BLのような何か
なんぞこれ
アイツと出会ったのもこんな蝉の鳴いている季節だったな。
アイツの所へ向かう長い一本道。横は森になっており蝉の鳴き声が耳に突き刺さる。
「出てくるなよ……」
俺は虫が嫌いだ。アイツはなんともないようだったが俺はとにかく虫が嫌いだ。両側が森になっているこの道は歩いているだけでも虫が寄ってくるという最悪な道だ。しかも田舎ゆえかやたらとデカイ。去年はクマゼミに襲われた。悲鳴を上げたのは小学生のとき以来だった。
「アレもなんだってこんな辺鄙なところに……。もう少し都会よりでもいいだろうに」
暑さと歩き疲れに虫への恐怖で愚痴も言いたくなる。しかし仕方ない。アイツの所へはこの一本道を通るしかないのだから。
五年前。俺たちは病院で出会った。
当時、事故にあった俺は命に別状は無かったものの足を骨折し、入院していた。入院当初はベットから出ることも許されず退屈な日々で、毎日病院の真っ白な壁を見て思ったものだ。
「木目とかシックな壁の病院があってもいいと思うんだけどな」
俺は死を覆い隠そうとしているように主張しすぎな病院の白にどうにも馴染めなかった。
ようやく(といっても三日だが)ベットから出る許可を得たものの病院内に娯楽施設があるはずも無く購買で雑誌を買っては庭に出て時間をつぶすという日々を送っていた。
ある日いつものように雑誌を手に、不細工な歩き方で庭に出てベンチに腰を下ろす。木陰になっていて適度に涼しい。面白くも無いゴシップを斜め読みし、それも読み終えるともうやることが無い。
「やることないな」
独り言が多くなったのも入院してからだ。
庭では比較的元気な患者が遊んでいる。ゲートボール、バトミントン、キャッチボール……。
その時、キャッチボールの球がそれて俺のほうに飛んできた。足元に転がるボールを拾い上げる。
「すいませーん。大丈夫ですか?」
一人の男が駆け寄ってくる。白い肌が病院を連想させる、そんな男だった。
「ああ、大丈夫。転がってきただけだから」
「ありがとうございます」
男の後ろから子供が覗いている。子供と遊んでいたのか。兄弟だろうか?
「さっ。君たちは遊んできなさい!さっきみたいな暴投はするんじゃないよ」
はーい、といって小さな足音は遠ざかっていった。
「いやぁ。やっぱ小学生って元気だね。もうついていけないよ」男は汗をぬぐいながら言った「隣座っていい?」
気さくというか馴れ馴れしいというか。だがどこか子供のような無邪気さが言葉の中にあって憎めない奴だなと思った。人に好かれるタイプという奴だろう。
「ああ、別にいいよ」
「それじゃあ失礼……」
男は隣に腰を下ろす。
「僕ね、ここの常連なんだ。だから新しい人が入ってくるとすぐわかるんだよね。君ここの所ずっとここで暇そうにしてたでしょ?年も近そうだしお近づきになりたかったんだよねー」
「へぇ……。何歳?」男は手で数字を作って見せてくる「同い年だ」
「ほほう。そいつは奇遇ですなぁ。じゃあアドレス交換しようよ」
なにが『じゃあ』なのかわからないが男は屈託の無い笑顔でぐいぐい手を差し出してくる。かわいい顔してとんでもない暴君だ。俺が携帯を取り出すとひったくるようにして奪い、ぴこぴこ操作をはじめる。
「……君の携帯使いづらい」
「勝手に奪って愚痴を言うな。赤外線か?ほら返せ」
携帯を奪い返すと赤外線送信の準備をする。
「ほら、受信の準備しな」
「え?なにそれどうやるの?」
「……お前人の携帯奪って何するつもりだったんだよ……もう貸せよ」
今度は俺が携帯をひったくる。赤外線でプロフィールの送受信を行う。
「ほら、これで登録できたぞ」
携帯を返す。
「おお。君あれかい?携帯屋さんかなんかなのかい?」
「いやいや、普通だから」
「あ、そうですか。まいいや、どうもありがとう。これで僕と君はメル友だ!」
「そういうことは恥ずかしいから口にするなよ」
「思いは口にしないと消えてしまうのだよ」
「なんだそれ」
「おっともうこんな時間だ。僕は検査に行かないといけないのでね。また明日会おう。それじゃあ!」
人差し指と中指を立てて敬礼のような動作をする。テレビの中でしか見たことの無い動きだ。そしてソイツはそのまま病院の中へ消えていった。
