第八章その一 早朝、道明寺にて
諸事情により更新が大幅に遅れてしまい、大変ご迷惑をおかけしております。
道明寺の戦い、八尾・若江の戦い、誉田の戦いを並行して書いておりますが、今回は道明寺の戦いのお話を投稿します。
「行くぞお前等! 最期にでっけぇ死に花咲かせてやれ!」
「先の大和郡山城での戦いで、大和国衆は敵前逃亡した臆病者と笑われた。だが、それも今日で終わりだ! 大和国衆の意地、ここで見せつけてやらぁ!」
後藤又兵衛隊と奥田忠次隊は、夜明けを待たずして激突した。
「一気に駆け上がれ!」
奥田軍は先手必勝とばかりに小松山を駆け上がる。だが又兵衛は、
「相手は、軍備を整えずに来ちまったようだな。俺達の敵じゃねぇ。弾がもったいねぇから槍で相手してやれ」
とはいえ、槍合戦は後藤隊の得意分野だ。軍備が整っていなかった奥田隊がまともに相手出来るものではない。
「前が、霧で前が見えねぇ!」
「暗いから余計に見えねぇよこれ!」
「見えねぇ所から槍が突っ込んできやがる!」
「くそっ! 一旦退くか?」
「奥田殿、大和国衆の名誉を回復せんとの先陣、誠に天晴れです。某も助太刀致します!」
「松倉殿、助かった!」
同じ大和国衆の松倉重政が救援に駆け付けたのを機に態勢を立て直そうとした奥田隊だったが、
「しかし、視界が悪過ぎる!」
「こっちの攻撃は一向に当たらねぇのに、俺達ばっかりやられてやがる!」
「後藤は、霧の中でも目が利くのか!?」
「数は増えても、向こうとの経験差は埋められませんか……!」
無情にも味方兵ばかりがばたばたと斃れていく。
一方、
「なーんか騒がしいって思ったら、奥田と松倉が、夜明けを待たねぇで後藤と激突した、だぁ!? 彼奴等何やってんだよぉ! 討ち取ってくれって言ってるようなもんだろぉ! ったく、しゃあねぇなぁ! お前等、救援行くぞぉ!」
大和国衆の抜け駆けを聞かされた水野勝成は、はぁ、と脱力していた。
「奥田殿がまさかの抜け駆けですか……! 先陣の誉は果たせなくて申し訳無い、殿……。ですが今出陣したところで、私の力量ではかの後藤又兵衛には勝てますまい」
「やめてた方が良いっすよ。的がまるで見えないとなりゃ、たとえ蛍婆さんを連れて来てたとしても無理っす」
「雑賀衆の名手でもお手上げか。なら仕方無い」
小松山の目と鼻の先に陣取っていたにも関わらず先陣に出遅れた片倉重綱は、歯噛みしながらも、今出たら自分まで後藤隊の猛攻に巻き込まれると悟り様子を伺っていた。
「おいおい、何で鉄砲の音がしてんだ? この霧がかってる上に暗ぇ最悪の状況で打って出るとか正気かよ」
「殿、片倉殿が『機会が来るまで麓で待機しておいてよろしいでしょうか』と仰せでございました」
「よぅし、良い子だ良い子だ」
待機している伊達政宗は、早すぎる銃撃戦に舌打ちしていた。
諸将の不安を他所に、大和国衆はなおも後藤隊に戦いを挑んだ。
「今更退けるか! たとえ討ち取られようと、後藤又兵衛が相手なら不足は無い! 皆の者、突撃ぃ!」
「某も、負けてられませんね!」
***
「何だこの銃声は!?」
「まだ夜明けにゃ早いぜ!?」
その頃真田隊は、東の方角から聞こえてきた銃声に飛び起きていた。
「まさか……」
さっと顔が青ざめた幸村の元に、
「殿っ!」
道明寺の偵察に向かっていた才蔵が、脚がもつれんばかりの勢いで駆けてきた。
「どうした才蔵!?」
「殿……拙者がこちらへ戻っている間に、道明寺で戦が勃発したとの事で……」
「戻っている間に……という事は、開戦より前に何か不測の事態があったのか?」
「はい。我等豊臣軍、明け方に国分村へ到着した徳川勢を道明寺村で迎え撃つ予定でございましたが、徳川勢の行軍が想定以上に速く、昨日の夕刻には既に国分村に到着していたとの事」
