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3-1.霧

 

 ララが刻の水底に落ち、リアフェスに戻るために必死になっていた頃、ハルとリビエラはイーリーの南西約五十キロの地点にある、クリーバという村にいた。

 クリーバもイーリーも、西の国コルマクにある。


 リビエラは一人木の根元に寄りかかり、静かに目を閉じていた。そばでは、四角い木枠の中の特殊な糸巻きがカタリカタリと音を立てている。


「ちょっと、あなた。」


 気の強そうな童顔の女が、持ち場からリビエラに声をかけた。


「ん…。僕?」


 リビエラが、眩しそうに瞼を開ける。


「そう、あなた。

 徽章がないみたいけど、まだウィザードじゃないのね。」


 彼女は、勝ち誇ったように得意げな表情で言った。


「まだ?…僕、ウィザードになるつもりはないけど。」


「何ですって?

 あなた、ウィザードになるつもりがないの?

 ウィザードになるつもりがないのに、ウィザードの助手なの?

 ふんっ。照れ隠しなら、もう少しましな言い訳になさいよ。」


 彼女は両手を腰に当て、信じられないといった顔でリビエラを見た。


「照れ隠しってなんの?

 どうして僕は君に怒鳴られなきゃいけないわけ?」


「失礼ね、怒鳴ってやしないわ。

 少し驚いただけよ。」


「ウィザード志望じゃないやつが助手をしていたら、そんなにおかしいかい。

 そういう君は、新米ウィザード?

 ピカピカの徽章を見せびらかしたかったんだろうけど、おあいにくさま。」


 リビエラは、数メートル先で同じように木枠の箱を護る彼女を観察しながら言った。

 赤いエナメルの上品な靴に、腰のあたりがふわりとしたスカートをはいた細身の身体。胸には真新しく輝くウィザードの証。階位は第十位マルクト。


 髪の毛は毛先がくるんとカールしていて、磨き上げた銅のように輝くコパー色。幼さの残る白い肌の丸顔に、長いまつ毛と大きな瞳でリビエラをとらえ、血色の良い紅色の唇をきゅっと尖らせている。


「しっ、失礼な言い方しないで。

 そんなことするわけないじゃない。」


 彼女の耳が赤くなる。半分、図星か。


「じゃぁ、どうしてそんなに上から目線なの?

 その態度、感じがいいとは言えないけど。」


「あなたがその巻き糸をほったらかしにして居眠りしているからでしょ!

 あたしは忠告してあげてるのよ!

 ウィザードとしての自覚が足りないんじゃないのかしら?って。

 でも、ウィザードじゃないなら納得だわ。」


「ああ、そう。

 ご忠告どうも。」


 リビエラはそう言うと、再び瞼を閉じた。


「だ・か・ら!

 それをおやめなさいって言ってるのがわからないの?

 巻き糸は、霧の山地に入ったウィザードの命綱なのよ。」


「目を閉じているから寝ている、というのは早計じゃないか。

 頭が固いんだね。

 優秀なウィザードになれないよ?」


 リビエラは片目を開き、ニヤリとしながら女の子を見た。

 彼女は赤面する。


「もっと助手らしく、真面目になさいよ。

 ふんっ。」


 リビエラと目も合わせずにそう言うと、彼女はツンとした表情のまま口をつぐんだ。


「ねぇ、僕はリビエラ。

 君の名前は?」


 リビエラは彼女に話しかけた。実は死ぬほど退屈していたので、話し相手ができたことを内心喜んでいる。


「ヴァニラよ。」


「バニラ?

