油がかかったところで、魔族はやけどなどしないのです
お菓子作りは趣味、というほどでもないのだが、いい気分転換になるのでたまに励んでいる。
だが、大公がちょこちょこ台所に入り込んでは、やはり料理人や勤め人たちに多少の緊張を強いるらしい。それに、仕事の邪魔になってもいけない。
それでキリン君……フェンダーフューに図書館の増改築を頼んだ際、ついでに小さな台所を備えた離れ家を、庭園にも建ててもらっていたのだった。
離れとはいえ、コンテスト一位の奉仕の際に招待されたリリーの別荘よりも敷地は広い。
とはいえ平屋だし宿泊設備はない。それでもトイレは三室、台所のコンロも四口だし、広い調理台と洗い場を備えている。
日当たりのよい食堂はゆったり座れるようにしていることもあり、さすがにマストレーナ全員を一度に招くのは無理だが、テラスを含めての立食パーティーなら、五十人くらいまで対応できる。そのくらいの建物だ。
「基本的に俺は、口を出すだけだからな」
「もちろんですわ! そうでなくては意味がありませんもの!」
鼻の穴を膨らませて意気込む妹は、長い金髪を三つ編みにして一つにまとめ、三角に折ったスカーフで頭部を覆い、小花を散らしたピンクのレース付きエプロンを着て、なぜか両足をがに股に開いてガッツポーズを披露している。
妹よ……お兄さまは時々、お前が何を目指しているのかわからなくなるよ。
「えっとじゃあ、まずは少し深めのフライパンに水を張って……」
「水ね!」
え……えー。えぇ……。
「つ、ぎは、その水にバターと塩、それから……」
俺は内心の動揺を声にはのせないようにする。
それというのも妹は水を水道からではなく、魔術でつくりだしたからだ。
大丈夫だよね? ちゃんと口にしていい水だよね?
……いや、大丈夫! 術式はちゃんとできてた。大丈夫!
「ひゃっ!」
魔術で浮上させたバターの塊が勢いよく投入され、あがった水しぶきが、低い位置にある妹の鼻を直撃したようだ。
「もっと細かく切っていれた方がよかったな……」
「そういうの、早く言って!」
それはそうかもしれないが、でもせめて、言われなくてももっと丁寧に投入すべきだよね。
「そこへ、細かく削ったシナモンを――」
「細かくね!!」
妹は、フライパンの上に浮かせた棒状のものを、ささやかな風の魔術で粉砕する。
その影響でも水がはぜなかったのは、マーミルが範囲をしぼった魔術をうまく展開できるようになっている、ということだろう。
ただ、若干粒は粗かった気がしなくもない。これも魔術でいきなり砕いて入れるなら、せめて漉したほうがよかったのではないだろうか……。
もちろんその言葉も、飲み込んだ。
「つまり、料理は魔術の練習の場でもあるってことだな」
「一石二鳥でしょ!」
確かにそうなのだが……うん。そのつもりで次から気をつけよう。
そうなると台所の設備がおかざりになるが、まあいいだろう。
「じゃあ、火は沸騰するまで中火で。これも魔術でやるなら、持久力と調整の訓練になっていいだろう」
「もちろん、魔術でやりますわ!」
魔力の調整はまぁまぁ得意であるらしい妹は自信満々の態度にふさわしく、適切な火力を難なく維持する。
「次に中力粉を」
「白い粉ね!」
「粉には魔術を加えなくていいからな! 手でやるんだぞ!」
「わかってますわよ!」
さすがにここでも魔術を使われては、俺たちが粉だらけになってしまう!
ふん、という失笑混じりの鼻息が、後ろの方から聞こえてきた気がした。言うまでもなくそのそよ風は、蛇顔の小さな鼻穴から放たれたものだ。
「よく混ざったら、卵を――待て! これも魔術で割らない方がいいと思うぞ!」
「えー。卵こそ、魔力加減のいい練習になるのにー」
やる気だったのか……止めてよかった。食べたとたんにジャリッとなるのはごめんだ!
「少し冷まして、絞り袋に入れる」
「えい!」
そよ風で冷やした塊を、妹は続いて風の魔術で持ち上げ、俺が開き持った絞り袋に落とし入れた。
……妹よ。お前はそっと入れる、という言葉を知らないのか。どうしても上から勢いをつけて落とさねば、気が済まないのか。袋が破れなかったからよかったものの、そこはゆっくり丁寧にするべきだろう!
まぁまぁ制御はできるくせに、どうして落とすのだけそう乱暴なのだ。もしかして、高所から落として砕く、とか、そういう戦闘が好みなのか。
「今度は油を温めて、さっきの生地を絞ったものを揚げる……なあ、これってただまっすぐ絞り出すより、せっかくだから先にいろんな形を作って揚げたほうがよくないか?」
「いろんな形って?」
「双子への感謝の気持ちを表すんだろ? だったらほら、単純だけど、ハート形にしてみるとか……」
「ああ……本当! そうですわね! その方が、よりいっそう愛がこもっている感じがしていいですわね!」
……愛? 友情なのでは……いや、友情に愛も含まれてるって言われたら、そうかもしれないが……。
でもなんか、今の言い方、気にかかったんだけど。
ホントに双子のために作っているのか? ホントはケルヴィスのためじゃないだろうな?
