第六章 暗雲
色々あって投稿が遅くなりましたが、やっと夏の陣直前まで漕ぎ着けました!
冬の陣の和睦から夏の陣直前までの話です。
和睦あたりの駆け引きやら、大野治長襲撃事件やら、いつも以上に独自解釈があります。
戦は、幸村が勝利を収めた後も続いた。
両軍の直接的な衝突は無くなったものの、徳川軍は戦わずして揺さぶりをかけてきた。
「うるっせえ! 毎晩毎晩三回も鉄砲撃ちやがって! 眠れねぇで城に来ちまった! ……ってお前もかよ全登」
「まったく、酷い目覚ましだ。おかげで、最近城は皆昼も夜もうつらうつらとしておられる。おちおちミサもしていられない」
「昼は昼で鉄砲撃ってきやがるから、昼寝も出来ねぇ。ったく、総構がいくらか穴が空いてるかもしれねえが、構の中まで弾が飛んできやがるから、壊れているか確認にもいけねえ…………ちっ」
さらに、大坂城の防御の一端を担う淀川や大和川の堰き止めを図って堀の水位が下げたり、大坂城に侵入すべく地下道を掘ったりと、城そのものも切り崩しにかかった。
その一方で、徳川は大坂城に、降伏を促す矢文を飛ばし、牢人には寝返りを促す書状を送った。幸村にも、徳川方についている叔父、信尹の名で、寝返れば所領を与えるとの書状が届いていたが、ひとまず断っておいた。
豊臣方も、ただやられるだけではなかった。治房や団右衛門らの軍勢が、本町橋で徳川方の蜂須賀至鎮の軍に夜襲を仕掛け、勝利を収めた。勝報と共に帰城した団右衛門は、
「敵陣に、この木札をばらまいてやりましたぞ!! これで、某も名が挙がるはず!!」
と、幸村も初対面の時にもらった『塙団右衛門参上』の木札を誇らしげに掲げていた。
水面下では、有楽斎や治長を中心に講和交渉が続いていた。徳川方は、大坂城の堀の埋め立てを条件に講和を進めようと画策していたが、豊臣方は淀君を人質に送る代わりに大坂城の堀は断固として埋めないと返した。豊臣方、特に秀頼は抗戦的な態度を崩さず、交渉は膠着状態にあった。
徳川軍との睨み合いが続く中にあっても、豊臣家家臣も牢人達でさえも、心の奥底では大坂城は難攻不落だと信じ切っていた。
それは、唐突な事だった。
幸村達が、大坂城の自室に家臣達を呼んでたむろしていると、突然頭上から轟音が響いた。
「何だ!?」
窓から上空を覗くと、天主より煙が上っている。
「私が様子を見て参りまする」
そう立ち上がる家臣達を、幸村は右手を挙げて制する。
「いや、私が見てこよう。私が行けば、ひょっとすれば本丸内まで踏み込めるかもしれない」
「しかし、危のうございます」
「二発目が再び本丸に来る危険だってありますぞ!?」
幸村の岳父でもある高梨内記と堀田作兵衛興重がなおも止めるも、
「恐らく、相手は威嚇のつもりだ。そう何度も撃ってはこないであろう」
とだけ言い残し、本丸へと向かった。
本丸の傍には、他の五人衆も集まっていた。
「外壁が丸く抉れているな。おそらくカルバリンとかいう砲だろ。俺も、実物を見るのは初めてだ」
「カルバリン砲の弾というのは、城の外からも届くものなのですか!?」
珍しく全登も狼狽えている。
「私もカルバリン砲の噂は聞いた事ありますが、ここまでとは……」
本丸が被弾したと分かってはいたものの、いざ漆喰の壁に穿たれた大穴を見せられると、幸村も驚き開いた口が塞がらない。
「それよりも、怪我人は出ておらんでしょうか……」
「我々も天主へ向かいましょう! なに、『秀頼様と淀君のご無事を確かめるため』と言えば、修理殿も分かって下さるだろう!」
勝永の提案により、五人衆全員で砲弾が当たった場所へと向かう。
「すまぬが、ここを通していただきたい!」
「なっ! ここから先は五人衆の皆々様であろうと通す事は出来ませぬ!」
「うるせえ! こんな時にンな事言ってる場合か!」
又兵衛に弾き飛ばされた門番の横を走り抜け、天主へと入る。
問題の階へ突き当たった時、こちらへと向かってくる人影を見つけた。重成と治長だ。
「皆様、どうしてここに!?」
「修理殿、今はそれより秀頼様と淀君の安否の確認が先でございます!」
「殿は御無事です! しかし、砲弾が淀君と侍女の行列に当たり……淀君はご無事でしたが、侍女達が瓦礫に巻き込まれて……」
「瓦礫をどけるのならば人手が要りましょう。私もお手伝い致します」
盛親の提案に皆頷き、煙が立ち込める方へ向かう。
砲弾が当たった場所は、酷い有り様だった。
外壁が丸状に砕かれ、折れた木の骨組みと混じり合って瓦礫となり、磨き抜かれた床に散乱している。
その瓦礫の山の方から、こちらに向かってくる人影を見つけた。
「淀君!」
淀君は、治房によろける体を支えられ、震える脚で歩いてくる。顔色は口元を覆った手でよく見えなかったが、平時は怜悧な目が引き攣っている。
