09 特区に潜入②
何度目かもわからない周囲確認をしてみたところ、飛び込んだ庭のある屋敷は真っ暗だった。今は要人が逗留していないのか、純粋に使用されていないだけなのか。管理人はいるかもしれないが、管理人小屋らしきものは近くに見当たらない。
ルルはカイエの有り余る才能に恐れ慄いた。
「ここまでいい感じに誰にも見られていないとは…」
そして落ちる前にいた壁の方向を確認した後、胸を張る。
「まあ、ここからはお任せください。作戦立案、頭脳労働はお手の物ですからね」
茂みの中でこそこそと話す。
「上から見てハアクした部分ですが…。まず、国ごとにそれぞれ区画があるようです。その中で色々建物を作っているみたいですね……。
外を見てください」
首だけにょっきり茂みから出す。
「敷地の外の道にそって、ポールが立ってますよね。その先っぽに国旗が取り付けられています。
国旗というのは…その国のマークみたいなものです。その国のマークがついていたら、その国のものだよって意味があったりするんです。
なので、その国旗に囲まれた内側が、その国の土地と言えるのではないでしょうか。
そう考えましたね、わたしは」
「……」
「……」
ルルにはよくわからない。カイエが果たしてどこまで理解しているのか。
「…そして、ここからが本題です。
わたしはなんと、聖女教のマークも神聖ハレルー公国の国旗も知っているんです! 聖女教のマークはひし形の中に、太めの縦棒を3本書いて、最後にひし形を消したみたいなマークですね!」
自分の言葉に合わせて指先で空中に描いてみる。
この3本の線一つ一つが表しているものがそれぞれあるらしい、塔、聖女、それと剣。これらの説明を上手にまとめれる自信のないルルは、今は説明しないことに決めた。
「あれ?」
カイエは一番近いところにあった旗を指さした。国旗の横に延長して聖女教のマークが付け足されている。
「そう! それです。国旗はハレルー公国じゃないんですが。聖女教を信じている国の一つなんだと思います。
たくさんの国で信じられている大きな宗教なんですけど、特に大陸の東側の真ん中ぐらいで固まっています。もともと固まっているのに、ここでわざわざバラバラにさせることはないんじゃないかな……。
なので、このマークがこの場所にあるということは聖女教が好きな国がこの周辺に集まっているので聖女教のボスのハレルー公国がいる……可能性が高いです。大きい国だし、すごく偉そうな感じなので、目立つと思うんです。国旗もたしか…、金色の下地に真ん中に剣があります。豪華なんです。
上で見たときハレルー公国までは見つけられなかったのですが、聖女教のマークの旗は向こうの方にずっと続いていたと思います」
ルルが示したのは北の方角だった。特区のもっと奥になる。
暗くなったお陰で二人の姿は捕捉されづらいものの、遠くを見通すのが大変だった。
それでも進んでいくと、わかってきたことがある。国によって区画の大きさや形が違うこと。細長いもの、単純に複雑な形のものもある。
人の姿が見えたり、明るくて視認性の高い通りを避けながら、できるだけ照明のついていない屋敷沿いの道を、時にはその屋敷の庭を道に沿って、いつでも庭木に隠れられるように移動する。
不意に馬車が通ることもあるので気を抜けなかった。そうして効率の悪い経路も選びながら2時間弱歩を進めた先に、ルルのうろ覚えな国旗が見えてきた。
「あれですね…」
覇気のない声だった。夜の寒さと緊張とずっと歩いているせいでルルは疲れていた。空気というよりも風が冷たい。
カイエは一見すると変わりがないように見えたが、唇の色が悪くなっている。手を握ると同じぐらいの温かさをしていた。
向こうの角のポールの上で、金色に剣の国旗が夜風に吹かれて大仰にはためいていた。
ルルは剣の名前をぼんやり思い出した。クラウ・ソラスだったか。確か、聖女シーラが困難に陥ったとき、乗り越えるために神に与えられた神剣クラウ・ソラス。解釈には諸説あるが、千年以上前の神話、あるいは聖書の一節に出てくるそれは、現在でも公国の中心に存在している。
この世界の住人ならある程度知っている、いつの間にか知っている、世界的な基礎知識だった。
建物も今まで見てきた中で目立って大きい。
中央にある建物は教会のような、しかし城のようにも見える華やかさがあった。明かりがついていたのは、その城と渡り廊下で繋がっている複数の屋敷の中の一つだった。比べると小規模だが十分大きい。
その屋敷の正面に一番近いと思われる門前に馬車が止まっていた。人影もいる。話し込んでいるようだ。
