08 特区に潜入①
「助かりました、カイエさん」
しかし、人は減ったがいなくなったわけではない。不審に思われないよう、できるだけ普段通りの歩調で知らない街角を歩く。
シーラの家付近によくいる見るからに治安が悪そうな人は今の所いない。裕福そうだったり、まともな仕事をしてそうな人が多い。
また一つ角を曲がり、周囲に人がいないのを確認して、二人してフードを被る。ルルは自身のボリュームのある髪を押し込んだ。三つ編みをしていたから容易かった。
「怪しい人はフードを被っている。怪しまれたくなかったら被らない方がいい。でも、顔を知られたくなかったら被るしかない。つまり、フードを被っている人は結局怪しい人なんです。
シーラさんが教えてくれた素晴らしいヨンダンロンポウです」
11地区で顔を隠す理由について垂れ流された蘊蓄がこんなところで役に立つとは。
二人は合計、2回右に曲がって、ちょうど”特区”の方向に足を向けていた。そちらへ向けてさらに細くなった道をいくらか進んでいたが、逸る気持ちを抑えられず、だんだんと足速になってしまう。
「もうちょっと中央からずれた方が、門番さんに見つからないかもしれません」「行き過ぎたかな」「そういえば特区の出入り口って何個あるんでしょう……、たくさんあったら離れたと思ったら逆に近かったみたいなことになっちゃいませんか…?」
カイエはルルの苦悩には反応しなかったが、指示には従った。
壁にほど近くなってから、少し乱れた息を整えつつひょっこりと建物の影から覗いてみる。特区を囲む壁は見たところツエド外周に沿った城壁と同じ高さをしているようだ。何十メルトルあるんだろうか。
近くに小さな門はあるが、厳重に閉められている。門衛の姿もなく、普段から使われているようには見えない。
城壁に近寄る。材質は石と接着剤? セメントもモルタルも、ルルにはわからない。形と大きさを均等に均した巨大な石を隙間なく積み上げている。注視すればするほど、人の力ではではどうしようもない硬さと高さがあると感じてしまう。
ひんやりとした石に触りながらルルの表情は暗くなっていった。
何度も周囲を確認しながら、カイエに問いかける。
「カイエさん、どうでしょう……?」
斜め後ろにいたカイエは、顔を上げて壁の天辺を見ようとしている。
もう日は落ちかけている。ここから見上げる壁の上部は得体の知れない黒い影のようだった。巨人か、はたまたお化けか。近づこうと思うのが間違っているもののような。
カイエの普段閉じられている口が小さく開く。
「上が……」
しばらく経った後、
「わからない」
「…そ、そうですか。そうですね、改めてこう……しっかり見てみると結構高いし垂直ですし。方法をちょっと考えないと——ほあ!?」
カイエは右手でルルを引き寄せた。それと同時に少ししゃがんでルルの膝の裏に左腕を通して一気に持ち上げる。一瞬で横抱き——俗に言うお姫様抱っこ——された。
勢いよく持ち上げられた反動で体勢が不安定になる。ルルはびっくりして丸い目を更に丸くした。
目の前は顎。横向きの顎。ほぼ顎しか見えないが、いい形をしている。イケメンに違いない。そもそもカイエさんはイケメンなので100%確定でイケメンなのだ。イケメン王子。
反射的に思わず胸の前で両手を組んでしまったが、頭はもうちょっと冷静だった。
「……えっ、ど、どうしたんです? ぅわあ」
ルルの胸中の混乱など露知らず、カイエは城壁を助走もつけずに跳ねるように登り始めた。
石や接着部の在るか無きかな出っ張りや凹みを的確に靴の先で捉えて、垂直の壁を傍目では軽やかに登っていく。彼のどこを掴んだら邪魔にならないのか考えた挙句、ルルはできるだけ小さく身を竦ませることにした。組んだままの手は落ちないための祈りに意味を変えた。上下に大きく揺れる度に強く握った。
そうしている間に、カイエは高い壁をルルを抱えて手を使わず一気に登り切った。そして壁の上の安全な場所で、乱暴ではないものの、何も言わずに彼女を降ろす。
降ろされたルルは少しよたついた後、へたりこんだ。
