ほんのひととき、すべてを忘れて
陽射しが優しく、風が心地よく通り抜ける日だった。
白いレースのカーテンがふわりと揺れ、窓際の椅子に腰かける私の髪を少しだけ持ち上げる。
「お嬢様、こちら、乾きました」
ミリアが籠いっぱいのハーブを持って戻ってきた。
干したばかりのカモミールとラベンダーが、部屋の中に柔らかな香りを広げる。
私は小さく頷いて、テーブルの端に布を敷いた。
「ありがとう。今日はオイルと、あと……薬草袋も作りましょうか」
「はい!」
ミリアは嬉しそうに笑った。
あの涙ぐんでいた彼女が、こうして穏やかに笑ってくれるだけで、私は心が救われるような気がした。
薬草を一枚ずつ丁寧に重ね、リネンの袋に詰めていく。
とても地味な作業なのに、不思議と心は落ち着いていた。
こんな時間を、前の私は――知らなかった。
彼女と共に過ごす、たったひとときの温もりを。
「……ねえ、ミリア」
「はい?」
「私の侍女で、よかったって思ってくれてる?」
不意に出た言葉だった。
ミリアは驚いたように私の手を見て、そしてすぐににこっと笑った。
「もちろんです。私は、お嬢様の傍にいられるだけで幸せですから」
その笑顔は、どこまでも純粋だった。
私は、何としてもこの子の未来を守らなくてはいけないと思った。
* * *
夕方、屋敷の外を歩いていたとき、偶然レオンと出くわした。
彼は馬から降りたばかりで、軽装のまま汗を拭っていた。
私に気づくと、ふいに優しい笑みを浮かべる。
「奇遇ですね、ノエリア嬢。こんな時間にお散歩ですか?」
「ええ、ミリアと摘んだ薬草を干していて……少し風に当たりたくなって」
「……あなたは変わらないな」
「え?」
「昔から、薬草や香草が好きだった。戦の後も、傷を癒す匂いのする部屋で、何も言わずに黙々と干していた。……そんな姿を、よく見ていました」
私は一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。
記憶の底にあった“誰かの視線”が、今と繋がった気がした。
「それは……光栄です」
ぎこちなく返すと、彼は少しだけ目を細めた。
「変なことを言いましたか?」
「いえ……なんだか、懐かしい気がして」
「俺も、です」
彼の声が、不意に遠く感じた。
こんなふうに、穏やかに微笑んでくれる彼と並んで歩ける時間があるなんて、回帰前の私は知らなかった。
でも――それでも、今はまだ、口にはできなかった。
この人に想いを告げるには、私の中にまだ“守るべきもの”が多すぎる。
彼が去ったあと、私は庭に残って空を見上げた。
ほんの短い会話だったのに、心がふわりと浮かぶようだった。
* * *
夜――
廊下を歩いていると、書斎の扉がほんの少しだけ開いていた。
中から、父と老執事の話し声が聞こえる。
「……王都入りの件ですが、あの子の嫁ぎ先も視野に入れておかねばなりませんな」
「その件、既に二家から申し出がある。どちらも地方とはいえ、領地は広く……」
そこで、私は思わず足を止めた。
(嫁ぎ先? ……わたしの?)
「……あの子の立場を考えれば、早いうちに“出す”のが得策ですな。加護も不安定で、万が一にも“黒の兆候”があれば……」
それ以上、聞きたくなかった。
私は静かに後ずさり、廊下の陰へと身を潜めた。
政略結婚――
それは、私が“役に立たない存在”として処理される方法。
家の顔を保ちつつ、王都の空気から遠ざけるための手段。
でも私は、もう“黙って従う娘”ではない。
ミリアを守るために、レオンを救うために、私は戻ってきた。
今度こそ、自分の運命は自分で選ぶ。
私は窓の外を見つめた。
今夜は月が滲んで見える。
でも、きっと明日には、また新しい光が差す。