「お怪我はございませんか!?」
「妾は心配いらぬ……。しかし、侍女達が……」
瓦礫の山はうず高く積もり、床には鮮血が染み出している。
砲弾は豪奢な襖と太い黒塗りの柱にめり込んでいたが、その脇には、砲弾が直撃したのか、腹が大きく抉れた侍女が転がっていた。
淀君を重成に預け、残りの男達総出で瓦礫をどけ始める。
侍女の遺体は、どれも目を背ける様な損傷具合だった。瓦礫の下敷きになっている者、瓦礫が後頭部に直撃したのか脳が漏出している者、骨組みの木材が胸を突き破っている者、砲弾に顔面を抉られ身元が特定出来ない者もいた。
結局、砲弾に巻き込まれた中で生き残ったのは、淀君だけだった。
「何と惨い……。戦でも、これ程惨い死に方はそう無いだろうに……」
盛親が、必死で顔を背けながらも、侍女の遺体一つ一つに白布を掛けていく。その脇では、全登が跪き十字を切っている。損傷が激しい遺体などいくらでも見ているであろう又兵衛でさえ、顔を顰めている。幸村と勝永も、静かに手を合わせる。
「これは……やはり秀頼様にも報告せねばならぬだろうが……」
治長は、床に並べられた侍女達の遺体列を見て、震える拳を握り締めた。
この砲撃は、すぐに城中の者の知るところとなった。
天下の名城大坂城であっても、鉄壁ではない――。
その事実は、牢人達の、そして何より豊臣家中の者の戦意を砕くに十分過ぎる威力であった。
誰ともなしに、こう言い始めた。
「大坂城も、落ちるかもしれない」
その不安は次第に増幅されていった。
それでもなお、五人衆は、そしてなぜか治房も、「今和睦しては徳川の思う壷だ」と進言したが、既に家中は和睦へと傾いていった。
「無理も無いですけどね。特に淀君は、侍女の悲惨な死に様を目の前で見てしまったのです。『あの砲撃にもし秀頼様が巻き込まれたら』、そう思ってしまうのも仕方無い事です」
勝永は、そう言いながらも歯痒いとばかりに唇を噛んでいた。
***
「おい秀忠!」
「何でしょうか、父上」
一方、徳川本陣では、家康が秀忠を呼び出していた。
「先日のカルバリン砲の弾が淀君の行列に命中したという報が届いた」
「それはそれは。それで、淀君は殺せたのですか?」
「淀君は亡くなってはいないが、侍女が全員亡くなったそうだ。少しでも砲弾がずれておれば淀君に命中しておっただろう」
「ちっ……」
小さく舌打ちした秀忠に、家康は眉間に皺を寄せる。
「やはり命を下したのはお前か!」
「大坂城の本丸御殿を砲撃せよと申したのは父上ではございませぬか」
「確かに言うた! しかし、何も秀頼公や淀君を殺せとまで言うておらぬ」
「……なぜです?」
秀忠の冷たい声に、家康が固まる。
歴戦の名将であるはずの家康が、三十半ばの若者に面食らう――滑稽な光景ではあったが、若者は既に今代将軍の貫禄を称えていた。
「父上が泰平をもたらしたはずの天下が乱れているのは、豊臣のせいでしょう。ならば、天下を乱す賊共の玉を仕留めるのが一番早いでしょう」
「ぞ、賊とまでは、言い過ぎではないか!?」
「父上は甘すぎます。いくら秀頼が、父上自ら私財を投じて教養を施した相手であろうと、泰平を乱す輩は滅ぼさねばなりませぬ。父上がやらぬと言うのなら私がやりましょう」
しかし、と家康は狼狽 える。
「秀頼公は仕方無いとしても、お前の娘の千が秀頼公に嫁いでおるだろう! あの子はどうするのだ!?」
だが、豊臣の渦中にいる娘の名を出されようとも、秀忠は眉一つ動かさない。
「娘の命よりも、この泰平の世を守る方が先決。我々の双肩には、戦乱無き世を望む民の命がかかっておるのです。数多の民の平穏に比べたら、実の娘の命とて紙切れのようなもの。父上の夢見た世を守るためになら、私は鬼畜生にでもなりましょう」
「…………そうか」
家康は息子に背を向け、ぽっかり穴が空いた城の天主を見上げる。
すると
「大御所様、本多上野介様より使者が参りました」
「正純か。良かろう、通すが良い」
本多正純といえば、かねてより豊臣方と和平交渉を進めてきた家臣だ。
「どうした」
使者が、家康の面前で平伏する。
「先日の淀君被弾により、豊臣が和平に応じると申して参りました」
「それは誠か」
跪いた使者が、懐より書状を取り出す。
「こちらが、大野治長殿並びに織田有楽斎殿の連署による書状でございます。本来は本多上野介様宛でございましたが、本多様が『これは大御所様もお目通しするべき』と」
「なるほどな、受け取ろう。ご苦労であった」
「はっ」
使者が去ると、家康は秀忠に向き直る。
「お手柄だな、秀忠。淀君のお命が危ないとなれば、豊臣方も少々無茶な要望を出しても呑むであろうな。秀頼公と淀君を殺めず事が済むなら重畳。結果良ければ全て良し、か。この度の事は不問としよう」
