2-6.黒妖
少女が出してくれた扉の先にあったのは、湖だった。
松のような針葉樹に囲まれた、静かな水辺。水上にも空にも生物の気配がない、静寂の自然。私はその中に、ポツンと一人でいた。
歩くと、小石のこすれる音がする。
私は、この無機質に美しい不思議な場所に腰をおろして『使い』を待った。
膝を抱え、たゆたう波を見つめる。
じっとしていると気持ちが落ち着いて、次第にリビエラに対する自責の念が湧いてきた。
そもそも私がここにいる原因は、リビエラの忠告を守らなかったことにある。
リビエラの忠告を忘れて霊廟に近づき、リアフェスへの帰り方もわからない不思議な世界に入り込んでしまったのは、ギルのせいじゃなく私のせい。私がもう少し慎重だったら、こんなことにはならなかった。
(謝りたいな、リビエラに…。)
しんみり一人反省会をしていると、視界の隅に黒い獣の足が入り込んだ。
「?!」
思わず、息を飲む。
視界にさらに入り込んできたソレは、燃える石炭のような赤い眼をした、黒い犬だった。
一瞬で、恐怖という名の信号が身体中に伝達され、硬直する。ねっとりした汗が出てきて、指先一つ動かすことができなくなった。
(ど、どど、どうしよう。この場合、視線は合わせない方がいいんだっけ。目をそらした方が負けを認めるんだっけ?ひゃっ!)
犬が、燃えたぎる緋色の眼を近づけてきた。
驚きと恐怖で声を詰まらせている私の前で、ゆっくり頭を垂れる。
(この姿勢は…。)
そしてそのまま、私の服のポケットを静かにつついた。
(ん…?何か入ってる?)
ポケットの中を探ってみると、あの毒々しいピンク色のスナックがあった。
「食べたいの?」
私は、手のひらにのせて差し出した。けれども犬は、顔をふいと横に背ける。食べたいわけじゃないらしい。
(このお菓子、どんな味がするんだろう。)
行き場を失った小さな塊をじっと見ていると、純粋な好奇心に胸をくすぐられた。サクサクと頬張る少女の姿が、脳裏をよぎる。
あんなに食べていたんだもん、不味くはないはず。食べ物を粗末にしちゃいけないわ。
そんな結論に至って、私も同じように口に放り込んだ。
サクリ。
刹那、私は燃えるような口もとを抑えて湖に駆け寄り、顔を水面に突っ込んでいた。
粘膜がカプサイシンの総攻撃を受け、鼻と口と喉に激痛が走る。顔中が熱い。
あまりの衝撃に我を忘れ、呼吸も忘れ、水に飢えた獣みたいに夢中になって水を喉にかき入れた。
「ぶはぁっっ。」
辛すぎて死ぬ!
”そのくらいにしておけ。”
にわかに、低い声がした。
「えっ…?」
頬から顎に、ツツと水が滴る。
「今、キミがしゃべった?」
私は、私の後ろにいるただ一匹の存在、漆黒の犬に話しかけていた。
”お前の意識に、話しかけている。”
頭の中で、再び声が響いた。
「ああ、そうよね。」
彼女は使いを送ると言っただけで、人だとか犬だとか言わなかった。
ピンク色のスナックが甘いとは限らないし、『使い』が人であるとは限らない。
私は頭を垂れ、冷たい水の中の小石を両手に感じた。
彼は、ギルを助けるでも迎えるでもなく”拾いに行く”と言った。
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人生の中で、犬の背中に乗って空をかける日がくるとは思わなかった。
犬といっても、ただの犬じゃない。彼は体の大きさを自由に変えることができ、私が十分に乗れるほどになった。
フサフサの毛並みは、手綱のようにして掴むのにちょうどいい長さ。
「刻の水鏡まで行くの?」
私は大声で叫んだ。声が風に取られて、普通に話してもなかなか届かない。口の中の痛みを忘れるにはちょうど良かったけれど、喉には悪い。
”馬鹿者、意識を使って話せ。”
「私にもできる?」
”そのために、湖の水を飲ませたのだ。”
曰く、あの湖の水を飲むと、同じ能力を持った相手と意識を通じて会話できるようになる。…らしい。
一つ不満を言わせてもらえば、もっと親切な飲ませ方があったのではないかと思うけれど。
”意識…。こうかな?どう?”