 かわいい名前だね。」


「バニラじゃないわ。

 バじゃなくて、ヴァよ。

 田舎臭い発音しないでくれる?」


「その高飛車なしゃべり方と発音からして、バニラは東の国ランスター出身とみた。

 どう?当たってる?」


「正解よ。

 そういうあなたは西の国コルマクね、リビエラ。」


 西の国コルマクと東の国ランスターは、昔から敵対意識が強い。遥か以前には、両国の王たちの国自慢が元で、リアフェス全土を巻き込む戦いが勃発したこともある。


「そうだよ。

 かの国に行けば、僕の名前はさしずめリヴィエラだね。

 よろしく、バニラ。」


 リビエラは楽しそうに小さく笑った。


「ヴァニラだって言ってるでしょ。

 何がおかしいのよ。」


「僕、今日の収穫祭は初めてなんだ。

 君は来たことがあるの?」


「前に一度だけ、来たことがあるわ。

 でもその時は勉強のためについてきただけで、助手として参加するのは今日が初めてよ。」


「ふぅん。

 ねぇ、霧の山地に来る金毛の羊はすごく小さいって、本当?」


「本当よ。

 そうね…、ちょうど大人の両掌に乗るくらい。

 あなた、少しは勉強してきたのかしら?リビエラ。」


「そうだねぇ、僕が知っているのは、金毛の羊が妖精の領地から霧の山地の草を食べにこの時期やって来るってことと、その毛が超高価な金糸になるってことくらい。」


「な、なにその重要度一のレベルの低い情報は…。

 あなたがウィザードじゃなくて良かったと、心底思ってしまったわ…。」


 ヴァニラは地面に手をついて、愕然とした。


「いいわ、もっと重要な事を教えてあげる。

 まず、霧の山地。

 ここは霧が常に発生する土地なの。

 特に朝から正午にかけて、濃い霧が発生する。

 朝はまだ薄めだけど、正午からは視界ゼロの濃霧になる。

 そしてこの霧に紛れて、金毛の羊たちは移動するの。」


「ああ、だから今日の収穫祭も正午までなんだね。」


「そうよ。

 私たちウィザードの仕事は、この視界ゼロに等しい霧の中で羊を捕まえて、村に戻ってくること。

 そうね、一人だいたい4、5匹かしら。

 羊から刈り取った毛の量に応じて、前年の羊毛で作られた金糸を報酬としてもらうの。

 この行事は収穫祭なんていう名目で行われているけど、競技に近いわね。」


「ウィザードを競わせなくったって、皆で風を起こして霧を吹き飛ばせば、もっと簡単にならない?」


「普通の霧ならね。

 ここのは妖精界から流れてくる霧だから、吹き消すには嵐級の風が必要になる。

 そんな風を起こしたら、羊まで吹き飛ばされてしまうわ。

 そして、火気も厳禁よ。

 火を使うと霧に引火して、山火事がおこる。

 水属性の魔法も、洪水を引き起こして羊を押し流したり、氷の刃になって羊を傷つける。

 だから地道に捕まえるわけ。

 そしてこの村に戻ってくるための命綱である巻き糸は、東の国ランスターのゴッツ山地で採れた特殊な鉱石で加工してあるの。

 決して絡まらない、平均的な重量の大人がぶら下がってもすぐに切れたりしない、頑丈な糸よ。」


 ヴァニラは、『東の国ランスター』と言ったところで語調を強めた。彼女は、自分の国に誇りを持っている。


「ぶらさがる?

 ぶらさがるなんてことがあるの。」


「あるわよ。

 むしろ、その点が一番危険視されているのよ。濃い霧のせいでここは飛行禁止。

 霧の山地には大地の割れ目や崖が多くあって、霧で視界を奪われるから、誤って落ちやすいの。

 木枠の箱は術で固定してあるからそう簡単に持って行かれやしないけど、巻き糸が急速に回転したりすると、落ちた可能性が高くなるわ。

 私たちの役目は、ウィザードが万が一崖や割れ目に落ちた時に、その糸を止めることよ。」


 カタカタ


 ヴァニラが説明したそばから、リビエラの巻き糸が今までとは違う音を立てた。


「え?これは…?」


 カタカタカタカタ


「あなたのとこのウィザードが、走っているのかもしれないわ。

 本当に落ちる時は、ものすごい音がするらしいもの。」


「そうか。」


 ヒュッン。シュルルルッ。


 突然、巻き糸が高速回転し始めた。


「わっ!」


 糸を見つめていたリビエラが叫ぶ。この尋常でない速さは、確認するまでもなく落下に違いなかった。


「た、大変だわっ。糸を止めるのよ!」


「止めるって、どうやってっ?」


 呪文を唱えるに決まっているじゃない!

 ヴァニラはそう叫びかけて、口ごもった。リビエラはウィザードではないのだ。呪文を唱えろと言ったところで、できるはずもない。

 助手が他の助手の手助けをすることは、禁じられている。これは、自分のウィザードの命を最優先に守るという確約のためだ。二人の沈黙の中に、暗黙の了解が交わされていた。


「くそっ!」


 リビエラはそう声をあげると、勢いよく伸びていく糸にとびかかり、身体で押さえつけた。

 特殊な糸は服を切り裂き、尚も伸び続ける。


「ぐっあぁっ。」


 堪えるような声が響いて、リビエラの手から血しぶきが跳ね、見る間にしたたり出た。素手で糸を掴んだために糸が皮膚を擦切り、肌に食い込んでいる。


「リビエラっ。」


「だ、大丈夫。」


「あぁっ。ち、血だわっ。どうしようっ。」


 ヴァニラの白い肌が、見る間に青白くなった。


「大丈夫…。落ち…着いて、ヴァニラ。」


 負傷した自分が無傷の女の子をなだめるなんて笑えないほど滑稽だと思いながら、リビエラは苦し紛れの笑みを見せた。焼けるような熱さと刺すような痛みに顔を歪めていても、掴んだ糸は決して放さない。


