『恋花火を』4
今日初めてタバコを吸った。
二十三歳になって、生まれて初めて
タバコを吸ってみた。
喉の奥に煙が溜まって、吐き出した。
一本吸った後、気分が悪くなって、吐き気が訪れた。
でも、煙と一緒に毒気が抜ける気がした。
次の日もタバコを吸ってみた。
その次の日も次の日もタバコを吸ってみた。
いつの間にか、本数も増えた。
今日もタバコを吸った。
明日も明後日もタバコを吸う。
そして、今日。
ーー今日、私は仕事を辞めた。
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自分で言うのもなんだが、小さい頃から私は優等生だった。
別段、生徒会とか委員長とかしてたわけじゃないけど、女子をまとめる存在だったし、先生の信頼もあった。
成績も上の方。高校生になっても其れは変わらなかった。
物心つく前にお母さんが死んで、男手ひとつで育てられた。お父さんは優しくて厳しくて、私をちゃんとした人間に育ててくれた。
不自由は確かにあった。あったけど、充実してた。
高校を卒業する間際、お父さんが過労で倒れた。病院の中で横になっているお父さんを見て、就職することを決めた。
大学行け。なんて言われたけど、私は譲らなかった。どうしてもお父さんに負担をかけたくなかった。
結局、たくさん口論した上で、お父さんは納得してくれた。
「正しいと思った道を進めよ」
お父さんの口癖だった。
地元の企業に就職することができて、一安心した。
就職して一月も経った頃、お父さんは無事に退院した。
時間が流れるほど、仕事にも慣れ、生活も安定していった。
二年もすれば、ある程度仕事も任せられるようになったし、仲の良い同僚もできた。
順風満帆な日々の中で、何もかもがうまくいくと信じていた。
信じていたのに、たった一度の間違いでこんなにも人生変わるんだって知った。
「先輩、彼女嫌がってるじゃないですか!」
振り返る鋭い眼力に負けないように、私も張り合った。何より私の友達が汚されていることに我慢ならなかった。
ーーことの始まりは酒の席で彼女から相談を受けたことからだ。
「私、古瀬さんからセクハラ受けてんだよぉ」
「へぇ、どんな感じで?」
「前にたまたま電車で乗り合わせてさ、それから毎日合うんだよね。それだけならいいんだけど、最近はお尻とか触られたり。仕事中にも時々触ってくるんだよ!?」
「それは……許せないね」
「嫌がったら何されるかわかんないしどうしようもないんだよぉ」
彼女は泥酔してたのもあって、大号泣しながら、赤裸々に語ってきた。
絶対に許せない事だと思ったし、間違っていると、正しくない事だとも思った。
だから、次にあいつが何かしてきたら注意してやろうと決めた。
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「彼女嫌がってるじゃないですか!」
多少は怖かったけど、お父さんの言葉が勇気をくれてる気がして、ついに言えた。
「はぁ? なぁ、お前嫌がってんの?」
「い、いえ。そんな事は……」
「ほら見ろよ。余計なお世話なんだけど」
「それでも……」
気圧されそうになるのを必死に抑えて、負けないように、怯まないように。
彼女の言葉を信じて、自分を信じて、お父さんの言葉を信じて。
「それでも、彼女の本音は違うと思うんです! とにかく、やめてあげてください!」
「はぁー、萎えたわ」
振り返ってオフィスを出て行く古瀬をみて、一安心した。それと同時に「ありがとう」と、言ってくれた彼女を見て、満足感に満たされた。
その次の日からだった。陰湿なパワハラが始まったのは。
「おい、資料今夜中に目を通してまとめとけよ」
「向こうで仕事しろや」
「挨拶も出来んのか、お前は。仕事辞めるか?」
古瀬の憂さ晴らしの対象が私に移ったんだ。
それでも、いつか終わるんじゃないかって。
私が正しいんだからって。
ーー古瀬は大きな仕事のミスを私のせいにした。
私の会社からの信用はガタ落ちし、それでもと、私は真実を伝えようとした。
