中央西線車窓景
「どこまで行くのかい?」
午後三時。
山の中を走る普通列車に座っている老婆が私に尋ねる。
窓の外には雪がちらついていた。
「塩尻まで。
昔、この列車に乗ってね」
九州の瀬戸内側で生活していた私にとって、雪というものは溶けるものだと思っていた。
幼い私のその常識を壊してくれたのは長野の親戚へ法事で行った時のこと。
一月の信州は寒く、そして雪が舞っていた。
恋人の葬儀の後、溜まっていた有給を使ってなんとなく旅に出た。
恋人がこの珍道中を気に入っていたなというだけの理由である。
大学に受かった後、入学までの時間に卒業旅行にと初めて自分で考えた旅だった。
青春十八切符を買い、駅の立ち食いそば屋で食事をして、ウォークマンから流れる音楽をBGMに飽きるまで車窓を眺める。
そんな適当な旅。
あの時は十八切符で全部の行程を巡った。
今はそんな体力がないので名古屋まで新幹線である。
あの旅で知ったことは、だし汁の境界が米原と大垣の間にあるという事。
米原のうどんは関西風薄口醤油なのに、大垣のきしめんは関東風濃口醤油だった。
東海道線ではなく中央本線を使おうと思ったのは、大垣できしめんを食べた時の事。
名古屋で一泊するのが確定だったので、そのまま信州蕎麦を食べたいというたったそれだけの理由である。
「昔に比べると列車が少なくなってね」
「乗り過ごさなくてほっとしていますよ」
国鉄の頃からだが中央本線、正確には中央西線と呼ばれるこの路線は名古屋と長野を繋なぐ為に存在している。
その為、今も昔も特急街道というかそれしか走らず、山間部の普通列車は驚くほど少ない。
せっかくなので、名古屋のチケットショップで青春十八切符を入手する。
それぐらいの無駄遣いができる経済力は持っていた。
「何か用事で?」
「ええ。
少し長野の方に。
時間はあるのでこうして鈍行の旅をと」
「あらまぁ。
乗り過ごしたら大変でしたよ」
「まったくです」
そして、列車は山奥に入ってゆく。
険しい山と線路に沿う木曽川の風景に白色が一面に塗られてゆく。
あの時、この幻想的な景色を見て天に登った恋人の次に美しいと思ったのだ。
「降ってきましたね。雪」
二両の車内に乗っているのは私達二人。
旅の気軽さから私の方から声をかけ、少しの間話し相手になってもらっている。
私のつぶやきに老婆も窓の外を眺める。
中津川の病院からの帰りという彼女にとって、この景色は日常なのだろう。
「こっちは雪が残るのですね」
「春まで溶けませんよ。
いまいましい限りね」
雪かきやら交通の支障やらで彼女にはこの雪が白い悪魔に見えるそうだ。
そんな事を聞けただけでもこの旅の思い出になるなと思った。
彼女と知り合ったのは大学のサークルの飲み会。
酒が強くなかった私は新入生歓迎コンパで盛大に吐き、それを見て助けてくれたのが彼女だったという訳だ。
ゲロから始まった付き合いは大学四年間で友人から恋人に変わり、卒業と共に同棲を経て結婚という所に行く前に終わってしまった。
事故だったという。
はねられそうな子供を助けようとして身代わりになったという話を聞いた時、彼女らしいなとなんとなく苦笑したのを覚えている。
「じゃあ。ここで。
よい旅を」
「お元気で」
老婆はそれからしばらくして山間部の駅で降りる。
ちらちらと振る粉雪の中私に手を振るが、その姿は列車が走り出して見えなくなった。
雪は更に激しく降り出してゆく。
警笛が鳴るが、それも木曽路の白い山の中に消えてゆく。
「凄いな……」
ただ雪が見たかった。
そんな理由でこの旅路に中央西線を選んだ。
あまりの接続の悪さに今となって後悔するが、今はこの雪景色を一人堪能できる事を喜んでいるのだから我ながら気楽なものである。
彼女の死に顔は眠ったように見えた。
そのまま起きてくるのではと火葬場に入るまで祈るように願った。
彼女の煙が空に溶けてゆくのを見ても、彼女がもう二度と現れないという事が理解できなかった。
私は泣けなかった。
彼女の死に対してではなく、彼女がいなくなったという現実に対応できていなかった。
うすぼんやりとした笑顔を張り付かせたまま、私は窓の車窓を眺め続ける。
深い山が途切れる。
木曽路を抜けて松本盆地に入ったのだ。
「次は終点塩尻です。
松本、辰野、岡谷、上諏訪方面はここでお乗り換えです」
盆地の方は雪が降っていなかった。
旅なのだから、天気は気まぐれなものだ。
このまま中央東線に乗り換えて上諏訪で一泊した後、東京に向かうつもりだった。
明日と合わせて、雪が見れるのはこの二日ぐらいしか無いのだろう。
あの車窓の景色を見れたのは、私にとって運が良かったのだろう。
塩尻駅に着く。
九州と違うのは空気が痛い。
乗ってきた中央西線の方を見る。
白銀の山々が夕日に照らされていた。
「たしか蕎麦屋は……残っていたか。
今は食券を買えと。
昔は声をかけたものだったんだがなぁ」
かけそば290円。
昔はどれぐらいの価格だっただろう?
黙って食券をカウンターに出すと、しばらくしてかけそばが目の前に置かれる。
真っ黒いだし汁。
見るだけでコシがある蕎麦。
その黒いだし汁に浮いている白身が多い葱。
箸をとってその蕎麦をすする。
「なぁ。
新婚旅行、どこに行きたい?」
「そうね。
貴方が話してくれたあてのない旅に私も行ってみたいな?」
「今の御時世、海外も安くなっているのに何で珍道中を……」
「だからよ。
貴方の感じたものを私も感じたいの。
で、一緒に笑っていきましょう」
ぽたり。
お椀の中にふいに波紋が広がる。
それは自分の目から流れていた。
「ああ。
やっと泣けた」
泣きながら蕎麦を食べる俺を見て、店主が奇妙な目で俺を見ていた。