1話 仮初淑女・グレイス
窓から入り込む光は柔らかく、部屋の中にいる人々を優しく包み込んでいた。
部屋の中には神父と、神父の前には若い男女が向き合っている。
女の方は、まだ十代前半程だろうか。女性と呼ぶのにはまだ若く見える。銀色の長い髪をきっちり一つに纏め、向かいの男を見つめる瞳は、雲一つない空の様に透き通った青色。誰もがハッと振り返ってしまうほどの美貌を備えているせいか、顔に浮かんだ緊張もとても可愛らしいものに見える。
「婚約の義を執り行います。両者、よろしいですね?」
婚約の義――それは、名前の通り、男女の婚約を執り行うための儀式だ。神父を伴ったこの儀式を終えた男女は、国に認められた正式な婚約者となる。
「は、はい!」
「……」
神父の問いに、少女は肯定の声を上げ、男は黙ったまま。
男は、全体的に白っぽく輝く少女とは違い、全体的に黒かった。……というよりも、全体的に暗い印象を与えていた。
黒い服装はもちろんのこと、黒く長い髪はぼさぼさで、首の後ろで適当に結ばれているだけ。瞳はまるで海の底の様に暗い青。下瞼には隈が広がっている。
体つきは男らしく、背も高い。顔つきも、元々は端正なのだろうと思わされるような顔立ちをしている。……全く磨かれていないだけで。
押し黙る男に、神父は「えっと、あの」と声を漏らし、少女へ視線を移した。
「婚約しちゃうんだけど……良いんですよね?」
「わ、わたくしに聞かないでくださいましっ!」
神父に困ったように訊ねられ、少女は小さく叫んだ。
「(今日から私は、この人の婚約者になるんだ……!)」
心の中で叫びながら、少女――グレイス・クロノスは、向かいの男を盗み見た。男は少女と目が合うと、逃げる様に仄暗い瞳を逸らした。
……なぜこのような意味の分からない状況になっているか。それを説明するために、皆さんの時間を少しだけ頂きたい。
それはそれは、ほんの少しだけ前。具体的に言えば、一週間程前の事。グレイスにとって忘れる事の出来ない一日となった、ある日の事だった。
*
春の訪れを告げる柔らかい光が降り注ぎ、美しい花々が咲き誇るその場所で、着飾った少女たちが談笑している。
ここはクロノス家の庭園だ。今はクロノス家主催のサロンの真っ最中で、招待された貴族の令嬢達が仲の良い者同士、または仲良くなりたい者同士で会話を楽しんでいた。
そんな中。一人の少女がオロオロとした様子で、誰にも話しかけられずその場に立っていた。
少女の名前はシャーロット・オビデンス。オビデンス男爵家の令嬢で、茶髪にエメラルドの瞳を持った、庇護欲を掻き立てられるような可愛らしい容姿の少女だ。
シャーロットには社交性がない。どの令嬢に話しかけられても、まるで怯えた小動物の様な態度に、皆、辟易としてしまう。彼女の噂も相まって、今では誰も彼女に話しかけなくなっていた。
「(どうしよう。誰かとお話ししたいのに、これじゃあ……)」
考えながらも、誰とも話せない現状に、シャーロットは苛立ちを覚える。そんな時だった。
「オビデンス男爵令嬢。どなたかとお話しいたしませんの?」
「え? ……グ、グレイス様!」
後ろから話しかけられ、振り向いたシャーロットは驚きで声を裏返してしまう。
視線の先には、このサロンの主催者であるグレイス・クロノスがいたのだから、そうなるのも仕方がない。
グレイスの行動に、周りの令嬢達には静かなさざめきが起こっていた。「まさかクロノス伯爵令嬢があの子に……」という声すら聞こえる。
周囲の放つ言葉はグレイスには聞こえていないのだろう、空色の瞳は真っ直ぐにシャーロットを見つめていた。しかし、シャーロットはその視線に応える事はできず、思わず俯いてしまった。
「……ごめんなさい。もしかしたら、お一人の方が良かったかしら?」
「えっ!? い、いえ、そういう訳では……!」
シャーロットの態度で何か勘違いをしたらしい。グレイスは薄く微笑んで踵を返した。
「(こ、ここで誤解されたら不味い……!)」
シャーロットの中には焦りが生まれていた。主催者に見捨てられれば、自分に話しかけてくる令嬢など本当に皆無になってしまう。……だからだろう、彼女が咄嗟の行動に出てしまったのは。
「ま、待ってください!」
「え? ――きゃあっ」
「きゃああっ!」
「……え? え?」
目の前で上がった悲鳴に、シャーロットの思考は停止した。