「……は」
秀忠は頭を下げるも、その口元は歪んでいた 。
「それでは、私は陣に戻るぞ。お前も少し休め。根を詰め過ぎると良くないぞ」
「…………」
去りゆく父の背中を見送ると、秀忠は、穴を空けられながらもなおそびえ立つ大坂城を見上げた。
腰に提げた鉄砲を手にすると、銃口を絢爛の(けんらん )城に向ける。
その瞳には、冷え切った炎が宿っていた。
「父上が何と言おうとも、私は絶対逃さぬぞ。豊臣秀頼――」
***
「は!?砦も堀も出丸も、全部壊せと言うのですか!?」
大広間に、勝永の素っ頓狂な声がこだまする。
「うむ。それが、徳川が示してきた和睦の条件だ」
淀君は、すっかり憔悴した顔を俯かせている。
「だが、この条件を呑むとなったら、この城は防備がほぼ皆無の裸城になるぜ?それこそ、徳川の思う壷って奴だ」
「うむ。以前の妾なら呑まなかっただろう。しかし、徳川がその気になれば、本丸を攻め落とさずとも秀頼を殺す事も叶うと分かった以上、和睦には乗るしかない。妾はあくまで、秀頼の命を優先したい」
淀君の手は震えている。
「淀君は、殿の御命が危険に晒され、憂いておられます。我々は豊臣家の従者故、あくまで殿の御命こそ第一。牢人衆も、淀君のお言葉に従うように」
大蔵卿局が、ざわつく牢人衆に言い放つ。
「しかし裸城になってしまえば、もう将兵以外に前右府殿をお守り出来るものは無くなってしまいますぞ」
唸る盛親に、局はなおも強気だ。
「ですから和睦と言っておるでしょう。和睦したからには、攻められる心配はございませぬ」
「――いえ。和睦など当てになりませぬ」
そう言ったのは、幸村だった。
「和睦など、敵方がその気になればいつでも握り潰せるもの。本心から豊臣と徳川の和睦を望むのならば、天主に大砲など撃たぬはずです。古の世より、和睦で相手を油断させて攻め入るのは常套手段。数年かけて敵との信頼関係を築き、敵が油断したところを暗殺した宇喜多直家公の例もございます。戦の世は化かし合いでございます。『徳川は、和睦を破棄するかもしれぬ』と、警戒を怠らぬ方が良いかと」
「っ……」
戦国の世にあって表裏比興と呼ばれた男の実子の言葉となれば、さすがの局もぐうの音も出ないのだろう、
「ですが、たとえ不利であろうと、呑まねばさらに殿の御命を危険に晒す事になりまする。決定には従うように。よろしいですね?」
苦し紛れに語気を強めるしかなかった。
すると、牢人の一人がぽつりと呟いた。
「もし和睦するってんなら、俺達どうなるんだよ。御役御免か?」
それを皮切りに、牢人衆がにわかにざわめき始めた。
「城を出たところで、俺達に行くとこなんてねぇぞ!」
「豊臣は俺達を見捨てる気か?」
「見捨てるどころか、はなから鉄砲玉くれぇにしか思ってなかったんじゃねぇのか?」
「どうすんだよ……とっとと逃げちまうか?」
「まあまあ、何も解雇が決まった訳ではありませんし……」
「み、皆様、落ち着いて下さい!」
勝永と重成が慌てて鎮火しようにも、牢人衆の不安はどんどんと拡散されていく。盛親はただおろおろとし、又兵衛はあからさまに大きな溜め息を吐き、全登さえも感情の読めぬ冷ややかな目で観察するのみだ。
幸村はというと、
「秀頼様、我々牢人衆の処遇は如何なさるおつもりでしょうか」
と、秀頼に直接問い質した。
「う、うむぅ……」
ちらちら送られる秀頼からの視線にたまりかねたのか、治長が母を見遣りながら口を開く。
「牢人衆の処遇については、持ち帰り検討させていただく。……皆様、御意見は色々とございましょうが、徳川が本気で淀君と秀頼様を亡き者にせんと企んでおる以上、我らも闇雲に抗戦するわけにもいきませぬ。ここはどうか、矛を収めていただきたい」
「……はぁ!? 何だよ『持ち帰り検討させていただく』って! 俺達牢人は明日の飯を食えるかも分かんねぇ中で、大坂に最後の望みを賭けたってのに!」
「他の大名連中が徳川について、どう考えても豊臣の方が不利だって中で、それを承知で来てやってんのに!」
「元の主君が天下人だからって偉そうに!」
未だざわめきが収まらない、どころか不満が漏れ聞こえている。
「…………けっ」
そんな混沌の中、あからさまに舌打ちしたのは、治房だった。
「ったく、煮え切らねぇなぁ兄貴。和睦和睦って、尻尾振って降参するまで、あいつらは俺達を徹底的に潰しにくるだろうによ」
「そうなれば、仕方あるまい、抗戦するのみだ」
「真っ裸の城でか?」
「……っ! とにかく、です! 我らは殿の御命あってこそ! 殿をお守りするためにも、和睦の条件は呑まねばならぬのです! ご辛抱なさって下さい!」
結局、治長が強制終了する形で、軍議は終わってしまった。
