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第九章 追憶の補綴

 セマンから逃げ切り、ルシファーと共に拠点を変えながら生活を続けて1ヶ月が経ったある日のことだった。私のスマホのロック画面に、一件のラインの通知が来ていた。差出人の名前を見て、思わず息を呑んだ。それは、母からのメッセージだった。


 『久しぶり、リリ。元気?驚くかもしれないけれど、実はパパとまたヨリを戻したの。昔のことは一旦忘れて、良かったら久しぶりに、うちに顔出しにおいで。』


 数年前、私が新卒で入った会社をすぐに辞めて夜職をしていたことがバレてしまったあの日から、母とは完全に絶縁状態だった。正月ですら連絡を取っていなかったため、ミカエルの出現から今日まで日々、すっかり母の存在を失念していた。私はそのラインの文面を三度見した。

「パパと、ママが……?」

 そんなことあるわけない。私がまだ小学校四年生の頃に両親は離婚して以来、父とは一度も会っていない。母は母を捨てた父のことをずっと憎んでいたはずだ。怪しく思う気持ちが湧き上がったが、たしかにどんな願いも叶うようになったこの世界なら、過去の軋轢の修復すらも案外容易いことなのかもしれない。それから私はルシファーと一旦別れ、母の今住んでいる住所へと向かうことにした。薄っすらと抱く違和感を押し殺しながら。久しぶりの家族の再会が、私自身の寂しい過去を昇華出来るような気がしたから。


 母が今住んでいる場所は、ミカエル崇拝派の居住区の中でも、まだそれほど染まりきっていない郊外のエリアだった。幸福警察の姿も少なく、追われる身の私にとっても好都合な場所だった。指定された番地に辿り着いた私は、目の前にそびえ立つ建物を見て驚いた。それは、絵に描いたような豪邸だった。ガレージには高級車が何台も並んでおり、手入れの行き届いた庭には色鮮やかな花が咲き乱れている。インターホンを押すと、母が出てきた。ミカエルに願ったのか、母の顔は私が記憶しているよりもずっと若々しかった。母は久しぶりの再会だったからか、やや他人行儀な笑みを浮かべながらも、家の中へと案内してくれた。自宅の中も、大理石の床に高級そうな家具が並び、かつて築古の汚い1DKマンションに住んでいた過去の記憶を塗り替えるほどの豪華さだった。


 リビングの奥からから、記憶の底で霞んでいた父が顔を出した。

 「おぉ、大きくなったね……。」

 「お腹空いてる?何か食べてきた?リリ。」

 母が冷蔵庫を開けながら尋ねてきた。私はルシファーとの契約で、ミカエルの権能で作られた食べ物を食べることが出来ないので、どうしようかと少し口ごんでいると、父が口を開いた。

 「もしかして、リリは自然食品がいいのかな?最近はこんなご時世だからさ、そんな事もあろうかとママに言って用意しておいてもらったんだよ。どうかな、それなら食べれるかい?」

 「うん、食べれる。ありがとう……パパ。」

 まさか父が、そんなに気が利く人だったと思わなかったが、お言葉に甘えて食事を頂くことにした。はじめは久しぶりすぎて、最初はひどく気まずい空気が流れた。しかし、食卓に並んだ豪華な料理を囲むうちに、子供の頃、毎日のように険悪な雰囲気だったのが嘘のように思えるほど打ち解けていった。互いに微笑み合い、時に私の取り皿に料理を取り分けてくれる仲睦まじい二人の姿を見て、私の心の中で張り詰めていた警戒心もいつしか解けていった。食事と一緒に、不思議と過去のうらみつらみも喉の奥へと流れていくような気がした。


 ふかふかのベッドに寝転がると、静かな部屋の中で昔の記憶がふと蘇ってきた。まだ幼い頃に離婚してしまった父のことは、正直今はあまり覚えていない。ただ、シングルマザーになってからの母の記憶は、嫌と言うほど脳裏に焼き付いている。母は異常なほど厳しく、教育熱心だった。習い事も、進学する学校も、進路も、私の人生はすべて母の決めた通りに進まなければならなかった。少しでも反抗すれば、ヒステリックに怒鳴られ、時に容赦なく暴力を振るわれた。

 そんなやり方でも母は女手一つで、私をそれなりの大学に入れるまでに育て上げた。毎晩、母はいつも家にいなかった。幼い頃は不思議に思わなかったが、今の私には想像がつく。母も私と同じような仕事をしていたのだろう。高い学費を払いきれたのは、そのおかげだと思う。

 だからこそ、絶縁するほど揉めた日の、あの母のあの尋常じゃない怒り方は、今なら少しだけ理解できた。母は自分の過去や苦労を、すべて無下にされたように感じたのだろう。あろうことか自分と同じ仕事をしていた私のせいで、深く絶望をしたのだろう。

 結果的にあの日、激しい癇癪を起こした母にナイフで怪我を負わされ、私たちは絶縁することになった。今でもうっすら傷が上腕に残っている。


「まさか、またこうして家族で再会できるなんて……。」

 ふかふかのシーツに顔を埋めながら、私はぽつりと呟いた。目尻から一滴、雫が溢れて額を伝ってシーツに染みた。子供の頃に埋められなかった心の底にあった穴の一つが、ほんの少し塞がれたような感じを覚えながら、私は次第に深い眠りへと落ちていった。

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