第七章 夏の陣、前幕
大坂夏の陣のプロローグが予想以上に長くなったので、ここらで区切りをつけて投稿します。
「では、行って参る」
端午の節句の夕暮れ時、お竹に赤備えの鎧を着付けてもらい、幸村は戦場へと赴く。
「父上! 私もお連れ下さい!」
そう言った大助は、既に父と同じ赤備えの鎧に身を固めている。
「大助、お前……。着いてくるなと言ったのに、鎧など着込みおって……。良いか。戦は命の奪い合い、老いも若きも強いも弱いも、死ぬ時は死ぬ。そういう物だ。戦を見たいだけなら、やめておけ」
「ですが、私も豊臣に仕えると決めた者。若輩者だからといつまでも後方にいる訳にもいきませぬ!」
そう食い下がる大助は、既に涙目だ。
「な、泣くな! それ程までに戦に行きたいのならばお前も着いて来い。但し、先鋒には行かせんよ。お父の近くで、戦いを見ておけ」
「はい、父上!」
「……お前、私が泣き落としに弱いのを承知だったろう」
「い、いえ、そういう訳では!」
「まあまあ。幸村様、少しお待ち下さい」
そう言ってお竹が懐から取り出したのは、真新しい組紐だった。
「どうしたんだい? それ」
「髪紐でございます。お色を、六文銭の旗印に合わせてみました」
「なるほど。だから赤地に金糸の文様か。端に六本の線があるのは、『六本の線の紋』で六紋線、かな」
「ええ。銭の形は上手く出来なくて」
渋い顔のお竹の髪に揺らめく揃いの髪紐が妙に愛おしくなり、艶やかな黒髪を撫でる。
「いいや、嬉しいよ。有難う」
素直な感想を口にすると、お竹は生娘のように頬を染めもじもじした。
「幸村様と、私と、隆(後の隆清院)と桐(高梨内記娘)と、子供達と、古くからの重臣の分を作りました。隆と桐、お梅にあくりに、菖蒲やお直(後の御田姫)やおかね(後の石川貞清室)も巻き込んで皆で拵えたんです」
「いかがでしょう、皆の力作ですよ」
「お竹様が、皆に隠れて毎晩のように夜なべしておられたので、思わず押しかけてしまいました」
よく見れば、お竹だけではない、側室や子供達、重臣達も同じ髪紐を結んでいた。佐助と才蔵の二人は、忍が赤い髪紐では目立つと思ったのか、手首に巻いていた。
「幸村様も、失礼して……」
お竹が、使い古した髪紐を解き、真新しい真紅の髪紐を結んでくれた。
「これで良し。例え魂は此岸と彼岸で分かたれようとも、真田家は一つでございます」
「頼もしいな。しかし、兜を被ったら敵に見せびらかせないのが残念だ」
自然と、手が髪紐を触ってしまう。
「んもう、お父様ったらそのような緩んだ口しちゃって。お義母様からの贈り物だからってそんな腑抜けたお顔では、家臣に舐められますよ?」
「むぅ、手厳しいなお梅は。しかし、気を引き締めねばならんのは確かだ」
緩み切った頬を叩いて景気付けをし、大助に傍へ寄れと招く。
「では皆、留守は頼んだぞ」
まだ幼い子供達の頭を順番に撫でると、幸村は大助の背を叩いて日常を後にした。
***
「つーわけで、俺達前隊は、道明寺村に陣取る。河内平野に来た徳川勢は、山越えをした直後でへこたれた状態で国分村に進軍してくるはずだ。俺はその疲弊しきった軍を叩く。で、あの村は、二方を山に阻まれ北には大和川があるんだが、小松山と大和川の間に狭い土地があるからな、そこから道明寺方面に侵入しようとするはずだ。だが、狭間にあるせいで大軍は動き辛い。後隊はその伸び切った陣を叩く」
「そして私は又兵衛殿に続く、と」
「ですね。先陣は、戦慣れしている又兵衛殿や全登殿が適任かと」
「そう言えば私、野戦は初めてかもしれません。楽しみですねー」
又兵衛、全登、幸村、勝永は、そんな話をしながらも、夜空の下で別れの酒盛りを交わしていた。
「――勝永殿、人の生き死にが懸かった戦で、楽しいというのは……」
「皆様、私達も来てしまいました」
