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神子を処刑した王国の末路

作者: 猫撫子
掲載日:2026/10/29

エレノア・フォン・リーベルト! お前との婚約を、今この場をもって破棄する!」


王宮の大広間に、第一王子アルベルトの怒声が響き渡った。


磨き上げられた大理石の床。天井から吊るされた巨大なシャンデリア。王族と貴族たちが集う、王国で最も格式高い祝宴の場。


その中央で、ひとりの少女が静かに立っていた。


エレノア・フォン・リーベルト。


リーベルト子爵家の長女であり、王太子アルベルトの正式な婚約者である。


淡い金色の髪は背中まで流れ、瞳は澄んだ青色。豪奢なドレスを身につけているわけではない。子爵家の財力では、王侯貴族の令嬢たちが着飾るような宝石をいくつも揃えることなどできなかった。


それでも、彼女の立ち姿には不思議な気品があった。


まるで、彼女の周囲だけ空気が澄み渡っているかのように。


「……殿下。今、なんとおっしゃいましたか?」


エレノアは落ち着いた声で問い返した。


「聞こえなかったのか! お前との婚約を破棄すると言ったのだ!」


アルベルトは鼻を鳴らした。


彼の隣には、桃色の髪をふわふわと巻いた少女が寄り添っていた。ミレーヌ・フォン・ベルク。子爵よりも低い家格である男爵家の令嬢だ。


ミレーヌはアルベルトの腕に自分の腕を絡ませ、勝ち誇った笑みを浮かべていた。


「エレノア様、殿下を責めないでくださいませ。殿下はずっと苦しんでいらっしゃったのです。あなたのような冷たい方との婚約に……」


「ミレーヌ、黙っていろ」


アルベルトはそう言いながらも、ミレーヌの頭を優しく撫でた。


その手つきは、婚約者であるエレノアに向けられたことのないものだった。


「エレノア。お前はいつも堅苦しいことばかり言う。王族としての礼儀がどうだ、財政の数字がどうだ、外交文書の内容がどうだ。私が王太子であることを忘れているのではないか?」


「私は、殿下が将来この国を統治されるお方だからこそ、必要なことをお伝えしてきたつもりです」


「それが鬱陶しいと言っているのだ!」


アルベルトは手に持っていた書類を床へ叩きつけた。


「それだけではない。お前には王室宝物庫から王妃陛下の首飾りを盗み出した疑いがある!」


ざわめきが広がった。


「さらに、私の食事に毒を混入させ、暗殺しようとした疑いもある!」


ミレーヌが胸元を押さえ、悲しげな表情を浮かべる。


「私、見てしまったのです……。エレノア様が殿下の食事に何かを入れているところを。怖くて、ずっと言えませんでした……」


その目には涙が浮かんでいた。


もちろん、演技である。


エレノアは知っていた。


王妃の首飾りが消えた日の夜、ミレーヌが王宮の侍女を買収し、宝物庫の鍵の複製を手に入れようとしていたことを。アルベルトの食事に毒を混入したという話も、実際にはミレーヌが用意した薬草入りの香料を、エレノアの部屋から見つかったように偽装したものだった。


エレノアは証拠を掴んでいた。


しかし、今のアルベルトは何を言っても聞かないだろう。


彼は恋に狂っていた。いや、正確には、自分を褒め称え、決して反論せず、都合のいい言葉ばかり囁いてくれるミレーヌに依存していた。


エレノアが王太子のために用意した政策案を、ミレーヌは自分の手柄として語った。


エレノアが夜を徹して整理した税収の資料を、ミレーヌは「殿下なら簡単にできますわ」と笑いながら持ち去った。


それを知っても、アルベルトはミレーヌを叱らなかった。


むしろ、エレノアが嫉妬しているのだと決めつけた。


「殿下。王妃陛下の首飾りについては、先日、王宮の記録係から報告があったはずです。宝物庫の入退室記録と、当日の侍女の証言を確認すれば、私が盗んでいないことは明らかになります」


「黙れ。言い逃れをするな」


「毒物についても、王室付きの薬師に検査を依頼していただければ、すぐに――」


「私が証拠だと言っているのだ!」


アルベルトが叫んだ。


「王太子である私の言葉が信用できないというのか!」


エレノアは、静かに息を吐いた。


この男は、本当に王になるつもりなのだろうか。


国民の生活を守ることも、国庫の数字を理解することも、外交相手の言葉の裏を読むこともできない。自分の感情を抑えることすらできず、耳に心地よい言葉だけを真実だと信じる。


