真面目にお仕事もいいですが、たまには息抜きが必要です
ある、陽気のよい日のことだった。
「お兄さま? あの……今日って、お忙しい?」
控えめなノックに続いて執務室に顔を見せたのは、誰あろう我が妹マーミルだ。
「まあ、いつも通りだが」
決裁待ちの書類に紋章を焼き付けるのが、平常時の体感・八割を占める仕事。そして今日も、執務机には山と書類が積まれている。
つまり、忙しいということである。とはいえ、急ぎの仕事は一つもない。
どうしても今日中に紋章を焼き付けなければならない、どころか、なんなら数日先に処理してもいいものばかりだ。
そもそも前のネズミ大公なんかは、こんな地味な仕事は一つもしなかったと聞いている。それでも問題なく回るのが、魔族の社会の実情ではある。
でも、ほら。余裕のあるときにこそ、できることはしちゃっといた方が、後々楽じゃないかって思うわけだ。
俺、好きな物は最後に食べたい派なんだよね。
「そっか……そうですわよねぇ……」
ん?
どうしたというのだろう。いつもは賑やかすぎると言ってさえいい妹が、今日は大人しく、どころかしょんぼりしてさえ見えるではないか。
その様子に、思わず紋章を焼き付ける手が止まった。
「どうした? 何かあったのか?」
「……いえ、別に。なんでもありませんわ。お忙しいのに、ごめんなさい」
!?
本当にどうした!
うちの我が侭お嬢様が、気持ち悪いほど神妙なんだけど!?
俺は思わず立ち上がって妹に駆け寄り、額に手を当てた。
「お兄さま?」
よかった。特別熱いわけでもなさそうだ。
あんまり様子がおかしいので、脳みそが沸騰しているのかとでも思ったじゃないか!
けれどそうじゃないとすると……
「身体がだるいとか、おかしいところがあるとか……そんなんじゃないだろうな?」
「ああ、いいえ。そうじゃないの」
否定を口にする妹の笑みは、どこか力ない。
「気になさらないで、お兄さま。もうすぐおやつのお時間でしょう。もしお時間があれば、お菓子の作り方を教えていただけないかと思っただけなの」
マーミルがお菓子作り? 今までは食べるの専門、むしろ以前誘った時には「服が汚れるから嫌」だとか、「段取り面倒くさいから嫌」だとか、「意外に体力がいるから嫌」だとか、言っていたじゃないか。
だというのに、急にお菓子作り?
……。
はっ! まさか……!!
「ケ、ケ……」
「……? け……?」
「あ、いや……」
ケルヴィスか!? 自分の作ったお菓子を、ケルヴィスにおいしく食べてもらいたいから、とか、そういう理由か?
だがしかし、俺はその問いを飲み込んだ。やぶ蛇になるのを恐れたためだ。
本人に確かめる代わりに、常に妹に付き従っている侍女・アレスディアに視線を向ける。
付き合いが長いだけあって気心の知れた侍女は、俺の視線の意図を察し、蛇顔を左右に振って応えてくれた。
ケルヴィス関連ではない? ではなぜ、こんなにしおらしいんだ?
「いいの。ネネネセもいなくて寂しいけど、一人で頑張ってみるわ……」
「ネネネセがいない?」
「ええ。アディリーゼのところですの」
「ああ――」
そういえば、ネセルスフォとネネリーゼは、先だってフェオレスに嫁いだ長女のところへ、五日ほどの日程で泊まりにいっているのだった。
父を奪爵で亡くし、この〈断末魔轟き怨嗟満つる城〉で暮らすようになったマストレーナと呼ばれる二十五人の娘たち。その中でも特に四女ネネリーゼと五女ネセルスフォの双子は、マーミルと仲がよい。それこそ、デーモン族とデヴィル族という外見の違いをおいて、三つ子と例えられるほどに。
元気がないのは、双子がいないせいか。
だが、妹と双子は成人を迎えてそれぞれ爵位を得ることを、目標にかかげている。となれば、いつまでも一緒にいられないのは自明の理。
今からでも一人での行動には、徐々に慣れるべきではないだろうか。
そもそも、たかがおやつを一人で作るくらい、なんだというのだ。
だいたい一人って言ったって、ホントに完全ぼっちだった俺とは違う。妹のゆくところ、常にアレスディアが付き従っているのだから。いくら調理はチラとも手伝ってくれないとしても。
それに、料理本すら大人しく読んでいられない妹が、指導者もなしに調理に挑むはずがない。
俺と一緒ならその必要はないかもしれないが、そうじゃないというのなら、料理人に教えてもらうに決まっている。手取り足取り。
「味見できるのを楽しみに待ってるよ」
俺はそれだけ言って、再び紋章を焼き付ける仕事に戻ることにした。
「……ん? あれ……?」
ん? ってなに。なぜか妹が怪訝な表情でこちらを振り返ってくるのだが?
