3-2.望
それは、ララがクレアモントの屋敷から救出され、疲れきって眠った夜のこと。
闇と星に包まれた沈黙の真夜中、ハルは林中に佇む美しい家屋イーリーベルの屋根に立っていた。
彼は深いヴァイオレットの瞳で空を見上げると、軽く屋根を蹴り、空中で一羽の鳥に姿を変えた。翼を大きく広げ、そのまま空にはばたく。
上昇して夜の冷たい風に乗り、彼は東を目指した。
そして気流に乗ったところで、鳥の身体は頭部から次第に一筋の輝く粉になり、流れるように消えた。
タンッ
イーリーから遥か東の某所。石やじりのような三角の岩山が乱立する渓谷。
その中に、大きくねじれた幹にヤドリギをからませて高く伸びる巨木があった。木の上にある一軒の小屋に、ハルが姿を現す。
「っく…ぅ。」
苦しそうに胸を押さえる傍で小屋のドアが静かに開き、ハルは少しふらつきながら中に入った。
「おや、苦しそうだのう。
変身酔いか?それとも移動酔いか?」
声をかけたのは小屋の主、白髪頭のオルランドだった。優雅にロッキングチェアに腰かけ、のたりのたりと揺れている。
室内は、カスタードクリームにところどころ白い泡を混ぜたような色のキラキラした空間で、床に立っているのに、あらゆる方向に無限に広がっているように見えた。
(また時を止めているのか。一体いつまで生きるつもりだ。)
老いぼれてなお生に執着しているオルランドに、ハルは吐き気がした。
「長距離酔いだ。」
ハルは姿勢を整え、忌々しそうに答える。
リアフェスの西の辺境にあるイーリーから、東端のこの某所までわずか数分で移動してきたのだから、身体的にも魔法的にもかなり消耗する。
「茶でも飲むか?」
「いらん。」
ハルは、差し出された温かい茶をぶっきらぼうに突き返した。
彼は、オルランドからの飲み物は決して喫しないと心に決めている。これまでにたったの一度でも、まともな物だったためしがないからだ。
ある時は下剤、ある時は笑いキノコ、ある時は麻痺剤、またある時は幻覚剤が含まれた飲み物だ。ただただ苦い、甘い、辛いだけの時もある。
何故そんなことをするのか、未だに理解し難い。
「そうか。
それでは、私にも新しい茶を入れてくれんか。
いつもの場所にある。」
オルランドは愉しそうに顔を弛めた。
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「ララは、無事お前のところに行きついたようだな、ハートルード。」
ハルがここに来た理由を見据えて、オルランドはハルの入れた茶をすすりながら言った。
「んーむ。
やはりかわいい弟子が入れてくれた茶はうまい。
しみるな。」
「時間がないから単刀直入に聞く。
目論見は何だ。」
ハルは、オルランドの戯言を無視した。
「目論見とは心外だ。
この世界に迷い込んだエトラを助けて、何が悪い。」
「助けた?拾っただけだろ。」
「ララを助けてやれ、ハートルード。
願いを叶えてやるのだ。」
ララの願い。ハルには知るよしもないが、クレアモント卿の話を信じるならば、それはさしずめ元の世界に戻ることだろう。
気乗りしないが、エトラをみすみす放り出すわけにもいかない。
しかしハルには、オルランドが純粋なボランティア精神でそんなことを言っているようには思えなかった。なにせ、献身という言葉から最も遠いところにいる男だ。
異界から来るエトラは、魔術の材料になる。
特に、境界渡りの秘術には欠かせないとされている。ララを他のウィザードの手から守れと言うのではなく、彼女の願いを叶えろという言い方に違和感を禁じ得ない。
「オレがあんたの言葉に、素直に従うと思っているのか。」
「無論だ。
お前は私が育てた、優しくて最高にできの良い子だからな。」
「安っぽい誉め言葉だな。
断る。」
「そうか。
ならば切り口を変えよう。
お前は、自分の出自を知りたいと思わないか。」
「どういう意味だ。」
「うーむ。
知りたいだろう?」
オルランドはハルがピクリと眉を動かしたのを見つけて、ニタリとした。
「つまり、彼女の願いを叶えることは、お前自身の出自を明らかにすることにつながる。」
「つまりそれは、希望的観測だろ。」
「いや、私は確信している。」
「その確信は、オレには通用しない。」
「やれやれ、お前はいい子だが、そういう頭の固いところだけはどうにも困ったものだな。」
オルランドは困り顔でそう言うと、小さな古い布製の袋を差し出した。
「お前の母親らしき女性が持っていたものだ。
それが何か、わかるか?」
(オレの、母親?)