「なっ……!」
「その報を受けた後藤殿は、作戦を変更し小松山に陣取ったとの事。しかし後藤殿が陣取った後、徳川勢は小松山の周辺を囲んでおりました。後藤殿の軍勢二千八百に対し、徳川の軍勢は水野勝成隊、伊達政宗隊等合わせておおよそ三万四千」
「何と言う事だ……」
幸村は、又兵衛の決死の覚悟を察していた。そして戦力が十倍以上となれば、いくらかの後藤又兵衛であろうと壊滅は避けられないとも。
それでも、絶望的だからといって見捨てる気は毛頭無かった。この大坂城に入る前は、顔を見たのも数えられる程だった。だがこの数ヶ月に、相部屋になり、厨で同じ物を食い、共に真田丸を作り上げた。家臣を除けば、最も濃密に語り合ったのだ。そんな又兵衛を、どうして見捨てられようか。
「時間が無い。皆の者、道明寺へ急ぐぞ!」
真田隊は、バタバタと慌てて道明寺への道を急いだ。
「え、もう又兵衛殿が動いているんですか?」
一方の勝永は、陣が近い全登と連絡を取り合っていた。
「ええ。それも、小松山で敵軍に囲まれているようで」
「それって……」
いつもはにこにこと微笑んでいる勝永の笑みが、消えた。
「残念ですが、又兵衛殿の生還は絶望的かと。それでも私は、駄目で元々ながら道明寺へ向かいます。ここでもう駄目だろうと見捨ててしまえば、きっと死んだ後まで後悔する。勝永殿はいかがなさいます?」
「うーん……。手柄の匂いはしますが、様子見してます。今の手勢では、三万四千騎を撃破するのは厳しいので。逃げてきた敗残兵が集まってから行きます」
「……では私は行きますよ」
明石隊も、真田隊とほぼ同時間に道明寺へ向けて出発した。
薄田隊もまた、銃声に叩き起こされていた。
「又兵衛の奴……!」
冬の戦で遊女遊びに耽りみすみす博労淵を制圧された橙武者だが、さすがは歴戦の猛者。銃声を聞くなり、先頭の後藤隊が抗戦していると悟っていた。
(こんな濃霧だってのに開戦すんのかよ。彼奴らしくねぇ)
お互いかつては同じ黒田長政に仕えた身。彼の豪快そうでいて冷静沈着な性格は、よく知っている。
(……いや、濃霧だからこそ、なのか?)
兼相の頬にひんやり当たったのは、霧か、それとも己の汗か。
「如何なさりましたか、殿」
「又兵衛の野郎、死ぬ気だ。とっとと行くぞ」
伝令が来てもいないのにきっぱりと言い切る兼相に、年若い将兵達は訝しげだ。
「それは如何なる……」
「根拠は無ぇ。だが、普段沈着な又兵衛が無茶な戦をしている。これだけで十分だ。国分で不測の事態があったに違いねぇ」
そう言って出陣の号令を掛ける兼相の大きい背中を見ながら、兵達は「何であんな人が冬は遊び呆けていたんだ?」と首を捻っていた。
***
道明寺では
「奥田殿、後藤又兵衛隊との交戦にて、討ち死になさいました!」
「くそぉ! 間に合わなかったかぁ!」
小松山へと到着した勝成の元に、重政より忠次討死の報がもたらされていた。
「よっし、お前んとこの残兵は俺が面倒を見るぜぇ。今度は俺達があいつらを討ち取る番だぁ」
水野軍は、散り散りになっていた大和国衆軍を取りまとめ、小松山をぐるりと取り囲んだ。
「片倉の坊っちゃんに伝令しときなぁ。……じきにお前んとこの陣にも、戦国の死に損ないが雪崩込んでくるってなぁ!」
勝成の号令を合図に、徳川勢は小松山を一気に駆け上がった。
その片倉隊には、政宗からの書状が届いていた。
『又兵衛も、てめぇが袋の鼠だってのは分かってるだろ。で、それを承知で小松山まで来てやがる。なら、防衛なんて狡い真似はしねぇで、決死で突っ込んで来る。気圧されるんじゃねぇぞ』
