終わりと始まりの境界線
序章 終わりと始まりの境界線
坂口慎一は、モニターの青白い光に照らされながら、キーボードを叩く手が止まらなかった。オフィスの時計は午前三時を指している。コンビニ弁当の空き容器が机の上に積み重なり、缶コーヒーの残骸が墓標のように並んでいた。
「あと少し...あと少しで終わる...」
彼は自分に言い聞かせた。しかし、その「あと少し」は三日前から続いていた。瞼は鉛のように重く、視界は霧がかかったようにぼやけている。
「坂口君、これも明日の朝までに頼むよ」
帰ろうとしていた上司が、笑顔で新しいファイルを机に置いていった。断る選択肢などなかった。
突然、胸に鋭い痛みが走った。
「あ...」
声にならない声が漏れる。心臓が不規則なリズムを刻み始めた。まるで壊れた時計のように、早くなったり遅くなったりを繰り返す。
坂口は椅子から崩れ落ちた。冷たい床に頬を押し付けながら、天井の蛍光灯を見上げる。その光が、なぜか優しく感じられた。母親が子守唄を歌ってくれた時のような、温かい眠気が全身を包み込む。
「ああ...これで...休める...」
最後の思考は、皮肉にも安堵だった。
*
暖かい。
それが最初の感覚だった。
坂口慎一—いや、今はもうその名前ではない—は、ゆっくりと意識を取り戻した。視界はぼんやりとしているが、誰かが自分を抱いている感触がある。
「生まれた!男の子よ!」
聞き慣れない言葉が耳に入ってきた。いや、聞き慣れないはずなのに、なぜか理解できる。まるで生まれながらにしてその言語を知っているかのように。
赤ん坊の泣き声が響いた。それが自分の声だと気づくのに、少し時間がかかった。
「ラヴィル...あなたの名前はラヴィルよ」
優しい女性の声。母親だろうか。その顔を見上げようとしたが、新生児の体では思うように動けない。
しかし、坂口慎一としての記憶は、水晶のように透明で確かなものとして、この小さな頭の中に存在していた。三十二年間の人生、終わりのない残業、そして最期の瞬間まで、すべてが鮮明に残っている。
窓から差し込む光が、地球のそれとは違って見えた。空気中に、きらきらと光る粒子が舞っている。まるで、世界そのものが生きているかのように。
「この子、魔力の反応が...」
別の声が聞こえた。老人のようだ。
「まさか、生まれたばかりで?ルーン魔法院にすぐ報告を!」
母親の声に驚きが混じる。
「そうだな。こんな才能は珍しい。魔法院の幹部たちも喜ぶだろう」
「でも...まだ赤ちゃんよ?」
「早くから教育を始めなければ。ルーン魔法院では天才を逃さない。アカデミーに入れば、朝から晩まで魔法の修行だ。休む暇もない。有能な魔導士は国の財産だからな」
老人の言葉に、ラヴィルは心の中で凍りついた。
「朝から晩まで」 「休む暇もない」
どこかで聞いたセリフだ。
ラヴィルは—そう、今の自分の名前はラヴィルだ—小さな手を握りしめた。指先から、温かい何かが流れ出ていく感覚がある。それは血液でも体温でもない、もっと根源的な何か。
前世では感じたことのない力。
「この子、また魔力が...!すごい才能だ!」
老人が興奮した様子で叫ぶ。
「ルーン魔法院のエリート候補生だな。将来は大魔導士として、朝から晩まで国のために働くことになるだろう」
この世界は、剣と魔法の世界らしい。
そして、この世界でも、仕事が待っているらしい。
社畜として過労死した自分が、なぜこんな世界に生まれ変わったのかは分からない。神の気まぐれか、それとも宇宙の悪戯か。
でも、一つだけ確かなことがある。
「今度は...違う生き方を...」
ラヴィルは、赤ん坊の体で精一杯の決意を込めて、小さく唸った。新しい世界での、新しい戦いが、今始まろうとしていた。