかせ、拾った湯飲みを乗せたお盆を抱えている。


 彼女は、ふわふわと浮きながら、おろおろと怯えて控えめにこう言った。


「どこからともうしますか…あの、私め旦那さまがお屋敷にいらした時からずっと…お側におります。」


「は?」


「ですから、広間のあのお部屋にいらっしゃいましたときから、ずっと旦那さまのお側におります。」


「ずっと?…あの、旦那さまって、もしかして私のこと?」


「はい、さようでございます。

 私めの主は、このクレアモントホールの主人ただお一方でございますから。」


 彼女は、恭しくきっぱりと応えた。

 面と向かってそう言われると、ここを相続したのは現実なんだと実感する。

 今や私は、この館の主なんだ。

 だがしかし、、


「おかしいわね。

 私は、ここに来るまであなたはおろか誰一人見てないわよ。」


 私は、少し強気な声で言った。

 こんないかがわしい人形がフワフワ浮いていたら、目につくに決まってる。だけど、彼女が嘘をついているようにも思えない。


「それは、私めは今の今まで、姿形がありませんでしたので。」


「ええと…、それはつまりどういうこと?」


 私には、彼女の言っている意味がよくわからなかった。


「つまり…、ええと。

 ですから、このように可愛らしい姿を賜り、大変光栄に存じます。

 私めのこの姿は、先ほど旦那さまが心に思い起こされた姿でございます。」


「思い起こした…?

 確かに、小さい頃の苦い記憶なら、はからずも思い出しちゃったけど。」


 私は言いながら、ほんのり顔を赤らめた彼女を見つめた。冷静になればなるほど、日本の家に飾ってあった薄気味悪い人形によく似ている。


 つまり、ずっと私の傍にいたと言い張る彼女の説明はこうだった。


 まず、私がこの屋敷が生きていると勘違いしたことで、彼女の存在を認識したことになった。

 さらに、私がおかっぱ頭の日本人形を思い出したことで、見事に自分の姿を()()()()具現化することができたらしい。

 彼女はそれを、とても誇らしげに、嬉しそうに話した。


「それじゃあ、屋敷を明るくしてくれたのはあなた?」


「はい、さようでございます。」


「書斎に連れて来てくれたのも?」


「はい、僭越ながら。」


「書庫のドアを開けてくれたのも、本を取ってくれたのもあなたなのね?」


「はい、旦那さま。」


「それから、その不味い緑茶も。」


「はわわ…。ご期待に沿えず、申し訳ございません。」


 彼女は、心の底から申し訳なさそうに深々と頭を下げた。


「でもこの不味さ、とても懐かしい。

 私のお母さんが入れてくれた緑茶にそっくりよ。」


「おお!なんと、旦那さまの母君の味でございましたか。

 私めは、旦那さまがお心に思い描かれる事柄しか具現化できないのでございまして…。

 てっきり…そうですか。

 なるほど、そういうことでございましたか。」


 彼女は目を輝かせ、何度も納得しながら頷いた。その素直な仕草は、子犬みたいに人懐こい。


 私は、微笑ましい気持ちになった。

 慣れてくると、彼女の人形然とした顔も生身に見えなくもない。


「ねぇ、私はララ。

 あなたの名前は?」


「名前?さぁ…なんでしたか。

 その昔はあったと思うのですが。」


 彼女は不思議そうに首を傾げた。


「忘れちゃったの?」


「どうやらそのようでございます。

 亡霊になってから久しいもので、すっかり忘れてしましました。」


 彼女は、ニッコリと笑った。


 亡霊?


 それって、この世に未練がある霊ってことかな。

 私の世界の常識がまかり通るなら、彼女の屈託のない笑顔は、恨みつらみや未練なんかとは真逆の場所にあるもののように見える。


「あなた、幽霊なの?」


「はい、どうやらそのようでございます。」


「どうやらそのようって…。

 随分よそよそしい言い方ね。」


「その昔人間だったことは覚えているのですが、どのような経緯でこちらに厄介になっているのか、皆目わからないのでございます。」


ここ(クレアモントホール)に来る前の記憶がないのね。」


「はい。

 便宜上、先代からも名前をいただいたのですが、この度、先代に関わる記憶は消去されてしまったようでございます。」


 彼女のいう『この度』とは、たぶん私が新しい主になったことだ。

 何という徹底した守秘システム。

 そこまでする必要ある?