n回目の周囲確認をしながら、人気のなさそうな側面からこっそり入る。敷地に入る直前、ルルはカイエに少し持ち上げられた。よく見ると魔術式が設置してある。気づかず踏んでしまっていたら、どうなっていたかわからない。
最後の最後に肝を冷やしながら、ルルは無事、目的のための目的地に到達した。
区画の端だからか雑草が目立った。いかな大国といえど、権威を示す全てに手を入れる余裕はないのかもしれない。
別館の外側をなぞるように探っていくと、下へ降りていく土作りの階段が唐突に現れた。その先に、別館の地下に繋がる扉が設置されている。階段の手前には庭木が植えられていて、離れたところから見ると、降る階段があることすら気づけないだろう。
「地下から入って上を目指すのが正しいルートというやつなのでは……」
ルルはもそもそと小さな声で独り言ちながら、階段を降りて扉の前に立った。
そして、気づいた。
口の前に人差し指を立てて、振り返って基本的に無言なカイエに静かにするようジェスチャーで伝える。
「扉に隙間があります。開いてます…」
隙間から覗こうと試みる。狭くて何も見えない。扉に耳を寄せて室内の音を拾おうとしてみるが、しばらく待っても何も聞こえてこなかった。
「今、中に人がいるんじゃなくて閉め忘れなのかもしれません」
そうは言っても油断は禁物だった。
冷えた指先を使って、できるだけ少しずつ少しずつ扉を押してみる。じりじりと見えてきた扉の向こうの床は、冷たい石畳だった。夕方までいた場所に似ている。微かに臭いが漂ってきた。なんだろうこれは。
思いつく前に、新たに開いた隙間からほんの一部分、室内が見えた。
「……」
ルルは逃げたり騒いだりしようとする本能をどうにか抑え込んで、ゆっくり息を吐きながら、元あったぐらいに扉を閉じなおした。
吐いた分しっかり吸おうとして、大きくなった自分の脈拍に邪魔をされる。様子のおかしいルルに気づいたカイエが近寄って来ようとするが、慌てて手を振って止めた。
「っいえ、全然関係ない部屋でした。見なくていいですよ」
ルルの胸の真ん中が急にどくどくと煩くなった。
食堂の人も、門衛もはっきり言わなかった。門衛は家に帰れとしか言わなかった。仲間が連れ去られたと説明したのに、そのことに一言も言及しなかった。
だからルルは本当は少し察していた。この可能性を考えていなかったわけではなかった。だが、できるだけ考えないようにはしていた。
「シーラさんじゃないはず……」
一瞬見ただけだが、少なくとも最近のものではないように見えた。それがルルの気力をなんとか繋ぎ止める救いになった。とはいえ、もう少しで三つ目の夜を越えてしまう。長引いてしまうとどうなるのかわからない。
「他の入り口を探しましょう」
カイエに何とか平静を取り繕いながら、土の階段をのぼった。
意識しないと足がもつれそうになる。震えている手は上着の袖で隠した。
どこも窓は閉まっている。開いていても回廊に火は灯され、人影が動いているのが見えた。男たちの話し声が聞こえてきた。入れる場所を探すうちに、玄関に近くなっていたようだ。
「2台目の馬車がもうすぐ着くらしい」
「人数は? 集まったのか?」
「掃除婦50人なんか急には無理に決まっている、40人弱集まっただけで御の字だ。なんとか誤魔化すしかない」
「どうやって誤魔化すんだ?」
「名簿を作らなかったら証拠は一枚減るだろう」
「ははは、なるほど。聖女さまの御加護を……」
ざわめきを感じる。人がたくさんいるようだ。
門前に最初からいた馬車の他に幌馬車が停まっていた。荷台の後部から、続々と人が降りている。シルエットから察するに女ばかりのようだった。
「別館を利用すると決めたのは司教さまだ。本館でお過ごしくだされば問題なかったものを。汚いとお怒りになられても困る」
会話が終わり、一人残った男が悪態をつきながら女性たちとすれ違いに門前に出て行った。新しい幌馬車がやってきたようだ。またこの建物に人が増えてしまう。でも入口が見つからない。
「開いてる」
「え、どこですか?」
食い気味に聞き返す。
カイエが教えたのは向こうの角だった。背の低いルルは身を乗り出して確認した。3階か4階の窓。明かりは遠く、人影も見当たらない。しかし、門の正面だった。
2台目の幌馬車に乗っていた集団がこちら側に歩いてくるのが見える。まだ動揺していたルルはそれを見て焦ってしまった。
気が逸れた足が地面の急な凹凸で滑り、勢いよく前へ転んだ。ついでに落ちていた折れ枝を思いっきり下敷きにした。
連日の快晴でカラカラに乾いていた小枝たちは小気味のいい音が鳴り、話し声の少ない夜によく響いた。血の気の引く思いがした。