第八章「王都からの視察官〜迫り来る出世と揺れる心〜」
「ラヴィル!大変です!」
朝一番、ギルドに到着したラヴィルを、アイリスが慌てた様子で出迎えた。いつもの落ち着いた秘書の表情が崩れている。
「どうしたんですか?」
「王都から視察官が来るんです!しかも、あなたの働き方改革を視察するために!」
その知らせに、ラヴィルは一瞬息を飲んだ。彼の改革がここまで注目されるとは思っていなかった。
「いつ来るんですか?」
「今日の午後です。準備する時間がほとんどありません」
アイリスの声には焦りが混じっていた。彼女は書類の束を抱え、髪も少し乱れている。寝不足だったのだろう。
「アイリス、少し落ち着いて。まずは何から始めればいいか、一緒に考えましょう」
ラヴィルが静かに言うと、アイリスは深呼吸して頷いた。
「ありがとう。あなたがいると安心します」
その言葉に、ラヴィルは少し照れながらも、前世での経験を活かして準備の段取りを組み始めた。
*
正午過ぎ、ギルドホールは緊張感に包まれていた。レオンとヴァイスも早めに到着し、ラヴィルとともに最終確認を行っていた。
「資料は問題ない。数字も正確だ」
ヴァイスが厳格な表情で頷いた。レオンも珍しく真面目な顔で書類に目を通している。
「説明役は私たちでいいのか?ラヴィルが中心ではないのか?」
レオンの質問に、ラヴィルは首を振った。
「いいえ、これはチーム全体の成果です。私だけの功績ではありません」
その返答に、二人は感心したように視線を交わした。
「謙虚だな」ヴァイスがつぶやいた。
「でも、王都からの視察官が君に興味を持っているのは確かだぞ」レオンが補足した。「魔法院からの再度の誘いがあるかもしれない」
その言葉に、ラヴィルは複雑な思いを抱いた。前世でも、実績を上げれば上げるほど、より大きな責任が彼にのしかかってきた。最終的には過労死という結末を迎えた。この世界でも同じ道をたどることになるのだろうか。
「来ました!」
アイリスの声で、全員の視線が入口に向けられた。
そこには、王都の正装である紫のローブを身にまとった二人の人物が立っていた。一人は四十代と思われる厳格な表情の男性。もう一人は驚くべきことに、二十代前半の若い女性だった。
「クラウンフォード魔法ギルドの皆様、お招きいただきありがとうございます」
男性が一歩前に出て挨拶した。
「私はエドガー・グランツ、王立魔法院視察部長です。そしてこちらは...」
「リリア・ファンタスミア、魔法院特別研究員です」
女性が自己紹介した。彼女は黒い長髪と深紅の瞳を持ち、知的な美しさを漂わせていた。その視線がラヴィルに向けられる。
「あなたがラヴィル・マイヤーさんですね。お会いできて光栄です」
彼女の声には、どこか懐かしさを感じさせるものがあった。まるで前世から知っている人物のような不思議な親近感。
「こちらこそ」
ラヴィルが応えると、リリアは微笑んだ。その笑顔に、アイリスが少し眉をひそめるのが見えた。
*
視察は予想以上に詳細なものだった。エドガーとリリアは改革の内容、実施方法、成果について細かく質問し、ギルド内も隅々まで見て回った。
「魔力モニタリングシステムは素晴らしいアイデアですね」
リリアがラヴィルの考案した装置を見ながら言った。職人たちの魔力消費を監視し、限界に近づくと警告を発するシステムだ。
「ありがとうございます。過労による魔力枯渇を防ぐために開発しました」
「これを王都全体に導入できれば、魔力過労死はかなり減らせるでしょうね」
リリアの言葉に、ラヴィルは前世の過労死対策を思い出した。この世界でも、同じ問題に取り組めるとは。
視察の合間、エドガーがラヴィルを個室に呼び出した。
「正直に言おう。我々はあなたに興味を持っている」
彼の言葉は率直だった。
「あなたの才能は王都で必要とされている。魔法院特別顧問として招聘したい」
予想はしていたが、実際に言われると重みが違った。
「光栄な話ですが...」
「返事は今すぐでなくていい。一週間考えてほしい」