ハルは、母について初めてオルランドの口から聞いたような気がした。
なんの変哲もない小さな布袋を指で軽く撫でる。まるで森の中にいるような、深く清々しい香りがした。
「イヤ…。」
「それは、人間の臭いを消すための匂い袋だ。
人間である彼女がそれを携帯していたということは、そうしなければならない場所にいたということだ。
わかるな。」
人間の匂いを隠さなければならない場所。考えられる場所は、ただ一つ。妖精の領域。
長いリアフェスの歴史の中で、人間と妖精は互いの存在を認めてはいるものの、決して交わることのない間柄。
それはかつて妖精界の王とミースの王が交わした誓約であり、お互いが暮らす領域は明確に分けられ、人間が妖精の領域で生活することは許されない。
「あり得ない。」
「あり得ない?
お前の口からそのような言葉が漏れるとは、驚きだな。
この世の中に、あり得ないことなどないぞ。
私はお前に、何を教えてきたのだろうね。」
オルランドはそう言うと、静かに茶をすすった。
「ん?これは?」
ハルが呟いた。手にした匂い袋の中に、小さな異物がある。
「出してみよ。」
ハルの掌に、小さな金属が転がり出た。
素朴で何の飾りもない、薄い小さな板を筒のように湾曲させた品。しかし肌に触れた瞬間、透き通った湧水のような不思議な力を感じた。
「妖精界の物だ。
それでもまだ、お前はあり得ないと言うかね。」
「これも、その…、オレの母親らしき女性が?」
「エズガルドの話では、それは小さくて細い矢の形状をしたまま、彼の自宅ドアに突き刺さっていたそうだ。」
エズガルドというのは、リアフェスの南の国ウルスターをさらに南下した場所に暮らす、巨人族の男だ。赤ん坊のハルをオルランドのもとに連れてきた張本人で、ハルも幼い頃から面識がある。
「その矢が、彼女をエズガルドのもとに導いたのだろう。
故に、放ったのは別の人物。
その小さな装飾品には、凄まじいほどの妖精の力が込められている。
よほど、お前とその女性を守りたかったのだろうな。」
エズガルドがドアから引き抜くと、矢は、今ハルの手元にある形に戻ったのだという。
「それは耳につけるものだ。
試してみるといい。」
「これを?」
「ああ。」
「妖精の装飾品だぞ?」
妖精と人間は体質が違う。これはよく知られていることで、ウィザードにとっては常識。
『凄まじい妖精の力が込められたもの』を身につけることに、ハルは一抹の不安を感じた。
「そうさな。
だが、何か分かるかもしれん。
代わりに私の耳につけてもいいがの?」
「いや、いい。
オレがつける。」
ハルは、にべもなく拒否した。
オルランドなら妖精の装飾品を身につけても大事には至らないだろうが、知り得た情報を簡単に話してくれるとは思えない。それよりもまた、何かのだしに都合よく使われるに決まっている。加えて、教えられた情報が正しいとも限らない。オルランドは、そういういやらしい男だ。
覚悟を決めて、左耳の縁にはめてみた。警戒心とは裏腹に、何事もおこらない。
「身につけるだけならば、問題ないようだの。」
「そのようだ。…!う…あぁぁ!」
突然、ハルが苦痛の声をあげた。
「ふん、だが。
干渉しようとすれば、拒絶反応が起こる。」
「こ、この…くそジジイ…。
はかっ…たな…。」
「今のお前なら、耐えられる。
外すなよ。」
無理に外せば、間違いなくお前は死ぬ。
オルランドは至極冷静な顔でそう言うと茶をすすり、ロッキングチェアをのたりのたりと揺らした。
「うぅっ。」
ハルは、鉄で頭を殴られているような、鉈でかち割られているような、引き裂くように強烈な頭痛に襲われていた。動悸が激しくなり、胸やけが襲ってくる。彼は先程茶を入れたキッチンに走って行き、嘔吐した。
チカチカと目の前がかすみ、力が入らない。頭痛に耐えかねて、ハルは崩れるようにガクリとカスタード色の空間に膝をついた。
彼は走馬灯を見ていた。頭の中を早送りの声が次から次へとこだまし、場面が流れ、自分が何を見ているのかわからないほどだった。
「うっ…ぐぁぁっ。」
拳を握りしめ、時に両手で頭を抱え、痛みを逃すようにうめき声をあげる。
まるで自分の身体が作り変えられているような、記憶の奥深くに銛が撃ち込まれていくような、これまでに経験したことのない苦痛だった。
「はぁっ…。」
痛みが和らぎ、頭に響く声が次第に遠くなった。
ハルは顔を上げてオルランドを睨みつけると、そのまま力尽きて倒れ込んだ。
「よく耐えた。
さぁ、眠れ。」
オルランドは、憔悴してうずくまるハルの肩を優しく撫でた。
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ハルは、ぼんやりと自分の意識が戻りつつあるのを感じた。
肩や顎のあたりを、何か柔らかいものが触れる。フワフワと優しく、微かに土臭い匂いが漂う。
メェ~… メェ~エ…
(めぇ?)
