二兎
久坂玄瑞主人公の短編小説です。
世の無常を悟るには俺は若過ぎたと、周囲の方が嘆いていたのをよく覚えている。
十四の時に母が逝き、翌年には兄と父迄も失った。
文字通り孤児になってしまった俺は、已む無く家督を継ぐことになった。
「久坂、久坂は居るか?」
よく知った聲に顔を上げた。
今日は師の命日だからと、俺が彼を誘ったことを思い出す。
しかし、待ち合わせの時間は優に半刻も過ぎていた。
「何だお前……自分から誘っておいてすっぽかすとは良いご身分だな。」
母屋の正面玄関に急いで回ると、風呂敷包みを抱えたやや小柄な男が仁王立ちしていた。
男は、鋭い狐目を更に釣り上げている。
「すまない……。作業に集中すると時間を忘れるのが俺の悪い癖だ。」
今日は師、吉田松陰の命日だ。
彼を惜しむ意味を込めて、今日は亡き師の著書を読み合わせようと、この男と約束していたのだった。
「僕はよもやお前に何かあったのかと……」
「何だ?心配をかけてしまったか?それは悪かったな。」
「ちっ、違うっ!そういう意味じゃないっ!」
「はははっ……じゃあどういう意味なんだ?あちらへ回れ。講堂を空けよう。」
俺が師の妹婿としてこの家に棲む様になって、もうすぐ三年が過ぎる。
村塾の講堂の玄関を空け、縁側に面する障子も更に開け放つと、高杉が下駄を脱いで上がって来た。
「そう怒るな。悪かったと思っているから、こうして謝っているじゃないか。」
未だにぶつぶつと言っている高杉に茶を煎れてやると、彼は持っていた茶菓子の包みを空けた。
中には二十個程の白い上用饅頭が入っていた。
「先に断っておくが、全部食うなよ。先生の仏壇に備える為に持って来たんだからな。」
「そんなことは言われなくとも解っている。」
「お前なら全部食いかねんから言っているんだ。」
高杉は饅頭を二つずつ盆の上の小皿にぞれぞれ乗せ、饅頭の箱を閉じた。
その上から風呂敷で丁寧に包んでいく。
「前科があるからな。これは後で文さんに預けよう。」
「前科とは大袈裟な。」
高杉は饅頭の包み紙を取り、それを一口で頬張った。
俺も小皿に手を伸ばす。
「すまなかったな。お前が言っていたものを用意していたら、つい時間を忘れていた。」
先程迄の作業とは、師の遺著の通読であった。
通読といっても、表題と目次くらいしか目を通していないのだが、量が量なので待ち合わせの直前迄難儀していたのは事実だった。
先程運び込んだ数冊の遺著の中から一冊彼に手渡してやると、この男はやっと気を良くしたのだろう。
こちらを見てにやりと笑った。
「ふんっ、仕方が無いか……。先生の著書はどれも面白い。今夜は悪いが、寝る暇は無しだからな。」
「流石に饅頭二個じゃ、夜は越せないぞ?」
「……そういうことじゃなくてだな……。」
それから日が沈みかる頃迄二人で読み合わせをしていたが、流石に腹が減ったということで菊屋横丁迄出向くこととなった。
「お二方共、どちらへ?」
「いえ、腹が減って来たので横丁まで行こうかと。」
玄関先で草鞋を履いていると、文が聲をかけて来た。
この小柄で華奢な娘は、俺の妻であり師の末の妹でもあった。
「粗末なものですが、今丁度夕餉のご用意が出来ました。宜しければ講堂迄お運びしますが……やはり外で食べられますか?」
文は俯きがちにおどおどと言葉を紡いだ。
所帯を持ってもこの態度は相変わらずなので、正直俺は対応に難儀していた。
この娘を嫌っているという訳では勿論無い。
しかし、女という生き物は誠に理解し難いものだということはこの娘に教わった。
「どうする高杉?」
「……折角だ、頂こうか。」
時間も惜しいので、そういうことになった。
昼間は日の光のお陰で暖かかった講堂も、この頃の夜は冷え込む。
燭台に明かりを灯し、更に俺達は亡き師の言葉を噛み締めた。
「白飯じゃなくて悪かったな。」
「何だ今更。お前に見栄を張られてはあの世で先生が泣くぞ。」
この時代、白い飯がなかなか食べられない貧しい家庭では、粟や稗を玄米に混ぜて主食にしていた。
杉家の夕餉も、そういった雑穀を主食にせねばならないくらいには貧窮している。
先刻の夕餉もやはり粗末なものであったが、育ちの良い筈の高杉は、文句も言わずに残さず腹に入れていた。
「家業を継いだんだ。開業すればそれなりに金も入るんじゃないのか?」
「ああ……そうだな……そうかもしれないが……」
「お前、あれだけ家業を嫌っていた筈なのに、何時の間に医業に心を捧げたんだ?無理をしていないかと入江が心配していたぞ。」
「何だ、そんな話までお前の耳に入っているのか?」
「吹聴して欲しくない話は口外すべきではないと思うがな。」
「いや、そこまで大袈裟な話ではないんだ。ただ、優柔不断な奴だと思われたかと……。」
高杉は茶を一口、音を立てて啜った。
「兄上の、遺著が見つかったんだ……。」
俺はずっと、長兄久坂玄機を敬慕して生きている。
松陰先生は勿論俺の敬愛する師ではあったが、それとは又次元の違う人が俺の実の兄玄機という男の存在であった。
空になっていた俺の湯呑に、高杉が茶を注いでくれた。
