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第十章 余燼の温もり

 気づけば、私は夢の中にいた。子供に戻った私は、父と二人で車に乗ってドライブをしている。窓の外を流れる海辺の景色は暖かく、車内ラジオには荒井由美の『やさしさに包まれたなら』が流れている。運転席の父が、おだやかな声で私に問いかける。

 「リリは、大きくなったら何になりたい?」

 「うーん……わかんない。逆にパパは、私に何になって欲しい?」

 私が聞き返すと、父は少しだけ困ったように笑い、そして言った。

 「そうだなぁ、リリはパパにとっての天使だからね。ずっとそのまま、変わらないで幸せにいて欲しいよ。とくにこの、可愛い笑顔が堪らないんだよ、パパは。」

 そう言うと、父はクシャっと私の頭を軽く撫でた。

 「ほんと?えへへ。」

 少しの間、沈黙が続いた。

 「うん。だからね——」

 突然、父の声が、冷たく無機質な声音に変わった。父は私の胸元をじっと見つめ、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

 「リリ、そんな危ないものは、持っててはいけないよ。さあ、パパにはやく渡しなさい。」


バチィッ!!


 鋭い破裂音と共に、目の前の父が弾け飛んだ。私の胸元から黒い炎が噴き出し、父の体を包み込む。父は、ウワアアアアッ!と大きな声を上げながら、黒い炎と共に燃え上がり、顔の皮膚がドロドロと焼け爛れていった。

 「パパ……!?」

 ハッとして飛び起きると、ベッドが寝汗で濡れていた。これは夢じゃない。まさに今、現実の私の目の前で父が黒い炎で燃え上がり、床を転げ回って苦しんでいた。そして燃え盛る黒炎の中で別人へと変化していった。父だったはずのその男は、数日前に私を検閲しようとした幸福警察と似た服装をしていた。名札には『サンセ・ノイ』と書いてあった。


 きっとこの男、サンセは私のことを調べ上げ、黒い翼が権能を無効化していることを突き止めたのだろう。だから、父の姿に変装をして母に接触したのだ。そして私が眠りについた隙を見て、この翼を奪い去ろうとしたのだろう。

 「あなた!どうしたの!?」

 騒ぎを聞きつけて、隣の部屋から母が駆け込んできた。燃え盛る男を見て、母はそれが父だと勘違いし、激昂して私を突き飛ばした。

 「リリ、あなた一体、何てことを!」

 「違うよママ!その人は、パパじゃ——」

 私の制止も聞かず、母はサンセを助けようとその体に触れた。その瞬間、母の体にも黒い炎が燃え移ってしまった。

 「いやあああああッ!」

 黒い炎は、彼らを覆っていたすべてのミカエルの権能による効果を容赦なく焼き尽くし無効化していった。若々しかった母の顔から、みるみるうちに生気が失われていった。シワが刻まれ、白髪が混じり、憔悴し老いた本来の姿へと戻っていく。そしてサンセは、手足が痩せ細り、自力で動けないほど病弱な体つきへと萎縮していった。

 「あぁ、ミカエル様に救っていただいた私の身体が。嫌だ……やめろ、やっと手足を動かせるようになったのに。やめてくれ、助けてくださいぃ。あぁ、ミカエル様……!!」

 サンセは床をゆっくりと這いずりながら絶望の涙を流した。彼はミカエル様に、自分の病を治してもらうよう願っていたのかもしれない。その願いを、この翼が燃やしたのだ。私は、自分の胸元にある翼に手を伸ばした。この黒い翼が持つ恐ろしい力を目の当たりにし、はじめて少し怖くなった。共に過ごした時間が長いせいで、私はすっかり忘れていた。私が契約をした存在は、堕天使だということを。


 窓の外からバサバサという羽音が聞こえ、ルシファーが姿を現した。羽の能力が発動されたのに気づいて駆けつけてくれたのだろう。しかし、彼がやってきた頃には、二人とも完全にミカエルが現れる前の状態に戻ってしまっていた。母は、すっかり老いぼれた姿で、震えながら小さく隅で泣いていた。

 「ルシファー……この翼のせいで、こんなことに。」

 私は震える声で呟き、ルシファーの腕を掴んだ。

 「お願い、二人を助けて!元の状態に戻してあげて。」

 しかし、ルシファーは静かに首を横に振った。

 「我が自由の炎は、幸福に覆い隠されたあらゆる現実を暴く。例えそれが、どれほど残酷な現実であっても、現実は現実だ。それを変えることは、神にさえも出来ない。」

 ルシファーの諭すような声に、私は泣きながら叫んだ。

「でも、お母さんとこの人が、このままじゃ可哀想だよ!」

 ルシファーは何も言わず、ただ悲しげな紅い瞳で立ち尽くしている。かすかに震える拳を握りしめながら。


 私の心の中が、また黒くうごめいている。私がミカエルのおかげで出来た楽園(エデン)の中で、素直に生きれていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか。何にも囚われず、何にも惑わされず、そして何にも縛られない。そんな自由を望んだのが、間違いだったのかな。やっぱり私は、我がままに生きちゃいけないんだ。

 「ママの言うことだけを聞いてればいいの。」

 幼い頃の母の言葉が頭の中で繰り返し再生される。蓋をしていたはずの色んな記憶が溢れ出し、私は耐えきれずしゃがみ込んだ。胸が苦しくて、頭の中がぐるぐるして、おかしくなりそうだった。


「リリ、いいのよ。私が、悪いから。」

 小さくうずくまっていた母が顔を上げ、私に向かって掠れた声で言った。

 「ずっと分かってたの。パパに捨てられて、リリまでダメになったら、私には何もなくなっちゃうって。だからあなたを必死になって育て上げた……。あなたのために、全てを注いだ。どんな仕事でもやった。それなのに、あなたは――」

 母はそこで大きな一呼吸をついて、また喋り続けた。

 「でも、ミカエルが現れたおかげで気付いたの。私がずっと信じてた理想なんてね、しょせんは偽物の幸福にすぎないなって。」

 母の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。

 「自分の願った理想に囲まれるのが、こんなに苦しかったなんて……信じたくなくて、その現実に蓋をしてた。私は長い間、何をずっと必死に追い求めてたんだろう、ってね。この人がパパじゃないのも、はじめから分かってたのよ。だからね、リリ。もういいの。」

 母は這って私に近づき、私の震える手をそっと握った。その手は、かつて私を叩いた時のような恐ろしさはなく、ただひどく小さくシワまみれで、そしてほんのり温かかった。

 「リリ……今までごめんなさい。こんなダメなママを、許して。」


 私は何も言えず、堪えきれず、ただ子供のように声を上げて泣き続けた。

 どれくらいそうしていただろうか。夜明けの気配を感じ取ったルシファーが、行こうと静かに声をかけた。

 母も、涙を拭いながら私に言った。

 「この人は私に任せて、そろそろ行きなさい。」

 まだ苦しそうに横たわるサンセを一瞥し、私は答えた。

 「……わかった。」

 立ち上がった私の背中に、最後に母が声をかけた。

 「好きなように生きて。」

 私は静かに頷き、ルシファーと共に、母の家を後にした。夜明け前の冷たい風が、涙で濡れた頬をスーッと撫でた。

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