善良な殺人者
衝動殺人と、前代未聞の死体処理法。
そして、何度も展開していく、謎解き。
誰の小説で読んだのかは、とっくに忘れてしまったが、妙に、心に残っている話がある。
それは全くの完全犯罪であって、しかも誰にも、見破られないという、正に究極の殺人方法を書いた話だと言うのだ。
その話の概要とは、確か、次のような話だったと記憶している。
つまり、老婆(いや、老人なら誰でもいい)がゆっくりと、交通量の多い道路を渡ろうとしている場面を想像してもらおう。勿論、そこは横断歩道ではない。その老婆(老人)は、無理矢理、強引に道を横断しようとしているのだ。
さて、あと少しで道を渡りきろうとしたその瞬間、ここに、悪意ある殺人者がいて、大声で注意を促すのだ。
「あっ、危ない!おばあさん、後ろから車が!」
と、ここで、くだんの老婆は、オロオロとためらい、人によっては後ろを振り返るかもしれない。しかし、ここがこの話の最大のトリックで、敢えてそのような大声で注意しなけば、そのまま道を渡りきったであろう老婆は、一瞬、茫然自失となってしまうのだ。
そして、そのわずか数秒の迷いが、老婆の運命を分けることになる。
運良く渡りきった場合、声を掛けた本人は、感謝されることはあれ、非難されることは全くない。で、運悪く、(実はもともとそれが狙いのだが)、運悪く老婆が車にはねられ轢き殺されたとしても、やはり、目撃した周囲の人達からすれば、彼の大声は、単に善意で発しただけであった筈で、やはり、当の本人が本心を自白しない限り、いかなる犯罪にも問えないであろう。
これこそ、一見、善意や親切心に名を借りた、究極の完全犯罪なのだ、と、確か、かような話だった記憶している。
これは、ある意味、現代社会の中に棲む悪魔の所行であろう。しかし、何度も言うように、例え、その本心にもの凄い悪意があったにせよ、誰にも、声を掛けた当の本人を告発すること等、絶対に不可能なのだ。そう考えると、実に、恐ろしい完全犯罪ではないか?
……それはさておき、貴方は、これから私が記す話を、どう、受け止められるであろうか?果たして、この話を真面目に信用されるだろうか?勿論、語り部は、この私なのであって、この話の主人公の高橋良介ではないのだ。その点、若干、誇張した表現もあると思われるのは許して頂きたい。
ちなみに、私と、次の話の主人公の高橋良介とは、どういう関係だって?同じ北陸地方のT県に住んでいる友人同士だと思ってもらえばいい。で、これからの話をどうして私が知ったか、それも、おいおいこの話を読んでいかれれば理解されるであろう。
第1章 覚醒
泥のように重い体を感じながら、高橋良介は、目を覚ました。泥のように重い体と一言で言うが、それは単なる言葉の綾であって、そんな簡単に片付けられるような目覚めではなかった。
全身、約六十兆個もあるとされる細胞が、まるで、その細胞一個一個が、鉛を主成分としてできたかのように感じられたからであった。二日酔いのせいもあったろうし、頭が完全に覚醒していないためか、ともかく、何処までも重く重く自分の体を感じていたのである。
それに目やにのせいかどうかはわからないが、目も開けることができなかった。体が動かない、手も足も動かせない、そして目も開けられない。半覚醒の状態で、ただただ、必死でもがいていると、昨日からの出来事が、まるで覚醒剤常習者が陥るフラッシュバックのように、自分に襲いかかって来るのを感じていた。
その異常に重い体と、半覚醒状態の頭の中を、ストロボ写真の連写のように、昨日の出来事が高橋の頭の中で光っていったのだ。
「日本人離れした程の肌の色が白いむちむちとした長い両足」
「異様に短いスカートと、その、奥に見え隠れするレースの黒い下着」
「ぞんざいに大きく開かれた両足」
……
「まるで鬼のような形相」
「無我夢中で首を絞めている自分の両手」
はっ!と、高橋は、覚醒した。
そうだ。自分は、昨日、自分の中学校に通う女子中学生と、フトした弾みで肉体関係を持ってしまったのだった。
それだけでは終わらなかったのだ。その関係後、彼女は、突如、豹変した。
高橋に、このことをマスコミや警察にバラすと脅したのだ。彼女の要求は、口止め料として一千万円であった。丁度、昨年、二十年近く連れ添った妻と離婚して、慰謝料やら養育費やらで、今の自分にはほとんど金が無かったのにである。
それなのに一千万円の金を要求されたのであった。
で、カッときて、彼女の首を絞めたのだ。
いやいや、どこか違う、そんな簡単な筋書きではなかったように、徐々に思い出してきた。
狭い廊下を這うようにヨロヨロと歩いて、台所へ行った。今は夏で、この台所には、エアコンが入っていない。しかし、今日は、いつもと違い、もの凄く綺麗に片付いていた。
そう、先程の彼女、名前は小西真希といい、学校では札付きの問題児であった。既に、中学一年生時代から、学校に来たり休んだりの連続。中学二年生の時には、エンコー(援助交際)をしているという噂まであった。
担任の先生や学年主任の先生は、さじを投げ、教頭の高橋良介に、彼女の更正を依頼してきた。それは、また校長命令でもあった。高橋は、旧の帝国大学でもある某国立大学文学部心理学科卒業の肩書きを持ち、今まで、数々の不登校児の相談や、万引きや傷害事件の生徒の指導に当たり、めざましい活躍をしてきていたのである。
まだ、五十歳にもなっていないのに、全生徒数千五百人を超えるマンモス中学校の教頭に任命されたのも、その活躍が認められたからにほかならないのだ。