そんな男が王になれば、この国はどうなるのか。


エレノアは答えを知っていた。


「……殿下。国王陛下は、いつお戻りになられるご予定でしょうか」


その瞬間、アルベルトの顔が険しくなった。


「父上の名を出すな!」


「陛下がお戻りになれば、このような重大な疑いについて正式な審理を求めることができます」


「必要ない!」


アルベルトはエレノアの目前まで歩み寄った。


「父上は隣国での外交に忙しい。帰還は三週間後だ。それまで私は、この国の王太子として国政を預かる立場にある!」


「国政を預かることと、証拠もなく人を処刑することは別です」


「まだ自分の立場が分かっていないようだな」


アルベルトは薄く笑った。


「お前のような子爵令嬢が、王太子である私に意見すること自体が不敬なのだ」


彼が指を鳴らすと、近衛騎士たちが進み出た。


「エレノア・フォン・リーベルトを拘束しろ!」


「殿下!」


「王室宝物窃盗、王太子暗殺未遂、王族に対する反逆。これらの罪により、王太子権限をもって身柄を拘束する!」


騎士たちの足が止まった。


近衛騎士団長のグレゴールは、苦い表情を浮かべていた。


「殿下。恐れながら、正式な捜査と審理を経ずにそのような命令を出されることは……」


「私の命令が聞こえないのか!」


「しかし……」


「逆らうなら、お前も反逆者として処分するぞ!」


グレゴールは唇を噛んだ。


王太子の命令に逆らえば、騎士団そのものが解体されかねない。かといって、証拠のない罪で令嬢を拘束することも、騎士の誇りに反する。


そのとき、ミレーヌが口を挟んだ。


「殿下、私、怖いですわ。エレノア様は何をするか分からない方ですもの。もしかしたら、今この場で殿下に襲いかかるかもしれません」


「そうだな。危険だ。早く連れていけ!」


ついに騎士たちが動いた。


エレノアは抵抗しなかった。


両手に冷たい拘束具がかけられる。


その瞬間、大広間の窓から差し込んでいた陽光が、ほんのわずかに揺らいだ。


誰も気づかなかった。


ただ、王妃アデライーデだけが、顔色を失った。


彼女は玉座の脇に立ち、すべてを見ていた。


「アルベルト……。今すぐ、その命令を撤回しなさい」


王妃の声は静かだった。


だが、その静けさの奥には、押し殺した怒りがあった。


「母上まで、何をおっしゃるのですか」


「その娘を拘束する正当な理由はありません」


「証言があります!」


「ミレーヌ嬢ひとりの証言が、処刑を決定する理由になるとでも?」


ミレーヌが震えるふりをした。


「王妃陛下……。私は、本当に見たのです……」


「あなたには尋ねていません」


王妃の一言に、ミレーヌの顔が引きつった。


「母上。私は王太子です。この国の未来を決める権限があるのです!」


「未来を決める者だからこそ、法を守らなければならないのです!」


「もう結構です!」


アルベルトは背を向けた。


「エレノアを北塔の地下牢へ入れろ。明朝、公開処刑を行う!」


大広間が凍りついた。


公開処刑。


正式な裁判すら行わず、婚約者を翌朝には殺すというのだ。


「殿下、それだけはなりません!」


グレゴールが膝をついた。


「お考え直しください! 国王陛下のご帰還を待つべきです!」


「くどい!」


アルベルトは剣の柄に手をかけた。


「騎士団長。お前がこの命令を拒むなら、ただちに職を解く!」


グレゴールの顔が歪んだ。


その場にいた貴族たちは、誰ひとりとして声を上げられなかった。


いや、声を上げることのできる者はいた。


公爵家の当主たち。王国の財政を握る侯爵家の当主たち。王室の法務を司る大貴族たち。


彼らは王妃の顔を見ていた。


そして、王妃もまた、彼らの顔を見ていた。


全員が同じことを理解していた。


アルベルトは、取り返しのつかない一線を越えようとしている。


それでも、まだ間に合うかもしれない。


神子が生きている限りは。


「……エレノア『様』」


王妃は、拘束された少女に視線を向けた。


「どうか、お身体を大切に」


その言葉に、エレノアはかすかに微笑んだ。


「ありがとうございます、王妃陛下」


そして、騎士たちに連れられて大広間を出ていった。


その背中を見送りながら、王妃は胸元で手を握り締めた。


彼女は知っていた。


エレノアが、ただの子爵令嬢ではないことを。


この国の命運を、その身に背負った少女であることを。


そして今、愚かな王子の手によって、その命が失われようとしていることを。



王国には、古くから伝わる秘密があった。


建国から数百年。


歴代の国王は、王位を継ぐ際に必ずひとつの誓約を受け継いできた。


王冠でもない。王笏でもない。国璽でもない。


それは、王家の地下神殿に刻まれた神々との契約だった。


『百年に一度、神々は人々の中からひとりを選ぶ。その者こそ神子であり、神々の寵愛を一身に受ける存在である』


神子は王族から選ばれるとは限らない。


公爵令嬢であることも、貴族であることも、必要条件ではなかった。


農民の娘であっても、職人の息子であっても、孤児であっても、神々に選ばれれば、その者が神子となる。


そして神子を敬い、慈しみ、国の宝として扱う国には、百年の繁栄が約束される。


土地は豊かになり、疫病は遠ざかり、天候は穏やかになり、国民は安寧のうちに暮らせる。


反対に、神子を虐げ、辱め、命を奪うようなことがあれば。


神々の祝福は失われる。


雨は降らず、あるいは降りすぎ、作物は枯れる。病が広がり、獣が荒れ、鉱山は崩れ、交易は途絶える。


最後には、人々の心から希望が消え、王国そのものが滅びへ向かう。


これは単なる伝説ではなかった。


歴史書に記された、いくつもの王国の滅亡がそれを証明していた。


かつて南方に存在したアストリア王国は、神子を奴隷として扱った。王は神子を見世物にし、貴族たちは彼女を嘲笑した。


その翌年、王都を大洪水が襲った。


さらに疫病が流行し、王族は次々に命を落とした。周辺国の侵攻を受け、わずか七年で王国は地図から消えた。


東方のグランツ帝国では、神子を異端者として火刑に処した。


その夜、帝都を巨大な地震が襲った。


帝国は分裂し、皇帝一族は断絶した。


神子を敬えば繁栄が訪れ、神子を虐げれば滅びが訪れる。


その事実を、国王と王妃、そして王国の上位貴族の当主たちだけが知っていた。


秘密を知る者たちは、代々、神子の出現を待ち続けてきた。


そして六年前。


神殿に置かれた聖なる水晶が、百年ぶりに光を放った。


神子が現れたのだ。


その少女の名は、エレノア・フォン・リーベルト。


貴族とはいえ、王国の中では決して裕福とはいえない子爵家の娘だった。


彼女が十歳の冬、領内を深刻な寒波が襲った。


小麦は枯れ、家畜は倒れ、村人たちは飢えに苦しんでいた。


幼いエレノアは、母とともに村の礼拝堂を訪れた。


そこで彼女は、凍りついた祭壇に手を置いた。


「神様。みんなを助けてください」


ただ、それだけを祈った。


翌朝、雪が止んだ。


凍りついていた井戸の水が流れ始め、枯れていた畑の一角から緑の芽が顔を出した。


最初は偶然だと思われた。


しかし、その後も不思議な出来事は続いた。


エレノアが病気の子どもの手を握ると、熱が下がった。


長年実をつけなかった果樹が、彼女の通った翌日に花を咲かせた。


彼女が祈った村では、家畜の病気が収まり、井戸水が清らかになった。


そして、ある夜。


リーベルト家に国王直属の使者が訪れた。


国王アウグスト三世、王妃アデライーデ、そして王国の五大公爵家の当主たちが、子爵家の屋敷に集まった。


神殿の水晶が示した名前と、エレノアの身に起きている奇跡。


それらを確認した王は、彼女が神子であると認めた。


「この事実は、決して他言してはならない」


国王は厳かに告げた。


「神子の存在を知れば、彼女を利用しようとする者も現れる。信仰を口実に権力を奪おうとする者も、神子を手に入れて自らの地位を高めようとする者も現れるだろう」


王妃は幼いエレノアの前に膝をついた。


「あなたに重い責任を負わせてしまうことを、許してください」


「王妃様。私は、どうすればよいのでしょうか」


「これまでどおりでよいのです。あなたはあなたらしく生きてください。誰かを助けたいと思ったら、助けてあげてください。神子であることを、無理に示す必要はありません」


国王はエレノアの前に片膝をつき、その小さな手を取った。


「王国は、あなたを守る。王家の名において誓おう」


その誓いを聞いたエレノアは、ようやく安心して微笑んだ。


それから彼女は、特別な待遇を求めなかった。


豪華な屋敷も、宝石も、地位も望まなかった。


神殿に閉じ込められることも拒み、子爵令嬢としての生活を続けることを望んだ。


神々の力を利用して権力を振るうことにも興味はなかった。


ただ、困っている人がいれば手を差し伸べた。


領地の農民が困窮すれば、父に頼んで備蓄を開放してもらった。病人がいれば見舞いに行き、孤児院の子どもたちには本を読み聞かせた。


王都の貧民街で流行病が発生した際には、身分を隠して薬師たちを支援した。


彼女の働きによって救われた人々は多かった。


しかし、彼らは知らなかった。


エレノアが神子であることを。


彼女の奇跡を、ただ運がよかったのだと思う者もいた。


優しい令嬢だと感謝する者もいた。


それでよかった。


エレノアは、自分が神子だから人々を助けているのではないと思っていた。


困っている人がいるから助ける。


苦しんでいる人がいるから手を差し伸べる。


ただ、それだけだった。


そして、十三歳になった彼女は、王太子アルベルトの婚約者となった。


その婚約は、王家とリーベルト家の間で結ばれた正式なものだった。


神子を王族の一員として迎え、未来にわたって敬う。


それは、国王が神々に対して示す忠誠のひとつでもあった。


だが、アルベルトには、その意味が分からなかった。


彼にとってエレノアは、父王が勝手に決めた堅苦しい婚約者にすぎなかった。


美しいだけでなく、学問にも優れ、政治にも詳しく、王太子の仕事を助けてくれる。


本来なら、王妃となる女性として申し分のない存在だった。


しかし、エレノアはアルベルトの間違いを指摘した。


無駄遣いをすれば注意した。


不適切な政策を立てれば、資料を示して修正を求めた。


彼女にとって、それは婚約者として当然のことだった。


アルベルトにとっては、自分の優位を脅かす不愉快な行為だった。


そして二年前、彼はミレーヌ・フォン・ベルクと出会った。


ミレーヌは、彼を褒めた。


何を言っても「さすが殿下ですわ」と笑い、何をしても「殿下なら当然です」と持ち上げた。


政治の話が分からなくても、彼の言葉を否定しなかった。


アルベルトは、それを愛だと思い込んだ。


エレノアは、彼にとって邪魔な存在になった。


彼女が王妃になれば、自分の失政を指摘される。


彼女が隣にいれば、自分がどれほど無能であるかを思い知らされる。


ミレーヌと結婚したい。


エレノアを追い出したい。


そして、自分にとって都合のいい人間だけで王宮を満たしたい。


その欲望が、今日の愚行につながったのである。


北塔の地下牢へ向かう石段を下りながら、エレノアは静かに目を閉じた。


彼女はまだ、王国を見捨てようとは思っていなかった。


ただ、ひとつだけ理解した。


自分がどれほど誠実に尽くしても、相手にそれを受け取る心がなければ、何も伝わらないのだと。



北塔の地下牢は、王宮の中でも最も古い建物のひとつだった。


窓はなく、湿った石壁には苔が生えている。床には冷たい水が染み出し、鉄格子の向こうからは、どこかの囚人が咳き込む音が聞こえた。


エレノアは、そこに押し込まれた。


「明朝までここで待て。処刑の準備が整い次第、連れ出す」


看守はそれだけ言い、扉を閉めた。


鉄格子が鳴り、鍵が回る。


エレノアは石の寝台に腰を下ろした。


ドレスの裾が汚れた床に触れたが、気にしなかった。


彼女は今、死刑囚だった。


しかも、裁判も受けず、弁明の機会も与えられずに。


「……殿下は、本当に私を殺すおつもりなのですね」


声に出すと、胸の奥が少しだけ痛んだ。


アルベルトに恋をしていたわけではない。


幼い頃から婚約者として過ごしてきたが、彼のことを深く愛したことはなかった。


それでも、彼が正しい王になれるようにと願っていた。


国民を守り、貴族を統率し、他国との関係を維持する。


そのために必要な知識を伝え、過ちを正し、時には彼の代わりに書類を整理した。


それが無意味だったと知った今、悲しみよりも虚しさが強かった。


やがて、牢の外から足音が聞こえた。


「エレノア様……!」


聞き慣れた声だった。


王妃付きの侍女、マリアンヌである。