焦ったシャーロットがグレイスを呼び止めようと、華奢な腕を咄嗟に掴んでしまったのだ。グレイスはいきなり掴まれた腕に気を取られ、前に倒れてしまう。
運が悪い事に、そこには別の令嬢もいた。……貴族の中でも気が強いと噂の令嬢が。
グレイスは痛みを堪えて体勢を整えると、自分の下敷きになってしまった令嬢へと手を差し伸べた。
「ごめんなさい、フェロール伯爵令嬢! お怪我は?」
「い、いいえ、クロノス伯爵令嬢。わたくしは大丈夫です。クロノス伯爵令嬢こそ、お怪我は?」
グレイスの行動に目を丸めながらも、倒れ込んだままの令嬢――エラ・フェロール伯爵令嬢は「失礼します」と差し出された手を取った。
エラは気が強く、他人に厳しいと貴族令嬢の間でも有名だ。性格だけではなく、燃えるような赤髪と吊り上がった赤目がより一層噂の真実味を引き立たせている。
支えられながら立ち上がったエラはグレイスにお礼と謝罪をすると、キッとシャーロットを睨みつける。
「貴女、何様かしら?」
「え?」
「謝罪もせず、助けもしないでボーっと突っ立ってるだけ? ……ふん。前から分かり切っていたけれど、貴女って本当に嫌な女ね。だから学園中の女生徒から嫌われるのよ」
「っ……!」
エラの言葉に、シャーロットは顔を歪ませた。彼女の言う通り、ジャーロットは今現在通っている「フローレンス学園」の女生徒達から嫌われていた。
始まりは、シャーロットがとある男子生徒に好意を持たれた事だった。男子生徒は人目も気にせず「好きだ、愛してる」という言葉を使うほど、シャーロットに惚れこんでいた。不味かったのは、この男子生徒がエラの婚約者だった事だ。
話し合うにも「自分は何も悪くない」という態度しか示さないシャーロットに、エラを含む周囲の女生徒は怒り、嫌悪した。もちろんエラは婚約破棄、婚約者であった男子生徒は意気揚々とシャーロットに婚約を申し込むも、シャーロットは「NO」を突きつけた。男子生徒はエラ諸共周囲から腫物扱いされ、自主退学。……こうしてシャーロットは、学園一の嫌われ者になったのだ。
「(……た、確かに、エラ様の婚約破棄は私が原因の一つかもしれないけど)」
考えながら、シャーロットはドレスの裾をグシャリと握った。――ここまで言われるなんて理不尽じゃないか、という怒りを込めて。
「あっ、あのっ!」
「何よ」
「その。……そんな言い方、良くないと思うんですけど……!」
「は、はぁ!? あ、貴女、自分が何を言ってるのか分かって――!」
「そこまでです」
「っ……ク、クロノス伯爵令嬢……」
今にもヒートアップしてしまいそうな話し合いに割り込んだのは、他の誰でもないグレイスだった。
グレイスに割り込まれたエラは「ですが」と声を漏らすも、グレイスの空色の瞳に見つめられてしまえば、折れるしかない。
「申し訳ございません。このような場で事を荒立てるなんて、淑女として失格ですわね」
「フェロール伯爵令嬢。貴女方の間に何があったのかは分かりませんが、今はクロノス家主催のサロン中。……わたくしを助けると思って、気持ちを落ち着かせて欲しいのです。わたくしは、皆様に楽しい時間を過ごしてほしいの」
小声の囁きの後、「もちろん、貴女にも」と付け足し、グレイスは微笑んだ。酷く美しい微笑みに、エラは言葉を詰まらせ、再度謝罪の言葉を口にした。
グレイスの美しい微笑みに魅了されたのはエラだけではなかった。
「オビデンス男爵令嬢、でしたね?」
「えっ、あっ、はい!」
「ふふっ。そんなに緊張なさらないで? ……気持ちは、言葉にしないと伝わらないものよ? もし誤解されてしまっている事があるのなら、ちゃんと口にしなければ」
「あ……」
こちらを見透かしているような言葉と共に、グレイスは微笑みを浮かべた。天使の様な笑みだ。思わず、シャーロットは頬を赤らめ、見つめてしまった。同時に、欲望も生まれた。
「(この方と――グレイス様と、仲良くなりたい!)」
湧き出る泉の様な欲望に、シャーロットは「あの!」と声を上げた。
「――グレイスお嬢様!」
「……あら、もうそんな時間なのね」
……同時にグレイスへ呼びかける声にかき消され、シャーロットの声は彼女へと届く事は叶う事なく。
侍女に声を掛けられたグレイスは「皆様」と周囲へ声を掛けた。
「少し、この場をお暇させて頂きます。主催の身で申し訳ありませんが……」
そこまで告げて、グレイスは扇子で口を覆って小さく咳をする。すると、どうだろうか。周囲は「まぁ」と、同情するかのような視線をグレイスへと向け始める。
