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第八章 恒福の綻び

 ADAMの声明から少し経った頃、私はいつものように食材を探しに、郊外の反ミカエル派が多く住む街へと足を運んでいた。

 この街には今では昔とは意味が変わった、いわゆるオーガニック食品を扱う夜市が細々と営業を続けている。かつてのような自然派や無農薬志向の意味合いではなく、ミカエルの権能に頼らず普通に育てられた広義の自然由来食品、という意味だ。権能で生み出される完璧な味に肥えた世界において、こうした過程を経て手に入る食材の方が、私たちにとって何よりのご馳走だった。


 エコバッグに買った食品を詰め込み、夜市を出て薄暗い路地を通り抜けようとした時だった。路地の出口が、白基調の洗練された制服を着た集団によって封鎖されていた。ADAMの治安維持部隊、巷では『幸福警察』と呼ばれている連中だ。反ミカエル派の街であることが知られているからなのか、彼らは通りがかる住民を一人一人引き留め、何かの検閲を行っていた。ヤバいかも、と思い道を引き返そうとした瞬間、背後から声が掛かった。

 「そこのお姉さん。ちょっとすみませんね。少しお時間よろしいでしょうか?」

 振り返ると、胸元に『セマン・ゲロフ』と名札のついた男が立っていた。西洋人のような無機質なイケおじだ。口角は綺麗に上がっているが、目には一切の感情が宿っていない。

 「簡単に検閲を行なっておりまして、ご協力いただけますでしょうか?この地域に住まれる皆様の、ミカエル様の権能の使用状況を確認させていただいております。」

 言い終わるや否や、セマンはすかさずスマホのような謎の測定器を私に向けた。ピピッ、と電子音が鳴った。しかし次の瞬間、画面が激しく点滅しバチッという破裂音と共に黒い火花が散った。測定器の画面は真っ黒に焼け焦げ、故障してしまった。

 「おや……?」

 セマンの整った眉が微かにひそめられた。

 「異常値、いや、測定不能ですか。測定器が壊れるなど、前代未聞ですね。」

 彼は壊れた機械から私へと視線を移し、全身を舐め回すように見てきた。

 「お姉さん、少し肌荒れしてますか、毛先も痛んでいますね。ルックスは……そんなに悪くないようです。ミカエル様の権能をあまり使用されてないように見えますが、あるいは、何かよからぬ願いでも叶えてしまって、権能が使えないのでしょうか?」

 「あの、急いでいるので、失礼します。」

 「そう言わずに、少し署までご同行願えますか?私たちADAMのケアカウンセリングを受ければ、あなたの幸福度も必ず上がります。最近は過激な反発派も増えてきて物騒ですから……」

 ねちねちと、執拗に言葉を重ねてくる。かつて歌舞伎町で、面倒なスカウトに捕まった時のひどく鬱陶しい感覚が蘇ってきた。うざい、これ以上付き合っていられない。

 「だから、結構です!」

 私は隙を突き、路地裏へと全速力で駆け出した。

 「拒否ですか、何かやましいことがあるのでしょうか?」

 背後で少しだけ語気の強まったセマンの声が響く。そして、フゥーっとため息を吐く音がした。まずい、追いかけてくる。だが、聞こえてきたのは追いかけてくる足音ではなかった。

 ブォォォォン!

 という空気を切り裂くような機械音。振り返ると、セマンの背中から光の翼のようなジェットパック装置が展開されていた。権能を利用した近未来的な装備だ。彼は地上から数十センチ浮き上がり、信じられないほどの猛スピードで空を滑るように追いかけてきた。足で逃げ切れる速さじゃない。すぐ背後まで迫ったセマンが、私に向けて手を突き出した。

 「逃走中の対象を拘束したく、権能使用の許可を。」

 セマンが権能を使用した。黄金の光を帯びた輪のような拘束具が現れ、私の四肢に絡みつこうと襲い掛かってくる。

 「まずい、捕まっちゃう。」

 そう思って目を閉じた瞬間。私の服の下、胸元に隠していたルシファーの黒い翼から、ボワッと黒い煙が噴き出した。ジュッ、という焼け焦げるような音と共に、黄金の拘束具は私の肌に触れる直前で蒸発して、黒い煙と共に消え去ってしまった。

 「……拘束具が、消滅した!?」

 驚愕したセマンが空中でバランスを崩し、路地の壁に激突して体勢を崩した。私は自分の背中から立ち昇る黒い煙を見てハッとした。ルシファーの翼は、他人の権能の効果も打ち消すのだと。私は追撃が来る前に路地のさらに奥へと逃げ込んでいき、真っ暗な廃屋を見つけ、その中に身を潜めた。


 激しい動悸を抑えながら息を潜めていると、ふいに暗闇の中から強い力が私の腕を引いた。悲鳴を上げそうになった口を、冷たくて大きな手が塞ぐ。

 「リリ。私だ。」

 暗闇の中で、燃えるような紅い瞳が私を見下ろしていた。

 「ルシファー!」

 「私の翼が反応していたのを感じた。其方に何かあったのではないかと、迎えに来た。」

 彼も私の異変を察知してくれていたらしい。私はホッと安堵の息を吐き今起きた顛末、幸福警察のセマンに測定器を向けられたこと、そして拘束具が黒い煙で蒸発して助かったことを手短に伝えた。

 「そうか。ついにこの辺りまで手が及んでいたのか。」

 ルシファーの目が細められた。

 「この翼の異常性に気づかれたとなれば、もうここは安全ではないだろう。ADAMの追手が本格化する前に、すぐに拠点を移動しよう。」

 私たちは気配を殺し、夜の闇に溶け込むようにして急いで街を離れた。


 一方その頃。逃げられたセマンは、ADAMの本部でホログラムの総長イヴにリリの不審な事案を報告していた。

 「つまり、測定器がエラーで故障した上に、あなたの放った拘束具が黒い煙によって蒸発したということ?」

 スピーカー越しに発されるイヴの声は、氷のように冷たかった。

 「はい、間違いありません。あの女、ただの反発派ではありません。どうやったかは分かりませんが、ミカエル様の権能の効果そのものを無効化するような、異質な力を持っているかもしれません。」

 イヴの顔にギリッと苛立ちの影が走り、両手でみぞおちをさすっていた。ミカエル様が我々に与えてくださった権能を無効化する力など、あってはならないバグだ。ましてやその力を、あろうことか権能を使用して手に入れたとしたら。それはミカエル様に対する最大の冒涜に他ならない。

 「サンセ。」

 イヴが傍らに控える男に声をかけた。

 「はい。」

 「この女の素性と謎の力について徹底的に調査し、そして奪取しなさい。ミカエル様のための完璧な世界のためには、少しの不純も決して許さない。」

 「承知いたしました。」

 イヴは窓の外、夜の闇に隠れたミカエルの気配を想いながら、謎の女とその力への不安と怒りを静かに燃やし続けた。

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