彼女は看守に小さな包みを渡し、牢の前に駆け寄った。


「エレノア様、ご無事ですか!」


「マリアンヌ。どうしてここに?」


「王妃陛下から、これをお届けするようにと……」


彼女は包みの中から、温かい毛布とパン、水筒を取り出した。


「王妃陛下は、殿下をお止めになろうとしています。しかし、殿下は誰の言葉も聞こうとなさらず……」


マリアンヌの目には涙が浮かんでいた。


「どうして、こんなことに……。エレノア様が、どれほど王国のために尽くしてこられたか、私は知っています」


「ありがとう、マリアンヌ」


エレノアは毛布を受け取った。


「でも、泣かないでください。あなたが悲しむ必要はありません」


「ですが……!」


「私がここにいることで、あなたまで罰せられてしまうかもしれません。どうか気をつけて」


その優しさが、マリアンヌの涙をさらに溢れさせた。


「エレノア様は、こんなときまで……」


「私は、まだ大丈夫です」


エレノアは微笑んだ。


その瞬間、牢の天井から小さな光が降りてきた。


白い光だった。


星の欠片のような光が、エレノアの肩に触れ、消えていく。


マリアンヌは息を呑んだ。


「今のは……?」


「何でもありません」


エレノアはそっと首を振った。


彼女には分かっていた。


神々が、こちらを見ている。


怒っているのか、悲しんでいるのか。


それは、まだ分からなかった。


ただ、いつも自分のそばにあった温かな気配が、今はひどく遠く感じられた。


「マリアンヌ。ひとつお願いがあります」


「何なりと」


「私の父に、今夜は屋敷から出ないように伝えてください。王宮に抗議に来てはいけません」


「しかし、エレノア様!」


「父まで傷ついてほしくないのです」


マリアンヌは唇を噛み、深く頭を下げた。


「……必ず、お伝えします」


彼女が立ち去ったあと、エレノアは毛布に身を包んだ。


冷たい石壁にもたれ、目を閉じる。


そして、小さく祈った。


「神々よ。どうか、国民をお守りください」


自分の命を助けてほしいとは願わなかった。


アルベルトを罰してほしいとも願わなかった。


ただ、何も知らずに暮らしている人々が、愚かな王子の罪によって苦しむことだけは避けたかった。


しかし、返事はなかった。


その夜、王宮では、別の準備が進められていた。


処刑台の設置。


兵士の配置。


王太子名義の布告。


そして、エレノアの死後に発表する新たな婚約の告示。


ミレーヌは自室で、鏡の前に座っていた。


「明日になれば、あの女はいなくなるのね」


侍女が髪を梳かしている。


「はい、ミレーヌ様。王太子殿下は、ミレーヌ様を次期王妃として迎えるとお約束くださったのでしょう?」


「もちろんよ。殿下は私を愛していらっしゃるの」


ミレーヌは笑った。


「それに、エレノアがいなくなれば、王妃様も私を認めざるを得ないわ。王太子妃になったら、あの人には侍女として働いてもらおうかしら」


侍女は曖昧に笑った。


「まあ、もう亡くなられるのですから、そんな心配もいりませんけれど」


「そうね。ふふっ」


ミレーヌは鏡に映る自分の姿を見つめた。


男爵令嬢である自分が、王妃になる。


それは、彼女が幼い頃から夢見ていた未来だった。


貴族学院では、家格の低さを理由に上位貴族の令嬢たちから軽んじられた。


学問は苦手だった。


礼儀作法も身についていなかった。


それでも、王子に愛されればすべてが手に入ると信じていた。


そして、アルベルトは自分の思いどおりに動いてくれた。


「ねえ、侍女」


「はい」


「王妃になったら、私の実家を公爵家にしてもらおうかしら。お父様には侯爵位くらいがいいわね。お兄様たちも、王宮の要職につけてあげるの」


「素晴らしいお考えでございます」


「それから、王妃様が持っている宝石も全部私のものにするわ」


ミレーヌは楽しげに笑った。


彼女の頭の中には、国民の生活も、王国の未来もなかった。


あるのは、自分がどれほど贅沢な暮らしをできるかという欲望だけだった。


そのとき、王宮のどこかで、鐘が鳴った。


夜半を告げる鐘だった。


同時に、地下神殿の祭壇に置かれていた水晶が、ひび割れた。


神殿を守る老司祭は、その音を聞いて顔を上げた。


「まさか……」


水晶の中央に、黒い線が走っていた。


百年に一度、神子の存在を示す聖なる水晶。


それが黒く濁り始めていた。


老司祭は震える手で祭壇に触れた。


「神々よ……。どうか、まだお怒りを鎮めください」


だが、返事はなかった。


水晶のひびは、少しずつ広がっていった。



翌朝。


王宮前の広場には、大勢の人々が集まっていた。


王太子の婚約者が反逆の罪で処刑される。


その知らせは、夜のうちに王都中へ広まっていた。


しかし、エレノアを知る者たちは、誰もが疑問を抱いていた。


彼女は慈悲深い令嬢だった。


孤児院を訪れ、貧しい人々に食料を配り、病人を見舞う。


王宮の財政が悪化したときには、無駄な支出を削減する案を提出し、国庫の損失を食い止めた。


そんな彼女が、王太子を暗殺しようとするだろうか。


「何かの間違いではないのか」


「エレノア様がそんなことをなさるはずがない」


人々の間には、不安と疑念が広がっていた。


しかし、広場の周囲には武装した兵士たちが並んでいた。


王太子の命令に逆らう者は反逆者と見なされる。


誰も、声を上げることができなかった。


王宮の謁見室では、王妃アデライーデがアルベルトと対峙していた。


「最後にもう一度だけ言います。処刑を中止しなさい」


「母上。何度言われても同じです」


アルベルトは書類に目を通しながら答えた。


「エレノアは反逆者です。王太子暗殺を企てた者を処罰するのは当然でしょう」


「証拠はどこにありますか」


「ミレーヌの証言があります」


「それだけですか」


「それで十分です」


王妃は目を閉じた。


この息子は、もはや自分の言葉を理解できないのだ。


「アルベルト。あなたは、王家が守らなければならないものを理解していますか」


「王家の権威です」


「違います」


王妃の声が鋭くなった。


「王家が守るべきものは、国民の命と生活です。王族の権威は、その責任を果たすために与えられたものにすぎません」


「また説教ですか。私はもう子どもではありません」


「子どもであれば、まだ許されたでしょう」


王妃は息子を見つめた。


「あなたが今、何をしようとしているのか。本当に分かっているのですか」


「分かっています。犯罪者を排除するのです」


「……そうですか」


王妃は静かに立ち上がった。


「ならば、あなたはもう私の言葉を聞くことはないのでしょう」


「母上?」


「最後にひとつだけ伝えます」


王妃は、声を震わせずに言った。


「神々は、あなたが何をしたか、すべて見ておられます」


アルベルトは一瞬、動きを止めた。


しかし、すぐに鼻で笑った。


「神々? まさか、エレノアが神にでも愛されているとおっしゃるのですか」


王妃は答えなかった。


その沈黙を、アルベルトは肯定と受け取らなかった。


「母上も、エレノアに騙されているのですね。あの女は、いつも善人ぶっているだけです。私の婚約者という立場を利用し、周囲を味方につけていたのです」


「あなたは……」


王妃の顔に、深い悲しみが浮かんだ。


「本当に、何も見えていないのですね」


「もう結構です。私は処刑場へ向かいます」


アルベルトは謁見室を出ていった。


王妃は、その場に立ち尽くした。


やがて彼女は、隣室に控えていた五大公爵家の当主たちを振り返った。


「皆様。これ以上、止めることはできませんでした」


最年長のグランフォード公爵が、深く頭を垂れた。


「王妃陛下。われらの不徳の致すところでもございます」


「いいえ。これは、あの子の罪です」


「しかし、神子様が……」


公爵の声が途切れた。


誰もが、同じことを考えていた。


神子が処刑されれば、王国はどうなるのか。


国王が不在の今、王妃ができることは限られていた。


王太子の命令を覆すには、正式な手続きが必要だ。だが、アルベルトは近衛騎士団の一部を掌握しており、王宮の警備を強化していた。


力ずくで止めようとすれば、王宮内で武力衝突が起きる。


その間にも、処刑の時刻は迫っていた。


「陛下に使者を送りました」


財務を司る侯爵が報告した。


「最速でも、帰還まで五日はかかります」


「五日……」


王妃は唇を噛んだ。


五日どころか、あと一時間もない。


「せめて、神子様が……」


公爵が言葉を濁した。


神子自身が奇跡を起こし、アルベルトの命令を覆すことを期待するしかないのか。


しかし、神子は神々に命令できる存在ではない。


神々の寵愛を受けていても、彼女はひとりの少女なのだ。


「皆様」


王妃は顔を上げた。


「もし、エレノア様が命を落とされたならば、我々は王国の滅亡を覚悟しなければなりません」


誰も否定しなかった。


王妃は窓の外を見た。


空は、雲ひとつない青空だった。


それなのに、王宮の庭園に咲いていた花が、ひとつ、またひとつと萎れていった。


「……神々よ」


王妃は、祈るように呟いた。


「どうか、あの子に最後の慈悲をお与えください」


しかし、神々の沈黙は続いていた。



午前十時。


王宮前の広場に、エレノアが連れてこられた。


白い処刑衣を着せられ、手首には拘束具がかけられている。


その顔には恐怖も怒りもなかった。


ただ、少し疲れたような表情を浮かべていた。


処刑台の前には、アルベルトが立っていた。


隣にはミレーヌがいる。


彼女は王妃から借り受けた宝石を身につけ、まるで自分がすでに王太子妃になったかのように振る舞っていた。


「罪人エレノア・フォン・リーベルト!」


アルベルトが声を張り上げた。


「お前は王室宝物を盗み、王太子である私の命を狙い、王家に反逆した! よって、死刑に処す!」


広場に集まった人々は、沈黙していた。


「何か言い残すことはあるか?」


エレノアは、アルベルトを見た。


「殿下。最後に、ひとつだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」


「何だ。命乞いか?」


「いいえ」


エレノアは静かに首を振った。


「私が死んだあと、この国の人々を守ってくださいますか」


アルベルトは眉をひそめた。


「何を言っている」


「この国には、あなたのことを信じている人々がいます。あなたが王になれば、彼らはあなたに命を預けることになるでしょう。どうか、その責任を忘れないでください」


「黙れ!」


アルベルトの顔が赤くなった。


「死ぬ間際まで、私に説教するつもりか!」


「説教ではありません。お願いです」


「そんなことを頼まれる筋合いはない!」


ミレーヌが笑った。


「エレノア様、もう諦めてくださいませ。殿下は、あなたのような方を必要としていないのです」


エレノアはミレーヌに目を向けた。


「ミレーヌ様。あなたは、本当にこれでよいのですか」


「ええ。もちろんですわ!」


ミレーヌは胸を張った。


「殿下は私を愛してくださっています。私は未来の王妃になるのです。あなたのような古臭い女に、もう用はありませんわ」


「……そうですか」


エレノアは、ほんの少しだけ目を伏せた。


それ以上、言葉をかけることはなかった。


処刑人が斧を構えた。


アルベルトが手を上げる。


「刑を執行せよ!」


その瞬間だった。


空が、暗くなった。


朝から晴れ渡っていた空に、黒い雲が渦を巻くように広がった。


風が吹き荒れ、広場に集まった人々の衣服を激しく揺らした。


「何だ……?」


アルベルトが空を見上げた。


雷鳴が轟いた。


しかし、雷は落ちなかった。


代わりに、広場の中央に、一筋の光が降り注いだ。


エレノアの足元から、白い光が立ち上った。


拘束具が音もなく砕け散った。


処刑人の斧が、手から滑り落ちる。


そして、エレノアの背後に、巨大な光の輪が浮かび上がった。


広場にいた全員が、息を呑んだ。


誰も、その光景を見たことがなかった。


だが、王宮の地下神殿を知る者たちには分かった。


それが何を意味するのか。


王妃アデライーデが、王宮の窓辺で膝をついた。


「神々よ……!」


五大公爵家の当主たちも、次々に膝を折った。


彼らの声は、風にかき消された。


エレノアは、ゆっくりと顔を上げた。


その青い瞳が、白い光を映していた。


彼女は初めて、神々の声を聞いた。


『我らが愛し子よ』


声は、空から降り注いだ。


『汝は、よく耐えた』


エレノアの目に、涙が浮かんだ。