どういう事だろうか。北の八尾・若江方面に向かっていたはずの盛親と重成が、陣に入ってきた。
「お前等、早く八尾に行かねぇで大丈夫か?」
「されど、此度は決戦。私は死ぬ気は毛頭ございませんが、もしかすればこの酒盛りが今生の別れになるやもしれません。少し挨拶をしたら直ぐに八尾に向かいます故」
「盛親殿に同じでございます。此岸に悔いを遺して討死してしまえば、死んでも死にきれません」
「長さんはともかく、重成、お前なぁ……」
重成のがちがちに硬直した肩を叩きながら、又兵衛は徐に彼のまだ真新しい兜に鼻を近付けた。
「一丁前に兜に香なんて焚きやがって。華々しく討死する覚悟があるのは結構だが、お前はまだ未熟なんだ、無茶はすんなよ。くたばる覚悟で臨むのと無謀は違うぞ。死に損ないの爺と心中する気ならやめとけ。お前は、秀頼の坊ちゃんを守る大役が残ってんだろうが。それに、折角可愛い嫁さん貰って腹ん中に赤ん坊までいるってのに、二十にもなってねぇ嬢ちゃんを寡婦にするつもりか? 無駄死にすんじゃねぇぞ」
歴戦の老将にじろりと睨まれても、彼は一歩も退かなかった。
「もちろん承知しております。しかし、この度は雌雄を決する戦い。もし討たれた時に、無様な姿を見せれば敵将にも失礼。ですので、身支度は整えておかなければ」
「なるほど、一理ありますね。かく言う私も、少しばかり、ね」
真新しい髪紐を弄る幸村の頬は、だらしなく緩んでいる。
「そういや、見た事ねぇ髪紐だと思ってたんだよ。大方、お前の女房が作って寄越したんだろ?」
「良いなぁ、赤に金糸が洒落ているじゃないですか」
勝永に良いな良いなと羨望の眼差しを向けられ、幸村は自分で作った訳でも無いのに得意気だ。
「金糸の線が六本、ですか。六本の線の模様で六紋線、ですかね」
「左様です。良いでしょうこれ」
「鼻の下が伸び切ってますね、幸村殿」
全登の鋭い視線は決して呆れではなく、羨望と嫉妬を孕んだそれだった。
「ですが、私のこのロザリオも亡き妻と揃いです」
そして、首に提げたロザリオを見せて対抗してきた。
「大人気無いですよお二人共。全登殿ったら、嫉妬してるんですか?」
「してません! 妻が息災なだけでも幸せだというのに、揃いの品まで手作りして貰えるだなんて羨ましいだなんてこれっぽっちも思ってはおりません!」
「はーいはい。盛親殿も重成殿も早く出立しなければ行軍が地獄になりますからね。そろそろ盃を交わしましょうよ。今宵は、張り込んで良い酒を買ってきたんですよ。幸村殿には少し甘いかもしれませんけどね。という訳で、幸村殿、音頭をお願いしますね」
「え、いや、私ですか!? ……そうですね。では、私達の誰かが死ぬか、家康と秀忠の首を獲るまで戦い続けると誓って!」
勝永に促されて交わした酒は、甘く芳醇で誠に美味だった。
六人はちょっとだけと言いつつも、もう少し、もう少しと先延ばししながら、悔いを吐き出すように語り合った。
「それでは、私はそろそろ八尾へ向かいます。きっと、またお会い致しましょう」
「皆様、今までお世話して戴いた御恩は、たとえこの身が果てようと忘れません!」
「重成お前、そういう事言う奴程本当に死ぬからやめとけ」
「お二人に、神の御加護があらん事を」
「もし先に討死してしまったら、三途の川で待っといて下さいねー」
「皆様、吉報をお待ちしておりますよ」
五杯飲んだのに赤くもならない盛親と、一杯だけ飲み後はお酌に回っていた重成に別れを告げ、残った四人も小さな酒宴を片付け始めた。
「俺も、手前の陣に戻るか」
「では私も。皆様、明日はよろしくお願い致します」
「良い戦にしましょうねー」
「皆様にも神の御加護があらん事を」
各々自陣に戻り、日付が変わる頃に、又兵衛達前隊は国分村へ向けて行軍を開始した。