和睦の条件には、本丸以外の防備、つまり二の丸・三の丸、総構、全ての堀、そして当然ながら幸村の出丸の破壊も挙げられていた。
出丸の解体が始まる日、幸村はお忍びで出丸を訪れた。
「思った以上に速いな」
又兵衛と一緒に設計した出丸の断崖が削り落とされていく。又兵衛と一緒に仕掛けを考えた空堀が埋められていく。重成と共に登った櫓が叩き壊されていく。家臣達と立てた旗印が折られていく。
木槌が振り下ろされる度、胸がずきりと痛む。あの出丸にいたのは、ほんの僅かな時だけだったのに。
「いやぁ、随分と破壊が進んでんなぁ」
声の方を振り返ると、いつの間にか横には又兵衛がいた。人の気配を感知出来ない程落胆していたのか、とようやく気付く。
「折角造り上げた出丸が……」
「これからどう挽回しましょうかね。大坂城は裸城ですよもう」
背後には、重成に勝永、盛親、全登もいた。
「もうあの城で籠城は出来ませんな。次に徳川が攻めて来れば、もはや城外に打って出るしかありますまい」
「その『次』はすぐ来るでしょうな。それまでに考えなければ」
がつんがつん、と大きい木槌の音が響く。
「この豊臣に不利でしかない和睦を呑んでしまったせいで、牢人達の心は豊臣から離れているでしょうな。おまけに、軍議でのあの煮え切らない態度。あの対応ではただただ不安を煽るのみ。恐らく、大坂から抜ける者が多数出てくるでしょう。次の戦は、兵数がさらに減ると思っていた方がいいでしょう」
こういう時、一番容赦無いのは全登だ。
「だろうな。おまけに、徳川から『寝返れば褒美を与える』なんて書状来てるからな。俺んとこにも来たし。よりによって、黒田の坊主の名前で」
又兵衛が書状をぺらぺらとちらつかせると、重成の顔色がさっと青ざめた。
「又兵衛殿……」
「あ? 俺が今更徳川に寝返る訳ねえだろ。とっくに断ったぜ」
「左様でございますか」
ほっと安堵する重成に、他の三人もそういえば、と頷いた。
「山内殿から来てましたねー。返事するだけして即刻捨てましたけど」
「山内殿泣きそうですね。私も、今すぐ棄教すればお咎め無しと書状が来ましたが、書状に十字を描いて送り返しました」
「完全に宣戦布告ですな。私も藤堂殿の名で来ましたが、お断り申し上げた」
皆同じような書状を受け取っては、ことごとく突き返しているようだ。
「私にも、叔父上の名で書状が来ておりまして。全てお断り申し上げましたが」
「全て? お前何度も書状が来てんのか? 俺ですらせいぜい二、三回なのに?」
「ええ。 未だに来るんですよこれが。まったく、もう叔父上が直接来そうな勢いですね。ははは」
――幸村は冗談のつもりだったが、大坂城本丸が丸裸になった翌年の二月、本当に信尹が会いに来た。
「徳川殿は、徳川方に鞍替えすれば信濃十万石を与えると仰せだ。源次郎、悪い事は言わん。豊臣は先が短い。此方に来い」
「お断り致します。徳川殿には、それだけお伝え戴きたい」
それで折れると思いきや、今度は「鞍替えすれば信濃一国を与える」と言って再訪してきた。今度こそ会わずに断ろうとするが、信尹も「源次郎に会うまでは動かん」と言って譲らない。幸村も、身内とはいえ敵が傍にいるのは敵わぬと根負けして、秘密裏に会談の場を設けた。
「信濃十万石で駄目でも、信濃一国なら降ると思われたのですか? 叔父上は、私の気質を重々御承知だと思うておったのですが」
書状を鼻で笑って突き返してやっても、叔父はなおも書状を幸村に押し付ける。
「何故降らぬ。確かにお前は太閤殿に御恩がある。しかし、お前より遥かに太閤殿の恩恵を受けてきた大名達も、徳川殿についておるのだぞ。ならば、たとえ今の豊臣を裏切った所で、太閤殿を裏切った事にはならんと思うのだが?」
「そうでは無いのですよ、叔父上。太閤殿への恩義も大切です。しかし一番の願いは太閤殿への奉公では無い。徳川に尻尾を振り媚びて生きるくらいならば、燃え尽きた方が性に合うのです」
「戦の世と心中する気か? 燃え尽きると言えば聞こえは良いが、詰まる所、お前は自ら破滅の道へ向かっておるのだぞ?」
信尹の嘆息は重い。
「破滅も承知の上です。豊臣を勝利に導くべく馳せ参じたものの、私がもう長くはないだろうとは、悟っています」
ですが、と続ける幸村の瞳に、熱い炎が灯る。
「たとえこの身が果てようとも、我が名は滅びず生き続ける――そう予感しておるのです」
『其方は誠に、某のような人生で満ち足りるのだろうか?』
『其方は、某など比べ物にならぬ喝采を浴びるに値する才と勇を持っておる』
『本日をもって、信繁の名は捨てよ』
いつぞやに夢枕に立った、又兵衛が武田信繁公と推測する紺の母衣の武者、彼の言葉がよぎる。果たして彼の言葉は幸村の決意の裏返しか、はたまた本当に信繁公からの啓示か。