柔らかい眉間にシワが刻まれているのだが?
「これ、どういうこと?」
どいうことって、なにが?
「ねぇねぇ、アレスディア」
マーミルは侍女の袖を引いて執務室の隅にいくと、一見したところでは耳がどこにあるのかわからない蛇頭に向かって、こう耳打ちしたのである。
「お兄さま、どうしたのかしら。最近は気弱なふりをしたら甘々だったのに」
……妹よ。内緒事のつもりのようだが、バッチリ聞こえているぞ。
「お嬢様。多用しすぎたのではありませんか。さすがの旦那様も慣れられたのでは?」
さすがのってどういういこと?
「え、慣れたって、気弱なマーミルちゃんに? そこまで頻繁にはやってないと思うけど!」
「では、リアルさに欠けたのでしょう。もうちょっと、本気でいきませんと」
「そ……そうかも?」
おい! 二人とも! だから聞こえてるんだってば!
っていうか、今の会話、それこそどういうこと? 最近のしおらしい感じは全部演技だったっていうのか?
ちょっと待って。お兄さま、若干ショックなんだけども。
「さ、じゃあ場所を変えて、練習しましょうか」
「そうね!」
妹と侍女は手をつないで出て行ってしまったのだが?
いや、出て行ったのはもちろんいいんだけども。
……えっと……。
俺は執務室の扉をそっと開き、廊下をのぞき込んだ。
するとどうだ。はるか向こうで妹と侍女が、こんな風に勤しむ姿が目撃されたのだ。
「お兄さま……わ、た、しぃ、さぁぁみぃぃしぃぃいぃぃー」
甘ったるい声で、気持ちの悪いクネクネした動きをみせる妹。
はぁ、という、大きなため息が、チロチロした蛇舌とともに漏れる。
「駄目ですね、お嬢様。そんな直接的な台詞は、間違っても口にしてはいけません。仕草、目線、声音……それらを駆使し、相手の心情に訴えかける。言葉にせずとも察せられる……そのようでなくては。それでこそ、効力は増すというものです」
「えぇ……難しいこというのね」
「何をいうのです。女性はみな、女優なのです。そのことを、ゆめゆめお忘れになりませんよう」
「そ、そうね! 女優……女優よね! えっと、じゃあ……こほん」
妹は若干弾力のあるお腹に両手をあて、緩く前屈みになる。
「…………最近、食欲がなくて……」
その途端、竜の吠え声のような音が、はかったかのように鳴る。
「説得力がない。皆無です」
ナイフのような切れ味のある語り口だった。
「うぅ……」
「もっと、こう……お嬢様ならではのお題があるはずです。女優、かつ、優良な脚本家を目指すのです!」
「は、はい……」
ハードル高いな、おい……。
俺は静かに扉を閉めた。
練習って……料理の練習じゃなくて、演技の練習なのかよ!
妹よ。お兄さまは今後一切、お前のしおらしい態度なんて信用しないからな!
っていうか、なんでそんな見えるところでやってるんだよ。せめて部屋でやったらどうなんだ……。
しかし、その疑問はすぐに解けた。背中に触れた扉が、再びの叩音と共に震えたのである。
「お兄さま、もう一度お邪魔してもよろしいかしら?」
「……ちょっと待ちなさい」
俺は何食わぬ顔で執務椅子に座り直し、さも仕事を続けていかたのようなふりをしながら、妹に入室の許可を与えた。
もしや俺も俳優を目指すべきなのか、などと、くだらないことを考えながら。
「今度は何だ?」
あんなものを見た後では、ちょっと刺々しい対応になってしまうのも無理はないと思う!
「作ろうと思ってるお菓子なんですけど、油を使いますの」
その台詞を言うときに、なぜ身体をくねらせる必要が?
「それが?」
「つまり、揚げ物のお菓子ですの……」
「うん。だから?」
「……ちょっと、聞いた、アレスディア」
妹は再び侍女の袖を引き、壁際に移動する。
「油を使うっていってるのに、お兄さまったら、『じゃあ心配だから付き合うよ』って言わないばかりか、『気をつけろよ』の一言もないのよ!」
「ホントですね。薄情ですね」
「その上、『うん、だから?』ですって! 『だから』よ!?」
「聞きました、聞きましたとも、お嬢様。冷酷なお兄さまもいたものです」
いやいやいや……なに、そのわざとらしい非難。チラチラ見てくるのは止めなさい、二人とも。
完全に聞こえるように言ってるよね? 作戦を変えた結果が、結局、いつも通りというわけか!