(無事でいて、ハル…。)


 自分のことよりも、ハルの身が心配だった。

 ハルに限って、しくじるなどという言葉は存在しないとリビエラは信じている。しかし一瞬、村の広場で声をかけてきたあの嫌味な男の顔が浮かんだ。


 不安を打ち消すように歯を食いしばった次の瞬間、掴んでいた糸に小さな振動が伝わる。


「えっ…。」


 あり得ない顛末に目の前が真っ暗になり、愕然と力なく伏せるリビエラの上で、ヴァニラの叫ぶ声が響いた。


「糸が切れたわ!けが人よ!早く救護を!」


 ------------------------


 時は、少し遡る。


 まだわずかに視界がとおる霧の中、ハルは村を出て森を歩いていた。

 村からはこの辺り一帯の概略地図が配られるものの、お粗末でとうてい役に立ちはしない。

 他のウィザードは、より詳細な地図や術を使った使役の案内役など、それぞれが妖精界から流れるこの特殊な霧対策を万端に整えていた。


 一方ハルは、いくつか用意してきた策のうち、手に入れたばかりのもっとも不確定なやり方を試みようとしていた。


 ダークブロンドの青年ウィザードは、金毛の羊ではなく樹齢の長い大木を求めて森をさまよう。

 森の中は大地の亀裂がなく、比較的安全に歩ける。霧に紛れて漂う木の命脈をたどり、理想的なものを一つ見つけた。


 彼は目の前にそそり立つ大樹の表皮に触れると、木と掌の接触面ただ一点に意識を集中させた。

 辺りが真っ暗になり、大樹と意識がシンクロする。


 大樹と繋がったハルの意思は、そのまま大地に張り巡らされた根をつたい、隣の木へ、そしてまた隣の木へと、まるで一筆書きのように広がり、闇の中に白い線で描かれた一帯の図面が心の中にできあがった。

 木々の高低から土地の隆起、この先の崖や岩場、大地の亀裂と谷。霧に隠された全てが、手に取るようにわかる。

 さらに意識を集中させると、大地を通じて歩き回るウィザードの気配、そして金毛の羊の群れまで確認できる。これは、期待以上の成果。


(?…羊の群れが、あんなところに。)


 ハルは向かうべき場所を決めると、樹からそっと手を離した。霧の中をゆっくりと歩く。


「おい、キミ。」


 近くを歩いていた中年のウィザードが、ハルを見て声をかけた。

 反応がないハルの背中に、彼は少し不審に思ってもう一度声をかける。


「聞こえないのか、キミ。そっちは…。」


 崖がある。そう言おうとしたとき、背後から別の声がした。


「どうした?」


 声の主は、村の広場でハルに声をかけたあの痩身のウィザードだった。


「この先に若いウィザードがいたんだが、崖の方へ向かっているんだ。」


「崖へ?」


「ああ。声をかけても、反応がない。」


 中年のウィザードが心配そうに言う。


「そいつは危険だな、引き留めよう。

 幸い、ここはまだ霧が薄い。」


 男はそう言うと、小さな風を起こした。半径二メートルほどの距離の霧を吹き散らしながら進む。するとすぐ前方に、うっすらと人影が見えた。


「おい若いの、そっちは崖だぞ。

 戻ってこい。

 聞こえないのか?」


 ブワッ


 周囲の霧を吹き飛ばすと、向こうに金髪の男の後姿が垣間見えた。


(フォンウェール!)


 前方にいたのは、先ほど自分が広場で声をかけた男。任務中の雪山で仲間を見捨て、逃げるように広域捜査局を辞めたと従弟が話していた、悪名高いフォンウェールだった。


「おい、なぜ無視する?」


 自分の声を無視し続けるハルに、男は怒りを覚えた。

 あの若さで、ウィザードの階位が自分よりも上。その事実だけでも癪に障るのに、年上を愚弄する生意気な態度が気に喰わない。

 他人の忠告も聞かない無礼な男なら、仲間を見捨てたという噂も事実に違いないと思えた。


「馬鹿にするのもいい加減にしないか!」


 男はハルに向かって弾丸のように凝縮された風を放った。

 それはまっすぐに霧を割き、ハルの肩をかすめる。

 自分が外したのか、それとも相手が避けたのか、水に溶けたインクのように揺れる霧のせいで、よく分からない。


 その時、ぼんやりとかすんだ向こうでハルがくるりと向きを変え、こちらを見た。ヴァイオレットの瞳は自分を見ているようで、何か別のものを見ているようでもあった。


「おのれ…。」


 無言のハルに、自分でも抑制できないほどの、吹き上げる溶岩のようにドロドロした怒りがあふれてくる。


(なんなんだ、この抑えようのない苛立ちは…?)