「お前はそれで良いかもしれぬが、家臣はどうする? 主君が死ぬ気でいるならば、家臣の命までも危険に晒す事になるであろう」
「家臣には、既に話を付けております。命が惜しいならば、私の元を去っても良いとも告げました。……皆、嫌がらずについて来てくれています」
「…………はぁ。お前は聡明だと思っていたが、そのような世迷言を言うようになったとは。山に篭っておる間に気でも狂うたか」
「私を物狂いと仰せになるのならばそれで結構。私は狂うたまま、六文銭の旗印を手土産に三途の川へ参ります。十万石も信濃一国も不要。冥土に領地は持って行けませんのでね」
数秒、沈黙が流れた。
「左様か。これ以上諭しても無駄か」
ふらりと立ち上がった信尹は、肩を落としている。
「私の事は、死んだものと思うていただければ」
「…………」
叔父の背中に一声かけるも、彼はもう振り返らなかった。
***
特に大きな動きは無いまま時がさらに過ぎて春が訪れた頃、事態が急に動き出した。
「は!? 牢人を解雇するか、豊臣を転封するか、だと!? 」
「しっ。治房、声が大きい」
淀君、秀頼とその正室である千姫、豊臣家臣のみが集まった秘密の軍議。その議題は、治房が仰天した通りだ。
「どうやら、畿内で『牢人が乱暴狼藉を働いている』『京や伏見に火を放とうとしている』との噂が囁かれているようでな。それを、京都所司代が徳川に報告した。その報を受けて徳川より、牢人の解雇か豊臣の転封かを選ばなければ、再び攻め込むと書状が来た」
嘆息する治長に比して、治房はあからさまに舌打ちした。
「少なくとも、牢人の解雇は駄目だろ。徳川の連中なら、牢人を解雇して手薄になった大坂を攻める気に決まってら。城が裸になった以上、牢人が砦だろ」
「ならば其方 は、豊臣がこの大坂から転封されても良いと、太閤様が築かれたこの大坂を捨てよと申すか!」
母、大蔵卿局 に一喝されても、治房は「うるせぇな」と溜め息を吐く。
「違えよ。転封を認めたら、下手すりゃ領 地全部取りされるぜ。ここは徹底抗戦だよ」
「ですが、あの牢人共に託せと!? 今回の噂の原因になり、我らの顔に泥を塗った牢人共に!?」
「仕方ねぇだろ。堀も埋められ、櫓も壊された。今から作り直そうにも間に合わねぇし、それこそ京都所司代に見つかって徳川にタレ込まれるのがオチだ。なら、腹括って牢人をまとめて戦うしかねぇ。なに、あの五人――大坂城五人衆がいりゃ、仮に負ける事があろうともただじゃ負けねぇよ」
そうですね、と重成も頷く。
「牢人の解雇はなりませぬ。豊臣家臣は、戦に慣れぬ者ばかり。ならば歴戦の将を厚遇し、共に戦っていただくのが最善かと」
「お、重成もやる気あんじゃねぇか」
「重成殿まで……!」
頭を抱える母に、治房はさらに追い討ちをかける。
「つーか母上は、徳川に勝ちてぇのか? それとも負けてぇのか? 豊臣を存続させてぇ、淀君を守りてぇとは言ってるが、やれ戦は嫌だだの、やれ牢人は嫌いだの、やれ秀頼様は戦に出したくないだの。何がやりてぇのか分かんねぇよ。徳川とやり合う気あんのか? 向こうは俺達を殺す気で来てんだぞ?」
「ですが千姫様は、|今の公方(秀忠)の姫君。さすがに、豊臣を自らの娘諸共滅ぼすなぞ……」
「いや、奴等は、千姫様を落ち延びさせた後に総攻撃を仕掛ける気だろうよ。俺等が知らねぇだけで、既に千姫様の元に、大坂から逃げよと書状が来てるかもしれねぇな」
「……千、もしかして――」
不安気に顔を覗き込む秀頼に、千姫は憂い気な目を伏せて静かに頷く。
「確かに、書状は届きました。しかし、私は大坂に参ったその日より豊臣家の女。『大坂からは逃げぬ』と返しました。もしそれでも私を内通者と疑われるのであれば、蟄居を命じるなり、城より追い出すなり、斬り捨てられるなりなさってくださいませ」
「……いや、裏切っておらんならそれで良い。そこまで申すのなら其方を信じよう」
「しかし、これからどうすれば……」
淀君の嘆息に、秀頼の和らげな笑みが消えた。
「余の考えは、治房と同じだ。徳川の提案に従っておれば、いずれ骨を抜かれる。徹底的に抗戦するのみぞ。必要ならば、余も戦に出る」
淀君の白い肌から、血色が消えた。
「なりませぬ! なりませぬ拾! お前がいのうなってしまえば、妾は……」
「ですが母上、拾がこの大坂に篭っておるのも、己の身を守る為ではなく、豊臣を存続させる為。何を重んじるべきか、順番を間違えてはなりませぬ。豊臣の存続が先、拾の身は後でございます」
「この重成も、命に替えてでも殿をお守り致します故」
「…………っ」
唇を噛み締める母を一瞥だけして、秀頼は家臣に向き直った。
「徳川には、転封は許容出来ないと伝えよ」
「はっ」