『汝は人々を愛し、国を慈しみ、見返りを求めなかった』


『それにもかかわらず、汝は辱められ、罪を着せられ、命を奪われようとしている』


『我らは、すべてを見ていた』


光が強くなった。


『汝を敬わぬ者たちに、祝福を与える理由はない』


その言葉とともに、広場の地面が揺れた。


遠くで、鐘が鳴った。


王宮の尖塔に設置された鐘が、誰も触れていないのに鳴り始めたのだ。


一度。


二度。


三度。


それは、王国の歴史において、神子の出現を告げるときにのみ鳴るとされる、古い鐘だった。


アルベルトの顔から血の気が引いた。


「な……何だ、これは……!」


彼は後ずさった。


ミレーヌは悲鳴を上げた。


「殿下! 助けてください!」


しかし、アルベルトは彼女を抱き寄せることすらできなかった。


光の中に立つエレノア。


その姿は、もはや処刑される罪人ではなかった。


神々に愛された者。


百年に一度、この国に繁栄をもたらす存在。


そして今、王国の命運を握る存在。


エレノアは、アルベルトを見つめた。


「殿下」


その声は、風の音よりも静かだった。


「私は、あなたを憎んではおりません」


アルベルトは、震える声で言った。


「な、ならば……」


「ですが、私はもう、あなたに尽くすことはできません」


光が空へと伸びた。


『神子を害そうとした者に、神々の祝福は与えられない』


その宣告が響いた瞬間、王宮の庭園から花の香りが消えた。


噴水の水が止まり、池の魚が一斉に水面へ浮かび上がった。


王都の外では、豊かな緑に覆われていた畑が、まるで季節を飛び越えたかのように色を失っていった。


人々の頭上に、黒い雲が広がる。


そして、エレノアの周囲を包んでいた光が、ゆっくりと消えていった。


彼女は処刑台から降りた。


誰も、彼女を止めようとはしなかった。


アルベルトは、ただ立ち尽くしていた。


「ま、待て……」


彼は、震える手を伸ばした。


「エレノア。話をしよう。これは何かの間違いだ。私が王になったとき、王妃として迎えてやろう」


エレノアは足を止めなかった。


「お前が必要なんだ。お前がいなければ、この国は……!」


その言葉に、エレノアは振り返った。


「殿下」


彼女の瞳は、悲しいほど穏やかだった。


「私が必要なのは、この国の人々です。あなたの権力を支えるためではありません」


「違う! 私は、お前を愛して……!」


「愛している人を、証拠もなく処刑しようとはなさいません」


アルベルトは言葉を失った。


エレノアは、最後に深く頭を下げた。


「さようなら、殿下」


そして、広場を後にした。


その背中を、誰も追わなかった。


神々の祝福を失った王国に、最初の鐘が鳴り響いた。


エレノアが王宮を去った日の午後、王国に異変が起きた。


最初に報告が届いたのは、王都近郊の農村からだった。


「畑の作物が、突然枯れ始めました!」


農務官が駆け込んできた。


「今朝までは何の問題もなかったのです。それが、昼を過ぎた頃から葉が黒ずみ、実が落ち始めました。まるで何かに生気を吸い取られたかのように……!」


「病害ではないのか?」


アルベルトは苛立たしげに尋ねた。


「調査しましたが、原因が分かりません。土壌にも水にも異常はなく、害虫の痕跡もありません!」


「ならば、農民に対処させろ!」


「殿下、すでに農民たちが対処しております。しかし、枯れる速度があまりにも速く……」


「ならば税を減らせばよいだろう!」


農務官は絶句した。


「殿下……。作物が失われれば、税を減らすだけでは解決いたしません。収穫そのものがなくなるのです」


「うるさい! 私は今、忙しいのだ!」


アルベルトは農務官を追い払った。


その直後、今度は王宮の財務官が駆け込んできた。


「殿下、大変です! 王都の東側を流れる河川の水位が急激に低下しております!」


「雨が降っていないのだから当然だろう」


「いえ、そういう問題ではありません。上流では十分な降雨が確認されているにもかかわらず、王都に近づくにつれて水量が減っているのです!」


「何を馬鹿なことを!」


「さらに、王室直轄の鉱山で崩落が発生しました。作業員が数名、行方不明となっております!」


アルベルトは頭を抱えた。


なぜ、次から次へと問題が起きるのだ。


普段なら、エレノアが事前に危険を察知し、対策を整えていた。


水路の補修時期も、穀物の備蓄量も、鉱山の安全点検も、彼女はすべて把握していた。


しかし、彼女はもういない。


いや、正確には、王宮から追い出したのは自分だった。


「……あの女が、何かしたのか?」


アルベルトは呟いた。


あの光景。


神々の声。


それらが脳裏をよぎったが、彼は首を振った。


「そんなはずはない。神など、ただの古い伝説だ」


彼は、自分の言葉を信じようとした。


「偶然だ。そう、すべて偶然に決まっている」


しかし、その夜。


王都の神殿から、緊急の使者が訪れた。


「王太子殿下。大司祭がお目通りを願っております」


「断れ。今はそれどころではない」


「ですが……神殿の聖水が、すべて黒く変色したとのことでございます」


アルベルトは顔を上げた。


「何だと?」


「祭壇の聖なる水晶にも亀裂が入り、神殿に保管されていた聖遺物の光が失われたそうです」


「……馬鹿な」


神殿の聖水は、建国以来、一度も濁ったことがない。


王家の戴冠式では必ず使われ、王族の病を癒やすともいわれる聖なる水だった。


その水が黒くなった。


聖なる水晶に亀裂が入った。


それが意味することを、アルベルトは理解していた。


理解したくなかった。


「大司祭を呼べ」


彼は声を震わせながら命じた。


やがて、白い祭服をまとった老司祭が謁見室へ現れた。


「殿下。お尋ねしたいことがございます」


「何だ」


「本日、処刑台において、何が起きたのでしょうか」


アルベルトは顔をこわばらせた。


「何も起きていない。罪人を処刑しようとしたところ、奇妙な光が現れた。それだけだ」


「……処刑は執行されたのですか」


「いや、途中で中止した」


「神子様は、ご無事なのですか」


アルベルトは黙った。


老司祭の顔から血の気が引いた。


「まさか……」


「エレノアが神子だというのは、本当なのか?」


アルベルトは、とうとう尋ねた。


老司祭は目を閉じた。


「はい。百年に一度、神々はひとりの人間を選ばれます。その方が神子でございます。神子を敬う国には繁栄が約束され、神子を虐げる国には滅亡がもたらされます」


「ならば、なぜ私に教えなかった!」


「その秘密を知ることができるのは、国王陛下と王妃陛下、そして限られた上位貴族の当主だけでございます。王太子殿下には、正式な継承の儀においてお伝えする予定でした」


「そんな……」


アルベルトは椅子から立ち上がった。


「なぜ、もっと早く教えなかったのだ!」


「お伝えする前に、殿下が神子様を処刑なさろうとしたのでございます」


老司祭の声には、怒りがあった。


「殿下は、何をなさったのかお分かりですか。神子様は王国の所有物ではございません。神々が選ばれた、尊い御方でございます。それを、証拠もなく罪人として扱い、命を奪おうとなさった」


「だが、私は知らなかった!」


「知らなかったからといって、罪が消えるわけではございません」


老司祭は、厳しく言い放った。


「殿下は、神子様を敬うどころか、辱めました。神々の御前で、その命を奪おうとなさった。今、我が国に起きている異変は、その報いでございます」


アルベルトは何も言えなかった。


彼は初めて、自分の行いが取り返しのつかないものだったと理解し始めていた。


だが、それでも彼は、責任を認めることができなかった。


「……エレノアを連れ戻せ」


やがて、彼は命じた。


「神子ならば、私のもとへ戻ってくるはずだ。王太子の命令だ。拒めるはずがない」


老司祭は、深い失望を込めた目でアルベルトを見つめた。


「殿下。まだ、お分かりにならないのですか」


「何だと?」


「神子様は、あなたの臣下ではございません」


老司祭は一礼した。


「そして、神々は、命令されて祝福を与える存在ではございません」


彼はそれだけ告げて、謁見室を去った。


アルベルトはひとり残された。


窓の外では、黒い雲が王都を覆い尽くそうとしていた。


エレノアは、王都から二十里ほど離れたリーベルト子爵領へ向かっていた。


馬車の中には、父の使いとして迎えに来た執事のセバスチャンが座っていた。


彼は、娘を無事に連れ戻せたことに安堵しながらも、その顔には深い苦悩が刻まれていた。


「お嬢様……。旦那様は、たいそうお怒りでございます」


「そうでしょうね」


「王宮へ乗り込んで、殿下を問い詰めるとおっしゃっていました。しかし、お嬢様が止めてくださったおかげで、ひとまず屋敷でお待ちになっております」


エレノアは窓の外を見た。


街道沿いの木々は、いつもより葉の色が薄かった。


草原には乾いた風が吹き、道端の花はしおれていた。


「セバスチャン。王都の様子はどうでしたか」


「ひどいものでございます。市場では野菜の値段が急騰しております。水売りが増え、井戸の水を求めて人々が列を作っているそうです」


「まだ一日しか経っていないのに……」


「はい。商人たちは、何か大きな災いが起きたのではないかと恐れております」


エレノアは唇を結んだ。


神々の怒りは、すでに始まっていた。


それでも、彼女には国民を見捨てることができなかった。


「領内の備蓄を確認しましょう。穀物はどれくらい残っていますか」


「冬を越すための備蓄がございます。ただし、王都への供給を求められた場合、領民の分を確保する必要がございます」


「まずは領民の生活を守ってください。王都から要請があっても、領民の食料を奪うことは認めません」


「かしこまりました」


「水路の点検もお願いします。井戸の水位が下がるようなら、早めに対策を立てなければ」


「お嬢様……」


セバスチャンは、痛ましげに彼女を見つめた。


「今でも、国のことをお考えになるのですか」


「もちろんです。私が王宮を去ったからといって、国民まで責任を負う必要はありません」


「ですが、殿下はお嬢様を処刑しようとなさったのです」


「それは殿下の罪です。国民の罪ではありません」


エレノアは、穏やかに微笑んだ。


「私は神子です。神々から力を与えられたのは、誰かを罰するためではなく、人々を助けるためだと思っています」


セバスチャンは深く頭を下げた。


「お嬢様は……本当に、お優しい御方でございます」


「優しいのではありません。ただ、見捨てたくないだけです」


馬車が子爵邸に到着すると、父のローレンスが玄関先で待っていた。


「エレノア!」


彼は娘の姿を見るなり、駆け寄った。


「よかった……。本当に、無事でよかった……!」


ローレンスは娘を強く抱きしめた。


彼は王宮から届いた知らせを聞いたとき、怒りで我を忘れかけた。


大切な娘を、証拠もなく処刑しようとした第一王子。


そんな男に、娘を嫁がせるために育ててきたのかと思うと、自分の判断を悔やまずにはいられなかった。


「お父様、ご心配をおかけしました」


「謝ることなどない! 悪いのは、あの愚かな王子だ!」


ローレンスは娘の肩を抱き、屋敷の中へ導いた。


「もう二度と、王宮へは行かせない。婚約も破棄されたのだ。あの男と関わる必要はない!」


「はい」


「それから……神々の祝福が失われたという話は、本当なのか」


エレノアは少しだけ表情を曇らせた。


「おそらくは」


「そうか……」


ローレンスは目を閉じた。


「国王陛下が戻られれば、何とかなるだろうか」


「分かりません」


エレノアは正直に答えた。


「神々が何をお望みなのか、私にもすべては分からないのです。ただ……」


「ただ?」


「今の王宮に戻るつもりはありません」


ローレンスは頷いた。


「それでいい。お前は十分に尽くした。これ以上、自分を犠牲にする必要はない」


その日の夕方、王宮から使者が訪れた。


王太子名義の書状を携えた騎士が、子爵邸の玄関に立った。


「エレノア・フォン・リーベルト嬢に、王太子殿下からの命令を伝える!」


ローレンスが前へ出た。


「娘は休んでいる。私が代わりに聞こう」


「これは王太子殿下からの命令である。本人に直接伝えなければならない!」


エレノアは父の後ろから姿を現した。


「私がエレノアです。お話を伺います」


騎士は書状を広げた。


「エレノア・フォン・リーベルト。王太子殿下は、先日の処刑未遂について、寛大にも不問に付すことをお決めになった。よって、明日正午までに王宮へ出頭し、王太子殿下に謝罪すること。なお、神子としての務めを果たすため、王宮への帰還を命じる」