俺はいらないことをいったのではないだろうか……。
「お兄さま、みてみて。こんなのどうかしら!」
妹はクッキングペーパー――珍しく、これだけはアレスディアが用意してくれた!――の上に、筋入りの口金をつけて絞った生地で、大小三つの円を描く。
「じゃーん、くまー」
「いいんじゃないか。ただ……目とか鼻とかは、油の中に入れたら離れてしまうけどな」
「あーほんとですわね……」
ちょこんと小首をかしげるマーミル。
「うーん、でも……お皿に置きなおすときに、可愛くなるようちゃんと置けばいいだけじゃないかしら。うん、問題ないですわ!」
ま、本人がそういうならいいか。腹に入ればどうせ同じだし。
「と、いうわけで、他の動物も作ってみましょう!」
それから妹はいくつかの円や三角を組みあわせた形を作ったが……うん、あんまり違いがわからないね。
「じゃあこれを、油に入れ――」
俺はウキウキと人差し指を立てた妹の右腕を掴んだ。
「待て。これは乱暴に落とすなよ。っていうか、ここも魔術は禁止だ。ちゃんと手で入れなさい!」
「えー。逆に、魔術を駆使して油がはねないように頑張るから、お願い! お兄さま! そっとそっと入れるから、お願いですわ!」
「駄目だ。お前だって油を使うからって、あんなに気にしてただろ」
もちろん、ただのフリだったんだろうが。
「あ、えっと……そうなんですけど、でも、その……」
妹の、たいして濃くもない眉尻が下がる。
「お兄さまと一緒だし……こんな細かい魔術をつかうところ、みてもらえることってそうそうないし……お兄さまと、一緒だし……」
なんで今、俺と一緒だってことを二回いった。
しかし、確かにここまでの魔術を見る限り、術式の選定には問題がないんだよな。ついでに威力の制御も適切だ。ただ、落下に関して難があるだけで……。
「よし、じゃあ風の魔術は禁止だ。それ以外の何かで、うまくやってごらん。そっとだぞ」
近頃は基礎的なもののほか、複合的な魔術も練習しているはずだ。
「風で浮かせるのが駄目……だとすると……」
妹はいくつかの手を思いついたらしく、天井の方に目をやりながら指を立て折りしだした。
「決めた! じゃあ、これ!」
妹が選んだのは、造形魔術だった。クッキングペーパーから生えた有刺鉄線が、次々にうねうねと伸びて生地を持ち上げ、油の中にそっと滑らせる。
「お兄さまの妹ですもの! 造形魔術も得意にならなくちゃ!」
「へぇ……」
実のところ造形魔術というのは、大きくて雑なものを造り出すより、小さく細かいものを造り出すほうが技術がいる。しかも、それを動かすとなると余計だ。
なぜ有刺鉄線なのか、という疑問は残るが、まあそれは置いておくとして、こんな小さなものを妹が見事に操ってみせるだなんて、たいしたものではないか。うん、ほんと、ちょっと見直したぞ!
もっとも、繊細な動きの制御はそこそこ大変であるらしく、額には汗がじっとりと滲み出していた。それを、いつの間にやら傍らに来ていたアレスディアがハンカチでぬぐう――のはいいのだが、アレスディア……なぜ、そのハンカチを俺におしつけてくる?
「私は離れておりますから」
ああ……つまり、あとはお前が気を利かせろってことなんだね……。
「……忘れてるかもしれないから一応、言っておくけど、俺、大公――」
「の、前に、一人のお兄さまですよね? マーミル様のたった一人のお兄さまですよね?」
……そうですね、すみません。
俺は大人しくハンカチを握りしめた。
……。
あ、汗。
「ちょ……お兄さま! 今っ!」
あっ!
「あっつ!」
タイミングが悪かった。
鼻の汗を拭いてやろうとしたその時、妹は油に生地を投入するところだったのだ。その視界を遮ったおかげで有刺鉄線の制御が狂ってしまい、生地は油をめがけて高所より落下し、その結果、はねた油が俺の手に着弾する、という結果をもたらしたのだった。
「お兄さま、水! 水で冷やさないと!」
「あー。この位なら大丈夫だ。知ってるか? やけどっていうのは、ある程度なら思い込みでどうにでもなるんだぞ」
「? どういうこと?」
「つまり、俺はやけどをしない、俺はやけどをしない、って思い込むと、ホントにやけどなんてしないんだよ」
「えー」
さも疑わしい、という顔で見られた。ホントなのに……。と、いいつつ、患部はちょっとだけ凍らせておこう。
だが、そもそもの事実として、魔族の肌は強い。他の生物の肌をあっけなく溶かす毒や焦がす雷でも、我らの肌を同じように傷つけることなどできないのだから。
魔族の肌を他と同じだけ傷めようと思うと、もっと強力な威力が必要だ。それが、たかが油がはねたくらいで、やけどなどするわけがない。熱さを感じるのだけはなんともならないとしても。
だから、俺はこう結論づけている。油がはねたくらいでやけどをする魔族は、「やけどする」と思い込んでいるからそうなるのだ、と。
「じゃあ、ベイルフォウス様の業火で焼かれても、お兄さまはやけどをしないんですの?」
「……あくまで、油はねの話だ」
そんなのやけどどころか、全身がただれるに決まってるじゃないか!