そもそも、油を使うからなんだというのだろう。
子供だから危険ってこと? でもお前、普段から炎やら雷やらの魔術の練習、してるよね?
危険っていうなら、そっちの方がよっぽど危険だよね?
妹よ。お前は残虐を尊ぶ魔族の子供なんだぞ? 油はねが心配だっていうなら、結界を張るなりすればいいだけのことではないか!
それでもなお油を使うのが怖いというなら、違うお菓子を作ればいいだけのこと。世の中、揚げないお菓子の方が多いのだから。
なんなら俺が教えて…………はっ! まさか、そういう作戦か!
あぶないあぶない……まんまとその手にのってしまうところだった。
「……」
「……」
こちらをじっと見つめてくる妹とその侍女。
素知らぬ態度で黙々と仕事を続ける俺。
「ち……これも駄目か」
「なかなか手強いですね」
舌打ちなんて、行儀の悪いことを……これもそれも、ベイルフォウスの悪影響に違いない!
それにしてもアレスディアよ……今のが練った末の作戦だというなら、君らの脚本は最悪だったと言わざるを得ない。
……誰だ。今、ひっかかりそうになったくせに、とかいうのは。
ぐうう、という音が、また地鳴りのようにとどろく。
「はぁぁ……そろそろ限界かもしれない……」
ぷにぷにのお腹をさする手。
「お嬢様……せめてお昼が終わってすぐに決行するべきでしたね」
「でも、あんまり早すぎると……」
今度こそ本当に俺に聞かれたくなかったらしく、声のトーンが下がる。ただし、結局は聞こえてきたのだが。
「本当に迷惑になっちゃう……」
……ん?
今、「本当に迷惑」って言った?
迷惑って誰に…………俺?
なに……アレスディアがなんか、意味ありげに見てくるんだけども……。
「仕方ありませんね。旦那様はお急ぎのお仕事で、今日はそれはもう、とてもとてもお忙しいご様子」
え……もしかして俺、責められてる?
え、なんで……普通に仕事をしているだけなんだが。
……。
…………。
………………。
こほん。
「あー……。いっそ、菓子作りは止めて、どこか出かけてきたらどうだ? 陽気もいいし、花も盛りの時期でもあることだし。きっと、自然の中で食べるプロの作ったおやつはものすごくおいしいぞ!」
「……お花は昨日摘んできたもの」
妹から呟きが漏れる。
……うん?
花を愛でに、ではなく、摘みに行ってきた?
「……本当はね」
「お嬢様、よろしいのですか?」
「うん、いいの。本当のことを言うわ」
……それ、演技じゃない? やりとりも含めて演技じゃない?
「お兄さまもご存じのとおり、今、ネネネセがお留守で、明日帰ってきますの」
「ああ」
帰ってくるの、明日なんだ。
「二人とも、お姉様の嫁ぎ先とはいえ、余所のおうちできっと緊張して帰ってくると思うんですの。そんな二人に『ああ、帰ってきてよかった』って、ホッとしてもらいたいんですの。だって私、いつだって二人にはお世話をかけてるでしょ? わかってるの。三つ子みたいって言われてるけど、ホントはちょっと手のかかる妹みたいに接してくれているのだって」
これは……本心っぽい。
俺は紋章を焼き付ける手を止め、妹を見つめた。
「それで、今からおやつを?」
「もちろん、本番は明日なんですのよ。でも、やっぱり上手に作るためには、練習が必要かと思いますもの」
普段料理をしないお前の練習が、たった一日でよいのでしょうか。あと、花はむしろ、明日庭師に頼む方がよいのではないのでしょうか――などというツッコミは、グッと我慢する。
しかしそうかぁ……ネネネセへのお礼を込めて、ということなら、俺も妹と特別仲良くしてくれている二人には感謝してるしなぁ。
さすがに二人だけに贈り物を、というのは他のマストレーナと差ができて無理だが、妹の練習を手伝うことでその感謝の一部なり、表現できれば――
俺は机上の書類を、『未決済1』と書かれた箱にしまう。
「で、何を作るんだって?」
腕をまくりながら妹の側へ回り込むと、彼女は赤い瞳をキラキラ輝かせながら、一枚の紙を差し出してきた。
「これですの!」
ええと……。
「水、バター、塩、シナモン、中力粉、卵、砂糖……ああ、なるほど……」
「えっと、絞り袋がいるらしくって……」
「口金はなるべく大きいのがよさそうだな」
「ギザギザもあんまり細かくない方がいいかも!」
「うーん、そうだな……」
そうして俺は、妹と調理場に向かったのだった。