 男は抗えない憎悪に驚きつつ、ギリリと奥歯を噛んだ。

 ハルの身体がふらりと揺れる。


「おい…、なんの真似だ?」


 目を丸くする男の前で、ハルは仰向けの姿勢のまま、まるで身を預けるように崖の下へ落ちて行った。


 ------------------------


 リビエラはいくぶん気を持ち直したものの、ぽっかり空いてしまった心が完全に回復したわけではなかった。

 金毛の羊をとらえたウィザードが一人、二人と村に戻り始めると、その中にハルの姿が紛れているのではないかと探した。

 陽が高くのぼり、時計の針が正午を示してもなお、村と森の境界でハルの帰りを待ち続けた。


 糸が切れてはどうしようもないと口々に慰められたが、捜索に行こうと言う者は誰もいない。耐えかねて一人で森へ入ろうとすると、ヴァニラを筆頭に「素人が無謀なことをするものじゃない」と取り押さえられた。苛立ちと、不安と、諦められない気持ちが、空白の心に去来する。


 ハルはまだ、霧の山地のどこかで生きてる。絶対に。

 リビエラは何度も心の中で呟いた。


「しかし私は見たのだぞ。君はあの若者に攻撃していたではないか。」


「誤解だ!俺は突き落としてなどいない!」


 近くで言い争う男たちの声が耳に入った。姿が確認できるところまでこっそり近づくと、そこにいた片方の男は、今朝ハルに暴言をはいたあの痩身のウィザードだった。


「…あれは、あいつが返事をしなかったからで、悪意はない。

 あなたも反応がないと言っていたじゃないか。」


 嫌な予感が、的中したように思えた。


「おい。あいつって、誰のことだ?」


 リビエラは、男の背後から低い声で割って入った。


「お前は…。」


 男の顔が、一瞬強張る。


「まさか、ハルのことじゃないよな?」


「ハル…?」


「お前が卑怯者呼ばわりしたフォンウェールじゃないよなって聞いてるんだよっ!このっ。」


 リビエラは勢い男の胸ぐらを掴んだ。両手にまかれた包帯から、鮮血がにじみ出る。


「お、おい…。乱暴はやめないか。」


 中年のウィザードが慌ててなだめる。しかしリビエラは、手を緩めない。男を追い詰めて押し倒し、羽交い絞めにした。


「お前、ハルに何をした!答えろ!」


 美しい琥珀色の瞳に、涙がにじんでいた。


「く、苦し…。誤解だ…。」


「何してるの、リビエラ!落ち着きなさいよ!」


 騒ぎを聞きつけて、ヴァニラが走ってくる。


「本当に、誤解だ…。」


 引き離された男が、息を整えながら口を開いた。


「俺は、あいつを呼び戻そうと引き留めただけだ。

 それなのにあいつは…、フォンウェールは自ら落ちた。

 あれはきっと懺悔だ。

 仲間を見捨てたことを悔いて、崖に飛び込んだんだ!」


「そうは言っても、死人に口なしといいますから。

 あなたの言葉には、信じるに値する証拠がない。ザグウェル殿。」


 凛々しい女性の声に、一同が振り返る。声の主は、ヴァニラの師匠アジェラ。ウィザード階位は第四位セド。褐色の肌に艶めく黒髪の女性だった。


「しにん?ハルはまだ死ん…」


 アジェラは、反論するリビエラの唇をネイルが施された美しい指で優しく押えた。


「とはいえ、突き落としたという証拠もない。

 疑わしきは罰せずというではありませんか、リビエラ。

 力づくでザグウェル殿を責めるのは、感心しない。」


 冷静な諫言に、皆が静まる。


「僕だって…」


「言い争いを続けて、あなたの相棒が戻ってきますか。

 明朝、私が捜索に出ます。

 午後の濃霧では埒があかない。

 いいですね?」


 アジェラは、騒ぎを聞きつけて集まっていた取り巻きに向き直った。


「皆さま、私たちは今日すべき務めを無事果たしました。ここで散開いたしましょう。

 ごきげんよう、ザグウェル殿。」


「そ、そうだな。

 もうここに用はない。

 悪いのは、自分から落ちたあいつだ。

 俺は、謝らない。」


 ザグウェルはそう言うと最大限の虚勢を張り、面倒ごとから逃げるように村を去った。



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