グレイスは「失礼いたします」と告げ、美しい所作で会場を後にした。……グレイスへと手を伸ばしたままのシャーロットを残して。
「(は、話せなかった……!)」
伸ばしていた手と視線を下げ、シャーロットは肩を落とした。彼女にとっては学園でいじめを受けていた時よりも、話してみたい相手と話せない方が辛い。シャーロットは酷くショックを受けていた。
落ち込むシャーロットをよそに、周囲の令嬢達は感嘆の溜息を吐いた。
「クロノス伯爵令嬢って、本当に健気な方よね」
「本当、本当! サロンを開くだけでも、お体の負担になるでしょうに」
「さっきの仲裁もお見事なものでしたわ。……それに比べて」
ジロリ。嫌悪の視線が突き刺さり、シャーロットは肩を震わせた。
「クロノス伯爵令嬢とフェロール伯爵令嬢に怪我を負わせるような事をしておいて、まだこの場にいるなんて。厚顔無恥とはこの事ね」
「そういえば彼女、フェロール伯爵令嬢と何かあったのかしら? わたくし、学園に通っていないから何も存じ上げませんの」
「あら、そうなの? 実はね……」
ええ、本当に? 本当よ、酷いでしょう? ……そんな会話を筆頭に、ひそひそとした声がシャーロットを包み込んだ。
「っ……!」
心をナイフで引き裂かれるような胸の痛みに、シャーロットは声にならない声を漏らし、走り出した。何人かの令嬢にぶつかり悲鳴が上がるが、すべて無視して会場を後にする。
学園にいても、令嬢達の憩いの場であるサロンにいても邪魔者扱い。もう耐え切れなかったのだろう。
そんなシャーロットの心情などつゆ知らず。会場にいる令嬢達は嘲笑し、口汚く罵った。……一人を除いて。
「(あの女……)」
エラ・フェロール伯爵令嬢。彼女だけは眉間に皺を寄せ、グレイスとシャーロットが出て行った会場の扉を睨みつけていた。
こちらを諭す女神の様なグレイスと、瞳に涙を溜めた子猫の様なシャーロット。二人の令嬢が脳裏に浮かび、エラは歯ぎしりを鳴らした。
一方、グレイスは何をしているかというと。
「――つっっっかれたぁ~! 私ってほんと、令嬢向いてない……。やめたい……」
自室に戻り、ベッドにダイブしていた。ドレスや化粧もそのままに、自分の枕を抱きしめ、涙ながらに落ち込んでいた。
……そう。彼女、グレイス・クロノスは、親密な者以外の前だけ「完璧な淑女」となる少女だった。その完璧な淑女っぷりは令嬢達の間だけではなく、国の王太子も認める程。
ベッドで唸っている主人を見て、侍女のソフィーは「いいえ」と口を開いた。額にかかる灰色の髪をサラリと揺らして、彼女はグレイスへと微笑む。
「お嬢様の側に仕えて、もう十年になりますが……。お嬢様程の淑女っぷり、他に見た事がございませんわ」
「……ほんと?」
「本当です」
「……ほんとにほんと?」
「ほんとのほんとです!」
枕からちらちらとソフィーを覗き見るグレイスは、親に怒られた子供の様。しかし、褒められて気分が上がったらしい。「むふっ」と笑みを浮かべた。
「ソ、ソフィーがそこまで言うなら。もうちょっとだけがんばっちゃおっかな~」
ニヤニヤと、心の底から嬉しそうにする主人を見て、ソフィーは微笑む。――扱いやすくて助かるわぁ、と心の中で零しながら。
一方グレイスは、ソフィーの誉め言葉と彼女のニコニコとした微笑みに頬を赤らめ、上機嫌なままベッドに倒していた上半身を起こした。枕を抱きしめ、顎を乗せたまま「でも」と続け、少しだけ顔を曇らせる。
「本当に良いのかな?」
「何がです?」
「いや、なんかさ。私が病弱みたいになってるでしょ? なんていうか、みんなを騙してるみたいで心苦しいというか……」
「仕方がないことでございます。お嬢様の淑女っぷりには制限時間がございますから。お嬢様が病弱だと周囲に誤解してもらえれば都合が良いのです」
「うっ。そ、それを言われると……」
ソフィーのハッキリとした口調にグレイスは胸を抑える。……そう。誰もが見惚れる程のグレイスの淑女っぷりには制限時間がある。
元来、グレイスは貴族らしく振る舞う事が苦手だ。はたから見れば全くもってそんなことはないのだが、彼女が言うには「演じること自体は大丈夫だけど長時間は無理です本当にごめんなさい」らしい。どうやら、集中力が続かないようだ。
グレイスは「はぁ」と溜息を吐いた。抱きしめている枕に顔を埋め、「あー」と声を漏らす。