「承知致しました、殿。……皆の者、殿ーー政宗様より『後藤軍は小松山を降りて攻めてくるであろう』との御助言が届いた。迎撃準備を整えよ!」
片倉隊の将兵は、震える手で槍鉄砲を握り締めて後藤隊の来襲を待った。
「くそっ! 霧が……!」
一方の又兵衛は、朝日に温められた大地から消え失せる霧を前に、苦々しく舌打ちしていた。
「予想してたとはいえ、直視しちまうと堪えるな」
晴れた霧の向こうに見えるのは、蟻も通さぬ程厳重に包囲する、視界を覆い尽くさんばかりの徳川の大軍。
又兵衛の頬が、苦笑に歪む。
「霧が晴れたら、俺たちが小勢だってのもばれちまう。こっからはどこまで持ち堪えられるかの勝負だ。どうせ討死するんなら、せめて一人でも多く徳川の連中を道連れにしてやろうぜ!」
霧が晴れたのを好機と見たか、徳川勢が一気に攻め込んでくる。
「よし、早速来やがった! お前等、構えぃ!」
又兵衛が槍を振り上げると同時に、将兵が一糸乱れぬ所作で槍を構える。
「行くぞぉ!」
後藤隊の槍衾が、徳川勢と一斉に激突する。
壁のように迫り来る大軍だが、その全てが熟練の兵という訳では無い。関ヶ原の戦すら知らないような若年兵や屁っ放り腰な臆病者は、周りの兵が討ち取られるといとも容易く恐慌状態に陥る。冷静な判断力を失った兵など、後藤隊にとって敵ではない。地道に瓦解するまでもなく、向こうが勝手に崩れてくれる。
「くっそぉ! 一旦退くぞぉ!」
「どうした徳川! 天下の公方様の精鋭軍はその程度かよ!」
「あぁ!? 俺の悪口はまだ良いが、竹ちゃんの悪口は許さねぇぞぉ!」
一度退かせ、
「今回も無理かぁ! 退却ぅ!」
「まぁた退くのかよぉ。大軍の癖に情けねぇなぁ!」
「勝手に言ってろぉ!」
二度退かせ、
「いつになったら隙が見えるんだぁ?」
「よぅし、小休憩だ。まだまだ行けるか?」
もう何度撃退しただろうか。
「よし、この勢いで山を駆け下りるぞ! 麓に陣取ってる徳川軍に鉄砲玉をお見舞いしてやれ!」
又兵衛の号令で、後藤隊は一気に駆け下り、麓まで後退していた幕府軍への銃撃を試みた。
「なに、慌てる程ではない。殿の読み通りだ。皆の者、打ち方始め!」
迅速に迎撃したのは、重綱だった。後藤隊の進撃に備えて伏兵を忍ばせていた片倉隊は、後藤隊が迫るや否や一斉に銃撃を仕掛けた。
「くっそ! 俺達が来るのを分かってたのか! 何処の所属だ!?」
「あれは、奥州伊達の家臣、片倉の旗印です。雑賀が絡んでいるだけあり、狙いが正確ですな」
「はっ、片倉は病で倒れていると聞いたが、病を圧して来たのか? それとも倅か? いずれにせよ、やるじゃねぇか。だが、俺達はこの程度じゃ退かねぇよ! 推し通るぜ!」
「「「おー!」」」
死を覚悟した者達に、鉛玉に何の恐怖になろうか。鉄砲玉の雨にも怯まず、後藤隊は麓の幕府軍まで迫った。
「くそ! この程度じゃ怖気付かないか!」
「皆の者! 殿を御守りせよ!」
重綱を守るように、重臣が居並ぶ。
「あれが大将か! 伊達の小僧の傍で顰め面してた小十郎の方じゃねぇ、倅の方か!」
「我等を面前にしても怖じ気付かんとは、若年ながら天晴れよ!」
「殿、目下の脅威は数に勝る本隊。彼奴は最期の楽しみに取っておきましょうや」
「それもそうだな。よし」
後藤隊は片倉隊から逸れ、幕府軍の陣へと矛先を向けた。
「見逃された……訳ではありませんね」
「ああ。むしろ、最期の楽しみだと言うておったな」
そう身を震わせるも、己も知らぬ内に口角が吊り上がっている。
「本隊が勝とうが負けようが、最期の相手は私達だ。後藤又兵衛を迎える支度を整えよ」
兜の奥で、瞳孔が開き切った大きな目がぎらぎらと光っていた。
一方幕府軍本隊はというと、