***
「ふいー、お前らお疲れさん。明日は決戦だぁ、ゆっくり休んどけよなぁ」
徳川軍の先鋒を任された水野勝成軍は既に、国分村に陣を敷いていた
水野軍だけではない。後藤軍が幕府軍を迎え撃とうとしていた国分村には、本多忠政、松平忠明、伊達政宗、松平忠輝が集結していた。
――豊臣方の作戦は、この時点で既に破綻していた。
「豊臣の連中は、山越えでへとへとになった俺達を迎え撃とうとするつもりだっただろうけどなぁ、そうは問屋が卸さんよってなぁ!」
「水野殿」
「あぁ? 何だぁ奥田ぁ」
勝成に声を掛けたのは、彼の軍に属する奥田忠次だった。
「私の陣を、小松山に敷いてもよろしいでしょうか」
「小松山だぁ?」
「さ、左様。小松山は大軍が動き辛く、防御に長けるかと……」
しかし勝成は、そんな彼の提案を手をひらひら振って制した。
「だーめーだーめぇ! 大軍が攻めにくいって事は、何かあった時味方も救援しにくいってこーとっ! あんな所に陣を敷くのは、手前の命が惜しくない、ここに死地を定めた大馬鹿野郎だけだぞぅ」
「は、承知致しました」
こんな口振りでも勝成は一応歴戦の猛将だ。忠次は大人しく引き下がった。
「だが、もしかしたら豊臣の連中があそこに陣を敷くかもなぁ。でぇ、あそこに陣を敷くような奴は、戦をなんにも知らねえ餓鬼か、救援が来ねえの承知で死にに行くような戦の世の死に損ないだろうなぁ。どっちにしろ良い首だぁ。少数で良いから、小松山に偵察は送っとくかぁ」
さて、小松山に豊臣は来るか。もし来るなら若武者かはたまた戦国の世の生き残りか――勝成は、偵察の報告を、鎧を身に付けたまま手薬練引いて待っていた。
一方、伊達政宗は
「水野殿の言う事も一理ある。しゃあねえなぁ」
と言いながらも、口を尖らせていた。
「でも、彼奴らと一緒に行動してたら、手柄獲れねえよなぁ」
この度の戦は、小十郎(片倉景綱)の倅の独り立ちなんだが、手柄を土産に出来なけりゃ小十郎が何と言うかな――今は病床に就く小十郎の仏頂面を思い出す政宗は、ふと傍で鉄砲を手入れする件の倅、重綱(後の重長)の美貌に目をやった。
「なあ弥左衛門」
「殿は、いつも小十郎とは呼んで下さいませんね」
「だって、お前の親父の方の小十郎がいるから、ややこしいじゃねぇか。それよりもさ、お前の軍の鉄砲の準備はもう万全か?」
「もちろん万全ですが……」
怪訝な目を返す重綱の腰を抱き、政宗は息のかかる程近くに引き寄せた。
「お前に大手柄を獲る機会をやる。お前は、小松山の麓に陣取れ」
「ま、誠ですか!?」
目を輝かせた重綱はしかし、不安の色を滲ませた。
「しかし、父上がおられない戦は初めてでございます。そのような状態で、務まりますでしょうか」
「ったく、じれってぇな」
政宗は、重綱の頬に軽く口付けし、血色を取り戻させた。
「なに、もしお前が危機に陥りゃ、俺が助けに行ってやるよ。小十郎が俺にお前を託したんだ。お前の首を豊臣なんざにくれてやるかよ」
「殿……」
血色が戻るどころか顔を真っ赤にしてしまった。
「では、直ぐにでも出発致します。殿に、大手柄を差し上げますとも」
「頼りにしてるぜ、次代小十郎」
「ええ」
重綱は、ぎこちなく主君に口付けを返すと、鉄砲を抱えて自陣へ足早に戻って行った。
「殿。松明を持った行列が、藤井寺方面に向かってきております」
「来たか……!」
伝令の報告に目を輝かせる勝成に対し、彼の指揮下に属する堀直寄は、重く嘆息していた。
「松明を煌々と付けて行軍する将が何処にいると言うのですか。水野殿らしくも無い」
「いーやーいーやー! 逆にぃ、こんな夜道で松明をつけてねえと『あれ、怪しくね?』ってすぐに捕捉されるだろうからさぁ、敢えて松明を付けて行軍してるって線も有り得るぜぇ?」
「むぅ……」
ぶすりとした二人の元に、再び伝令が来る。