エドガーは名刺を差し出した。その背後でリリアが微笑んでいる。
「王都ではリリアがあなたの担当になる。彼女は特別研究員だが、あなたの研究に非常に興味を持っている」
リリアが一歩前に出て、ラヴィルの手を取った。
「ぜひ王都で一緒に研究しましょう。あなたのアイデアは革命的です」
その熱意に、ラヴィルは言葉を失った。
*
視察団が帰った後、ギルドには興奮と緊張が残った。
「すごいじゃないか!特別顧問だって!」
レオンは興奮した様子でラヴィルの肩を叩いた。
「名誉ある話だ」
ヴァイスも珍しく率直な賛辞を送った。
しかし、アイリスだけは複雑な表情をしていた。
「行くんですか?王都へ」
彼女の声には不安が混じっていた。
「まだ決めていません」
ラヴィルは正直に答えた。確かに誘いは魅力的だった。より大きな舞台で自分の能力を発揮できるかもしれない。しかし前世では、出世の階段を上るほどに自由を失っていった。
「リリアさんという方、とても美しい方でしたね」
アイリスの言葉には、わずかな嫉妬心が滲んでいた。
「そうですね...でも、僕はまだここでやるべきことがあると思います」
その返答に、アイリスの表情が少し明るくなった。
*
夕方、ラヴィルは一人で市場の小さなカフェに座っていた。提案を検討するための静かな場所が必要だった。
「考え事?」
突然、レオンが現れ、向かいの席に座った。
「ええ、少し」
「王都の誘いを受けるべきだと思うよ。君の才能なら、もっと大きな影響を与えられる」
レオンの言葉は真摯だった。彼の目には純粋な応援の気持ちが見えた。
「でも、王都での生活は忙しいだろうし...」
「心配しているのか?」レオンが笑った。「君なら大丈夫だよ。それに...」
彼は少し恥ずかしそうに続けた。
「僕も王都に研究拠点を持っているんだ。定期的に通っている。だから、会えなくなるわけじゃない」
その言葉に、ラヴィルは少し驚いた。レオンがここまで自分との関係を気にしているとは思わなかった。
「ありがとう、レオン」
「いいさ。それに...」レオンはさらに声を落とした。「アイリスが寂しがっているのは分かるけど、リリアもなかなか魅力的だったな」
ラヴィルは思わず赤面した。
「そんなつもりは...」
「冗談だよ」レオンは笑ったが、その目は真剣だった。「でも、君の決断を支持するよ。何を選んでも」
*
次の朝、ギルドに向かう途中、ラヴィルはヴァイスと出くわした。
「おはよう、ラヴィル」
普段は厳格なヴァイスが、珍しく柔らかい表情で挨拶した。
「おはよう、ヴァイス先生」
「王都の話、考えているようだな」
「はい...」
ヴァイスは少し歩調を緩めて言った。
「私も若い頃、同じような誘いを受けた。だが、断った」
「なぜですか?」
「自分の道を歩みたかったからだ。王都では確かに名声も地位も得られるだろう。しかし、自由は失う」
ヴァイスの言葉は重みがあった。
「でも、君の場合は違うかもしれない。君には強さがある。自分を見失わない強さが」
その言葉は前世では聞けなかった評価だった。
「ありがとうございます」
「それに...」ヴァイスは少し照れたように咳払いをした。「もし王都に行っても、ここは君の帰る場所だ。覚えておいてくれ」
これほど感情的な言葉をヴァイスから聞くのは初めてだった。
*
ギルドに着くと、アイリスが待っていた。いつもより少し着飾っているようだ。
「おはよう、ラヴィル」
「おはよう、アイリス」
「今日の昼休み、時間ありますか?」
「ええ、あります」
「では、市場の新しいレストランでランチを...」
彼女の招待に、ラヴィルは笑顔で頷いた。この世界での人間関係は、前世とは違って温かいものだった。
視察から三日目。ラヴィルの決断はまだ定まっていなかった。王都に行くべきか、ここに残るべきか。
どちらを選んでも、前世のような孤独な戦いにはならないだろう。レオン、ヴァイス、そしてアイリス。彼らがいる。
さらにはリリアという新たな縁も。
この世界での彼の物語は、まだ始まったばかりだった。