「それと、この件はどうか内密にせよ。公になってしまえば、牢人衆と民衆双方の不安を煽ってしまう」
「……はっ」
――軍議が解散した後、治長はぼそりと独りごちた。
「果たして、民衆の口に戸を立てられるだろうか……」
治長の懸念は的中した。
誰かが軍議を密かに聞いていたのか、軍議にいた誰かが漏らしたのか、民衆の噂が城内まで広がったのか、はたまた徳川の差し金なのか。情報源は分からないが、書状の件は牢人衆の知るところとなってしまった。
「おい、聞いたか! 徳川が、『豊臣家を転封するか、牢人衆を解雇するか選べ』って書状を送り付けてきたんだってよ!」
「聞いた聞いた! 家臣連中、『豊臣家を転封させるのは嫌だ』って答えやがったってよ!」
「何だって!? つまり俺達を解雇にする気だ! あいつら、俺達を見殺しにする気かよ!?」
「まあそうだよな。片桐殿も追い出され、有楽斎殿もいつの間にか見なくなっちまったしよ。あいつら、豊臣家中以外の事はどうだって良いんだろうよ」
「有楽斎殿が逃げた城は、長く持ったためしがねぇ!こんな城、とっとと逃げちまおうぜ!」
「だが、徳川が、大坂から逃げる牢人を捕縛しろって、畿内の大名に言いつけてるらしいぜ?」
「でもよ、こんな勝つ見込みがねぇ城と心中するより、降っちまった方がよっぽど良い」
「なに、あの乳母だか何だか知らねえが偉そうでうるせえ婆と、我が物顔で仕切りやがるいけ好かねえ忠臣気取りの野郎と会わなくて良くなるだけで、せいせいするぜ」
「そうだそうだ!」
そんな牢人の噂話を、治房がすかさず聞き付けた。
「おいお前達」
「おうっ!? 治房殿!?」
「その噂、どいつから聞いた」
「えっと」
牢人達は、侍女達の噂を小耳に挟んだだけだった。しかし、返答が喉から出かかった時、一人がふと悪しき企みを思い付いた。
「治長殿が話しておられましたなぁ」
他の牢人達はぎょっと顔を見合わせたが、すぐに同調した。
「そうそう! 某も治長殿より聞きましたぞ」
「……そうか。間違いないんだな?」
「間違いないです!」
「…………分かった」
床に叩き付けるようにどすどすと歩く治房の背中を見送りながら、牢人達はほくそ笑んだ。
その少し前。
「どうも、良からぬ噂が囁かれているようだ。佐助が、城下町の偵察の際に耳にしたようだ」
幸村がその噂を耳にしたのは、城内や城下町の偵察を任せていた忍からだった。
「どういう噂ですか? はっ、もしかして、牢人が解雇されるという……」
「お竹も聞いていたか。そうだ。徳川が、『豊臣を転封するか、牢人衆を解雇するか』の選択を迫ってきたようで。豊臣は、転封を断ったと」
「そんな……! 冬の戦で城を落とされなかったのは、父上や牢人衆の働きあってこそだと言うのに……!」
「えー! って事は、父上は解雇?」
「じゃあとと様はまたお勤め無くなっちゃうの?」
大助、大八、あくりが口を尖らせる。一方のお梅は、床に寝転がり歌集を読んだまま、あからさまに大きく溜め息。
「お上っていつも勝手ですね。自らの家の事ばかり考えて、下々の者は眼中に無い」
「こら、お梅。その行儀の悪い格好はやめなさい。それに、滅多な事を言うでない。配下の事を考えてないのは、私も同じだ。私の一存で、家臣を死地へと赴かせておるのだからな」
幸村の苦笑に歪む頬を、高梨内記がつつく。
「む!? 何をする」
「何を仰せになるか。九度山を降りた時より、我々も討死はとうに覚悟しております。気にせずともよろしい」
家臣も皆頷く。
「左様でございます!」
「そもそも、某は徳川の世で燻って生きるのは性に合わぬと思っておりました故、殿のお傍で果てるのならば願ったり叶ったり!」
「死ぬ前に、真田此処にありと天下に知らしめてやりますぞ!」
「そうか……」
「そうとなれば、早速城で作戦を練りましょうぞ! 殿の才覚に五人衆の皆様の知恵が合わされば鬼に金棒!」
「はは。それは買いかぶりではないかな。ではお竹、家は頼んだぞ」
「ふふ。行ってらっしゃいませ」
家臣に背中を押されて城に向かう少し顔色が華やいだ父の背中を、お梅は頬杖をついて睨んだ。
「家名に泥を塗ろうと生き残った方が、後々楽しい事も待ってると思うんだけどなぁ……」
大坂城に着いた幸村達は、すぐさま違和感に気付いた。
「殿、修理殿の御部屋、えらく騒がしくありませんかな」
「そうだな。……皆、音を立てんようにこっそり行くとしよう。嫌な予感がする」
部屋に近付くにつれ、漏れる声が大きくなる。
「治長殿の御声……ではなさそうですね。治房殿でしょうか」
「兄弟喧嘩にしてはえらく物々しいが」
更に近付くと、内容がはっきり聞き取れた。
「いい加減に認めろ! 手前が、徳川の書状の事を牢人共にばらしたんじゃねえのかよ!?」
「わ、私は何も……」