「おい! 突っ込んできたぞ!」
慌てに慌てていた。
「おい落ち着けぇ! 陣形整えて迎撃しろぉ!」
勝成の檄も混乱にかき消される。見知った者、名は聞いた事がある者、初めて名を聞く者まで、討死の報ばかりが微かに聞こえる。
「だーもう! 落ち着けっつってんだろぉ! くそっ! お前等、相手は俺達の一割にも満たねぇ数だぞぉ? 束になって山に追い返してやれぇ!」
「殿、撤退する将兵が数多、最早総崩れに御座います!」
「くっそ情けねぇな! 俺達だけでも行くか!」
「はっ!」
そんな中、ばたばたと撤退する将兵もいれば、
「……ん? ひょっとして、味方が劣勢なのか? あんな大軍なのに?」
撤退してくる本隊に目を疑う別働隊もいた。
この丹羽氏信という将、他の隊とは異なり小松山を迂回して行軍している所で、撤退してくる味方とかちあったのだった。
「暫し伏せよ。儂が合図すれば突撃だ。敵の脇腹を突いてやるぞ」
「はっ」
予想通り、幕府軍を追い回すように後藤隊が現れた。
「よし、突撃!」
脇腹を突く奇襲に、後藤隊も面食らった。
その機会を見逃す勝成ではない。
「ありゃどこの隊だぁ? でかしたぁ! 反撃するなら今だぞぅ? 鉄砲玉を一杯食わせてやれぇ!」
さらに、
「仙台藩(現在の宮城県・岩手県南部・福島県北部)が藩主、伊達政宗! 遠路遥々陸奥国から参戦したぜ!」
混迷する戦場でも響き渡る声。その主の兜に輝くのは、金色の三日月。
「良いところに来てくれたな伊達の坊ちゃんよぉ!」
「ったく何やってんだよ、小勢相手にてんてこまいなんてよ! 水野殿らしくねぇなぁ! ま、天下の後藤又兵衛相手に付け焼き刃の若い兵で挑むとなりゃ仕方ねぇか」
「まぁ手強いぜぇ。だが、大軍をもらっといて、あっちの練度が高かったから負けましたなんて、情けねぇ事ぁ言えねぇよなぁ。つーわけで手ぇ貸せよぉ」
「元からそのつもりだっての。むしろ、手柄をかっぱらいに来たんだ」
「ハッ! 心強いねぇ!」
一転攻勢。政宗の援軍を受けた徳川軍は、水を得た魚の如く息を吹き返し、後藤隊へと果敢に突撃していく。
「くっそ! 急に元気になってねぇか彼奴等?」
「伊達政宗が、徳川軍と合流した模様!」
「伊達政宗、だぁ?」
又兵衛は確か、何度かちらりとだけ会った事はある。眼帯に隠れた右眼に整った涼しい顔。黙ってりゃ文武両道の良い男だが、時々子供のような奇行をしでかして他の大名(特に細川忠興)に呆れられたり、手紙を頻繁に送り付けて辟易されたりと、幼稚な面も覗かせる傍迷惑な男だ。だが、戦は慣れている。
(こりゃどう足掻こうが……じり貧だな)
退却と号令するより前に、既に小松山へとじりじり押し戻されていく。
ここらが潮時ーーそんな言葉が頭をよぎった。
***
「遅かったか……」
幸村の嘆息に、反論する者はいなかった。
藤井寺で留守番中の毛利隊以外の豊臣軍は、濃霧で大幅に時間を取られながらもなんとか石川の手前で集合していた。が、石川を渡ろうとする者はいなかった。
対岸の光景は、絶望そのものだった。
対岸からでも見える。小松山らしき山の麓を取り巻く、甲冑に身を包んだ人だかりの大波。その波に逆らうように、後藤隊の下がり藤の旗印が懸命に泳いでいる。しかし下がり藤は徐々に、しかし確実に山へと追い詰められている。
「これは……後藤殿の壊滅も時間の問題かと」
「おいやめよ六郎!」
海野を嗜める幸村を、全登が抑える。
「口には出さなかっただけで、小松山に陣取ったと聞いた時より覚悟していた事です」
懸命に戦ってはいるが、もはや敗色濃厚。救援したところで、又兵衛の救出は絶望的だ。
「……恐らく後藤隊が壊滅すれば、誉田へと進軍してくるはず。迎え撃ちましょう」
