うさぎによる、穏やかな福山市征服が、始まる。
お忙しい中のご愛読まことにありがとうございます。
第一章
親知らずのポエム
一
俺に何のお伺いもなく、異変は突然やってきた。『親知らず』だ。
鏡を斜めに割ったような、じりりとした重鈍い痛みが、右顎の奥に走る。
近くにある、もみじ饅頭店のガラス窓に映った自分が、視界に入ってきた。
――ぞっ、ぞとした。
学ランの襟から、群青色をした、毛むくじゃらのでっかい『ウサギ』の顔がすっぽりと乗っかっていた。息を飲んだ。
慌てて目をこすった。再び目を開けると、『ウサギ』は一瞬で消えていた。ガラスには元の自分の姿が映っており、嫌な汗が全身を包んだ。痛さから来る、幻覚だろうか。
ガラスの中に映った自分は、いつものように粋がって、顎を人よりも高く突き出している面影は全くなく、痛みで恐怖に支配された、情けない一人の不良少年でしかなかった。
茶色に染まったストレートの長い前髪から覗く二つの目は、充血するほど大きく開かれ、スラッとした高い鼻の下にある口は、無防備にポカンと開いていた。
ちょうど、学校を抜け出して、連中とJR西日本の福山駅南口前で屯している時だった。
連中とは、福山市では名門高校の『成績優秀』な不良集団だ。タバコを喫煙している奴、スケボーをしている奴、みな一様だが、駅前の一角に毎日、陣取っている。
福山市は、広島県の東部、海沿いにある田舎の都市だ。福山駅の近くは、不良が屯するくらいには栄えているものの、北は山に囲まれ、南は海辺の工業地帯があるだけで、寂れっぷりは半端ではない。
福山城の北口を出ると、目の前に小高い丘に乗った福山城がある。新幹線のホームから天守閣のてっぺんまで見えるので、そんなに大きくはない。
福山駅の南口を出ると、左手には、もみじ饅頭店があり、右手には釣り人の銅像、更に信号を渡ると商業ビルがあるが、殆どテナントは入っていない。
俺たちは、いつも、もみじ饅頭店の横をキープしている。
今日も変わらず連中と屯していた時に感じた『親知らず』の痛みと、ウサギの幻覚は、ほんの一瞬で、消えた。一瞬だったが、気のせいではない、確かな痛みと幻覚だった。
紛れもない証拠に、所謂『ヤンキー座り』をしていた俺の手から、タバコが無防備に地面に落ちて、灰が綺麗に散っていった。
アルファルトぎりぎりまで深くしゃがみ込んでいた膝の右腕が、情けなく崩れ落ちてしまった。まるで俺は、昔の映画をコマ送りにして見ていた。目の前が霞んで見えた。
「ヒコーキ、どしたん?」
名字が「香味比」で名前が「光輝」だから、ここで屯しとる連中は『ヒコーキ』と、俺を呼ぶ。
朦朧とした意識の中で、鼻のすぐ下から至近距離で覗き込んでいる、心配そうな岡市台素希の顔が目に入ってきた。
通称は『スッキー』。名字が「岡市台」で名前が「素希」だから、連中は『スッキー』と呼んでいる。
「朦朧としているのは熱射病のせいだろうか」と、ぼんやり心地よく思いながら、呼吸が顔を撫でるくらい近くに顔を寄せているスッキーを改めて、まじまじと見た。
素肌が透けて見えないくらい、化粧が分厚く張り付いた顔は、フランス人形のように人間離れしていて美しい。何重にも塗り重ねた黒いマスカラが、スッキーの澄んだ瞳に奥行きを増している。
自分の意志に反して目が小刻みに左右し、近くで変な歌を歌っているストリート・ミュージシャンや、昼間っから酒を浴びている老人衆が、視覚に入って来た。
すぐに我に返った。
そういえば、駅前の装工事中のアスファルトは、十一月の太陽熱を俺に跳ね返すほど、強くはなかった。生暖かい、肌を舐めるような、妙な空気だ。
また、微かに右顎の全体が、じんじんと痛み始めた。
「わりぃ。今日は、ここんらへんで帰るわ」
派手に散ったタバコの吸い殻を一瞥して、ゆっくりと訳ありげに腰を上げた。
スッキーは、深くしゃがんだまま、首をさっきよりも大きくのめり出して、俺を見続けている。
「ヒコーキ、大丈夫?」
どこまで続いているのか分からないくらい奥深い瞳に見つめられ、反射的に左足の裏をもじもじさせた。考えるよりも先に、言葉が漏れていた。
「何がじゃ? やらんといけんこと思い出したけん、帰るだけじゃ。おまえに言う必要はない。男には女に分からん果たさにゃいけん『使命』ってモンがあるんじゃ!」
勢いで言ってしまった。
『使命』とは言ったものの、まさか『親知らずの抜歯』だとは、口が裂けても言えない。俺はこの連中の中でトップだ。親知らずごときで威厳を失って、堪るわけがない。
「そんなに言わんでも……。ねぇ、ヒコーキ。最近おかしいよ? もしかして、勉強のしすぎなんじゃないん?」
スッキーの澄んだ湖のような瞳から、小粒の涙がじんわり滴り、ぎくりとした。
黒いマスカラが涙で溶けて、化粧が崩れた。完璧な顔の一部に、透明感のある素肌が覗いた。
俺は見てはいけないものを見てしまったような気がして、急に胸が熱くなった。また、目が小刻みに揺れた。
フランス人形ではない、人間臭さがあった。どうして、今まで気づかなかったのだろうか。分厚いファンデーションに隠された人間臭い素肌に気づいた時、考えるよりも先に鋭い言葉が飛び散っていた。
「あ、アホか、おまえは! 俺を馬鹿にするんも、ええ加減にせえよ。期末テストなんて、まだ二週間も先じゃろ。一夜漬けで充分じゃ、そんなの! 今度の期末で下剋上でもしたいんなら、早う帰って勉強しろや、きもい『優等生ちゃん』の『カエル』みたいに!」
俺は言い終わる前に、急いでその場を後にしていた。
スッキーが珍しく俺の背中に向かって何か叫んだようだったが、俺の耳は、スッキーの叫びを言葉として認識しなかった。