第八話:旅立ちの朝、少女の瞳に映る影
その朝、空は雲ひとつない晴天だった。
けれど、胸の奥にはどこか曇った影が残っていた。
ミリアが、屋敷を離れる。
それが“私の決断”だったとしても、
それが“彼女を守るため”だったとしても、
やはり別れは寂しい。
荷車には、少しの荷物と薬草を束ねた袋。
手紙と、彼女の髪を結うためのリボンをひとつ添えた。
馬車の御者は信頼の置ける人間を手配した。
目的地の領主邸には、文と共に私自身の加護を託してある。
これで、しばらくは安全なはずだ。
「お嬢様」
ミリアが振り返った。
その瞳は潤んでいたけれど、笑っていた。
まっすぐに、私だけを見てくれていた。
「私……ちゃんと、行ってきます」
「ええ。約束よ、無理はしないで」
「うん」
私は彼女を抱きしめた。
あたたかくて、小さくて、でもとても強い背中だった。
「あなたの人生を生きて。私のためじゃなくて、自分のために」
「……はい」
小さな声で、それでもはっきりと。
そして彼女は馬車に乗り込み、ゆっくりと門の外へと出ていった。
私はその後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
今度こそ、彼女は“死なない”。
それが、この回帰の最初の救済。
けれど――その代償は、既に始まっていた。
* * *
「姉様、今朝の空、きれいでしたね」
その声に振り向くと、アリシアが白いドレスを揺らして歩いてきた。
彼女の笑顔はいつも通り。
けれど、その目の奥に、私は確かに違和感を感じた。
まるで、何かを“見透かしている”ような――
「ミリア嬢、もう出発されたんですよね?」
「ええ。今朝、無事に送り出しました」
「そっか。……じゃあ、わたし、これからは姉様を独り占めですね」
くすりと笑ったその声が、どこか“冷たい”。
私は内心で警鐘を鳴らしながらも、微笑みで返した。
「ずっと傍にいられるわけじゃないけれど、できる限り、ね」
「……そうですね」
彼女の笑みが一瞬、固まったように見えた。
けれどすぐにまた、天使のような表情に戻る。
「姉様、わたし、最近すごく調子がよくて。
癒しの加護もどんどん強くなってきて……この前なんて、
倒れていた小鳥を触ったら、ぱたぱたって羽ばたいて飛んでいったんです」
「それは……すごいわね」
(……けれど)
私は思い出していた。
回帰前、アリシアの加護は“癒し”ではなく、
“吸収”のような特性を持っていた。
彼女自身がそれに気づいていたかはわからない。
でも確かに、誰かを癒した直後、
彼女の周囲の空気はいつも、どこか冷たく、張り詰めていた。
「姉様も、今度何かあったら言ってくださいね。きっと、全部よくなるから」
「……ありがとう」
私は穏やかに頷いたが、内心では凍りつくような感覚を抱えていた。
アリシアは、今――自覚のないまま、
他人の“命”を喰らい始めているのかもしれない。
* * *
その夜、私は巫女の夢を見た。
白い髪に黒の刺繍衣をまとう彼女が、闇の中で微笑んでいた。
「一人を救えば、もう一人が堕ちる。
おまえが選ぶ限り、秤は揺れる。
それが“契約”だ」
「でも、私は……」
「わかっている。おまえは選び続ける」
彼女の声は、優しくも、残酷だった。
「救った命は、もうおまえの中にある。
だがそれは、別の命の“重み”として、返ってくる」
私は拳を握った。
「それでも…守るべき人の未来を、もう壊させない」
巫女の目が、わずかに細められる。
瞬間、視界が闇に溶けた。
* * *
朝。
庭で風に揺れる白花の前に、ひとり立つアリシアの背を見つめる。
彼女の手には、小さな野兎がいた。
「姉様、見てください。昨日、怪我をしていたんですけど……」
そう言って彼女が手をかざした瞬間、
うっすらとした黒い靄が、彼女の手元から立ち上った。
野兎の目が、一瞬ぎゅっと閉じられ、動きを止める。
そして次の瞬間――
「ほら、元気になりました!」
ぱたぱたと跳ねていく兎。
けれど私は、それを“癒し”とは思えなかった。
回復したように見せたのだ。
私はそっと手を握る。
まだ彼女には、何も告げない。
貴女は、壊して戻している自覚がない。