はぁ、と嘆息する全登に、幸村はぎょっとして振り返った。
「待って下さい! 又兵衛殿を見捨てるつもりですか!?」
食ってかかる幸村を、全登は冷たく一瞥する。
「確かに見捨てる事にはなるでしょう。ですが、策も無く突撃したところで、無駄死にするだけ。今出来るのは、敗残兵を迎え入れる事、徳川軍のこれ以上の進軍を阻止する事、これくらいです。しかし敗北した際には、ぼろ負けしない事こそが肝心です。又兵衛殿の犠牲を無駄にしないためにも」
「…………」
反論は出来なかった。幸村の動転した思考では太刀打ちしようがない正論だ。歯噛みしながらも、押し黙るしかなかった。
「いいや、俺は行く」
進み出た兼相を、皆一斉に振り返った。
「隼人殿。今の今、無策の進軍は慎むべきか申し上げたはずですが」
「そうだな。又兵衛が持ち堪えたんなら引っ張って帰って来る。彼奴がくたばったんなら、派手に討ち死にしてくる。無策も無策だ」
冷たい視線が自分に向いても、兼相はまるで物怖じしない。
「だがな。こいつは男の意地ってヤツだ。又兵衛と俺は黒田時代からの顔見知りでな、彼奴が良い格好してるのに俺が黙って見てるのは癪だ」
「戦場で意地の張り合いはおやめいただきたい。今は橙武者呼ばわりされているとはいえ、貴方が経験豊富な猛者であるのは事実。いてもらわないと困るんです」
「なに、俺よりお前等の方が賢い。橙武者の爺がいるより、お前等が残った方が良い。お前等なら、俺の無策も上手く使えんだろ?」
全登の返答も聞かずに、兼相は槍を振り上げた。
「俺は派手に暴れてくるから、お前等は誉田で徳川共を迎え撃ってくれ。どれだけ減らせるか分かんねぇが、やるだけやってやらぁ!」
わずかな将兵と共に駆けていった兼相の背中に、全登は「強情な……っ!」と悪態を吐くしかなかった。
***
「……さすがに、きっついな」
又兵衛の槍裁きに、疲労が見え始めた。
元より突破出来るとは思っていなかったが、いくら討ち取っても後続が湧いて出てくる。片やこちらも無傷とはいかず、先鋒は壊滅し、己も上へ上へと追い詰められている。
もはやこれまで、そんな語が脳裏に浮かぶ。だがそれがどうした。川を渡った時点で、この小松山を死に場所にする腹積もりだったんだ。
「どうせなら最期までやってやらぁ」
死に別れた妻の顔が浮かぶ。
(彼奴は極楽、俺は地獄。生きようが死のうが会えやしねぇがな)
共に出陣している息子の一意に、まだ健在であろう子供達の顔、苦楽を共にした家臣達の顔も浮かぶ。
(俺は此奴等と徒党を組んで地獄に行くからな。一意、俺がくたばった後は頼んだぜ。小僧共は、生き急ぐんじゃねぇぞ)
重成、幸村、勝永、全登、盛親、ついでに兼相……豊臣家や牢人達の顔も浮かぶ。
(幸村、勝永、兼相辺りは直に来るんだろうな。長さんは微妙か。全登は耶蘇教の地獄行きだな。重成はしばらく来んじゃねぇぞ)
生涯に関わった者達の顔が浮かんでは消え、そして最後に脳裏に蘇ったのは――官兵衛に長政、黒田家時代に肩を並べて戦った仲間達だった。
(……けっ、最期に彼奴等の事を思い出すとはな)
俺の人生もそう悪くはなかったな、そう胸中で独りごちた。
俺の覚悟は決まった。あとは……
「俺はこれから山を降りて敵中に突撃する。生きて帰れる保証は一切無ぇ」
又兵衛は、自分と同じく疲労が滲む将兵の方を振り向く。
「もう一度聞く。今ならまだ間に合う。俺の軍を抜けて敵に投降するってんなら、軍法違反にゃ問わねぇ」
しかし生き残った将兵達は、誰一人として首を縦に振らなかった。
「あの川を超えた瞬間から、儂の心は決まっとりますよ」
「下手に生き残って彼奴等よりしょぼい敵と戦う羽目になったら嫌なんで、お断りですよ」