「先程の松明の行列、道明寺に着いた途端に火を消しました」
「おっとぉ?」
二人が、徐に顔を見合わせる。
「な、言ったろぉ?」
「先程の非礼を詫びます。貴殿を見くびっていたようです」
「なあに、俺も半信半疑だったしなぁ。さ、寝れる内に寝るかぁ! 此度の獲物はでかいぞぉ!」
「はいはい」
「あーでも俺全裸じゃねぇと寝れねぇかも」
「重臣でもない私にとんでもない事を暴露しないで下さい!」
敵は相当な知恵者、恐らく戦国の世の生き残り――大手柄との戦を控え、勝成はにまにまとほくそ笑みながらも、数刻もせぬ間に落ちるように眠りに就いてしまった。
「…………いや、寝るの早すぎでしょう」
直寄は再び溜め息を吐きながらも、各将兵に休息を命じた。
***
一方の豊臣方。盛親は、ぬかるんだ足取りの悪い湿地の中を行軍していた。
「此処より先は、先鋒の提灯の灯一つで進む。先鋒が歩みやすい場所を探す故、前の者から離れぬように歩く事。皆の者、くれぐれもはぐれるでないぞ。兵一人でもはぐれ敵に捕捉されたならば、この策は台無しだぞ」
盛親は、高野街道を南下して迫ってくるであろう敵を、この身動きしづらい湿地帯で迎え撃つつもりでいた。
「向かうは八尾だ。久宝寺村の近くに、大和川の分水(現在は長瀬川と呼ばれる)があるが、その周りは湿地と聞く。その近くに陣を張る」
「慌てずに落ち着いて進め。湿地で転んで傷を作ろうものなら、破傷風になりかねん」
盛親の細やかな指示に励まされながら、長宗我部軍はゆっくりと、しかし着実に歩を進めていた。
「此度の敵は誰でしょうな」
「ま、誰が来ようと手加減する気はねぇけどよ!」
「だが、殿はお優しい。万が一藤堂殿が来ようものなら、また泣いてしまわれるかもしれぬ」
「いやいや。殿は戦の時こそ腹を括れる御仁よ」
「でもやだなぁ。藤堂様には、元親様の代からの御縁がある。殿が改易された後にも、長宗我部の旧臣を沢山拾って戴いたからなぁ」
「彼奴ら、殿が直々に『長宗我部を立て直す為に、大坂城に集結せよ』と書状を送られたというのに、『まだ藤堂家への恩義を返していない』って断りやがったからなぁ」
「藤堂様とも、元同僚とも、鉢合わせしたくねぇもんだ」
兵達の世間話に、盛親の顔が歪む。
「……これ、縁起でもない事を言うな」
「と、殿、申し訳ございません」
名が上がると顔を思い出してしまうもの。長兄・信親の膝の上に座って指を吸っていた幼い日の自分に笑いかけた、天を衝くような大男の人懐っこい笑みが脳裏をよぎる。
「如何なさいましたか。突然微笑まれて」
「……いいや、大丈夫だ。うん、大丈夫」
思い出を振り払い、盛親は今一度手綱を握りしめた。
その頃、重成はようやっと軍備を整えて行軍を始めた。
「皆の者、遅れをとってすまない。はぐれる前に進もう」
「少し霧がかって参りましたな」
「そうだな。うかうかしておると、本当に迷ってしまう」
結論から言えば、先に進んでいた長宗我部軍からは大きく引き離され、すっかりはぐれてしまっていた。
「くそ! 思った以上に身動きが取れんぞ!」
「想像より早く、霧が濃くなって参りましたな」
「殿! このままでは八尾に着く前に兵が疲弊してしまいまする!」
「ぐぬ……」
歯噛みするも、ほとんど戦の経験が無い重成には、この濃霧と湿地を克服する術は思い浮かばない。
「やむを得ない。湿地を迂回しよう。目標とは多少ずれてしまうが、陽が昇った後に移動した方がまだましだろう」
木村軍は、湿地帯が入り組む八尾への進軍を諦め、北の若江に目標を改めた。
「又兵衛殿に、悪路の行軍についても教わっておくべきだったな……」
別の進路を目指しているであろう敬愛する老将を思い浮かべ、遅すぎる後悔に嘆息する重成だった。
その又兵衛は、同じく歯噛みしていた。