”上出来だ。ここは蛭沼の上だ。あまり呼吸するな。”
”うん、わかっ…”
途端に身体に力が入らなくなり、私は溶けたアイスみたいにだらりと崩れた。
(あれ…落ちてる…。)
犬の背中を、ところてんみたいにスルリと滑り落ちる。
ガシッ
黒犬が私の身体をくわえた。
”おい、しっかりしろ。”
”ごめん…、身体が痺れて、力が入らない。”
手の指先から足先まで、力を入れた感覚がなくなって思うように動かせない。
”蛭の毒気にやられたな。
この下の沼に住む蛭は、痺れ毒を出す。”
放出された毒が、大気に混ざって立ち上っているのだという。
”あ、そう。”
もう少し早めに教えて欲しい情報だったわ。
”これでも、かなり高所を走っているつもりだぞ。”
この程度で痺れるとは、なんとやわな奴だ。”
”どうも敏感なようで。ダメみたい。はは…。”
意識を使って話しているけれど、この時私の口元は、痺れて涎がタラタラ落ちていた。絶対に誰にも見せられない恥ずかしい姿。
”そもそも、なんでこんなところを通るの…?”
”迂回する時間がない。”
”あ…、そう。”
私はうなだれた。犬に咥えられたまま、四肢と涎をダラリと垂らした情けない格好で空を飛ぶ日が来るなんて、一体誰が想像できた?
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「ねぇ、元に戻ったみたい。」
私は、黒犬に話しかけた。
彼が高度を上げてくれたことと、吸った毒が僅かだったこともあり、私の身体はほどなく自由が利くようになった。恥ずかしい涎も、もう滴らない。早く、まともな姿勢に戻りたい。
”そうか。”
彼は短く返事をすると、すかさず私を軽々と振り上げた。
「ええっ?」
私は子どもが放り投げた人形みたいに宙に舞い、次の瞬間、急速落下した。
ドサッ
なす術もなく、うつぶせの状態で彼の背中に落ちる。
「な、なんて乱暴な…。」
肺を抑えながら、声を絞り出した。
”何か言ったか。”
”私、あなたたちみたいに頑丈じゃないのよ。”
これでも丁寧に不満を述べたつもりだった。
”そうか。”
反省しているのかいないのか、黒犬はそう短く答えると何も言わなくなった。
私たちは、島の端が見えないほど大きな浮島の上空を駆けていた。ここは、これまでに見た浮島とは別格の大きさ。確かに、迂回していては時間がかかりすぎるのかもしれない。
蛭の沼は、ヘドロが溜まった池のような水面があちこちに見える陰気臭いところだったけれど、今は若草色の野原が広がっている。クリーム色の綺麗な花が、敷き詰めた絨毯のように所々密集していて、そこから吹きこぼれる黄金色の花粉が、フワフワと風に乗って眼下を流れていた。
少し気持ちが落ち着いたのか、私はふと、まだ自己紹介をしていないことに気がついた。
”ねぇ、まだ自己紹介していなかったわ。
私はララ。あなたは?”
”カリガリアン。”
どこかで聞いたことがある、凛々しい響きだった。
”そう。
よろしくね、カリガリアン。”
ブンブンブン
突然、蜂の羽音のようなものが聞こえた。
”なに?この音。”
”音?嫌な予感がするな。”
ブンブンブン
確かに音がするのに、姿はどこにも見えない。私は、きょろきょろと頭を振って探し回った。
「あれ?どこにいる?」
ブンブンブン ブンブンブン
ブン、ブワンッ
右の耳元でひときわ大きな音がして、私は反射的に右側を振り向いた。
「きゃぁぁっ。」
そこに、あの黒い影がいた。最初の浮島でギルと私を追いかけてきた、人型の黒い影。伸びてきた手が、私の顔に触れそうになる。
「いやぁ、来ないで!」
”どうした?”
「影よ!黒い影!
襲ってくる!」
私は、両手を振り回して振り払った。最初は一体だった黒い影が、左にも、その向こうにもいて、その数がどんどん増えてくる。
”おい、暴れるな!
また落ちるぞ!”
「だったら何とかしてよ!
もっと早く走れないのっ?
きゃっ、きゃぁ。」
私は、意識で話すことも忘れて大声で叫んだ。
黒い影は、サウィーンの夜に出会った、あの気味悪い魔性と同じだった。ブワンブワンと音を立てながら飛び回り、砂利を口に含んだようなあの耳障りな声が、身体にまとわりつく。
『ああ、人間。』
『おいで。おいで。』
「あ、ああぁ。
もうヤダ!やめてよぉ!」
ここが上空であることも忘れて、私はカリガリアンの背上で大暴れした。
”こら、よせ!落ち着け!”