「そもそも、又兵衛様以外に頭を下げる気は毛頭ありませんので」
「何をおっしゃいますか。敵の首級を土産に閻魔大王の玉座に乗り込もうと思っておりますのに」
「又兵衛様にお仕えできただけでも幸せでしたのに、又兵衛様と共に死ねるなど、これ以上無き僥倖にございます!」
「……そうか」
駄目だ。死ぬと決めた途端、感傷的になっていけねぇ。
「よし! んじゃ、冥土に隊列組んで突撃してやるか!」
「皆の者、鬨の声上げい! えい、えい!」
「「おー!」」
早朝の空気を揺るがす鬨の声と共に、後藤軍は死線への突撃を開始した。
目標は、予め狙いを定めていた片倉重綱隊。相手にとって不足無し。
「来た!」
後藤隊の到来を認めた重綱の声色は、どこか浮き立っている。瞳孔が再び開き、ただでさえ大きい目がぎらぎらと光っている。
「鈴木殿、鉄砲隊の準備は!」
「いつでもいけるっすよ!」
「上々だ。後藤又兵衛殿が御首、この片倉小十郎重綱が貰い受ける!」
後藤と片倉の旗印が乱れ混じる。一つ、また一つと倒れていく。
退路を断った後藤隊は、ただただ突撃するのみ。苦楽を共にした輩が、一人、また一人と斃れ散ってゆく。最早誰が生き残っていて誰が討ち取られたのか、知る術も無い。
後藤隊も耐えている。だが、多勢に無勢だ。
「ここにいたか!」
「殿!」
運悪く、伊達隊が片倉隊と合流してしまった。勢力を増した片倉隊の前に、さらに兵が斃れていく。
だがまだ行ける。まだ下がり藤は残っている。
「ーー後藤又兵衛、覚悟!」
しかしその望みは、側面からの伏撃で打ち砕かれた。
「くそっ! また丹羽か!」
よく見れば、先程も脇腹から伏撃され痛い目に遭わされた、丹羽氏信の隊ではないか。
「丹羽殿! 援軍感謝致す!」
ほとんど気力だけで戦っていた後藤隊、思わぬ攻撃に耐えられる程の余力など最早残っていなかった。
「落ち着けお前等! たかが脇腹を突かれただけーー」
だが後藤隊の混乱は、この乱戦ではあまりに致命的だった。
「今だ! 撃てぇ!」
「!」
又兵衛が振り向く。
ずらっと並んだ銃口がこちらを向いていた。
銃声、火薬の臭い、胸を貫く灼熱感。
「ぐっ……!?」
身が崩れ落ちる。
「殿!」
駆け寄った味方が身を起こしてくれようとするが、足に力が入らない。どころか、ただでさえ年老いて脂 肪が付いた体が、さらに重い。
大半が破壊された心の臓が、血液を送ろうと健気に早鐘を打つ。しかし拍動と共に、鉄砲玉に出口を塞がれた真っ赤な血液がを小さな飛沫を上げる。同時に、体の熱がどんどんと奪われていく。
「殿! 今すぐ手当を」
「ーーいや。ここまでだ」
又兵衛には、動脈血の事など分からない。だが戦場慣れした彼は、この鮮烈な赤の血液が出た者はまず助からないと、経験で知っていた。
「こいつで、首を斬ってくれ。くれぐれも、敵に取られるな、よ」
痛みで震える手で懐をまさぐり、蒔絵で装飾された脇差を取り出す。そういえばこの脇差、秀頼の坊ちゃんから直々に賜った物だが、連中に自慢しそびれたなーー血圧の低下で朦朧とする脳で、視界に映るぼんやりした金色を見て、今更そんな事を考える。
「殿……そんな……!」
若い側近が首を振る中、老臣がゆるりと進み出た。
「では殿、お先に逝かれませ。儂もすぐに向かいますぞ」
「……すまねぇな」
目にうっすら涙を溜めながらも老臣が振るった脇差は、過たず又兵衛の首を打ち落とした。
***
「後藤又兵衛基次殿、討死!」
その報をいち早く聞きつけたのは、共に出陣していた三男の一意だった。
「父上が……?」
しかしそこは歴然の名将の息子というべきなのだろうか。咄嗟によぎったのは悲嘆ではなかった。