「もっと令嬢らしく振る舞えたらなー」
「お嬢様……」
「あ、いや。落ち込んでるわけじゃないよ? こういう事って、努力するしか道はないんだし! でしょ?」
勢いよく顔を上げ、グレイスは「うん!」と元気よく頷く。そんな主人の様子に、ソフィーの顔にも笑みが零れた。グレイスは正直で真っ直ぐな娘だ。長年側にいるソフィーにとっては、それが何よりも嬉しい。
その時。コンコン、とノックの音が部屋に鳴り響き、二人の視線は扉へと注がれた。
「どなたでしょうか。お嬢様、よろしいですか?」
「うん、お願い」
グレイスの返答を聞き、ソフィーは扉を開けた。
「失礼いたします、グレイスお嬢様」
「セバス!」
開かれた扉の向こうにいた人物を確かめると、グレイスの頬に笑みが浮かんだ。彼女の微笑みに、老執事――セバスにも、穏やかな笑みが浮かぶ。
「セバス、さっきからどこ行ってたの?」
「少し用がございまして。……そんな事よりも、お嬢様。旦那様がお呼びです。すぐ書斎まで来られますよう」
「えー」
問いを躱し要件を告げるセバスに、グレイスは不満げな声を上げた。
「(こういう呼び出しって、面倒になる事が多いんだよなぁ)」
今まで呼び出された時の事を思い出し、グレイスは吐きそうになった溜息をグッと堪えた。セバスの困ったような、下がった眉が見えたからだ。
「お嬢様」
「うー、分かったよ。すぐ行きます」
穏やかなセバスの声に、グレイスは重い体をベッドから引き離し、立ち上がる。
「嫌な事はさっさと終わらせた方が良いよね」
「うん」と一人納得し、グレイスはソフィーとセバスを引きつれて自室を後にした。
先頭を歩くのはセバスだ。その後姿を見て、グレイスはふと違和感に気付いた。ゆっくりと歩く彼は、どうも右足を庇って歩いている様に見える。
「ねぇ、セバス」
「何でしょうかな、お嬢様」
「右足、怪我したの? 大丈夫?」
グレイスの問いに、ピタリ。セバスの動きが止まり、グレイスは彼の背中に鼻をぶつけ、咄嗟に謝り、顔を見上げた。
「……セバス?」
グレイスが見上げたその顔は一瞬、どこか悲しそうに、寂しそうに見えた。一瞬の後にふっと微笑んで、セバスは優しく応えた。
「……なんでもございませんよ。さ、早く参りましょう」
「? 変なセバス」
首を傾げながらも、場を明るくするよう笑うグレイスに、セバスは再度微笑んだ。
――クロノス家当主の書斎。グレイスにとっては、あまり良い気分にはならない場所だ。
セバスを筆頭に入室すれば、書斎の一番奥、大きな机に淡い金髪の男が一人腰かけていた。
「待っていたよ、グレイス」
金髪の男――トルツ・クロノスは、クロノス家の主人。つまりはクロノス伯爵であり、グレイスの父だ。
穏やかな笑みを浮かべるトルツに、グレイスは思いっ切り顔をしかめた。
「用って何、父ちゃん」
「パパと呼びなさい」
「絶対、嫌」
上記三行は、彼等の中では挨拶なようなものだ。会う度にこのやりとりをしているため、セバスやソフィーの様なクロノス家に長く勤めている使用人は、このやりとりに対してのするスルースキルがカンスト済みだ。現に今も、使用人二人は顔色一つ変えていない。
「仕切り直しだ」とでも言いたげに咳ばらいをすると、トルツは「腰掛けなさい」と着席を促した。グレイスは大人しく着席、ソフィーやセバスはどこから出したのだろうか、ティーカップをテーブルの上へ置いた。
着席したグレイスからの「はよ要件言え」とでも言いたげな視線に、トルツは再度咳ばらいをする。
「あー、いや、なんだ。ちょっとお前に頼みがあってだな。この家の命運をかけた事なんだがな」
「え、うん。別に良いけど。……え、なに? 改まって。なんか怖い」
もじもじ。好きな子に告白する前の女子の様なトルツの様子に、グレイスは少し怯える。「別にいい」と即答はしたものの、当主が「家の命運がかかっている」言うなんて、普通の事ではないのだろう。
「一体何なんだろう」と考えながら、グレイスは次の言葉を待つ。
「――すまん!」
「……へ?」
――それは見事な土下座だった。思わずソフィーが「あら、美しい」と声を漏らす程に、流れるような動作の土下座だった。……トルツは、実の娘へ向かって、それはそれは堂々とした土下座をしていた。
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