「それより、そろそろ最初の熊、あげてもいいんじゃないか?」
「あ、本当! いい色になってますわ! 今度は邪魔しないでね!」
……俺は妹がまたも有刺鉄線で、きつね色の熊を新しいキッチンペーパーにすくい上げるのを、黙って見守った。
「あ……」
棘が、熊に刺さる。短いから貫通まではしないが、投入時の穴は生地が柔らかかったので消えているか小さくなっているとしても、少なくとも一面は穴だらけになっているに違いない。
……な、妹よ。なぜ有刺鉄線にした。
「しょぼーん」とでも表現するのがふさわしいような表情で見上げてくる妹の頭を撫でる。
「なに、これだけうまくできていれば、味は変わらないさ。それに、食べてしまえば一緒だ」
「それ、なんか違う……」
「まぁまぁ。どうせ今日は試作だろ? 明日はもっとうまくできるさ」
「うーん……」
頭をかしげながら、妹はとにかく残りの菓子を有刺鉄線から棘をなくした鉄線ですくいあげた。
それに砂糖とシナモンをまぶし、中央を貫く柱の先に持ち手となるハート型の輪をつけた三段の菓子置きに、きれいに並べていく。ちなみに、最後の仕上げはちゃんと手作業だった。
「じゃ、じゃーーーん!! でっきあっっがりー!! どうかしら、お兄さま?」
穴が見えないようにうまく並べられて、テンションが持ち直したらしい。妹は上機嫌だ。
「上々じゃないか?」
はあーっ、と、一息ついた妹の額をハンカチで抑えてやる。
お世辞ではない。できばえに対しての感想としては、本心だ。
ただ……ほら、油物だから。揚げ物だから。レースの敷紙に置いているとはいえ、ちょっと濡れている。
これって、見た目的にどうなのかなぁ……。これならいっそ大きな皿か、深めの入れ物に敷紙を敷いて、むっちり入れた方がよくないか?
「お菓子作りって、やっぱり大変ね。私、趣味にはしたくないわ」
「そうか……」
無駄に大変だったのは、お前が使う必要のない場面で無理に魔術を使うことにこだわったから、という側面のためだと思うのだが?
だって今回のお菓子、結構簡単だったよね?
普通に作ってれば、そんな大変な工程、一つもなかったよね?
「でも、楽しかったですわ。だって……」
妹は赤い瞳をキラキラと輝かせ、満面の笑みを浮かべてこちらを見上げてきた。
「お兄さまと一緒だったから」
「そうか」
つられてこちらも笑みがもれる。
「お兄さまは? 少しは気分転換になった?」
「ああ、もちろん」
そう答えると、妹の笑顔はいっそう深くなった。
「じゃあ、覚えていてくださる? 今日のこと。ずっと、ずーーーっとよ」
え、なに…………その、なんかのフラグみたいな言い方。
ちょ……まさか!
「マーミル! まだお前は結婚できるような年齢じゃないんだぞ? だいたい、相手もいないのに…………待て、押しかけるつもりか? だめだろ、そういうのは!」
「お兄さま?」
脳内お花畑なうちの妹のことだ。きっと、アディリーゼの結婚に触発されて、自分も誰かのところへすぐさま嫁げると思ったに違いない。
せめてあと数年で成人という年齢だというならともかく、それはさすがに妄想が過ぎるのではなかろうか。
胸よりお腹のボリュームを疑う子供体型の自身を振り返るがいい。
「相手の迷惑も考えないと、そういうのは逆効果だから。そもそも、ケ………………相手だってまだ未成年だっていうのに!」
「どうしよう、アレスディア。お兄さまが何を言ってるのだか、わからないわ……」
「本当ですね。錯乱なさっているのでしょうか、旦那様ともあろう御方が」
ん? あれ……?
妹は本当に困っている風だし、侍女は相変わらず氷のように冷たい目を向けてくる。
……俺、何か間違った?
「ま、とにかく参りましょう」
アレスディアが菓子置きに専用の埃よけをかけ、四本の腕で抱え持つ。
「行くって、どこへ……」
隣の食卓に移動するくらいなら、カバーなんて必要ないよな?
「いいから、ついてきてくださいな!」