落ち着けと言われてすぐに落ち着けるなら、最初から暴れたりしない。恐怖ですっかり我を忘れた私は、案の定、彼から滑り落ちた。身体がくるりと半回転し、仰向けの体勢になると、なおも上から追ってくる黒い影が見える。
『おいで。おいで。』
(イヤ、来ないで!)
あんな耳障りで気持ち悪いものにまとわりつかれるくらいなら、このまま地上に落ちてぐちゃぐちゃになる方がましだと、心から思った。
「来るなー!」
黒い影に混ざって、ひときわ大きな黒が見る間に私に追いついた。
ガシッ
私を掴んて、再び上昇する。上昇しながら、突然青い焔があがった。
ブワッ
一緒になって包まれる。燃えているのに、全然熱くない。
ブンブンという羽音が消え、耳障りな声と黒い影が消えた。私は、またもやカリガリアンに咥えられて空を飛んでいた。
「あ、あれ?」
”正気に戻ったか。”
「は?影は?」
”いない。
お前が見たのは幻覚だ。”
「なっ…!」
”『幻野の原』に咲くクリーム色の花は、幻覚を見せる黄金色の花粉を飛ばす。
その花粉にやられたのだ。”
「な…なによ、それ…。」
襲ってきた黒い影は、私だけが見ていた幻。そう聞かされたとたん、私の両の目から大粒の涙があふれ、揺れる玉になって宙に舞った。
「あ…。」
キラキラと落ちていく涙がはかなくて切なくて、心の中の張り詰めていた糸がプツリと切れた。切れた糸と一緒に、理性が飛ぶ。
「う…うわぁぁん。」
私は声をあげて、小さな子どもみたいに泣いた。
「怖かったよぉ。」
怖かった。それ以外の言葉なんか出てこない。本当に、怖かった。
キャスをもとに戻すまで泣かないと決めていたのに、その決意を流し去るように涙がこぼれ落ちる。
私は、これまで閉じ込めてい負の感情を吐き出すかのように泣き叫び続け、カリガリアンは私を咥えたまま、何も言わずに空を走り続けた。
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目を覚ました時、私は地上にいて、カリガリアンに守られるようにそのうちに寄りかかっていた。
”気がついたか。”
燃える石炭のような赤い眼が、私を見ていた。その表情は心なしか優しくて、私を心配してくれていたのだと感じた。
「えっと、私は…。」
”あまりに泣き続けるから、少し眠らせた。”
「そっか。ごめんね。」
我ながら、迷惑をかけどうしで面目ない。泣きすぎて、目が腫れぼったい。無意識に、大きなため息が出た。
”ねぇ、ここはどこ?”
私は、心なしか暗い雰囲気の辺りを見渡した。うっすらと靄がかかっていて、視界が悪い。
”黒鱗峡だ。
ここには回復の湧水がある。
傷を癒し、力を回復するのだ。
前方を見てみろ。”
言われた通り目を凝らすと、目の前の湧水に半身を浸けて横たわるギルがいた。
暴れるわ泣くわの何もできない私と、力を消耗して身体を動かすこともできないギル。情けない人間二人を、カリガリアンは不平ひとつ口にすることなく世話をしてくれる。本当に、感謝しかない。
”彼は、大丈夫?”
”ああ。
じきに目を覚ます。”
いくつかあるこの類の水場の中で、物騒だけれどここが一番近い、と彼は付け加えた。確かに、殺気に近い不穏な気配を背後にひしひしと感じる。
”ねぇ、後ろの方、すごく嫌な感じがするんだけど…?”
モゾモゾと遠巻きに動く、半透明の黒い塊が気になって仕方がない。
”お前たちを狙っているんだ。”
”どうして?”
”体を乗っ取って、ここから出るためだ。”
”そうなの?
でも…どうしてすぐに襲ってこないの?”
”お前たちを襲う前に、私に喰われてしまうからだ。”
”喰う?って、あなた、あれが主食なの?”
どうりで、スナックを食べないわけか。納得の答えね。
”おい…本気で、言っているのか?”
