EP10 帰還
それから数年。
努力の末、なんとか圭と同じ高校へ進学できたものの、肝心の本人とはなかなか話せずにいた。せいぜい事務的なやりとりが数回あったくらいである。
この頃の涼は髪を金色に染めており、比較的真面目なクラスメイトや先生からは煙たがられていた。
「校則違反じゃねーんだからいいだろー」と思っていたが、他にやっている人が居ない以上、浮くのは仕方がなかった。
その日。
高校二年生の夏の日。
もうあまり学校にも来ることがなくなっていた涼だったが、何故かその日は出席していた。特段大した理由はない。学校に来ないことに理由はなかったし、授業に出ないことに理由はなかった。だから、学校に来ることにも、理由なんてないのだ。
この頃の涼は、何か足りないと感じながら、それが何かわからず、ただただ日々を生きていた。来てみたもののやはり退屈で、自分の席に座って雑誌を眺めていた時のことだった。
「明日、来るでしょ?」
不意に声を掛けられた。ほがらかでいて、凜々しい声。
「あ?」
声をかけてきたのは同じクラスの哀川圭だ。彼女は優等生スマイルを浮かべつつ、しかし自然体だった。涼が以前感じていた違和感は消え去り、あの大人びた笑顔はもう彼女の顔に張り付いていたようだった。
だからといって、話しかけられて嬉しくない訳がなかった。圭の後ろの方で真面目そうな生徒たちが「哀川さんやめなよー」「殺されるよー」と言っているが、それが気にならないくらい嬉しかった。
だが、そんな気持ちは死んでも悟られないようにムスっとした表情を作ると、涼は返答する。
「なんだ突然。明日?」
「ええ明日。明日は課外授業で美術館に行くのよ」
「あーありましたねーそんなの」
「涼ちゃん絵、好きでしょ? 絶対に来るべきだわ。いや、来なさい。じゃないと進級できないわよ」
「……別に好きじゃねーけどー」
と涼が呟いた頃には、圭は自分のグループの方へと戻ってしまっていた。
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「って、一緒に回ってくれる訳じゃねーのな」
都内の美術館に集合すると、担任が点呼を取り始める。そして、点呼が終わり次第、それぞれ自由に美術館内を見学する。
哀川圭は仲の良い友人たちと、先に中に入っていった。
「なんだよ。くだらねー」
美術品や絵画を一人で見て周りながら、そんなことを呟いていた。一時間ほど彷徨ったくらいだろうか。
「あれは……哀川圭?」
人がまばらな絵画エリアに、哀川圭が一人立っていた。
「絵を見てるのか?」
近づこうと思って、やめた。
「……」
哀川圭は壁に掛けられた絵画を見ながら、一人、静かに涙を流していた。何の絵を見ているのか、涼の位置からではわからない。
だが涼にはそんなことはどうでも良かった。
「何だこれ……」
無表情で涙を流す圭の姿を見て、涼の胸はざわついた。
それは彼女が泣いていて自分も辛いとか、そういった類いのものではない。
圭が、自分以外の人間が描いた絵を見て感情を揺さぶられている。その事実が許せなかった。
「クソ……」
この時、涼の心の中に黒い火がついた。小さく灯ったそれは、これまで抑えてきた感情を燃料に一気に燃え上がる。
「絵でアイツの心に触れていいのは、私だけだ」
涼の頭には、あの夏の日の圭の笑顔が、ずっとこびりついて離れない。
***
***
***
それからの涼の行動は早かった。
昔絵が上手かったと言っても、所詮は小学生レベル。あれ以来全く絵を描いてこなかった涼の実力は、素人と何一つ変わらなかった。
定年間近の老教師が顧問を務める美術部に頭を下げて入部させてもらい、そこで絵の基礎を学んだ。
不良と周囲に認識されていた涼の入部を嫌がっていた他の部員だが、次第に彼女の熱に当てられるように実力を伸ばし、絆を深めていった。
そして、ちょっと遅れて青春を謳歌しつつ、高校二年生の冬。
やはり、元々才能があったのだろう。
コンクールに応募した作品が海外の有名画家の目にとまり、そのまま弟子入り。高校を中退すると数年間、その画家と世界中を旅して回った。その旅でさらに才能を開花させ、多くの作品を生み出し、評価される。
やがて涼自身をサポートしたいという人々と会社を作り、世界各地で作品を生み出していった。
あの日、心の中に灯った黒い炎を絶やさぬまま、気づけば10年間、走り続けてきた。
しかし。
ある日突然、描けなくなった。
無論、依頼された絵を描いて完成はさせる。だが、以前のように自分が満足するような絵は、描けなくなった。今はなんとかなっても、客にはいずれ、ばれるだろう。
『出来なんてどうでもいい、アンタの絵が好きなんだ』
『アンタが描いた絵ならなんだって買うぜ』
なんて優しいことを言うファンの人たちの言葉を嬉しいと思う反面、アテにはしていなかった。彼らは口ではそういいつつ、作品の質や熱量が一定を下回れば、容赦なく去って行く。
世の中には作品が飽和している。
飽きられれば、そこでお終いだ。
「リョウ。君はいったい何の為に絵を描いているんだ?」
もう辞めようかなと思っていた頃。一番信頼しているマネージャーにそう訪ねられた。少し考えてみても、答えは見つからなかった。
あの日。
あの夏の日に心に灯った黒い炎は、もう燃え尽きて、どこにもなくなってしまった。涼の心にはその燃えカスがかすかに残るのみだった。たった10年で、己の全てを燃やし尽くしてしまった。
「一度日本に帰ってみるといい。両親や家族と会って話してみるといい。もう何年も帰ってないんだろう?」
「確かに……でもなー」
別に帰りたくはなかった。理由がなかった。
高校を中退し海外に出るとき、両親とは大喧嘩した。それからしばらくは文句を綴った手紙が届いていたが、画家として成功してから金を送ったら、もう手紙は来なくなった。
「んー」
涼は机に置かれた自身の部屋の鍵に目をやった。じゃらじゃらとキーホルダーがついているが、その中でも一番古いもの。
卵型の玩具。中学に上がる頃には壊れて動かなくなってしまった、かつて相棒が入っていた入れ物。
それを持ち上げると、ふとつぶやいた。
「友達に会いたい……」
「おおっ!」
その言葉をどう受け取ったのか、マネージャーは大喜びで部屋を飛び出す。そして半日後、日本で小さな個展を開くことが決定したと、連絡が入った。
日本での自分の知名度がどの程度のものか知らなかったが、涼はそれを承諾。そして、マネージャーに告げた。
「日本で何も得られなかったら……潔く画家を引退するよ」