動物の鳴き声に我に返り、彼はヴァイオレットの目を見開いた。するとそこには、辺りを埋め尽くすほどの金毛の羊が群がっていた。
ハルは上半身を起こし、上を見上げた。ここは、自分が落ちた崖の下だ。
繭のように彼を包む木の根に守られ、ハル自身は無傷だったが、崖から飛び出した根の力に耐えられず、命綱の糸は切れてしまっていた。
(うまく制御できず、気絶したのか…。)
彼は、自分の左耳にはめられた耳飾りに触れた。それは、昨夜オルランドから渡された、自分の出自に繋がる品。森を操れるほどの妖精の力を宿したものだった。
霧の中の地形を見ることができたのも、金毛の羊の居場所を知ることができたのも、落下のさ中に根に守られて無傷なのも、全てこの力による。
(確かに、凄まじいな。)
妖精と人間の領域は明確に分けられているとはいえ、全く交流がないわけではない。
妖精界の装備品は人間界にも出回っており、高価であるもののその効力の素晴らしさは折り紙付きだ。しかし、ハルの耳に装着されたこれは、少し勝手が違うようだった。
とある妖精の強い念が込められていて、その念に干渉すると拒絶反応が起こり、収めることができなければ力を使いこなせない。
幸いうまくいったが、負けてしまえば装飾品の念に取り込まれて命を落とすところだった。
オルランドはそれを知りながら、ハルに試させるよう仕向けたのだ。
(あぁ、あのくそジジィは早く死ねばいい。)
ハルは心の中で、苦々しく悪態をついた。
メェ~ メェ~…
ハルの苛立ちに呼応するように、牧歌的でのどかな鳴き声が響く。
彼は、毛艶の良さそうな金毛の羊を数匹選ぶと魔法で眠らせ、袋の中に入れた。まだ日は暮れていないが、正午はとっくに過ぎている。リビエラを心配させているに違いなかった。
ハルは、崖を突き破って地中から延びていた根を渡りながら上を目指した。そして根は、まるで生き物のようにハルを上へ上へと押し上げ、彼が崖の上にたどり着くと、全てが元の地中に戻っていった。
(さて、この濃霧。どうやって村に戻ろう。)
崖の途中から霧が次第に濃くなり、登りきったところは視界ゼロ。ハルが思いあぐねていると、一瞬、地面にきらりと光るものを見つけた。探るとそれは、崖から落ちる時に切れたハルの命綱だった。
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一方こちらは、霧の山地へ続く森とクリーバ村の境界。
収穫祭の後片付けに追われていた一人の村人が、カタリカタリと鳴る巻き糸の音を耳にした。
(おや?)