「ありがとうございます……カイエさんはすごいですね…。でもせ、せめて…合図をください」
「いつも言ってるのに……、心の準備が……」泣き言を言いながら、ルルは四つん這いで登ってきたツエド側の端に寄って覗き込む。暗くて遠近感がわかりづらいが、さっきまで見上げていた明かりが眼下に広がっている。
「ほんとにすごい」
地上よりも風が強い。フードを押さえながら、カイエを振り返る。彼は壁の上の中央付近で”特区”側を向いて立っていた。髪や上着が風に煽られまくっているが不動である。
ルルは立つのが怖かったので、そのまま手の平を犠牲にしながら近寄った。カイエはルルに気付いて、右手の指で目の前を示した。
”特区”内はツエド側よりも暗かった。中の人口自体がツエドと比べて少ないからだろうか。
しかし、大貴族が持つような巨大な屋敷が所狭しと立ち並んでいる。これらは全て在外公館で、各国ごとに自国に与えられた区画の中で建設されているらしい。
よく見ると”特区”側の壁の縁が仄かに光っているのに気付いた。魔力反応だ。
城壁で囲って”特区”上空を覆うように赤黒い光の糸が細かく張り巡らされている。
「魔術式でしょうか。あって当たり前ですよね確かに。忘れてたなあ……」
糸に触れないよう注意しながら壁際を見てみるが、媒体は埋まっているのか目視できない。
「ここを通ったらどうなるんでしょう。細切れにされちゃうとかあるんでしょうか」
その時、一羽のカラスが二人の横を通り過ぎて”特区”内に入っていった。とある屋敷の木に潜り込んでそのまま見えなくなった。ルルは少しほっとして、カイエに話しかける。
「大丈夫そうですね。気づかれちゃうだけなのかもしれません」
またその時、「ウギャアアアアアアア」どこからともなく断末魔の悲鳴に似た音が聞こえてきた。
「ひええ、大丈夫なんですかね」
ルルは伸ばしていた首を瞬時に竦めた。風の音かも知れないし、十中八九この魔術式とは関係ないだろうと思うものの、怖いものは怖い。
そもそも命の危険の有無はともかく、侵入者がいることにも勿論気づかれたくない。というか、本当に命の危険はないのだろうか、疑心暗鬼になってくる。カラスは大丈夫だけど人間はダメとか、そういう感じだったらどうしよう。
「先っぽだけ試しに……。いやいやもし無事だったらそれは探知するタイプの魔術式だったってことで結局全然大丈夫じゃないし…」
とりあえず身体はやめて何か垂らしてみようかと、意味がある試行なのかわからない閃きをしたルルは、上着の下で巻いたウェストポーチからハンカチを取り出す。
フリーマーケットで5枚幾らで買ったそれには下手な刺繍がされていた。ルルの名前が縫い付けられている。教わりながら、記憶の中で初めてやった刺繍だった。シーラに教わりながら。
「……」
本体が戻ってくるなら安いものだと垂らそうとして、瞬間、フッと辺りが一段階暗くなる。
原因はすぐわかった。魔術式の光が消えたのだ。光が消えたということは、魔術式が発動していないということ。理由を考えるのは後回しだ。
「カイエさん」
ルルが声を掛ける必要はなかった。
彼の一連の動作は壁の上を吹き抜けていく風たちよりもずっと軽やかだった。
即座にまたルルを抱えて、躊躇いなく”特区”側の世界に、数十メルトル下へ飛び降りていく。手から離れてしまったハンカチは、ひらひらと羽ばたきながら彼方の暗がりに溶け込んでいった。ルルは意識して目で追わないことにした。落ちる先を見る。とても怖い。
空気抵抗と重力の決着点、地に着く前のコンマ秒、スローモーションのように不自然にカイエの身体が前方にふわりと浮いた。
そのままくるりと前転しながら勢いを殺して、とある屋敷の庭の茂みの中に飛び込んだ。少し大きな木の葉ずれの音しかしなかった。
カイエは受け身を取った後、何事もなかったかのように上体を起こしその場に座り込んだ。両手に抱えられているルルは怪我一つしていない。
カイエは上を見ていた。
「……戻った」
おそらく魔術式のことだろうとルルは理解した。
「なんだったんでしょう…? 点検の時間とかですかね、そんなことあるのかな。運がよかったんでしょうか」