「国分村に、徳川の連中が大集結、だと……? 俺の策は、とっくに破綻してたって事かよ!」
彼は、深夜の内に国分村を陣取り、山越えしてきた徳川軍を奇襲するつもりだった。だが、徳川軍の行軍が想定以上に速かった。
敵軍の構成を聞き、行軍の速さにも合点がいった。伝令によると、居並ぶ陣の中には、水野勝成軍と伊達政宗軍のそれもあったという。二人共、今では数少なくなってしまった戦国の世の生き残りだ。
「こりゃあ、腹の探り合いだな」
冬よりも数が減った、寄せ集めの軍勢。近くに見えない味方の軍作戦が破綻した以上、詰んだも同然だ。
松明を消した暗闇の中、微かな星明かりに照らされてきらきらと流れるのは、河内平野を潤す石川。この先に、徳川軍が待ち構える国分村がある。渡れば最悪、死が待っている。
さてこの川、渡るか、引き返すか。
又兵衛は、背後の軍勢を振り返った。
「よく聞け。策はとうに破綻した。俺は川を渡って小松山に陣を敷く。んで、生きるかくたばるかの大勝負に打って出る。だが、生きて帰れる保証は全くねぇ。命が惜しい奴は、今の内にとっとと失せろ。軍法違反には問わねぇ」
だが将兵達は、誰一人として又兵衛の元を去ろうとはしなかった。
「そうか。なら一丁、大博打を打っちまおうか!」
深く頷き答える将兵達に満足気ににやりと笑い、又兵衛は、霧立ち込める三途の川へと足を踏み入れた。
目指すは聳える小松山。いざ、死地へ――。
一方の真田軍は、藤井寺村で一度腰を落ち着けていた。
大助は、家臣の望月と並んで眠っている。高齢の高梨内記と作兵衛は、真夜中の行軍が体に堪えたのか爆睡している。
他の側近はというと、鉄砲の名手である十蔵と甚八は、鉄砲の手入れを一通りしてすぐに仮眠をとっている。僧形の清海と伊三の兄弟は、寝れなかったのか落ち着かない様子で槍を手入れしている。紅一点の鎌之介は、今回は得意の鎖鎌でなく槍を抱えてこくりこくりと舟を漕いでいる。参謀格の海野は、念入りに陣取り図を確認してうんうん唸っている。幸村に古くから仕える小助は、邸を出る前にもう確認したというのに、幸村の武具に不備が無いかと点検している。
忍の佐助と才蔵は、今回は敵地を偵察している。
「……おぅ、佐助か。ご苦労」
「起こしてしまいましたか、殿」
幸村が仮眠から覚醒すると、傍らに佐助が膝をついていた。
「なに、気にするな。それより、報告を頼む」
「申し上げます。井伊直孝と藤堂高虎の軍勢が、八尾より南下しております」
「そうか。報告ご苦労だ」
「はっ。では私は、引き続き偵察に行って参ります」
「頼んだぞ」
幸村が空を仰ぐも、濃い霧に遮られ何も見えない。だが、夜明けはまだ先のようだ。
「今起きている者は、寅の下刻(五時頃)になれば諸隊を起こしてくれ」
「あいよー!」
「御意」
「かしこまりー」
清海、伊三、小助からは元気な返事が帰ってきたが、海野はまだ陣取り図と睨めっこをしている。
「ですが、早めに道明寺に向かっておいた方がよろしいのでは? この濃霧の中だと、行軍は亀になります」
「確かに、それも心配だ。だが、井伊軍と藤堂軍が、八尾方面から南下しているのも心配でね。八尾には盛親殿や重成殿が向かっているが、彼等をかわしてこちらに向かってくる可能性もある」
「なるほど」
「八尾方面には佐助を行かせた。道明寺には才蔵が行っている。彼等の寅の下刻の定時報告を受けてから、藤井寺に残るか道明寺に向かうかを決めよう。なに、まさか夜明け前から開戦はしないだろう」
「畏まりました」
「では、私はもう少し休むとしよう。此度は決戦になるやもしれん。皆も交代で休むと良いよ」
「はっ」
既に眠っていた残り四人を「そろそろ見張りを替われ」と叩き起こす側近達をぼんやりした意識で見守りながら、幸村は暫しの眠りへ落ちていった。
「よし、久宝寺村に着いたぞ。皆の者御苦労」