狐に化かされたような奇妙な錯覚。とらえどころのない非現実感。白い肌と黒い髪。笑う顔。
「なんだったんだ……」
とにかく妙に存在感のある男だったと思う。少なくとも俺はそう思った。気がつくと木陰がずれて日の光が迫ってきている。散歩終了の合図だ。俺は重たい足を引きずりながら、後を追うように院内へ入っていった。
以降、そのベンチが俺たちの場所となった。
来る日も来る日も飽きることなく病院を訪れるアイツ。毎日ではないにしてもその頻度は結構なものだった。だがしかし、どうみても病人に見えない。病人特有の鬱屈した匂いが無いのだ。出会って数週間の男に、病気のことを聞くのは気が引けた。が、病院とアイツの差異による違和感は俺に疑問の言葉を吐かせるのに時間はかけなかった。そしてある日、俺は尋ねる。
「なぁ。お前、何の病気なんだ?」
それを聞いたアイツは子供っぽい笑顔で言った。
「内緒」
やがて俺は退院した。あいかわらずギプスが足を固定していたが通院ということで自宅に帰れるようになった。それからは直接アイツと会うことはめっきり減った。経過を診るため病院に足を運ぶことが週に一回。そこで会うか会わないか程度の頻度に減った。メールでのやり取りはしていたが、外で会う約束はしなかった。何度か誘おうかと思ったがどうも文面がまとまらなく、その都度、携帯を放り投げていた。
そしてとうとうギプスを外しリハビリに通うこと数回。俺は、最後の通院のために病院に訪れた。
「──それでは、特に問題ないようでしたら今回で終了ということになりますね」
「大丈夫です。痛みもありませんし日常生活にも不便はありません」
「それはよかった。それでは完治ということで、いままでお疲れ様でした」
長い病院生活が終わった。しかし、それは同時にアイツとの繋がりも絶たれたということだった。のどに魚の小骨が刺さったような異物感。のどと言うより心臓に刺さった気分だ。どうにもアイツの事を考えると気分が悪い。おそらくアイツの事を何も知らないからだろう。思えば随分会ったにもかかわらずお互いの身上は何も話さなかった。
(……なぜだろう)
わかっていた。遠慮していたからだ。
アイツはよく笑い、どうでもいいことをベラベラしゃべっていた。だが俺はアイツの言葉の端々に、動作に、何かを感じていた。何なのかはよくわからない。『聞くな』という合図だったのかもしれない。だから病気のことも身の上話も聞けなかった。聞いてしまったら、アイツの笑顔が消えてしまいそうで。
そんなことを考えていると、目の前に医者の顔があったことを思い出す。そしてアイツの顔と線で結びついた。
「先生。聞きたいことがあるんですけど……」
「記憶障害?」
守秘義務がどうとか渋った後、先生はそれだけ教えてくれた。
「難治性の長期記憶障害とでもいうのかな。とにかく症例がほとんどない難病だよ。学習に問題はないんだが、ときどき記憶したことがすっぽり抜け落ちるんだ」
最初はそんなことかと安堵した。安堵した後、とても悲しくなった。
「発症したのはここ数年でね。以前の友達はほとんど忘れてしまったようなんだ。写真を見てもね、思い出せるのは家族くらいらしい。そんなわけでずっと友達も作らないできたらしい。彼の言うところ」一呼吸置いて「自分は忘れることで友達を殺してしまった、と」
そのあとも先生はなにかしゃべっていたがよく聞き取れなかった。
「あまり詳しくしゃべれないからここまででいいかな」
礼を言って病室を出る。俺はすぐ携帯を手に取った。
いつものベンチ。それぞれ端に腰掛ける。
「君からメールなんて初めてだね。どうしたの?いきなり」
あいかわらずの笑顔。しかし俺の雰囲気を察しているのか少し固い。
こう呼び出したのはいいが何を話すのか何も考えていなかった。病気のことを聞くのか?聞いてどうする?なにもできないのに?そもそもアイツが病気のことを話さなかったのは聞かれたくないからじゃないのか?頭の中はクエスチョンマークで溢れかえっている。
「まさか……」
逡巡を悟られたのかアイツが口を開く。感づかれたのだろうか。深刻な表情だ。このまま流れに任せてアイツの口から言わせるのか、それとも病気のことは触れさせないのか。俺はまだ迷っていた。言わせるのか、言わせないのか。