近づいてみると、放置された木枠の中の糸がゆっくりと巻き取られていっている。
ここは数時間前、糸が切れたと騒ぎがあった場所だった。
それは自分の目を疑うほど信じがたい光景だったが、同時に良い兆候であるかもしれなかった。
「糸がっ!た、大変だっ。」
村人は声をあげ、慌てて皆を呼びに走った。
それはちょうど、ザグウェルが逃げるように村を発った直後のことだった。
「きっとハルだ!」
村人からの知らせを聞いて、リビエラは誰よりも大きな声で叫んだ。その声に連鎖するように、辺りがにわかに慌ただしくなる。
「やだ、ちょっとお待ちなさいよ、リビエラ!」
ヴァニラが慌てて後を追う。
「準備なさい、ヴァニラ!」
「は、はい!アジェラ先生!」
師匠に引き留められたヴァニラは、小瓶を掴むとリビエラのもとへと駆け付けた。
「おーい!ハルっ!ハル!」
リビエラが、霧深い森に向かって何度も叫ぶ。そして確かに木枠の箱は、村人の報告通りピンと命綱を張って森へと伸びていた。
「さっぱり見えないけど、向こうにハルがいるんだよ。」
「確かに、そのようです。」
アジェラが答えた。そしてヴァニラを振り返る。
「ヴァニラ、粉は?」
「はい、こちらにあります。」
ヴァニラは、粉末が入った小瓶を手にして言った。
「よろしい。
それでは、あなたがなさい。
ヴァニラ・エイカー。」
「え?」
「ウィザードとしての初仕事です。
あなたに任せます。」
「あ…。は、はいっ!」
ヴァニラは一瞬アジェラが何を言ったのか呑み込めなかったが、すぐに大きな瞳を輝かせた。
彼女は武者震いした。思ってもみなかった、初仕事の瞬間である。
彼女は木枠の正面に立ち、小瓶の栓に手をかけた。瓶の口からポンッと空気の抜ける音がして、ブルーグレーの粉煙が上る。その粉を少量糸にふりかけるのだが、ここで動きを止めた。
小瓶を持つ右手が、小さく震えている。
「大丈夫。
心を落ち着けて。
いつものようにすればいいだけです。」
アジェラの温かい手が優しく背に触れた。
これは簡単な術。いつも通りの手順でやれば何の問題もない。それでも、言葉にできない緊張感に襲われる。幼い頃からウィザードになることを夢見続けたヴァニラの、初仕事。絶対に失敗したくない。
彼女は深く深く深呼吸した。
(大丈夫。これは待ち望んでいた瞬間よ。私は、できるわ。)
彼女は糸に粉をふりかけると、やわらかく息を吹きかけた。すると粉が糸を伝い、そこを中心に黄緑色の燐光が輪を描いて伸びていった。
『ケラヴ ノーシアス のびろ わが意思の その先へ 』
糸を中心に光のトンネルができ、霧を割いた。そこだけがまるで空洞のように森の奥が見える。
リビエラが森に飛び込んだ。霧がなくなってしまえば、怖いものなどない。
「その調子です、ヴァニラ。」
ヴァニラはさらに二回、同じ作業を繰り返した。繰り返すたびに、トンネルが伸びる。
「ハル!いるんだろっ。
返事しろ、ハル!」
リビエラは糸をたどり、森の奥へ奥へと叫びながら走った。勢いよく草を蹴り、木の根を飛び越え、小鹿のような軽快さで森を突っ切る。
ザザッ
「うわっ!」
リビエラの叫び声と共に現れたのは、ハルだった。
周囲に風を作りながら糸をたどっていたところに光のトンネルが伸びてきたため、飛行しながらこちらに向かっていたのだった。激突の直前で、お互いが止まる。
「ハルっ!」
リビエラは、ハルの顔を見てようやく安堵に包まれた。
「少し無茶をして、糸が切れた。
…すまない。」
ハルは、幾分気まずそうに誤った。
言葉は少ないものの、心配をかけてしまったことは承知している。
「ははっ…。」
気の抜けた声で、リビエラは軽く笑った。包帯に血をにじませた両の拳をグッと握りしめる。
「ったく、心配かけやがって。
ほら、一つ袋を持ってやる。
僕によこせ。」
「は?
自分で持てる。」
「そういうわけにはいかないんだよ!
僕が持ってやるって言ってるんだから、一つよこせっ。」
リビエラは嫌がるハルから金毛の羊が入った袋を無理やり一つ奪うと、村に向かって歩き始めた。
「ほら、早く戻るぞっ。
助けてくれた皆に礼を言わなきゃ。」
そう言って背を向けたまま、琥珀に滲む涙を拳で拭った。