「あぁ!? とぼけんじゃねえよ! 牢人連中が言ってたんだよ! 兄貴が書状の事を言ってたってなあ!」
「し、知らぬ!」
「知らぬじゃねえよ! ……今回の件だけじゃねえ、手前はいっつも豊臣方の腰を折りやがる! 冬の和睦の時もそうだ! 折角幸村が堅固な出丸を拵えて善勝したってのに、手前に和睦を任せたせいで、堀も砦もあの出丸も、全部壊されちまったじゃねえか!」
「うぅ、それは……」
治房の怒号と共に、何か硬い物で殴打する鈍い音も耳に入る。
(と、殿……如何なさいましょうか……)
(当然、治長殿を見捨てる訳にはいかぬ。……私が行こう。私が行った方が都合が良かろう)
言うと幸村は、ふぅ……と重く息を吐き、勢い良く襖の縁を叩いた。
「治長殿! 治房殿! 失礼致します!」
「なっ……! 勝手に開けん――」
こういう時には、有無を言わさず開けるに限る。
「ゆ、幸村殿……」
予想通りだ。治長は、数人の男に取り囲まれ、頭や頬、鼻に唇から鮮血を流し、朦朧とした頭をもたげていた。その起き上がった身を辛うじて支える腕は、小刻みに震えている。その両眼は、頭から流れ出た血液の流入を防ぐため瞼に塞がれており、幸村の慄く表情は見えていない。
彼を包囲する男達は、皆見覚えがある。治房に治胤に……治長の弟達もいるではないか。
「治長殿! ……大きな物音がしたので寄ってみたら……何をなさっているのですか治房殿!」
鞘に血糊が付着した打刀を握り締めた治房は、あからさまに舌打ちした。
「何って……分かんだろ。こいつが、『豊臣の転封か牢人衆の解雇か』って徳川の書状が届いたのを、牢人衆にばらしたんだよ! 書状の事がばれたら牢人衆は不安がるだろうって、秀頼様が直々に口止めの命を出されていたってのによ!」
「違う……濡れ衣だ……」
「まだ言うのか手前!」
治房の主張が誤りなのを、幸村は知っている。佐助と才蔵、二人の忍に大坂城内の動向を密かに探らせているのだが、治長が書状の件を誰かに話している現場は目撃していなかった。
「治長殿が? 私は、書状の件は侍女の噂話で知りましたが」
これは本当だ。その侍女も、はなから徳川の間者として城に入ったと判明し、二人の忍の手で既に始末されている。
『ずっと忍が紛れていたというのに気付けなかったなど……一生の不覚……!』と嘆いていた二人の消沈した顔を思い出して少し緩んだ頬を、今一度引き締める。
「恐らくその侍女が、豊臣の信用を失わせるために潜り込んだ間者だったのでしょう」
「確かに、最近侍女が一人失踪したと聞いたが、其奴か……」
「左様。それに、治長殿に、書状の件をばらし牢人衆を混乱させる利点はありませぬ。今牢人衆を不安に陥れ離反させてしまうと、豊臣の戦力が削がれてしまい不利になるとは、治長殿は重々承知のはず。その上、治長殿は豊臣の政務を担い、それ故に牢人衆の矢面に立っておられる。もし牢人衆の不満が爆発すれば、真っ先に標的とされるのは治長殿でしょう」
「確かにそうだが……」
「先程治房殿は、『牢人衆が、治長殿から書状の件を聞いたと言っておった』と申しておりましたが、それは濡れ衣かと。いつもの治長殿であれば、牢人衆に個人的に伝えるくらいであれば、軍議を開き公にするはず。それにはっきりと申してしまうと、牢人衆は大蔵卿局と治長殿を目の敵にしている様子。書状の件をだしに、治長殿を陥れようとしたのでしょう」
「……ちっ! つまり、俺は体良く利用されたって事かよ!」
治房は、袖口で鞘の血液を乱暴に拭うと、襖を叩き付けるように開け放った。
「俺は、先に俺を騙した奴を斬り捨てる」
「手当は私がやっておきます」
「……ふん」
気を失った兄を抱える幸村に振り向きもせず、治房は襖を音を立てて閉めた。
幸い、治長の命に別状は無かった。その代わり、牢人三人の行方が分からなくなった。
騒ぎを受けてか元々そういう手筈だったのか、豊臣家は牢人衆に金銀を俸禄として配り、「武具を整えるように」と命じた。だが、一度失った牢人衆の信頼を取り戻すにはいたらず、
「こんな体たらくの奴等に、命を預けてられるか」
と城を出る者が多発した。冬の戦では九万程いた将兵は、七万八千にまで減ってしまった。
「やはり、減りましたね」
そう嘆息したのは、全登だった。
「止むを得んでしょうなあ!! 正直に言うてしまうと、私も豊臣家の牢人衆への扱いには、思う所がありますからなあ!!」
団右衛門は、そう口を尖らせた。
「堀も砦も失ったならば、城外に打って出るしか無いでしょうね」
勝永の表情は複雑そのものだった。不安半分、野戦への期待半分、と言ったところか。
「ですが、野戦となればますます不利ですな。こちらは七万八千、向こうは十五万四千。二倍程の差がありますぞ」
