第四話:ミリアの涙、繰り返される悪意
その日は、どこか空気が重かった。
朝の光はいつもより鈍く、廊下に射す陽も淡く濁って見える。
空気の流れすら淀んでいるような感覚がして、私は胸の奥に小さな棘のような不安を覚えていた。
それが、何に由来するものなのか。
私はすぐに、思い知らされることになる。
食堂の隅で、ミリアが膝をついていた。
床には砕けた皿と、こぼれたスープが散っている。
その向かいで、見下ろすように立っていたのはリサという使用人だった。
「まったく、ドジな子。だから貴族の娘には相応しくないって言われるのよ」
冷たい声に、私は眉をひそめた。
(……もう始まっている)
回帰前、ミリアは侍女頭の陰口や差別にずっと耐え続けていた。
“加護を持たぬ主人に仕える無能な娘”という陰口。
それでも彼女は私の傍を離れなかった。
そして、最後には“異端擁護”という理由で捕らえられた。
私はその時、何もできなかった。
だからこそ今、ここで変えなければならない。
「リサ、その言葉を撤回しなさい」
私ははっきりとした声で言った。
食堂の空気が凍りつく。
使用人たちが息を呑み、私とリサの間に視線が集まる。
リサは目を見開いていたが、すぐに苦笑めいた表情を浮かべた。
「……まあ、なんて。お嬢様、随分とお強くなられて」
「私は、侍女が誰であれ尊重されるべきだと思っています。貴女がそのような言葉を使うなら、使用人としての資格を疑います」
それは、貴族令嬢が“格下の使用人”に向かって言うには充分な一言だった。
ざわめきと共に、リサは顔を真っ赤にして頭を下げた。
「……失礼いたしました」
そして彼女は去っていった。
私はミリアに手を差し伸べる。
「大丈夫?」
彼女は、小さく首を振った。
「……ごめんなさい、お嬢様。私、また……」
「何も悪くないわ」
私はそう言って、彼女の手を取った。
「今度は、ちゃんと守るから」
* * *
午後、私は執務室の隅でミリアと紅茶を淹れていた。
彼女は何度も「迷惑をかけてしまった」と言ったが、私はそのたびに首を振った。
「ミリア、あなたがいるから、私は孤独じゃないの」
彼女は目を潤ませながら、小さく頷いた。
その夜、私はまた夢を見た。
黒い霧の中に、ひとり立つミリア。
彼女の周囲に集まる光の矢。
処罰され、吊るされる未来の残像。
その中で、私は叫んでいた。
声が届かず、腕も届かず、ただ見送るだけだった自分に、叫んでいた。
「もう二度と、あんな思いはしたくない……!」
目覚めた時、私は冷たい汗をかいていた。
* * *
数日後、私は父に“神殿への随行”を願い出た。
神殿からの呼び出しを受けての行動。
表向きは“加護の再審査”のためだが、本当の目的は違う。
この機に乗じて、ミリアを“王都から離れさせる”。
遠方の療養施設か、信頼のおける領主の館。
私の加護を使って、彼女の“加護異常”という形で偽装し、送り出す。
それが、彼女を救う第一歩だ。
「……ミリア、少しだけお別れしなければならないかもしれないわ」
「え……?」
「でも、安心して。全部私が決めて、全部守るから」
彼女は、なにも聞かずに頷いてくれた。
私のこの決意を、信じてくれたように。
さあ、次は神殿。
運命が大きく動き出す場所。