沈黙が落ちた。


ローレンスの顔が怒りで赤くなった。


「……何だと?」


騎士はさらに読み上げた。


「出頭を拒否した場合、リーベルト子爵家は王家への反逆を企てたものと見なされ、所領没収および当主の拘束を行うものとする」


「ふざけるな!」


ローレンスが怒鳴った。


「娘を処刑しようとしたのは王太子のほうだ! それを、今度は謝罪しろだと!」


騎士は顔色ひとつ変えなかった。


「私は命令を伝えただけです」


「帰れ!」


「返答をいただくまでは……」


「帰れと言っている!」


ローレンスの怒声に、騎士は一歩下がった。


しかし、エレノアが父の腕に手を添えた。


「お父様。大丈夫です」


彼女は騎士に向き直った。


「王太子殿下にお伝えください。私は、王宮へ戻るつもりはありません」


「何だと?」


「また、私に罪を着せるのでしょうか。それとも、今度こそ処刑するおつもりでしょうか」


「殿下は、あなたを寛大にも許してくださると……」


「許す?」


エレノアは静かに尋ねた。


「私が何をしたというのですか」


騎士は答えられなかった。


「盗みも、暗殺未遂も、すべて私がしていないことです。証拠もないまま私を拘束し、処刑しようとしたのは殿下です。その殿下が、私を許すとおっしゃるのですか」


「……」


「それに、私は王太子殿下の命令に従う義務を、もはや負っておりません。婚約は破棄されたのですから」


騎士は唇を噛んだ。


「この返答を、そのまま伝えてよろしいのですか」


「はい。ひとつも違えずにお伝えください」


エレノアは深く頭を下げた。


「お越しいただき、ありがとうございました」


騎士は何も言わずに去っていった。


その背中を見送りながら、ローレンスは怒りに震えていた。


「何という愚か者だ……。あれでは、国を治めるどころか、子爵家ひとつも統治できまい!」


エレノアは父の手を握った。


「お父様。私たちは、領民を守りましょう」


「……ああ」


「王宮が何を言おうと、私たちがするべきことは変わりません」


ローレンスは娘を見つめ、ゆっくりと頷いた。


その夜、リーベルト領では、不思議な出来事が起きた。


領内の中央にある古い泉。


百年以上、清らかな水を湛えてきたその泉が、王都の異変と同じ時刻に濁っていた。


しかし、エレノアが泉のほとりに立ち、そっと水面に手をかざすと、濁りが少しずつ消えていった。


水面に星が映る。


その星々の間に、白い光がひとつ浮かんだ。


『愛し子よ』


神々の声が聞こえた。


『汝が望むならば、我らはこの地を守ろう』


エレノアは目を閉じた。


「ありがとうございます。でも、どうか、王国のすべての人々を見捨てないでください」


『汝を害した者たちの国である』


「それでも、そこには罪のない人々が暮らしています」


『……』


「どうか、彼らに生きる道を残してください」


長い沈黙のあと、神々は答えた。


『汝の願いを聞き届けよう。ただし、汝を害した者たちの罪まで、我らが消し去ることはない』


エレノアは、静かに頷いた。


「それで十分です」


彼女の手の下で、泉の水が澄み渡った。


しかし、遠く離れた王都では、乾いた風が吹き続けていた。


神々は、王国のすべてを一度に滅ぼすつもりはなかった。


だが、神子を害した者たちが受けるべき報いを、取り消すつもりもなかった。



エレノアが王宮への帰還を拒否した翌日、アルベルトは王宮の大広間に貴族たちを集めた。


国王不在の間に、王太子として王国の秩序を維持する。


それが彼の名目だった。


しかし、集められた者たちの前で、彼はとんでもない宣言をした。


「私は本日、ミレーヌ・フォン・ベルク嬢を、正式な婚約者として迎えることを決定した!」


大広間がざわめいた。


「殿下、それは……」


グランフォード公爵が立ち上がった。


「エレノア嬢との婚約破棄について、国王陛下の承認はまだ得られておりません。また、先日の処刑未遂についても、正式な審理が必要です」


「くどいぞ、公爵!」


アルベルトは声を荒らげた。


「エレノアとの婚約は、すでに私が破棄した! 今さら撤回するつもりはない!」


「王太子殿下。婚約の破棄そのものが問題なのではございません。王太子の婚約者に対し、証拠もなく死刑を宣告したことが問題なのです」


「その話は終わった!」


「終わっておりません」


公爵は一歩も引かなかった。


「殿下がご自身の判断で重大な犯罪を裁き、処刑を命じるのであれば、その根拠を明らかにする義務がございます」


「私は王太子だ!」


「だからこそ、法を守っていただかなければなりません」


アルベルトは顔を歪めた。


「もうよい! 公爵、退席しろ!」


「殿下。私は、王国の法に従って発言しております」


「ならば、王太子の命令に従え!」


大広間に沈黙が落ちた。


そのとき、ミレーヌがアルベルトの腕に寄り添った。


「殿下。皆様は、殿下のご決断を理解していらっしゃらないのですわ」


「そうだ。君だけは、私を理解してくれる」


「もちろんです。殿下は、誰よりも賢明なお方ですもの」


彼女は貴族たちを見回した。


「皆様も、いつまでも古いしきたりに縛られていてはいけませんわ。王太子殿下は、この国を新しく変えようとしていらっしゃるのです。エレノア様のように、細かいことばかり気にしていては、何も変わりませんもの」