土佐奪還を夢見るはなから死ぬ気は無い男、盛親は、少し涙目だ。
「わ、私も、若輩者ながら頑張ります!」
小さく拳を掲げた重成だったが、その表情筋は強ばっていた。
「お前は無理しようとすんな。経験が浅い将が焦ったところで、討死の危険が増えるだけだ。……野戦にゃ不安が多いが、今回はもうすぐ長雨だからな、城周りの低湿地の利点は十分使える訳だ。それが吉と出るか凶と出るかは分からんがな」
又兵衛は、顔色一つ変えずあくまで沈着だ。
「何にせよ、今成しうる万全を尽くすしか無いでしょうね。一先ずは、早急に軍備を整えますか」
そう自分に言い聞かせながら、幸村は考えを巡らせる。鎧も整えたい。鉄砲や槍も欲しい。火薬も欲しい。鉄砲に使えるだけでなく、単に爆発させるだけでも十分な殺傷力を得られる。いっそ、忍に命じて徳川本陣に爆薬を仕掛けるのも良いかもしれない。
……とにかく、時間が無い。今は、ただ時間が惜しい。
***
しかし、事態は待ってくれなかった。
夏の戦で先手を打ったのは、豊臣方だった。四月二十六日に治房が、徳川方の筒井定慶の居城である大和国(現在の奈良県)の郡山城を強襲、定慶は戦慣れしておらず敵前逃亡したため、一戦もする事無く落城した。
続いて四月二十八日、今度動いたのは弟の治胤だった。冬の戦では豊臣軍に協力していた摂津国(現在の大阪府北・中部)の堺が、豊臣家を見限って徳川軍の兵站を担うようになり、その報復として秀頼の命を受けて市街を焼き討ちしたのだ。
(早目に、伝を頼って火薬を買い占めてて良かった……)
「これでもう橙武者とは呼ばせませんよ」「いや、単に焼き討ちしただけだろ」との会話を尻目に、幸村は少し安堵した。
さて、これで勢い付いた――と思っていた、矢先の事だった。
「私は、治房殿と共に和泉国(現在の大阪府南西部)に出陣して参りますぞ!! 此度の戦でも、この木札をばら撒いてやりますぞ!!」
「おうおう、ばら撒くのに必死になって、討死しねえようにな」
四月二十九日、団右衛門は、いつもの様ににかりと笑って『塙団右衛門参上』と書かれた木札を見せ、意気揚々と出陣した。
――しかし、
「…………ちっ」
舌打ち混じりに帰還した治房軍の中に、団右衛門の姿は無かった。
「あの、団右衛門殿、は……?」
盛親が恐る恐る尋ねると、治房は、口を噤んだまま、兜を差し出した。
「団右衛門殿の……!」
「…………察しろ」
城内の空気は、暗く重たくなった。皆は治房の苦虫を噛み潰したような表情で、煩いながらも城内を明るくしていた団右衛門が、死んだと悟っていた。
戦となれば人が死ぬ。当然の事だ。だが武将とて、親しかった者が死んだ時に戦の常と割り切れる程、無情では無い。
「そんな、団右衛門殿が……。一体何故……」
「…………俺は、団右衛門と則綱に、先鋒を命じた。そしたら、あいつら仲悪かったろ? だから、先陣争いを始めちまって、軍から突出しちまった。それで浅野(長晟)軍と混戦になっちまった。それでも、あいつは勇猛に戦ったが、多勢に無勢だった。で、団右衛門が討ち取られるのを見た(淡輪)重政も、仲が良かった団右衛門が死んじまったからって突撃して、な」
「…………」
その岡部則綱は、放心状態でただ畳を見つめていた。が。
「面目無い……」
震える手で、脇差をゆっくりと抜き放った。
「ちょっと! ここで自害しても意味無いじゃないですか!」
いち早く勘づき則綱を制止したのは、勝永だった。
「今は一人でも多くの将兵が欲しいんです! ここで自害するくらいなら、秀頼様の盾になって死にましょ、ね?」
「言い分は物騒だが、勝永の言う通りだ。それに、俺の指揮がまずかったせいでもある」
脇差を収める則綱に、牢人の一人が拳を振り上げる。が、その拳は治房に制された。
「団右衛門の討死で文句がある奴がいるなら、則綱を責めず俺に言ってこい」
いつもより一回り小さく見える治房の背中に、誰も何も言う事は出来なかった。
***
大坂城が悲嘆に包まれている間にも、徳川軍は着実に態勢を整えていた。
四月十八日に家康が、二十一日には秀忠が、二条城に到着した。二十二日には軍議を開いた。
そして五月五日。
「そろそろ、大坂に行くぞ。兵糧は数日分で良い。短期に片付ける」
家康は、京を出発した。
各地の大名達も、徳川の命を受け、次々と大坂に馳せ参じた。ある者は河内国(現在の大阪府東部)方面から、ある者は大和国方面から、またある者は紀伊国(現在の和歌山県)方面から、大坂城へと迫った。
豊臣軍は、大和国方面より迫る徳川軍を叩く作戦に出た。又兵衛、全登、兼相等が率いる前隊と幸村、勝永等が率いる後隊は、五月一日に城を発った。
もう、堀も砦も失った豊臣軍に、逃げ場所など無い。
戦国の世最後の戦が、今火蓋を切られようとしていた。