(……違う)
問題はそこじゃない。少なくともアイツの口から言わせるのは間違いだと思った。病気のことを聞くなら、俺から切り出さないといけないんだ。そう思った。アイツの言葉の続きを遮るため口を開く、が。遅かった。
「まさか……告白でもする気?」
俺は阿呆のように口を開いたまま静止した。飛び出しかけた「ちょっと待て」の言葉が静かに胃へ下りていく。
「僕ノーマルなんだけど」
「……そんなわけないだろ」
「じゃあ何なの?」
「……うん。それがな、耳に挟んだんだよ。お前の病気のこと」
「ああ……。そっちの話」
話に食いついてきた、とはさすがに行かないだろう。
「いや。嫌ならしゃべらなくて良いんだ。……ただちょっと心配でな」
「心配?」
「心配というか……」
「意外だね」
「何が」
「他人に興味なさそうだったから」
「……そうでもないぞ」
「ありがとう」
「はっ?」
「心配してくれてありがとう」
正直、こうまっすぐにお礼を言われると恥ずかしい。顔をそらす。
「……まぁ、なんだ。生活とかは大丈夫なのか?」
「そうだねぇ。今のところ不便はないかな。生きていくうえで必要な事はたぶん最後のほうに回されるんじゃないかなと勝手に予測してるけどね」
「……治らないのか?」
「らしいね。今は投薬で進行を遅らせるので手一杯。実際、それすら効果があるか怪しいんだよね。体感的に」
「そうか」
進むでも戻るでもない、時間が止まったような停滞した会話。こみ上げてくる言葉は粘りついたのどに絡まり声にならない。どの言葉も言ってはいけないような気がした。傷つけることが怖かった。時間は止まり、俺は宙の一点をじっと見ていた。このまま時が動き出さないように願いながら。
「友達がいたんだ」
時間が動き出した。
「親友だった、らしい。当時、病気のことはまだ気づいてなくってね。ある日その親友に言ったんだ。『誰?』って。そのときの顔が忘れられないんだよ」
アイツも宙の一点をじっと見つめていた。もしかしたら俺以上に時が止まることを願っているのかもしれない。
「大事なことは忘れるのにね。そのときの気持ちは忘れられないんだよ。都合のいい病気でしょ?」
ゆっくりとアイツは立ち上がった。
「もう帰るよ」
俺はまだ宙を見つめている。しかし時間は止まらない。
「もう会わないほうがいいよね」
スローモーションがかかったようにゆっくり歩き出すアイツ。もしかしたら時間の進みが遅くなっているのかもしれない。このまま止まってくれないかと願う。しかし、どんなに時間の流れが遅くなったところで止まることは決してないんだろう。
ではそうしたらいい?
「止まらない、戻らない」
それが前提だ。それならば
「待て」
止まらない。
「待て」
止まらない。
「待て!」
腕を掴んで立ち止まらせた。
「離してよ」
「だめだ」
強引にこちらを向かせる。目が少し充血していた。
「遊びに行くぞ」
きょとんとしたあいつの顔「はっ?」
「遊びに行くぞといったんだ」
「……」
人は常にある程度物事を予測している。吃驚とはその様相の範囲内で行われる動作だ。真に予想の範囲外の出来事が起こるとこういうことになる。『言葉が出ない』という奴だ。
「いいか。これから暇なときは全部遊びに行くぞ」
「……」
「雨が降ろうが台風が来ようが地震で全部台無しになろうが会うんだ」
「……」
「すべて忘れたらまた遊びに行くぞ」
「……」
「時間は止まらないし」
「……」
「戻らない」
「……」
「だから」
「……」
「進むしかないだろう」
「……ひとつ聞いても?」
「何だ」
「君ほんとにノーマル?」
それから俺たちは暇を見つけては遊びに行った。何回も遊びにいった。俺も良く笑い、アイツも良く笑った。
そして三年前、アイツはこんな辺鄙な場所へ引っ越した。嫌がらせとしか思えない場所だ。俺は汗だくになりながらこの道を歩く。アイツの元へ行くために。
「嫌味の一つでも言ってやらないとな……」
夏は暑いし、道は長い。ただそれでも
「進まないとな……」
俺たちはもう立ち止まらないんだ
な、なんぞこれ