その言葉に、何人かの貴族が顔をしかめた。


エレノアが王太子の政務を支えていたことを、彼らは知っていた。


王宮の財政が安定していたのも、地方の水路が整備されていたのも、備蓄制度が改善されたのも、エレノアが地道に働いていたからだ。


ミレーヌは、その成果を理解していなかった。


いや、理解しようとすらしていなかった。


「ミレーヌ嬢」


財務を司る侯爵が、冷たい声で尋ねた。


「王室の年間支出が、どれほどの額になるかご存じですか」


「え?」


「王都の水路を維持するために必要な費用は? 冬季の穀物備蓄は何か月分必要でしょうか。国境の砦を維持するための予算は、どのように確保するのですか」


「そ、それは……」


ミレーヌは目を泳がせた。


「そのような難しいことは、専門の方々に任せればよいのではありませんか?」


侯爵は目を細めた。


「専門家が仕事をするためには、適切な判断を下す統治者が必要なのです」


「でも、殿下はお賢い方ですわ!」


「王太子殿下は、これらの問題に関して、エレノア嬢の助言を受けておられました」


侯爵は、はっきりと言った。


「その助言を失った今、王宮の政務が滞ることは避けられません」


「侯爵! 私の能力を疑っているのか!」


アルベルトが立ち上がった。


「殿下。能力を疑っているのではございません。現状を正確に把握していただきたいと申し上げているのです」


「もうよい!」


アルベルトは大広間を見渡した。


「今後、エレノアの名を王宮で口にすることを禁ずる! あの女は反逆者であり、王太子の婚約者としての資格を失った者だ!」


貴族たちは互いに顔を見合わせた。


神子の名を口にすることすら禁じる。


それは、神々に対する侮辱にほかならなかった。


しかし、アルベルトは止まらなかった。


「そして、ミレーヌを次期王妃として扱うよう命じる!」


ミレーヌは、満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます、殿下!」


彼女は貴族たちへ向き直った。


「皆様。これからは、私のことを王太子妃とお呼びくださいませ」


その瞬間、大広間の窓ガラスに亀裂が走った。


ぱきん、と乾いた音がした。


誰もが窓を振り返った。


外では、黒い雲が渦巻いていた。


ミレーヌは顔を引きつらせた。


「……何ですの、今の音は」


アルベルトは無理に笑った。


「古い窓だ。気にする必要はない」


だが、その声は震えていた。


その日の夕刻、王都の市場では穀物の価格がさらに上昇した。


翌朝には、王宮の井戸水が濁った。


三日目には、王家の厩舎で飼育されていた名馬が、次々に体調を崩した。


そして四日目。


王国の西方にある穀倉地帯で、原因不明の病が作物を襲った。


王国の財政を支える主要な穀倉地帯だった。


その収穫が失われれば、王都の食料供給は途絶える。


それでも、アルベルトは現実を認めなかった。


「エレノアが、何か呪いをかけたのだ!」


彼は叫んだ。


「神子だという力を利用して、私に復讐しているのだ!」


その言葉は、王都中に広がった。


そして、アルベルトは新たな命令を出した。


「エレノア・フォン・リーベルトを、国家反逆者として正式に指名手配する!」


彼は、自分が神子を害したことを認める代わりに、神子を国家の敵に仕立て上げようとしたのだ。


その命令書には、王太子の印章が押されていた。


だが、王国の大貴族たちは、誰ひとりとしてその命令を支持しなかった。


グランフォード公爵は、命令書を受け取ると、静かに破り捨てた。


「……愚か者め」


彼は呟いた。


「神々を敵に回して、まだ権力にしがみつくつもりか」



国王アウグスト三世が王都に戻ったのは、予定より四日早い、事件から八日目のことだった。


外交先の隣国から緊急の知らせを受けたためである。


国境付近で大規模な地震が発生し、街道の一部が崩落した。さらに、王国の河川に異常が生じているという報告が届いた。


国王は外交交渉を中断し、最小限の護衛とともに帰還した。


王宮の門をくぐった彼を待っていたのは、かつての華やかさを失った王都だった。


市場には空になった穀物袋が積み上げられ、人々の顔には疲労が刻まれていた。


王宮の庭園では、噴水が止まり、花壇の草花が枯れていた。


「……これは、どういうことだ」


国王の声は低かった。


出迎えた王妃は、夫の前に膝をついた。


「陛下。申し訳ございません」


「アデライーデ。何があった」


「アルベルトが……エレノア様を処刑しようといたしました」


国王の表情が凍りついた。


「何だと?」


王妃は、すべてを語った。


エレノアへの冤罪。


婚約破棄。


公開処刑の命令。


処刑台に現れた神々の光。


神子の正体が明らかになったこと。


そして、神々の祝福が失われ始めたこと。


最後まで聞いた国王は、しばらく何も言わなかった。


やがて、彼は玉座の間へ向かった。


そこには、第一王子アルベルトが待っていた。


「父上!」


アルベルトは、国王の姿を見るなり駆け寄った。


「お戻りになられたのですね! 大変なことが起きております。エレノアが……あの女が、神子の力を利用して王国を呪っているのです!」


国王は息子を見つめた。


その目には、怒りよりも深い失望があった。


「アルベルト」


「はい!」


「お前は、神子を処刑しようとしたのか」


アルベルトの笑顔が固まった。


「そ、それは……。あの女が反逆を企てたため、私は王太子として法に従い……」


「証拠はあったのか」


「ミレーヌの証言が……」


「証拠はあったのかと聞いている!」


国王の怒声が玉座の間に響き渡った。


アルベルトは震えた。


「……ありませんでした」


「裁判は行ったのか」


「……いいえ」


「正式な審理もせず、婚約者を公開処刑しようとしたのか」


「父上、私は……!」


「黙れ!」


国王は息子を睨みつけた。


「お前は、王太子としての権限を何だと思っている! 自分の気に入らない人間を殺すための道具だとでも思っているのか!」


「違います! 私は、王国の秩序を……」


「王国の秩序だと?」


国王は一歩、前へ出た。


「お前が行ったのは、秩序の破壊だ。法の踏みにじりだ。そして、王家に対する最大の裏切りだ!」


アルベルトは、初めて父の怒りを本当の意味で理解した。


国王は、息子を甘やかしてきた。


幼い頃から王太子として育て、多少の失敗には目をつぶってきた。


しかし、それは息子が王になるための道を歩んでいると信じていたからだ。


今回の件は違う。


アルベルトは、王太子という立場を利用し、罪のない少女を殺そうとした。


その少女は、王国の命運を握る神子だった。


「……父上。私は、神子だとは知らなかったのです」


アルベルトは、言い訳するように呟いた。


「知らなかった?」


国王は冷たく答えた。


「ならば、何をしてもよかったというのか。相手が神子でなければ、冤罪で処刑してもよかったとでも言うのか」


アルベルトは言葉を失った。


「お前は、王になる資格を失った」


国王の宣告に、玉座の間が静まり返った。


「王太子の権限を、ただちに停止する。近衛騎士団はアルベルトを拘束し、王宮の一室に軟禁せよ」


「父上!」


アルベルトは叫んだ。


「お考え直しください! 私は第一王子です! 王位を継ぐのは私のはずです!」


「その資格を、お前自身が捨てたのだ!」


騎士たちがアルベルトを取り囲んだ。


彼は抵抗しようとしたが、誰も彼の命令を聞かなかった。


「離せ! 私は王太子だぞ!」


しかし、騎士団長グレゴールは静かに答えた。


「殿下。王太子としての権限は、すでに停止されております」


「貴様……!」


アルベルトは、騎士たちに連れ去られた。


その背中を見送った国王は、深く息を吐いた。


「……エレノア様は、どこに」


王妃が答えた。


「リーベルト子爵領にお戻りになりました。王宮への帰還を拒否しておられます」


「当然だな……」


国王は顔を覆った。


「私は、何ということを……」


「陛下」


「私が外交に出ている間に、あの子が暴走することを防げなかった。王太子の教育を誤ったのは、私だ」


王妃は何も言わなかった。


国王は、すぐに命令を出した。


「王家の名において、エレノア様への処刑命令と反逆者指定を撤回する。彼女に対するすべての罪状は、正式な審理が行われるまで無効とする」


「承知いたしました」


「それから、リーベルト子爵家への使者を立てよ。私自身が謝罪に赴く用意があると伝えよ」


しかし、国王は知っていた。


謝罪すれば、すべてが元に戻るわけではない。


神子は、王家の命令に従う義務などない。


神々が失った祝福を、国王の権力で取り戻すこともできない。


それでも、彼は頭を下げなければならなかった。


国王としてではない。


神子を守ると誓いながら、その誓いを果たせなかった人間として。


その日の夕刻、国王はひとり、王宮の地下神殿へ向かった。


祭壇に置かれた水晶には、無数のひびが入っていた。


彼は祭壇の前に膝をついた。


「神々よ。どうか、我が国をお救いください」


返事はなかった。


「我が息子の罪は、王家の罪でもあります。罰を受けるべき者がいるのならば、どうか私をお罰しください」


長い沈黙が続いた。


やがて、神殿の奥から、低い声が響いた。


『罰を受けるべき者は、自らの罪に向き合わねばならぬ』


国王は顔を上げた。


『王家の責任は、王家が負うべきもの。神子を傷つけた者が、王冠の陰に隠れることは許されない』


「……はい」


『そして、神子を守れなかった者たちもまた、その責任を負う』


国王は深く頭を垂れた。


神々は、国王を特別扱いしなかった。


王であろうと、貴族であろうと、神子を傷つけた責任から逃れることはできない。


その事実を、彼は初めて痛感した。



アルベルトが軟禁されてから二日後、ミレーヌ・フォン・ベルクは王宮へ呼び出された。


彼女は、自分が王妃に迎えられるための手続きが始まったのだと思っていた。


「ようやく、あの堅苦しいエレノアがいなくなったのね」


ミレーヌは侍女に新しいドレスを用意させた。


「王妃陛下にご挨拶するときは、どの宝石を身につけようかしら。やっぱり、あの大きなルビーがいいわね」


「ミレーヌ様……。王宮では、少々よくない噂が流れております」


侍女が恐る恐る口を開いた。


「何ですの?」


「王太子殿下が、王位継承者としての資格を停止されたと……」


ミレーヌは手を止めた。


「嘘でしょう?」


「本当でございます。それに、王妃陛下はミレーヌ様についても、お調べになるよう命じられたそうです」


「何を調べるというの!」


彼女は鏡台を叩いた。


「私は何も悪いことなどしていないわ!」


しかし、彼女には思い当たることがあった。


王妃の首飾り。


エレノアの部屋に仕込んだ毒物。


そして、王太子の前で行った偽りの証言。


それらを知る者がいるはずはない。


そう思い込もうとしていた。


王宮へ到着すると、彼女は華やかな謁見室ではなく、王宮の法務局へ案内された。


そこには、国王、王妃、グランフォード公爵、財務侯爵、近衛騎士団長が並んでいた。


