第1章「灼けるほど美しい紅」
ゆっくりと、彼のまぶたが開いた。
長い眠りから覚めたように強く瞬きすると、眩しい光が視界いっぱいに広がった。目がその明るさに慣れるまで、しばらく時間がかかる。
耳の奥で高い音が鳴り続け、それは次第に遠ざかっていく。
やがて――鳥のさえずりが聞こえた。
風が彼の黒髪をそっと揺らし、草の擦れ合う音が穏やかに響く。
吸い込んだ空気は澄み切っていて、その清らかさが胸の奥を静かに満たした。
ゆっくりと頭を上げる。
そこには、今まで見たことのないほど美しい空が広がっていた。
深い青に、白い雲がまばらに浮かび、鳥たちが自由に空を横切っていく。
太陽の光が差し込むたび、思わずまぶたが震えた。
草の上には朝露が光り、紫の花や薔薇をはじめとする無数の花々が丘を彩っていた。それはまるで色彩が溶け合う絵画のようだった。
気づけば、頬を一筋の涙が伝っていた。
口元に浮かぶのは、子どものように無邪気な笑み。
「こんなにも……美しいなんて……! 夢だろ、これ……!」
その声は震えながらも優しく、彼はこらえきれない涙を腕でぬぐった。
だが次の瞬間、表情がゆっくりと硬くなる。
眉を寄せ、喉に手を当てた。冷たい感覚が背筋を走り、体がこわばる。
記憶が、よみがえる。
「俺は……あの時……死んだはずじゃ……? ここって……“天国”か?」
自分の手を握りしめ、開く。
皮膚の感触、心臓の鼓動――すべてが生々しかった。
「……違う。これは現実だ。でも、なんで……?」
空を見上げる。
ゆっくりと流れる雲、舞う鳥たち。
その静かな光景に、しばし心を奪われた。
「こんな空……見たことない。」
彼は深く息を吸い、静かに吐き出す。
「……よし。まずは、この場所を知らないと。ずっと突っ立ってるわけにもいかないしな。」
独り言のようにつぶやくと、胸の奥から小さな決意が芽生えた。
信じがたい光景に心は揺れる――それでも前へ進もうと、彼は丘を登り始めた。
草の間に続く石の道を、一歩ずつ踏みしめながら。
丘の上に辿り着いた瞬間、優は息を呑んだ。
石造りの家々が並び、木の屋根が陽光を受けて柔らかく輝いている。いくつかの煙突からは甘い香りの煙がゆらりと立ち上がり、風車がゆっくりと回っていた。
曲がりくねった石畳の道。
窓辺には色とりどりの花々。
「……中世の村、みたいだ。」
理解が追いつかない。ただ、その非現実さに圧倒されるばかりだった。
道を進むと、小さな村の中心へと入っていった。
人々は薄手の布の服をまとい、ベージュや灰色、茶色の落ち着いた色合いが多い。籠を持って歩く者、井戸のそばで話し込む者――どこかゆったりとした空気が流れていた。
優は完全に見とれていた。
通りの一つひとつ、視界に映る人々の仕草、声――すべてが初めて見る世界だった。
そうして周囲をきょろきょろと見回しながら歩いていた時だった。
目の前に、誰かが立っていた。
「あっ……す、すみません!」
声がうわずる。
理由は単純だった。
――その男が、あまりにも大きかったのだ。
身長は優に一八〇センチを超え、肩幅は広く、腕は丸太のように太い。胸板は分厚く、筋肉が盛り上がっている。
額にかかる茶色がかった髪。淡い緑の瞳。
そして上半身は裸。
胸を斜めに走る革のベルトには、小さな革袋がぶら下がっていた。
だが、何より目を引いたのは――
男が持つ、巨大な両刃の斧だった。
陽の光を鋭く返す刃。
優の心臓が跳ね上がる。
逃げるべきか、謝るべきか――判断がつかず固まる。
その瞬間。
男はにやりと笑い、突然腹の底から大声で笑い始めた。
「ハハハハッ! こんな妙な格好の奴を見るのは初めてだ! ホウェキオン様もきっと驚いているぞ!」
その豪快な笑い声は大きいのに、どこか不思議と嫌な感じがしなかった。
男は笑いながら、優の肩を軽く叩いた。
「おいおい!」
優は混乱しながら叫んだ。
「お、俺の顔に……何かついてます!?」
顔をまさぐりながら必死に確認する。
男はまだ笑いを引きずりながら息を整えた。
「いやぁ、久しぶりだぞ。こんなに笑ったのは! お前、おかしな奴だな! 名前は?」
「はぁ……」優は、呆れと困惑が混じったため息をついた。
「俺は……松木優。マツでいいです。」
男は興味深そうに彼を観察した。
黒い髪。深い茶色の瞳。透き通るように白い肌。
身長は一七七センチほどで細身。
白いパーカーに黒のスウェット、そして擦り切れた赤いスニーカー。
まるで、この世界の住人とは別種の人間のようだった。
「……マツ、か?」
男は少し眉をひそめた。
「変わった名前だな。」
「まぁ……そう呼ばれるのが好きなんです。」
「ふん、なるほどな。」
男は腕を組み、誇らしげに胸を張った。
「俺の名は焔羅清。この村の村長だ!」
「村長……?」優は瞬きをする。
「ここって、日本のどのあたりなんですか?」
清の目がわずかに見開かれた。
次の瞬間、ぽんと頭をかきながら笑う。
「ニホン? なんだそれ、料理の名前か?」
「ここは暁の村。風の王国のひとつだ。ニホンなんて国は聞いたこともねぇ。」
優は言葉を失った。
風の音も、人々の声も、遠のいていく。
胸の鼓動だけが大きく響いた。
現実がひっくり返る感覚。
――そんな、まさか。
だが、清の表情には冗談の色は一切なかった。
この世界は、本物だ。
――松木優は、異世界へと転移してしまったのだ。