(ここからの巻き返しは私には無理だ。早く合流しよう)
周囲を見渡す。主を喪って狼狽える若い兵、主に殉じようと突撃する老兵。
「皆の者! 私は大坂へ退く! 父上の伴をする者は残れ! 私と共に豊臣を守らんとする者は私に続け!」
ある程度兵が集まってきた。一気に脱出してしまおう。
「若様、我等を殿代わりにお使い下さい」
「……かたじけない」
突撃せんとする老兵達に背を向けて、一意は包囲の合間を抜けた。
「何だありゃ、逃げる気か?」
「逃がす訳がねぇだろうがよぉ!」
勢いに乗った幕府軍は、一意達敗残兵を見つけるなり容赦無く追い掛ける。
が、その時だ。
「幕府軍共! この薄田隼人を忘れたんじゃねぇだろうな!」
大物を討ち取り少し緊張がほぐれていた幕府軍めがけて、薄田隊が突撃した。
「冬は油断してとちっちまったがなぁ! 橙武者の汚名、又兵衛の仇を獲ってここで漱がせて貰うぜ!」
「薄田殿!」
父と同じ黒田家に仕えていた将、それも本来は歴然の剛の者だ。兼相の名を呼ぶ一意の目にはうっすら涙が溜まっている。
兵数はたかだか三十人程度。だが渋皮色の鎧に十文字槍を携えた兼相の堂々たる出で立ちは、そんな明らかな劣勢をまるで感じさせない。
「又兵衛の倅か。親父の救出には間に合わなかったようだな。すまねぇ。だが、よく頑張ったな。ここは俺に任せとけ。兵は借りるぞ」
「はい!」
一意の背を叩いて後方に下がらせ、兼相自身は踵を返して、隊列を整え始めた敗残兵と共に愛馬を駆る。
「薄田兼相かぁ! 相手にとって不足は無ぇ! そっ首、徳川の手柄にさせてもらうぜぇ!」
「吠えてくれんじゃねぇか水野のドラ息子が!」
言いながらも、兼相の槍は早速徳川軍の先鋒を斬り伏せていた。
「手柄にしてぇなら好きにしな! ただじゃくたばってやんねぇがな!」
兼相が先頭を切る。兼相が開いた血道を、敗残者共が行く。
後藤又兵衛を斃し気が緩んでいた徳川軍は、豊臣軍の逆襲にすっかり面食らってしまった。
矢も弾き飛ばし、鉄砲持ちは発砲する間もなく首をはね飛ばされる。
「薄田殿に負けてられるか!」
兼相の八面六臂の活躍に、又兵衛を喪って意気消沈していた旧後藤隊も活力を取り戻し、次々と敵兵を討ち取っていく。
「落ち着けお前等ぁ! 薄田以外は若造かへろへろの敗残兵しかいねぇ! 薄田を討ち取りゃ崩れる! 薄田を一点集中で狙えぇ! 薄田を通さねぇ事だけに集中しろぉ!」
「そう怯えんな! たかだか三十騎だ、一気に突き崩せ! 」
勝成と政宗が次々に檄を飛ばすが、押っ取り刀で応戦してももう遅い。立ち塞がった者から兼相の槍の錆となっていく。
「くそっ、俺が行くかぁ! 宮本武蔵直伝の剣術を試してやるぜぇ!」
「お待ち下され! 薄田は確かに猛者ですが老将でございます。もう少し戦わせておけばその内弱るはず、その隙を狙いましょう!」
「あぁ!? んな兵を見捨てるみてぇな事言ったら、竹ちゃんにどやされんだろぉ! それに、あいつがへたるまで俺達の兵が持つかぁ!?」
そんなやり取りをしている内にも次々斃れていく将兵に歯噛みしながらも、水野家臣達は逸る勝成を必死で押さえる。
そんな幕府軍も、ただやられるだけではない。
狙ったのかはたまた偶然か、兼相に突撃した兵が放った鉄砲玉が、相方の十文字槍を真っ二つに折った。
「あ?」
だが兼相は、それがどうしたとばかりに打刀を抜き放ち、左手に折れた槍の柄を持って歪な二刀流で構え直した。
「嘘だろ……?」
我を忘れて呟いた兵士は、兼相にむんずと肩をつかまれ首を刎ねられた。
本来刀は間合いが狭く、戦には向かない。しかし兼相はそんな事もお構い無しに、槍や鉄砲を持った敵兵が反撃するより速く首を獲っていく。