「ねぇ、私は何もしてないよね!? 知ってるよね!?」
そう、必死になって古瀬から痴漢を受けてた彼女に問いかける。きっと彼女なら、証人になってくれるはず。
恩返ししてくれとは言わないけど、そんな事以前に彼女とは友達なのだから。
でもーー、
「私は……何も知りません……」
ーー私の心は音を立てて崩れ去った。
泣くのすら馬鹿馬鹿しくなって、なんとなく外に出た。気晴らしに何時間も歩き回ってたら有明海を見渡せる堤防へと着いた。
風に当たると無心になれて心地いい。ああ、一人ってなんて気持ちいいんだろう。
何百メートルも横に一直線に伸びている道をただひたすら歩いた。
そしたら人影が見えて。そっと話しかけてみた。
「コラッ! 未成年がタバコ吸っちゃダメなんだからな!!」
全然そっとじゃなかったけれども。
「ゴホッゴホッ」
焦ってむせてる彼を見て、この時はまだ彼に救われるだなんて、これっぽっちも予想してなかったけれども。
「私は青木 みのり」
今思えば、それは運命の出会いだったんだなって思えるには十分すぎて。
「俺は 米沢 正志って言います」
きっとこの出会いがなければ、私は幸せには生きていけなかったはずなんだ。
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青木さんを追い続けて、ついに追いついた。
あの男と何があったかなんて全く分からないけど、それでもきっと青木さんにとっては大嫌いな人なんだろうとは思う。
なら、俺は少しでも彼の事を忘れさせるべきだと思った。
「やっと、やっと追いついた……」
無言で振り返った彼女の目からは涙がこぼれ落ちていて。
「正志くん……」
名前を呼ばれて、無意識に抱きついていた。
きっと浴衣で全力疾走したからだろう。かなりはだけている。それに、下駄の鼻緒が食い込んで、足の指からは血が流れていた。
何か言わなきゃ。青木さんを安心させる何かを。
焦れば焦るほど、考えがまとまらない。でも、震える青木さんを感じて、やっと無理矢理に言葉を紡げた。
「何も言わなくていいから……」
「 ーーーー」
「だから、俺と結婚してください」
「……あははっ」
まだ青木さんの瞳からは涙が溢れていたけれど、同時に笑ってくれていた。
自分でも頭が真っ白で何を言い出したのか理解するのに数秒かかって、そして体が熱くなった。
今、俺はとんでもない事を言い出したんじゃないか?
言葉を理解すればするほど、体に帯びる熱は上昇していく。
ああ、でも後悔はないな。不思議と堂々とできる。
「ませたガキ。でも……ありがとうね」
抱きしめた体を優しく引き離された。
「でもいきなり結婚してくれなんて。馬鹿にも程があるんじゃない? 順序ってあるでしょ! それにまだ君は学生なんだよ?」
「もう、十八歳になります。高校も今年で卒業だし、そしたら働きます」
「正志くん、夢は何?」
「それは……。国語の先生になることです」
「あ、小説家になるんじゃないのか」
「流石にそこまでは夢見てないですけど、でも、文章に携わる仕事をしたいから、国語の先生にでもなりたいなって」
「なら大学を卒業して、教育免許取らなきゃね」
「うっ……」
正論をぶちかまされて、これ以上反論できない。
でも、どうしても青木さんとは一緒にいたいんだ。紛れもなく本気でそう思ってるんだ。
そう伝えようとする前に、彼女はーー、
「だから、私は大学を卒業するまで待つよ。そしたら改めてプロポーズしてよ。だから今はこれでーー」
突然、青木さんの綺麗な顔が近づいてきて、唇に柔らかい感触が伝わった。
「ーー我慢してね」
今度こそ、体温が限界を超えた。顔まで真っ赤に染まって、青木さんを直視できない。
体は何をされたか、理解できている。でも、心が追いつかない。
「もう一回、してくれたら我慢します……」
「え? なにをだい?」
「それはっ……!」
「嘘だよ! ほら、次は正志君から」
青木さんは目を閉じて、待ってくれている。だから意を決して、そっと肩を抱き寄せてーー。
『恋花火を』
<了>