02
「——ひっっ、くしゅっ!」
体が震えて目が覚めた。寒すぎる。それに枕がすごく硬い。板みたいだ。両手を冷え切った胴体に回しながらルルは目を開けた。
板みたいじゃない、板だった。硬いテーブルの木の天板だった。
目の前の白い皿には揚げ物とホルモン焼きの残りが乗っかっている。冷めて油が白くなっていた。
それを5、6回瞬きを繰り返しながら無意味に眺めたのち視線を更に上げて、はっと立ち上がる。リビングルームを一周見渡して部屋の角、数本の空き瓶の横で黒い塊を発見する。
壁に背をつけて膝を抱えて寝ているカイエがいた。
「カイエさん!」
自分みたいに寝落ちしたわけでもなさそうなのに、彼もまたまともなところで寝れていない。
横に膝をついて手に触れると自分よりも冷たい気がする。ルルの声で起きたカイエはフードを深く被ったままの頭をふるふると振る。眠気を飛ばすように。
なんでここで寝たのかと聞くのは簡単だけど、意味のない疑問だった。
まだ彼は、誰にも指示をされずに自己判断で寝台の上で眠る習慣がついていないだけだ。何も言わずに寝落ちした自分が悪い。ルルはそう結論付ける。
「お風呂にお湯を溜めてくるので待っててくださいね」
浴室の使い方はこの家に来た初日にシーラに教わった。
浴室前に備えられた水甕のメモリを確認すればほぼ満タンに入っている。魔術回路により導線が繋がったシャワーヘッドのレバーを右に倒し、スイッチを押す。
軽く全体を流した後、浴槽の底の栓を閉めて、シャワーヘッドをお湯を出しっ放しのままそこへ沈めた。
リビングルームに戻るとカイエがもたもたとコートを脱いでいた。
脱ぎ終わったらシャツをスルーして先にズボンに手をかけている。
「わあー! 続きは洗面所でしてください!」
脱ぐ前に洗面所に押し込んだ。しばらくしたのち、浴室の扉を閉める音。
「シャワーの使い方は覚えていますか? 白い滑るやつで体を洗うんですよ」
洗身の仕方はシーラが教えていたはずだ。やり方を教えていれば、あとは指示さえしていればできる。彼は物覚えがいいのだ。
カイエと自分の着替えの用意をしつつ家中の窓を開ける。
遮光カーテンを捲ると鉄格子越しの青空が見える。
都市の中央側に目をやれば、視界を縦に横断する巨大な白い塔が見える。上の果ては見えない。
ルルたちの出てきた『門』のある施設だ。
窓を開けると外気の方が暖かかった。
普段よりも長く寝ていたようだ。慣れないことでやはり疲れていたのかもしれない。一旦状況に整理がつくと、否が応でも受け止めなければならない事実がある。
足元に忍び寄る冷気のように、家に帰ってからずっとまとわりついている嫌な確信。
やっぱり、
「——シーラさん、帰ってきてない」
シーラは気分屋だが、約束を勝手に反故にするような人物ではない。ルルはそう思っていたから、書き置きを探していたけど見つからなかった。
肌着とズボンを履いて出てきたカイエの黒髪を軽くタオルドライして、浴室に向かった。
すぐにシーラを探しに行きたい気持ちはあったが、お風呂に入らないとぐしゃぐしゃすぎる。
お湯をかぶると冷え切っていたのかじんじんする。
曇った鏡をお湯で流すと寒さで血色の悪い少女の顔があった。
ルルの紫色の丸い目は寝過ぎたせいか充血している。桜色の髪の毛は長いしやたらとふわふわした癖っ毛だからぐるぐると絡まっている。どことなく幸の薄そうな雰囲気がある。
「どこかで飲んでたのかなあ? でもだったらさすがに帰ってきてるよね……。お店じゃなくて道端で寝ちゃったとかなのかな。迷子になっちゃったとか…? 何かに巻き込まれちゃってたらどうしよう…」
湯船に浸かってリラックスできる心境ではない。できるだけ急いで顔を洗って髪を洗って体を洗う。
肉付きがいいとは言えない肉体から泡を洗い流して、両頬を軽く叩く。
「シーラさんを探す! まずは行きつけのお店を探す!」
ブラウスの上に赤茶色のエプロンスカートを着る。寝室にニット生地の上着があったはず。
汚れた衣料を洗濯かごに集める。帰ってから洗うことにする。
髪の毛を拭きながら出ると、カイエはシンプルな麻のシャツを着衣し、ボタンを留めて立っていた。
癖のないサラサラした黒髪。その下の緑色の目は嵌め込まれた宝石のようだ。端正な容貌だが無表情なので人形のようだ。地味で庶民的な装いでも、カイエが着ると上品な感じがした。
「え、貴公子!? はわわ……!」
「キコウシ?」
「あっ…し、シーラさんを探しに行きましょうという意味です!」
髪をしっかり乾かすのは諦める。緩い三つ編みを作っておさげにする。
上衣を渡しながら、よくわかってなさそうなカイエに説明する。
「シーラさんが家にいませんよね」
「うん」
「でも、わたしたちが家を出るとき、シーラさんは約束してくれてました。
夕方に帰るなら、その時間には家にいるって」
「……」
その場に一緒にいたのに忘れたようだ。
「でもいません。なので探しにいきましょう」
「なんで」
「シーラさんがいないと寂しいからです。カイエさんもそう思ったはずです。
扉を開けたら明るくて暖かい家が待っていると思っていましたよね!
でも冷たくて暗かった。がっかりでしたよね」
「……?」
がっかりという概念はまだ難しかったかもしれない。
「カイエさんは少しつまらなくなったはずです!
それに残りのホルモン焼きを食べてもらわなきゃいけません。
カイエさんはシーラさんがおいしいって言ってたから買ったんですよね。つまりお土産です。シーラさんに食べてもらわなきゃいけません」
強引に納得させて家を出る。鍵も忘れずに。
……とはいえ、ルルはこの街に全く詳しくない。自主的な散策もしたことはない。
一週間ほど前にここに来て、更に数日間とある依頼で街を出ていた。精々シーラの買い出しに数度ついて行ったぐらいだった。
家の周辺は、「明るくなったらそんなに治安悪くないかも?」というかつてのシーラのふわっとした発言を信じるしかない。
そもそも治安の良し悪しは個人差があるんじゃないかという疑問も浮かんでくる。
自宅の周辺は店は少なく、ルルたちと同じように空き家に住み着いた人たちと、麻薬窟、あるいは魔薬窟、違法薬物や道具の取引場、どこから来たのかわからない——おそらく都市の外から来た集団が潜んでいたりするらしい。
この街の中で大きな勢力の傘下に入っていないあぶれ者、あるいは入ろうしている新参者が多く住む場所の一つだそうだ。
ツエドを上から見て、南西のあたりに存在するこの区画は、都市の住民たちに11地区と呼ばれている。11番目の地区という意味ではない。たまたま表通りに程近い建物に11という数字に見えなくもない落書きがされていたのが由来である。
昨日は疲れからか、妙なハイテンションになっていたのかもしれない…。日の暮れた11地区を昨日あんなに怖がらずに歩けたのだから。
建物から出て、朝の比較的澄んだ雰囲気の中でもはっきりと埃が見える。壁に描き殴られた意味不明な言葉の羅列——ルルの知らないスラングだろう——や謎のシミから総体的に攻撃性だけは伝わる。
頭一個分は背の高いカイエを見上げると、隣に立つ彼は何の感情もなく淡々と荒れた路地を眺めている。
落書きの存在を認識すらしていない可能性が高いが、ルルにとってはとても心強かった。