ーーだが、兼相が騎乗する馬の眉間に、鉄砲玉がぶち当たった。
即死だったのだろうか、馬がどうと倒れる。
「っ!」
兼相の視界がぐらりと回転する。いや、回転しているのは自分の肉体か。無意識で受け身を取った体が軋む。特に背中は強打してしまったようだ。
すかさず徳川軍の将兵が迫る。
だが、覆い被さらんと群がってきた兵達を、跳ね起きた兼相の打刀が斬り捨てた。
「まだ終わっちゃいねぇ!」
右手に打刀、左手に愛槍の柄を握る兼相が、死した馬を捨てて自らの脚で駆けだした。
「無茶苦茶だろ彼奴!」
そう言いながらも、政宗の頬は興奮で吊り上がっていた。
「ぉおおおおおっ!」
徳川兵に絶望の色が見える中、兼相の咆哮が轟いた。
(ああ、くっそ……きついな)
どれだけ時間が経った頃だろう。兼相は、水野家臣の言葉通り己の体力の衰えを痛感していた。
経験は積んだ故、敵兵の攻撃は容易く対処出来る。だが、その判断に体がついてこない。それに敵を屠る毎に伝わる反動が、じわじわと兼相の両手を傷めていく。
日はまだ天辺に昇ってすらいないのに、もうこの様だ。
(俺も爺になったな)
やはり、あの若造共に後を託して正解だった。老いぼれはここでくたばり、本丸の守りはまだ元気な奴等にやってもらうかーーそんな自嘲が頭をよぎっていた。
その疲労は、戦慣れした勝成も見抜いていた。
「あ? 彼奴、相当堪えてんなぁ」
「?」
「お前の言う通り、薄田の奴相当へたれてるようだなぁ。今一気に攻めりゃ勝てそうだぜぇ! そらそらお前等ぁ! 一緒にへたれてる場合じゃねぇぜぇ!」
そんな事を言われても、敵の獅子奮迅の猛攻を目の当たりにしてしまった兵達は、すっかり腰が引けてしまっている。
だが、どの時代にも命知らずはいるもので。
「薄田兼相殿! その御首、頂戴致す!」
河村新八重長なる者が、肩で息をする兼相に組み付いた。
「くっ!」
組み伏せようとする重長に、そうはさせるかと抵抗する兼相。二人が揉み合い、地をごろごろと転がっていく。
しかし、重長が手にした脇差で兼相の左手首を地に縫い付け、動きが止まった。
「ぐ……くっそが!」
震えた右手が尚も打刀を構え直そうと試みるも、容赦無く腕ごと斬り落とされる。
兼相の身から力が抜けた瞬間を、重長は見逃さなかった。
「薄田隼人兼相、討ち取ったり!」
重長が掲げた兼相の首は、憑き物が落ちたように、どこか安らかだった。
***
「駄目、でしたか」
道明寺の方から死に物狂いの形相で帰還する敗残兵を見て、全登は歯噛みした。
「これからは私達の出番、ですか」
藤井寺から駆けて来た勝永が、ぽつ、と独りごちた。
幸村は何も言えなかった。
「……父上?」
大助が心配そうに顔を覗き込んでくる。きっと今、酷く情けない顔をしていたのだろう。
「大丈夫だ。心配はいらない」
果たして、上手く笑えていただろうか。
「次は私達の番だ。逃げるなら今だぞ」
「いえ、私は逃げません」
と言いながらも、大助の唇は引き攣っている。無理も無い。先程直接ではないとはいえ、自分より遥かに経験豊富な老将が続けざまに討ち取られる様を、見てしまったのだから。
「戦なんて、始めは皆怖いものですよ。この私だって、最初はおっかなびっくりだったんです。無理せず徐々に慣れていけば良いんですよ」
勝永に背中をさすられて少し強張った表情が和らいだ大助に、少し安堵する。
「歓談はそれまでで。……来ましたよ」
制止する全登の鋭利な視線の先には、迫り来る敵軍の影が見える。
「神の御加護があらん事を。Amen!」
「皆さん、行きますよ!」
「皆の者、出陣!」
指の先が白くなる程手綱を握り込みーー遺された者達は影の方へと駆けだした。