 クレアモント卿は、これほどまでして他人に知られたくない恥ずかしい秘密でもあったんだろうか。


「ですから旦那さま、私めに新たな名前をつけていただけましたら幸いにございます。」


「え?名前?」


「はい!」


 これは責任重大だ。主として、突き放すわけにもいかない。


「んーと。じゃぁ…。」


 私は目の前の彼女を見た。

 黒い玉のような髪に、紅葉や菊の模様が入った上品な抹茶色の着物。西洋風の屋敷に全くそぐわない出で立ちなのに、彼女はまるで違和感がない。

 期待に胸を膨らませた子犬みたいに、キラキラと私を見つめている。幽霊の瞳をこんなにも眩しいと思う日が来るなんて、思いもしなかった。


「時雨。」


「しぐれ、でございますか。」


「うん。嫌?」


「いえ、とても素敵な名でございますね。

 私めの名は、これより時雨にございます。

 この時雨に、何なりとお申し付けください。

 旦那さま。」


 時雨はそう言うと、嬉しそうに黒髪を揺らしてお辞儀した。


「それじゃあさっそくだけど。」


「はい?」


「その、旦那さまっていう呼び方やめてくれない。」


「かしこまりました…。

 それでは、私めは旦那さまをどのようにお呼びすればよいでしょうか。」


 時雨は驚いた表情を見せながらも、素直にそう答えた。


 旦那さまという響きは、すごく年を取った人みたいでイヤだ。

 大人の女性を通り越して、おばあちゃんになった気分。

 まぁ良く言えば、貫禄がありすぎる。


「ララ。

 ララでいいよ?」


「ええと、それでは。

 ララ様。

 これでよろしいでしょうか、旦那さま?」


「うーん…。」


 私は頭を抱えた。何か違う気がするんだけど。


「あのさ…。」


「くせものっ!」


 突然、時雨が鋭い声で叫び、獲物を狙う鳥のような速さで目の前から消えた。


「え?」


 ヒュンッ


 何かが音を立てて飛ぶ。


「曲者にございます!旦那さま、こちらへ!」


 振り向くと、時雨は私の背を守るように立ちはだかり、書斎に続くドアに向かっていた。

 頭に結ばれた長い襷と黒髪がなびき、私の視界を一瞬遮る。


 聞こえた声は、確かに時雨のものだった。

 だけど次に視界に飛び込んできたものを見た時、私の声は、驚きのあまり言葉にならなかった。


 白装束に長い黒髪、額に巻かれた揺れる襷。

 全く別の姿になった等身大の時雨…いや、般若がいた。

 顔はまさに、家の鴨居にかけてあったあのお面。


「あ、あ…」


 何か言わなきゃと思うのに、言おうとすればするほど、喉が締め付けられる。


 私は、目線だけ動かした。

 書斎へ続く戸口の縁に、侵入者を拒むように何本も刺さっている短刀が見えた。

 私の目の前で、時雨が放ったヤツだ。

 銀色の刃が、怪しく光る。


 私は何が起きたのかさっぱりわからず、久々に混乱した。そもそも、狙われるような覚えなんてない。


「旦那さまっ?」


 時雨が心配そうに、グイと顔を近づける。般若の金色の目が、私を睨んだ。

 イヤ、ちょっと待って。その顔でそれ以上近づかないで。

 そう言いたいのに、混乱して声が出ない。


「あ、あ…、あ…」


 私は顎が外れたみたいに口を開けたまま、声を漏らすだけだ。


「ララ!」


 よく知っている声がした。


「あ…、あ…」


「ララ!そこにいるのか?」


 書斎から聞こえたのは、ハルの声だった。


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