彼は緋色の眼を見開き、呆気にとられた様子で聞き返した。
もちろん私は本気で聞いたわけだけれど、どうやら聞き返したくなるほどおバカな質問だったらしい。
「えっ…イヤ、えっと。
そんなわけないじゃない…。」
「ん…うぅ…。」
ギルの声がした。うつぶせの身体を自力で仰向けにしている。
「ギルっ。」
私はギルのもとに駆け寄ると、顔を覗き込んだ。うっすらと瞼を開けた彼の目が、私をとらえる。
「ん?ララ…。
どうしてここに?…夢。」
「夢じゃないよ。
調子はどう?」
私は、身体を起こすギルを支えた。
「大丈夫。
君が助けてくれたの?
ここは一体…。」
ギルは何かを思い出そうとして、まだ少し虚ろな目で沈黙した。
「ギル、ここは黒鱗峡という所らしいわ。
それより、少し安全な所へ行かなきゃ。
あ…、えっと、このまま下がっていろって言ってる。」
「誰が?」
彼は、とても驚いた様子で私を見た。
「あのワンちゃん。」
私は、私たちの背後にいる黒犬カリガリアンを見た。
「ワンちゃん…?あれは黒妖犬じゃないか。
どこで仲良くなっちゃったの、ララ。」
彼は驚きを通り越して、どう受け止めていいのかわからないような苦笑いをした。その表情は、私が知っている余裕あるギルに戻っている。
「彼が、俺たちを助けてくれたのか。」
「うん、そう。」
ギルが黒妖犬と呼んだカリガリアンは、全身から揺れる青い焔をあげて、あの半透明の黒い塊に立ちはだかっていた。塊たちは腕がなく、下半身は下に行くほどかすんでいて足もなく、上下に少し揺れながら浮遊している。
頭部らしきところに、灰色の眼球が見えた。
突然、一匹が果敢にも飛び掛かり、堰を切ったように他が続いた。
カリガリアンは、身体から立ち上る蒼炎で襲いかかる塊を焼き払う。焼かれた塊は目をむいて、身の毛がよだつほどの断末魔の叫びをあげた。
身体の大きさを変えたり、空を飛んだり、人間と意思の疎通をしたり。彼が普通の犬じゃないことはわかっていたけれど、青い焔を纏い闘う気高い威風に、私は心が震えた。
カリガリアンが神話の世界から飛び出した、神の眷属のように見える。
バシッ。
靄を割いて襲ってきた一体を、ギルがステッキで薙ぎ払う。
「俺も、さすがに良いところを見せなきゃね。
借りを作ってばかりではいられない。」
力を完全に回復したギルは、小さく唱えて私たちの周りに渦巻く風を起こした。
「おいっ!こっちだ!焔を!」
ギルの呼びかけに、カリガリアンが駆けてきた。
ブワッ
風が鳴って、蒼炎をすくい取る。つむじ風が蒼い火柱に変化し、私たちを包んだまま勢いよく空に飛んだ。今朝ハルが使った魔法と、よく似ていた。
食らいつく塊はことごとく弾き飛ばされ、焼き切られる。
「このまま安全な場所へ行こう。」
私たちは黒鱗峡を後にし、カリガリアンの案内で安全な浮島まで飛ぶことにした。
”私の役目はここまでだ。”
一つの小さな浮島に降り、風の渦が解けたところで、彼が言った。
「ギル、私のチョコを一つ出してくれない?」
私はギルにテンタシオンのチョコレートを一箱出してもらうと、約束通りカリガリアンにお礼として差し出した。
燃えさかる石炭のような眼も、今は怖くない。
「助けてくれて、ありがとう。
ねぇ、ぎゅってしても良い?」
私は、何も言わない彼の首元に抱きついた。
温もりが頬に伝わり、艶のある漆黒の毛が一層柔らかく感じられる。
”本当に、ありがとう。
あなたのこと、忘れない。”
”主の命に従ったまでのこと。
礼には及ばない。”
カリガリアンは静かに答えると、私から少し離れた。
”ララ、ベールをうまく使え。
我が主よりの伝言だ。”
”ベール?わかった。覚えておく。”
今思えば不思議なことだけれど、彼らが何故私のカバンにあったベールのことを知っていたのか、この時は疑問に思わなかった。正しくは、無事に難を逃れたことにホッとしていて、疑問に思う余裕がなかったのかもしれない。
漆黒のカリガリアンは私たちに背を向けると、空に敷かれた階段を駆け上るように走り去った。