その頃長宗我部軍は、目的地の久宝寺村に到着していた。
「しかし、この霧では周りが見えませんな」
「よし、私が様子を見よう。あの松など、物見をするのに都合が良さそうだ」
松の大木を指す盛親を、家臣達が慌てて制止する。
「殿御自ら物見とは、危のうございます!」
「何を言う。大将が自らの目で戦況を確認するのは当然。それに、霧中の物見なら長身の者がやる方が良かろう」
「いやいや殿。長身が適任なら、六尺二寸(約百八十センチメートル)の俺が行くのが良いんじゃないですか?」
そう名乗り出た盛親より五歳程年上の家臣は、古傷に顔を埋め尽くされた頑強そうな偉丈夫だった。しかし、盛親は首を縦には振らない。
「いいや市左衛門。お前は大き過ぎて、乗れば枝が折れかねん。私が行く」
そう言うなり、盛親は軽々と松の先端まで登って行ってしまった。
「ここからだと良く見えるな」
「眺めは良いですかね」
「ああ。ここでなら上手く索敵出来そ――」
御機嫌に周囲を見渡していた盛親が、ぴたりと静止した。
「嘘だろう?」
「……何か見えますか? 殿」
盛親は何度も目を擦り、やがて嘆息して家臣を振り返った。
「黒地に白餅三つ。……藤堂殿だ」
「あの軍勢は何だ?」
若江へ向かっていた重成も、藤堂軍の旗印を見つけていた。
「如何なさいましょう。あちらは我等に気付いていない様子。奇襲をかけましょうか」
「……いいや、初陣も同然の私が歴戦の藤堂軍と相対するのは、些か荷が重い。此処は盛親殿にお任せしよう」
「はっ」
木村軍は、藤堂軍の近くを素通りし、若江へと進軍を続けた。
***
一方その頃、幕府側の井伊直孝は、
「あの綺麗な若武者、また会えないかなー」
とそわそわしていた。
「さぁ、道明寺におれば幸いですがな」
井伊軍は、幸村の読み通り、本来は藤堂軍と共に道明寺方面に向かう予定だった。だが、兵の疲弊が顕著になっていたため、今の今まで行軍を休んでいたのだ。
「しかし、殿自ら兵の休息を命じられるとは」
「当たり前だ。兵が疲れていたからなんて下らねぇ理由で、手柄を取り損なうわけにゃいかねぇのよ」
「左様ですぞ。古今東西の将を見ても、兵の疲弊を鑑みずに戦をした者に勝った者などおりませぬ」
「殿も御成長なさいましたな」
穏やかに微笑む家臣達だったが、直孝はにやりと悪戯っぽく笑う。
「だが、無茶する時は無茶するからな。ついて来いよ」
「前言撤回。突撃癖は治っておられぬ」
「いや、突撃癖が無い井伊の殿様は逆に気持ちが悪い」
「悪ぃかよ。早駆けは誉れだろうが」
憮然とした表情で、直孝が立ち上がった。
「しっかし、何か妙に騒がしい気がしねぇか? 何か鎧の音が聞こえる気がするぞ?」
耳を澄ませても、老将達の衰えた聴覚では物音は聞こえないが、
「確かに大勢の気配は致しますな。此方は八尾だから若江だか、でしたか」
「一塊ではなく、ばらついておりますな。経験の浅い若武者の軍でしょうな」
「ですが、数が多い。我等の二倍はあるでしょうな」
その言葉を聞くなり、直孝はせっせと兜と両腰を装備し始めた。
「突然如何なさいましたか殿!?」
「何って、今から出陣すんだよ!」
「何故!? 国分寺村に向かっておるのですぞ!?」
「なーに言ってんだ。未熟な若武者っぽいってのに、兵三千の俺等の二倍の軍勢だぜ? その規模の大軍を率いれるっつったら、そんなもん、あの綺麗な若武者くれぇだろ! 彼奴、秀頼の乳母子の木村重成なんだろ? 討ち取りゃ大殿もお喜びになる!」
直孝の目は既にぎらぎら輝いている。これは面倒臭い事になる予兆だと、重臣達は皆承知していた。
「左様でしょうが、道明寺にも良い大将首はありましょうぞ!」
