03と04
03
照明の消された部屋には、未だ止む気配のない雨の音と街灯の明かりが流れ込んでくる。
「眠れないのか?」
部屋の中に久未弥の声が響く。
「うん」
全身をタオルで包んだ少女は、そう答えながら上半身を起こし、横で寝ている妹が剥いだ掛け布団を掛けなおしてやる。
「ブッチョも眠れないの?」
「……ああ」
いくら久未弥でも、なじみの姉妹のただ事ではない様子を目の当たりにして寝ていられるほど楽天家ではない。
しばらくの沈黙の後、少女はためらいがちに口を開く。
「私ね、ブッチョに謝らなくちゃいけない事があるの」
「なんだよ、あらたまって」
と言いながら久未弥は、この姉妹が隠していた事実に対する告白をするであろうと思い、少女と同じように身を起こす。
聞いていた両親の想像とは違う父親の姿。それどころか、母親はいないなどという始末。
それについての告白と謝罪であろうと身構えていると。
「ブッチョの自転車のサドルに穴開けたの私なの」
と、衝撃発言。
「いつの話だよ! てか、あれやったのお前だったのか!」
「うん、ごめん。最初のは振り回してた傘が偶然あたって穴が開いちゃって、どうしようって思ってたらブッチョが出てきて、思わず隠れてたら、ブッチョいきなりヤクザに喧嘩売りに行っちゃうんだもんビックリしちゃった。
でも、その後の二つの穴はわざとなの。
だってブッチョ、無表情のくせにいちいちリアクションが面白かったんだもん。ほんとごめんね」
などと言う。
「マジかぁ、あの穴のせいで、雨降りの後に乗ると尻が濡れるんだよ」と、久未弥は少女の告白に対して愚痴を漏らす。
「うん……ほんと、ごめん……」
と少女が再度謝罪の言葉を言うと、二人の会話が途切れ、静寂が訪れる。
ざああああああああああ……
こころなしか二人の間を流れる雨音が強くなった気がする。
久未弥が時計を見ると、時間は午前2時をまわろうとしていた。
ぼんやりと時計を眺めていると、少女の方からなにやらごそごそと聞こえてきたので、久未弥が視線を戻すと、そこには頭部のタオルを取り去った少女の顔があった。
「おっなんか初めまして、って感じだな」
と、いきなりの事で戸惑う久未弥が初めて見る少女の顔は、ショートカットの髪の毛と強気そうな目が特徴の凛々しい女の子であった。
さらに鼻先に貼られた絆創膏が、やんちゃそうなイメージにぴったりで似合っていた。
「想像通り元気よさそうな顔してるなお前。
でもお前ら姉妹で全然感じが違うんだな」
と久未弥が言うと。
「うん、だって私たちほんとの姉妹じゃないもん」
「えっ?」
このいつも一緒の仲の良い姉妹に、血がつながっていないとの事実に久未弥は戸惑う。
再び訪れる静寂。
しばらくの沈黙の後に、ライオンの皮を脱ぎ捨てた、冬子という名前のただの少女は言う。
「ブッチョ、はなし聞いてもらっていい?」
「――私、最低な子なの」
04
「私のうちね、杏奈が来るまで、お父さんと私二人だけだったの。
お母さんは最初からいなくて、顔も分かんない」
冬子はどこを見るでもなく、とつとつと語り始める。
「私は悪い子で、毎日お父さんにうるさい、邪魔だ、って怒られて、叩かれて、でもなにが悪くて怒られてるのかわからなくて、それが痛くていやだった、悲しかった。
でも一番悲しかったのは、大好きなお父さんが笑ってくれない事。
お父さんに喜んでもらいたくて、掃除をしたり、
お父さんにおいしいって言ってもらいたくて、ご飯を作ったり、
お父さんに褒められたくて、勉強もがんばったの、
でも、笑ってくれなかった。
大好きなお父さんだけど、夜中に酔っぱらって帰って来た時のお父さんは嫌い。
いつもより大きな声で怒って、いつもよりいっぱい叩かれる。
でもね、ある時お父さんが新しいお母さんを連れてきたの、今日からこの人がお前のお母さんだよって。
そのお母さんはかわいい女の子を連れていて、この人たちが今日からあなたのお父さんとお姉ちゃんよ、ってお母さんに言われると、「杏奈です」ってかわいい声で言ったの。
それからは夢のようだった。
やさしいお母さんと妹が一緒にできて、お父さんも笑うようになってくれた。
杏奈も、お姉ちゃんお姉ちゃんって、いっつもついてきて一緒に遊んだの。
毎日みんな一緒にご飯を食べて、
毎日みんな一緒にお風呂に入って、
毎日みんな一緒に並んで寝たの。
ほんとに楽しくて、うれしくて、しあわせだった……お母さんがいなくなっちゃうまでは。
ある日、突然お母さんはいなくなっちゃったの、杏奈を残して。
お父さんは、あの女、男と出て行きやがった、って言ってすごく怒ってた。
その時から、お父さんはまた笑わなくなって、前にも増して怒るようになったの。
すごく怖かった、酔っぱらってなくてもすごく怒って、すごく叩くようになった。
でも、怒られて叩かれたのは私じゃなくて、杏奈だったの。
すごく怖かったけど、私はぜんぜん叩かれなくなった。
私ね、お父さんに怒られて、叩かれる杏奈を見て、こう思ったの。
よかった……って。
怖くて痛いことをされるのが、私じゃなくなってよかったと思ったの。
いつも痛くて悲しい思いをしなくて済むって思った。
叩かれる杏奈を、いつもそう思いながら見てた。
叩かれて泣きながら寄ってくる杏奈を、私の身代わりに怒られてくれた杏奈を、私はいつも慰めて抱きしめてやったの。
かわいそうにって。
最低でしょ?
そうやって私は、いやな事を全部杏奈に押し付けたの」
と、冬子は自嘲気味に話す。
「……」言葉に詰まる久未弥。
この子が抱えてきた自責の念の重さを考えれば、お前は最低な子なんかじゃない、などと軽々しく言えはしない。
そんな久未弥をよそに、冬子は続ける。
「でも、ある時、それじゃ済まない事が起きたの。
杏奈が、お父さんが暴れて倒した棚の下敷きになって病院に運ばれた。
頭部骨折だって、そのせいで杏奈は耳が聞こえなくなった。
その時病院の先生に原因を聞かれたお父さんは、杏奈が棚に登ろうとして倒れたって言ったの」
「……っ、お前それって、違うって言わなかったのかよ」と思わず久未弥が言うと。
「私だって違うって思ったけど、お父さん怖かったし、私の勘違いかもって」などと言う。
「そんなバカな、いくら父親だからって、間違った事を言ってたら、違うって言わないと」
「わかんないよ、お父さんが間違った事を言うの? なにが正しくて、なにが間違ってるの? わかんないよ」
「……っ」
そうなのだ、何も知らない子供にとって、親というのはこの世の中の道しるべなのだ。
親は正しい、間違った事など言うはずがない。
そうやって疑う余地などないのである。親も自分と同じ人間だと気づくようになるまでは。