それを一口喉に流し込む。
本当は自分の悩みを言葉にするのは苦手なのだ。
「俺がそうであった様に、兄も生前家業を疎かにしていたと思っていたんだ。結果だけ見れば国事に憂いて死んだ様な人だからな。だから俺も『国を治す医者になる。』等と出来もしないことを周囲に吹聴してしまった。本当は、人を治す手段を持っていない、ただそれだけの話だったんだ。」
俺は高杉の目を見られなかった。
目を逸らしたまま、又茶を啜り師の筆跡に目を通すふりをした。
「……お前の兄は、本当に偉大だったんだな。」
少し、目頭が熱くなるのを感じた。
他人の同情を誘ってしまうので、普段はあまり家族のことを語らない様にしていた。
その為か、必然と人に兄の話を振られることもあまり無かったからかもしれない。
「そういえば暫く医業に専念するとかで、ここにもなかなか顔を出さなかった時期もあったな。」
「ああ。」
聡明な兄の面影は、もう死ぬまで俺を放さないだろう。
俺は顔をようやく上げ、笑って誤魔化した。
上手く誤魔化せたかは解らないが、高杉はそれ以上兄のことには触れて来なかった。
丑三つ時を過ぎた頃だろうか。
何時の間にか眠ってしまっていたらしい。
肩にかけられた羽織は、高杉のそれだと気付いた。
うつらうつらと目を開けると、障子越しに男の影が見えた。
「ぶえっくしゅっ!」
その影が勢い良く前屈すると、また元の形に戻る。
俺は縁側に続く障子を開けた。
「そんな薄着で外へ出ていては風邪を引くだろう?」
「五月蝿い。襟巻きがあれば凌げると思ったんだ。放っておけ。」
高杉は黒い襟巻きを巻いて、両手を袖の中に隠して坐していた。
彼が空を見上げたのでつられて頭上に視線を移すと、ほんのり欠けた月が周囲を明るく照らしている。
その周囲に散らばる無数の星がそれを手伝う様にして瞬いていた。
俺は持っていた羽織を彼の肩にかけてやり、その隣に黙って腰を下ろす。
「だからいらんと言っている。これはお前に貸したんだっ!」
「鼻水出てるぞ。」
「五月蝿いっ!」
高杉は垂れた鼻水を手拭いで拭うと、それを折り返して再び懐に戻した。
羽織のことは観念したらしい。
彼は更に三度も続けてくしゃみをした。
強情な癖に格好がついていない男の姿に笑いが込み上げて来た。
「国を治すとは結構じゃないか。何も恥じることは無い……。」
高杉が、頭上の月に視線を戻した。
先程のやりとりのお陰で、こちらを見るのが恥ずかしいのかもしれない。
「だが医の道を極めた上で、国の為に働くことは俺にとっては至難の業なんだ。」
彼は不意にこちらに向き直り、突然その指で俺の額を弾いた。
「痛っ!」
「莫迦か。誰も二兎を追えとは言っていない。お前がそう思うのなら、自分が大切だと思う方を選べば良いだけの話だ。それにお前の兄は、二兎を追った結果死んだ様に僕には見えるがな。お前がそれを繰り返す必要は何処にも無い。」
この男は、たまにぴしゃりと核心を突いた物言いをする。
俺は、彼の言葉に息が詰まるのを感じた。
兄の背中ばかり追っていた俺は、何時しか兄の様な終焉に自ら向かっていたのかもしれない。
「何だ、珍しく呆けた面をして。今夜は冷える。やはり戻ろう。」
高杉は立ち上がろうと腰を浮かせた。
俺は膝を突いたまま、咄嗟に彼の冷えた右手を掴んだ。
「何だ?」
「いや……確かに、俺は俺、兄上は兄上だということを忘れていた様な気がする……。気持ちだけで事を成そうとすると命を縮めると、その身をもって教えてくれたのに……。」
彼は照れ臭そうに、ぽりぽりと頭を掻いた。
「まぁどちらにせよ、お前には選択の時が来ているのかもしれないな。先生はどう言うか解らないが、僕はお前のしたい様にすれば良いと思うぞ。苦しい思いをして家族の居ない生活を強いられて来たんだ。どんな選択肢を選んだとしてもお前の親は文句を言うまい。」
長兄であった兄が家督を継ぐと疑わなかった過去の俺は、まさか自分がこの様な形で跡目を継ぐことになるとは思わなかった。
亡き家族の意にそぐわない生き方は、やはりしたくない。
しかし家業を継ぐことには大きな抵抗があったのも事実だ。
「先の桜田門外の変から、俺の意志は変わらない。」
「それならそれで良いじゃないか。」
握っていた手を引き上げられ、揃って部屋へ戻る。
燭台の蝋が既に切れていたので、蝋を足して火を灯す。
暗闇に慣れた目が、眩しさに眩んだ。
「僕は吉松に居た頃から思っていたぞ。」
高杉は畳の上にごろんと横になり、先生の著書をぱらぱらと捲る。
俺はその正面に胡座をかいだ。
「何をだ?」
「お前は昔から、誰に対しても優等生を演じ過ぎだ。死んだ家族に迄優等生を演じてどうする?」
男は悪戯っぽく口元を歪めた。
「別に演じていないさ。ただ臆病なだけだよ、お前と違って。」
気に入った相手に対して、彼は非常に愛情に貪欲だ。
気に入られた人間は何時の間にか距離を縮められて、気付いたら飲み込まれてしまう。
この男の怖い処は、そういうことを無意識の内にしてしまう処だ。
もしこういう人間に絆されてしまったら、俺はきっともう独りには戻れないのだろう。