「んなもんよく考えりゃ、水野のおっちゃんとか伊達のおっさんとか藤堂のおっちゃんとか、俺より経験のある連中に根こそぎ取られちまうぜ! 道明寺は、わざわざ俺等が行かなくてもあのおっちゃん達だけで十分だろ! じゃ、俺は目の前の誉を取りに行くぜ! ついて来い!」
「殿! ですから御一人で突撃なされるなと……! ああもう、皆の者出撃!」
溜め息混じりの号令を受けて、将兵達も慌てて主君を追いかけた。
「殿。井伊軍が、若江の方に向かって来ております」
「は? 何でこっちに向かってんだあの鉄砲玉?」
若江に陣を敷いていた松平忠直は、陣羽織を敷物代わりに寝転んだまま、あからさまに大きな溜め息を吐いた。
「どうやら、八尾や若江方面に豊臣軍らしき気配がしたとの事。如何なさいますか?」
「……如何するも何も、御祖父様から勝手に戦をするなって言われてるだろ。勝手にさせとけ」
そう言うと、忠直は若江方面にそっぽを向いて寝入ってしまった。
「これが、最後の大戦か」
八尾で暫しの休息を摂っていた藤堂高虎は、ふと独りごちた。
「弥次兵衛、本当に良かったのか? 盛親殿について行かなくって」
「……某は、今は殿の家臣にございます」
桑名弥次兵衛一孝は、そうぽつりと言うと静かに目を伏せた。
「ん、そうか。世話かけんな」
高虎が振り返った先には、視界は朧気ながら、苦楽を共にした重臣達が確かに並んでいた。
「一農民、一浪人に過ぎなかったワシが、良き主に巡り会えて、今や二十二万石の大名だ! ここまで来れたのは、お前達がいたからこそよ。この大戦が終わった後にゃ、家康殿より賜った津藩をさらに盛り立てにゃならんからな! 今後とも頼むぜ!」
「はっ! 勿論で御座います!」
高虎が満足気に頷いた、その時だった。
「! 道明寺の方からか!」
けたたましい銃声に、将兵が瞬く間に色めき立つ。
「急ぐぞ! 全軍出撃!」
焦って先を急ぐ藤堂軍は――すぐ近くまで長宗我部軍の先鋒が迫っているとは、露ほども知らなかった。
「殿! 豊臣軍が、小松山を占拠しました!」
ごろりと地べたに寝転がっていた勝成が、五十路とは思えぬばねで飛び起きた。
「ついに来たかぁ! で、大将はぁ?」
「大将は、後藤又兵衛と」
「後藤又兵衛ぁ!? そりゃあ大手柄だぁ!」
見立て通り、戦国の生き残りのお出ましだ――武者震いが止まらない。
「お前らぁ! 総出で小松山を取り囲めぇ! 絶対に逃がすんじゃねぇぞぉ!」
「はっ!」
「だが、夜明けまで攻め込むなよぉ? 恐らく抜け駆けしてやがるだろう伊達の坊っちゃんにも伝えてやりなぁ?」
「はっ!」
「よぅし。全員支度が出来次第出発だからなぁ? 急げよぉ?」
空が白み始める前に、水野とその傘下の軍は小松山をぐるりと取り囲んだ。
後藤軍は、既に袋小路へ追い込まれていた。
***
「くそっ!既に水野の兵が潜んでいたか!」
小松山を見張っていた水野軍の兵を蹴散らした又兵衛は、焦っていた。
勝成は、麓に陣を敷いているが、小松山に少数の見張りはつけていた。つまり、豊臣の将が小松山に陣取るのは織り込み済みという訳だ。
「なるほどな。俺の手中は読めてるってか。んじゃ、今回の戦は俺と水野の化かし合いだな」
幸い、辺りは霧がかっている。敵の視界を潰すにはもってこいだ。
「殿、奥田忠次の軍が、小松山へと迫っているとの報が入りました」
「他の軍は?」
「未だ微動だにせず。奥田の抜け駆けでしょう。しかし、我等が奥田を倒せば、他の連中も黙ってはおれず攻め込んでくるでしょう」
「だな。奥田め、霧が晴れるまで待っておれば良かったものを。だが、俺等にとっちゃむしろ好機だ。行くぞお前等! 最期にでっけぇ死に花咲かせてやれ!」
「「「おー!」」」
夜が明ける前、五月六日寅の刻(四時頃)、後に道明寺の戦いと呼ばれる戦が――幸村の予測より早く――幕を開けた。
次回は、道明寺・誉田の戦いと、八尾・若江の戦いを書く予定です。