「ミレーヌ・フォン・ベルク嬢」


国王が口を開いた。


「あなたには、いくつか確認したいことがある」


「は、はい。陛下」


「王妃の首飾りが盗まれた日、あなたは宝物庫の近くにいたと報告されている」


ミレーヌの顔が強張った。


「そ、それは……。偶然でございます」


「では、なぜ宝物庫の鍵を管理する侍女に金銭を渡したのか」


「存じません!」


「その侍女は、すでに証言している。あなたが鍵の複製を手に入れようとしたことも、首飾りをエレノア嬢の部屋へ運び込むよう依頼したこともな」


「そんな……!」


「さらに、王太子の食事に毒物を混入した疑いもある」


国王は、机の上に書類を置いた。


「毒物を用意した薬師、運搬を依頼された侍女、そしてあなたの部屋から押収された薬草。すべてがつながっている」


ミレーヌは首を振った。


「違います! 私は、殿下を愛しているのです! 殿下を殺そうとするはずがありません!」


「愛している?」


王妃が冷たく尋ねた。


「あなたは、王太子の食事に毒物を混ぜた疑いがある。それが事実なら、あなたの言う愛とは、いったい何なのですか」


「私は……」


「あなたは、エレノア嬢を排除するために、王太子の命すら危険にさらした」


ミレーヌの目から涙が溢れた。


「だって……! あの女が邪魔だったのです!」


彼女は、ついに叫んだ。


「殿下は私を愛していらっしゃったのに、エレノアが婚約者でいるせいで、私はずっと二番目のままだった! あの女さえいなければ、私は王妃になれたのに!」


その場にいた全員が、彼女を見つめた。


ミレーヌは自分の発言が何を意味するのか、理解していなかった。


「……今の言葉は、エレノア嬢を陥れたことを認める発言と受け取ってよいのだな」


グランフォード公爵が尋ねた。


「ち、違います!」


「では、何が違うのか説明していただこう」


ミレーヌは口を開いたが、言葉が出てこなかった。


国王は、深い疲労を滲ませながら命じた。


「ミレーヌ・フォン・ベルクを拘束せよ。王室宝物窃盗の教唆、虚偽証言、毒物混入への関与について、正式な裁判を行う」


騎士たちが進み出た。


「いやっ! 離して!」


ミレーヌは叫び、騎士の腕を振りほどこうとした。


「私は未来の王妃よ! 殿下が助けてくださるわ!」


しかし、アルベルトは軟禁されていた。


そして、彼自身もまた、王位継承者としての資格を失っていた。


ミレーヌは連行された。


その日のうちに、ベルク男爵家にも捜査が入った。


男爵家の帳簿からは、不正な金銭の流れが見つかった。


ミレーヌの兄たちが王宮の役人に賄賂を渡し、家格に見合わない利益を得ていたことも明らかになった。


さらに、父のベルク男爵が、王太子との関係を利用して商人たちから不当な献金を受け取っていたことも判明した。


彼らは、娘が王妃になればすべてが許されると考えていた。


しかし、王家は彼らを守らなかった。


いや、守ることができなかった。


神子を害そうとした者たちを庇えば、王家そのものが神々への反逆者となるからだ。


ベルク男爵家の財産は、裁判の結果に従って差し押さえられた。


不正に得た利益は返還され、関与した者たちはそれぞれの罪に応じて処罰された。


ミレーヌは王太子妃どころか、貴族社会での地位さえ失った。


それでも、彼女は最後まで反省しなかった。


「私は悪くない……。全部、エレノアが悪いのよ……!」


牢の中で、彼女は何度もそう繰り返した。


自分が誰を傷つけたのか。


何を奪おうとしたのか。


なぜ王国に災いが広がっているのか。


彼女は考えようとしなかった。


ただ、自分が手に入れられなかったものを憎み続けた。


一方、アルベルトは軟禁された部屋で、日ごとに精神を追い詰められていた。


食事は運ばれてくる。


寝床もある。


衣服も与えられる。


しかし、彼は王太子としての権限を失い、誰も命令を聞かなくなった。


「父上に会わせろ!」


彼は扉を叩いた。


「私は王太子だ! このような扱いを受ける理由はない!」


返事はなかった。


「エレノアを連れてこい! あの女が戻ってくれば、すべて解決するのだ!」


看守は、扉の外から淡々と告げた。


「エレノア様は、王宮への帰還を拒否されております」


「ならば、命令しろ!」


「エレノア様は、もはや王太子殿下の命令に従う義務を負っておられません」


アルベルトは、壁に拳を叩きつけた。


「……くそっ!」


彼は初めて、自分が何も持っていないことを理解し始めていた。


王太子という地位があったから、誰もが頭を下げた。


王家の血筋があったから、失敗を許されてきた。


エレノアがそばにいたから、政務の多くを滞りなく進めることができた。


ミレーヌが褒めてくれたから、自分は優れた人間なのだと信じることができた。


それらが、すべて失われた。


残ったのは、無能な自分自身だけだった。


「……エレノア」


彼は初めて、彼女の名を呟いた。


「戻ってきてくれ……」


しかし、その願いが届くことはなかった。



国王は、リーベルト子爵領へ赴くことを決めた。


王宮の異変は収まらず、王国の各地で不作や水不足が報告されていた。


国民の間には不安が広がり、神殿では連日、祈りが捧げられていた。


それでも、神々の祝福は戻らなかった。


「陛下。王家の威信を考えれば、国王自ら子爵家へ赴くことは……」


側近が言いかけた。


「威信だと?」


国王は側近を見つめた。


「神子を処刑しようとした王家に、威信など残っていると思うのか」


側近は口を閉ざした。


「私は、神子様に謝罪しなければならない。国王としてではなく、一人の人間としてな」


国王は少数の護衛だけを伴い、リーベルト子爵領へ向かった。


子爵邸に到着したとき、ローレンスは玄関で国王を迎えた。


「陛下。お越しくださったこと、恐れ入ります」


「ローレンス子爵。娘君にお会いしたい」


「エレノアは、今、領民のために働いております」


「……そうか」


国王は、深く頭を下げた。


「どうか、娘君に謝罪の機会をいただきたい」


ローレンスは驚いた。


王が、子爵家の玄関先で頭を下げている。


それだけで、王家がどれほど深刻な過ちを犯したのかが伝わってきた。


「少々、お待ちください」


ローレンスが屋敷の奥へ向かうと、しばらくしてエレノアが姿を現した。


彼女は質素なドレスを着ていた。


王宮で着ていた豪奢な衣装ではない。


領民たちと一緒に働くための、動きやすい服だった。


「国王陛下。お久しぶりでございます」


「エレノア様……」


国王は、言葉を探した。


「このたびは、王家の者があなたに取り返しのつかない仕打ちをしたこと、心よりお詫び申し上げます」


彼は膝をつこうとした。


しかし、エレノアが一歩前に出て、それを止めた。


「陛下。どうか、お立ちください」


「しかし……」


「私は、陛下に謝罪していただくために生きているのではありません」


エレノアは、穏やかな声で続けた。


「私は、王国の人々が心配なのです」


国王の目に涙が浮かんだ。


「……あなたは、まだ国民を見捨てていないのですね」


「はい」


「私たちは、あなたを守ると誓いました。それなのに、守るどころか、あなたの命を奪おうとした」


「陛下のお気持ちは分かっています」


「いいえ。私は、自分の責任を果たせませんでした」


国王は深く頭を垂れた。


「アルベルトは王太子の資格を停止されました。ミレーヌ嬢も拘束され、裁判を受けることになります。あなたに着せられた罪は、すべて撤回いたしました」


エレノアは、静かに頷いた。


「ご報告、ありがとうございます」


「そして……どうか、神々の祝福を取り戻すために、力を貸していただけないでしょうか」


その言葉に、ローレンスが顔を強張らせた。


国王は、娘に何を求めているのか。


自分を処刑しようとした王国のために、再び力を使えというのか。


だが、エレノアは怒らなかった。


彼女は国王を見つめ、しばらく考えてから答えた。


「陛下。神々の祝福を取り戻す方法は、私にも分かりません」


「……そうですか」


「ただ、ひとつだけ、確かなことがあります」


エレノアは、窓の外に広がる領地を見た。


「神々は、私を傷つけた者たちの罪を消し去ることはないとおっしゃいました」


国王は目を閉じた。


「……はい」


「私は、王国の人々を助けたいと思っています。しかし、アルベルト殿下を再び王太子として迎えることも、私を処刑しようとした者たちを無罪にすることも、できません」


「当然です」


「そして、私が王宮へ戻ることもありません」


国王は、ゆっくりと頷いた。


「……分かりました」


それは、王にとって苦しい答えだった。


だが、拒絶されて当然だった。


「では、せめて、あなたが望まれることをお聞かせください。王家にできることであれば、可能な限り応じます」


エレノアは、ひとつだけ願いを伝えた。


「王都の貧しい人々に、食料と水を届けてください。王室の備蓄を開放し、穀物を適正な価格で販売してください。水路の修復には、身分に関係なく、必要な人材と資金を投入してください」


国王は、すぐに頷いた。


「必ず実行します」


「それから、私の領地に対する特別な優遇は必要ありません。リーベルト領だけが救われ、ほかの領地が苦しむようなことは望みません」


「……分かりました」


「最後に、神子を利用して権力を得ようとする者が現れたときは、必ず法に従って裁いてください。神子だからといって、私の言葉がすべて正しいわけではありません。私は、人々が正しく生きられる国であってほしいのです」


国王は、長い間、頭を下げていた。


この少女は、国王に復讐を求めなかった。


王国のすべてを自分のものにすることも望まなかった。


ただ、国民を救ってほしいと願った。


自分を殺そうとした王家に対してさえ、国民の生活を守るように求めた。


「……あなたこそ、王妃にふさわしいお方だった」


国王が呟くと、エレノアは首を振った。


「いいえ、陛下。私は、王妃になるために生まれたのではありません」


彼女は微笑んだ。


「私は、私として生きていきたいのです」


国王は、ようやく理解した。


神子を王家の一員として迎えればよい、という考えそのものが間違っていたのだ。


神子は、王家の所有物ではない。


王家に仕えるための存在でもない。


ただ、神々に選ばれたひとりの人間なのだ。


そして、その人間を尊重できるかどうかこそが、王家の価値を決めるのだった。


国王は、深く頭を下げた。


「……ありがとう、エレノア様」


その帰り道、国王は護衛に命じて、王都への食料輸送を開始させた。


同時に、王室の不正支出を調査し、無駄な宮廷費を削減した。


王国を救うために、今できることを始めたのだ。


しかし、神々の祝福は、すぐには戻らなかった。


神々は、王家が口先だけで反省したかどうかではなく、実際に何をするのかを見ていた。


そして、神子を害した者たちの裁きが、まだ終わっていなかった。



アルベルトの裁判は、国王の帰還から十日後に始まった。


罪状は、王太子権限の濫用、虚偽の告発、正当な審理を経ない処刑命令、王族の権威を利用した司法への介入。そして、神子エレノア・フォン・リーベルトの生命を脅かしたことだった。


王族であるという理由で、裁判が免除されることはなかった。


むしろ、王太子という立場にあったからこそ、その責任は重かった。


裁判の場には、王族、上位貴族、法務官、そして証人たちが集められた。


アルベルトは、豪華な王族の衣装を着ていなかった。


継承権を停止され、王太子の紋章を取り上げられた彼は、質素な服を身につけ、被告席に座っていた。


「被告アルベルト。王室宝物の窃盗について、エレノア嬢を告発した根拠は何か」


裁判長が尋ねた。


「ミレーヌの証言です」


「その証言以外に、証拠はあったか」


「……ありませんでした」


「毒物混入についてはどうか」


「同じく、証言のみです」


「正式な捜査を命じることなく、死刑を宣告した理由は何か」


アルベルトは唇を噛んだ。


「私は……王太子として、秩序を守ろうとしました」


「秩序を守るために、法を無視したというのか」


「……」


「被告は、エレノア嬢が無実である可能性を考えたか」


アルベルトは、しばらく黙っていた。


「……考えませんでした」


裁判長は書類を閉じた。


「なぜか」


「私は……彼女を、邪魔だと思っていました」


その言葉に、傍聴席がざわめいた。


アルベルトは俯いたまま続けた。


「彼女は、私の間違いを指摘しました。何をするにも、私の判断に口を出しました。私は、それが嫌だったのです」


「それだけの理由で、処刑を命じたのか」


「……はい」


アルベルトは、初めて正直に答えた。


「ミレーヌと結婚したかった。彼女を王妃にしたかった。そのためには、エレノアが邪魔だったのです」


法廷に、重い沈黙が落ちた。


裁判長は、長い間アルベルトを見つめていた。


「被告は、自らが将来、この国の国王になる立場にあったことを理解していたか」


「……はい」


「国王が民を守るべき存在であることを理解していたか」


「……はい」


「それでも、自分の欲望のために、罪のない人間を殺そうとしたのか」


アルベルトは、顔を覆った。


「……はい」


彼は泣いていた。


だが、その涙を見て、誰も同情しなかった。


法廷にいた者たちは、彼が犯した罪の重さを知っていた。


エレノアが処刑台に立たされたとき、彼女は最後まで国民のことを案じていた。


一方、アルベルトは、自分の欲望を満たすために彼女の命を奪おうとした。


その違いが、すべてだった。


裁判の結果、アルベルトは王太子の資格を永久に剥奪された。


第一王子としての王位継承権も失い、王族としての公務から退くことが命じられた。


さらに、王太子権限の濫用については、王族の監督下で長期にわたる拘束を受けることになった。


王位を継ぐ可能性は、完全に消えた。


裁判が終わったあと、アルベルトは国王に面会を求めた。


「父上……。最後に、ひとつだけお願いがあります」


国王は、疲れた顔で息子を見つめた。


「何だ」


「エレノアに会わせてください」


「……なぜだ」


「謝りたいのです」


国王はしばらく黙っていた。


「本当に謝りたいのか。それとも、自分が助かるために彼女の力を借りたいのか」


「違います!」


アルベルトは声を荒らげた。


「私は……」


しかし、その先の言葉が出てこなかった。


自分でも分からなかったのだ。


エレノアに会いたいのは、彼女を失ったことが悲しいからなのか。


神子の力が必要だからなのか。


それとも、彼女が自分を許してくれれば、自分の罪が少しでも軽くなると思っているからなのか。


「……分かりません」


彼は、ようやく答えた。


「ただ、謝りたいのです」


国王は目を閉じた。


「エレノア様は、もう王宮へ戻らないとおっしゃった」


「ならば、私が会いに行きます!」


「お前は、自由に外へ出られる立場ではない」


「父上!」


「アルベルト。お前は、まだ自分の願いを叶えることばかり考えている」


国王の声は静かだった。


「エレノア様が、お前に会いたいとおっしゃったのか?」


アルベルトは黙った。


「会いたくないとおっしゃっているのなら、それが答えだ。お前は、彼女の意思を尊重しなければならない」


「……」


「それが、お前にできる最後の償いだ」


アルベルトは、何も言えなかった。


彼は、初めて理解した。


謝罪することさえ、相手が受け入れる義務を負うわけではない。


許しを求めることはできても、許すように命じることはできない。


エレノアは、もう自分のために何かをしてくれる存在ではないのだ。


彼は膝をつき、顔を覆った。


「……私は、何ということをしたのだ」


だが、気づくのが遅すぎた。


彼の未来は、すでに決まっていた。



ミレーヌの裁判も、ほどなくして結審した。


彼女は王室宝物の窃盗を企て、虚偽の証言によってエレノアを陥れ、さらに王太子の食事への毒物混入に関与した罪に問われた。


法廷で、ミレーヌは最後まで自分の罪を認めなかった。


「私は殿下を愛していただけです!」


彼女は何度もそう叫んだ。


「エレノアが邪魔だったのです! 殿下と私は愛し合っていたのに、あの女が婚約者でいるせいで、私はずっと苦しんでいたのです!」


裁判長は、冷静に尋ねた。


「あなたは、王太子の食事に毒物を混入させたことを認めますか」


「殿下を殺すつもりはありませんでした!」


「では、何のために毒物を用意したのですか」


「……エレノアを陥れるためです」


「つまり、王太子暗殺未遂という虚偽の罪を、エレノア嬢に着せようとしたのですね」


ミレーヌは口を閉ざした。


「被告は、エレノア嬢が処刑される可能性を理解していましたか」


「……」


「理解していたかと尋ねています」


「……はい」


その答えに、法廷の空気が凍りついた。


「それでも、実行したのですか」


「だって……!」


ミレーヌは泣き叫んだ。


「だって、あの女さえいなくなれば、私が王妃になれたのです!」


裁判長は、厳しい声で告げた。


「あなたは、自分の欲望のために他者の命を奪おうとした。愛を語りながら、相手の命すら尊重しなかったのです」


ミレーヌは何も言えなかった。


彼女に下された判決は、長期の拘禁と貴族身分の剥奪だった。


ベルク男爵家もまた、父親と兄たちの不正行為が明らかになったことで、爵位を失った。


かつて王太子の寵愛を受け、未来の王妃になると信じていた少女は、王宮から遠く離れた監視下の施設へ送られることになった。


彼女には、豪華なドレスも宝石もなかった。


命令を聞く侍女もいなかった。


自分を褒めてくれる王太子も、もういなかった。


「殿下……」


移送の日、ミレーヌは何度もその名を呼んだ。


「アルベルト殿下……。どうか、私を助けてください……」


しかし、アルベルトから返事が届くことはなかった。


彼は自分の罪を償うため、拘束された身だった。


彼女を助ける権力など、もう持っていなかった。


馬車の扉が閉まる。


ミレーヌは、窓の外を見た。


遠ざかっていく王都。


自分が手に入れるはずだった宮殿。


自分が座るはずだった王妃の玉座。


すべてが、遠ざかっていく。


「……どうして」


彼女は呟いた。


「どうして、こんなことになったの……?」


誰も答えなかった。


彼女は、自分が何をしたのかを理解する機会を与えられていた。


それでも、彼女は最後まで、エレノアが悪いのだと考えていた。


だからこそ、彼女は何も学べなかった。


自分の罪を認めない者は、失ったものから何も学べない。


そして、学べない者は、同じ過ちを繰り返す。


ミレーヌの人生は、ここから長い後悔と不満に満ちたものになっていく。


彼女は、失った王妃の座を夢見続けた。


しかし、その夢が二度と叶わないことだけは、決して変わらなかった。


第十四章 神々が見届けたもの

国王がエレノアを訪ねてから、一か月が過ぎた。


王都では、王室の備蓄が開放され、食料の配給が始まった。


地方の水路の修復には、王家の財産が投入された。


不正な支出は厳しく調査され、腐敗した役人たちは職を失った。


アルベルトが独断で任命した側近たちも、ひとりずつ公職から退けられていった。


国王は、自ら各地を巡り、被害の状況を確認した。


王家がこれまで見過ごしてきた問題は、想像以上に深刻だった。


地方の役人が税を不正に徴収し、商人が穀物を買い占め、貴族が自らの領地だけを優先していた。


エレノアが王宮で指摘していた問題の多くが、放置されていたのだ。


国王は、ようやくその現実を直視した。


そして、神々はその変化を見ていた。


ある朝、王都の神殿で奇跡が起きた。


黒く濁っていた聖水の表面に、小さな光が浮かんだのだ。


老司祭は震える手で祭壇に触れた。


「……神々よ」


水晶のひびは、まだ残っていた。


だが、その中央に、かすかな光が戻り始めていた。


それは、完全な赦しを意味するものではなかった。


神々は、王国が一度犯した罪を、なかったことにはしない。


失われた命も、踏みにじられた尊厳も、元に戻ることはない。


しかし、王国が自らの罪を認め、正すために行動するならば、未来への道を閉ざすことまではしない。


老司祭は、すぐに国王へ報告した。


国王は報告を受けると、深く息を吐いた。


「……神々は、我々を見ておられるのだな」


「はい、陛下」


「ならば、我々も変わらなければならない」


国王は、王宮の改革をさらに進めた。


王太子の権限は、法によって明確に制限された。


王族であっても、重大な犯罪を犯した場合には裁判を受けることが定められた。


貴族の不正を監視する独立した監査機関が設立され、王家の支出も定期的に審査されることになった。


それらは、すべてエレノアが以前から提案していた制度だった。


しかし、国王はそれを、彼女の功績として公表することはしなかった。


神子の存在を、国民に知らせることはできなかったからだ。


代わりに、彼は王家の失政を認め、改革の責任を自ら負うことを宣言した。


国民の間には、少しずつ希望が戻り始めた。


もちろん、すべてが元に戻ったわけではない。


枯れた作物は戻らず、失われた財産も、すぐには取り戻せなかった。


水不足に苦しんだ村々では、今も生活の再建が続いていた。


それでも、王国は少しずつ変わり始めていた。


そして、リーベルト子爵領では、別の奇跡が起きていた。


エレノアが領内を歩くと、枯れかけていた草木に新しい芽が出た。


泉の水は澄み、畑には少しずつ緑が戻った。


農民たちは喜び、彼女に感謝した。


「お嬢様のおかげです!」


「リーベルト領は、きっと大丈夫です!」


エレノアは、そのたびに微笑んだ。


「皆さんが、畑を守り、水路を修復し、互いに助け合ってくださったからです。私ひとりの力ではありません」


彼女は、自分が神子であることを誇示しなかった。


神々の力を使って人々を支配しようともしなかった。


ただ、できることを続けた。


困っている人がいれば助ける。


苦しんでいる人がいれば、話を聞く。


そして、誰かが間違えたときには、その間違いを正す道を探す。


それが、エレノアの生き方だった。


ある夕暮れ、彼女は領地の丘に立ち、遠くの王都を眺めていた。


「……神々よ」


彼女は、小さく祈った。


「この国が、二度と同じ過ちを繰り返しませんように」


風が吹いた。


丘に咲く花々が揺れ、夕日が彼女の髪を淡く照らした。


そのとき、空から声が降りてきた。


『愛し子よ』


エレノアは顔を上げた。


『汝の願いは、聞き届けられた』


「ありがとうございます」


『だが、忘れるでない。繁栄とは、ただ土地が豊かになることではない。人々が互いを敬い、弱き者を踏みにじらず、力ある者が責任を果たすこと。それこそが、我らの望む国の姿である』


エレノアは、静かに頷いた。


「はい」


『汝は、これからも汝の望むように生きよ。我らは、汝の歩みを見守ろう』


光が、夕空に溶けていった。


エレノアは、穏やかな笑みを浮かべた。


もう、王宮へ戻る必要はない。


王太子妃になる必要もない。


誰かの期待に応えるために、自分を犠牲にする必要もない。


彼女は、ただのエレノアとして生きていく。


神々に愛された神子でありながら、ひとりの人間として。


その未来を、彼女は初めて心から楽しみに思った。


終章 神子を捨てた王国の末路

それから一年後。


王国は、少しずつ復興の道を歩んでいた。


神々の祝福は完全には戻っていなかったが、異常な干ばつや作物の枯死は収まり始めた。


水路は修復され、備蓄制度は見直され、地方の役人たちも厳しく監督されるようになった。


国王アウグスト三世は、王位を退くまでの間、自ら改革の先頭に立つことを誓った。


第一王子アルベルトは、王位継承権を失ったまま、王族としての公務から退いていた。


彼が犯した罪は、歴史に記録された。


『神子エレノア・フォン・リーベルトに対する冤罪および処刑未遂事件』


王国の歴史書には、その事件が詳細に記されることになった。


王太子の権力濫用がいかに危険であるか。


身分の高い者が法を無視すれば、国全体を危機に陥れること。


そして、神子を敬わぬ者には、繁栄が約束されないこと。


後世の王族たちは、即位の際に必ずその記録を読むよう命じられた。


アルベルトは、その後も長い年月を生きた。


しかし、彼が王位に就くことは二度となかった。


彼の名は、王家の栄光を示すものではなく、王族が犯した愚行の象徴として語り継がれることになった。


ミレーヌもまた、王妃の座に就くことはなかった。


彼女は自分が奪おうとしたものを、最後まで理解できなかった。


自分の欲望のために他者の命を奪おうとしたこと。


愛を語りながら、相手の尊厳を踏みにじったこと。


それらを認めることなく、失った地位と贅沢な生活を嘆き続けた。


かつて彼女が夢見た王妃の玉座には、別の女性が座ることになった。


新たな王妃は、民の生活を大切にし、法を尊重する女性だった。


彼女は神子の存在を知らなかったが、国王から事件の教訓を聞かされていた。


「どれほど身分の低い者であっても、正当な理由なく傷つけてはならない」


それが、彼女の政治の基本となった。


そして、リーベルト子爵領。


エレノアは、領民たちとともに穏やかな日々を送っていた。


領地の学校を整備し、孤児院を拡張し、農業用水路の修復を進めた。


彼女は、神子としての力を必要なときにだけ使い、それ以外のことは人々の努力に任せた。


ある春の日、子どもたちが彼女のもとへ駆け寄ってきた。


「エレノア様! 畑に、花が咲きました!」


「本当ですか?」


「はい! 去年は枯れてしまった場所なのに、今年はいっぱい咲いています!」


エレノアは子どもたちと一緒に畑へ向かった。


そこには、小さな白い花が一面に咲いていた。


彼女はしゃがみ込み、そっと花に触れた。


花びらが風に揺れる。


その瞬間、空から柔らかな光が降り注いだ。


子どもたちは歓声を上げた。


「わあ、きれい!」


エレノアは、空を見上げた。


神々の祝福は、確かにそこにあった。


しかし、それは王冠の輝きでも、豪華な宮殿でも、強大な権力でもなかった。


人々が互いを大切にし、明日を信じて生きられること。


そのために努力する人々を、神々が見守っていること。


それこそが、真の繁栄だった。


エレノアは、子どもたちに微笑みかけた。


「さあ、みんな。お花を踏まないように、気をつけて帰りましょう」


「はーい!」


子どもたちの明るい声が、春の風に乗って響いた。


彼女は、もう振り返らなかった。


王宮での出来事も、婚約破棄も、処刑台の上で味わった恐怖も、決して忘れることはないだろう。


だが、それらに人生を支配されることもなかった。


彼女は、自分を傷つけた者たちのために生きるのではなく、自分を必要としてくれる人々とともに生きることを選んだ。


その選択こそが、彼女にとっての勝利だった。


そして王国には、ひとつの教訓が残った。


神子を敬えば、繁栄が約束される。


神子を粗末に扱えば、滅びが訪れる。


だが、それは神子が特別な力を持っているからだけではない。


人々を大切にする心を失った国は、いずれ自らの過ちによって滅びへ向かう。


神々は、その過ちを見逃さない。


たとえ王であろうと、王太子であろうと、神子を傷つけた罪から逃れることはできないのだ。


百年に一度、神々は人々の中からひとりを選ぶ。


そして、その者を通して、国が本当に守るべきものを問いかける。


今回、神子に選ばれたのは、ひとりの子爵令嬢だった。


王妃になるはずだった少女。


冤罪を着せられ、婚約を破棄され、処刑台に立たされた少女。


それでも最後まで、人々の幸福を願い続けた少女。


彼女を捨てた王国は、滅びかけた。


彼女を虐げた王太子は、王位を失った。


彼女を陥れた男爵令嬢は、地位も名誉も失った。


そして、すべてを失った彼女自身は、ようやく自由を手に入れた。


神々の寵愛を受けた神子は、王冠を必要としなかった。


なぜなら、彼女が歩く場所こそが、人々にとって希望のある場所になっていったからだ。


神子を捨てた王国に、神々の祝福は戻らない。


それは、王国の歴史に刻まれた、決して忘れてはならない真実だった。


そしてエレノア・フォン・リーベルトは、今日も穏やかに微笑みながら、人々とともに生きている。


神々に愛された少女として。


そして、誰よりも自由な、ひとりの人間として。

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― 新着の感想 ―
王子の裁判とか歴史書とかここまで神子の存在がクローズアップされてエレノアの功績まで隠す必要あったのか。 王は法律無視の馬鹿息子と反対に規則に縛られて王太子の婚約者としてのエレノアの功績を矮小化してな…
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