しかし、自分の家庭生活は、そうはうまくいかなかった。妻とは、昨年、離婚。妻は、二人の娘を連れて実家へ帰っていた。高橋の両親は、公務員同士で職場結婚。その後、若いときに二人ともガンで死んでいて、この世には既にいない。高橋には、弟と妹がいるが、二人とも、他県で自分と同じように学校の先生をしていた。
そんな、堅い職業の家系であった。
そうだ。そうそう、いよいよハッキリと思い出してきた。
昨日の昼、市の中心街から離れた、付近には縄文や弥生時代の遺跡がある、小高い丘の上に建っている高橋良介の一軒家に、小西真希は、チャリンコ(自転車)で現れた。
最初、玄関のインターホンが鳴ったので、玄関に出てみると、髪を赤く染め、唇はゼリー状のような真っ赤な口紅で塗られ、マスカラで両眼を大きく見せた、小西の顔があった。しかも、薄いTシャツに、スカートは超ミニ、ルーズソックスにサンダルという格好。
「一体、どうしたんや?小西君」
「いや、ちょっと先生に、相談したいことがあって……」
高橋は、既に、一年前から、彼女の専属カウンセラーの役を引き受けていたような形になっていた。普段、めったに心を開こうとしない彼女が、こうして、自ら、何かの相談に自分のところにやってきてくれたのである。
喜ぶべきことでもあった。ようやく、今までの指導の効果が出てきたのだ。
小西は、悪びれるそぶりも見せず、家の中に入ってきた。
深刻そうな顔をしているから、やはり、何かの相談に訪れてきたのは間違いがなさそうだ。さっそく、エアコンの効いた応接室へ案内した。
高橋は、喉が渇いているだろうと思い、コーラをコップに入れて、応接室に持っていった。彼女は、うまそうに一気にそれを飲み干すと、
「先生、相談したいことがあるがやけど、でも、この部屋の奥、チョー臭くない。きっと、台所の、お皿やお茶碗、洗ってないがやろう?」
「まあ、それはそうやけど、それは、今日の相談とは、何の関係もない話なんやから、そんな台所の話は、置いといて、一体、今日はどんな相談なんや?」
「それより、少し時間を頂戴」
と、それだけ言って、小西真希は、ずんずんと廊下を歩いて、高橋の家の奥にある台所に向かった。そこには、確かに洗ってない皿や茶碗が山積みされていた。
単なる札付きの不良少女だと高橋自体が内心思っていたのとは大違いで、小西は、驚くほどてきぱきとその山盛りになった皿や茶碗を洗っていったのだ。その後、外の部屋の掃除もしてくれた。
そして、応接室に戻ってきたあと、
「あーあ、暑い、暑い」を繰り返したのだった。
そうだ、今、思い出してくるにつれて、そういう細かい話の展開を、徐々にだが、明確に正確に思い出し初めてきていた。
だが、高橋が、完全に元の記憶を取り戻した時に、自分の横には、死体となった小西真希の姿も、確かに存在したのである。
それもまた、厳然たる事実であった。長く乱れた赤い髪。美しく化粧された死に顔。長く伸びた白い両足。高橋は、逃れられそうにもない現実から、目をそらすことは、絶対に、できなかったのである。
その時のことである。高橋の頭の中で、突如、大音量でタイプライター音が鳴り響いたのだった。
「ヘンタイ、キョウトウ、オシエゴヲ、ゴウカンノスエ、サツガイ!」と。
そのタイプライター音と同時に、漆黒の脳内をバックに、白抜きの大きな文字も、また、高橋の大脳新皮質の中に、突如、浮かび上がったのだった。
いや、しかし、これは違う、違うのだ!そうではないのだ。
高橋は、ようやく昨日の事件の全貌を、ほぼ、完璧に思い起こしていた。
「絶対に、俺は、強姦なんかしていない、あれは合意の上だった」と、ようやく、死人以外は誰もいない部屋で、高橋は大声で叫んだ。しかし、それは、高橋の、大脳の中の別の脳神経細胞から生み出されてきた連想的思考によって、ものの見事に崩れ去っていったのだった。
一、俺は、現在、T県T市立D中学校の現役の教頭、年齢四十七歳である。
一、俺は、昨日、自分が担当している在校生で不良少女の小西真希の相談を受けた。
一、俺は、その時、確かに、小西真希と関係を持ってしまった。
一、俺は、つまり、教師としてのあるまじき一線を越えてしまったのは間違いない。
一、そして、急に、開き直った小西真希に、大金の一千万円を要求された。
一、俺は、昨年、離婚したばかりで、そんな大金は用意できる訳がない。
まるで、入学式や卒業式の時に、広い講堂の演題横に張り出される「式次第」のように、昨日のことが、頭の中に羅列されるのであった。特に、次の、
一、その金銭トラブルがもとで、確かに、俺は、小西真希を殺してしまった。
こればっかりは、誰にどう弁解しようとも、どうにもならない冷たい現実だった。
いや、それでも、違う、違う、と、高橋は、心の中で何度も繰り返したのだった。小西真希の殺害は、どうしようもない事実だが、そこに至るまでには、もっともっと別のドラマがあったのだ。しかし、今、それを誰にどうやって証明できると言うのであろう。
現役の教頭が、特に問題児とされ、その個別相談に乗っている教え子と関係を持つと言うのは、それだけで社会的には重罪なのだ。それに加えて、すったもんだの末の殺害である。
高橋良介の逃げ場は、ここで、全くないことが、完全に認識されたのである。
だが、その冷たい事実は認識はできたものの、心理学の専門家を自称していた高橋自身も、ここから先の展開が、全く読めなかったのだ。自分で自分の心が制御できないのだ。
ともかく、自分は、在校生と関係を持ってしまった現役の教頭である。その彼女を、殺してしまった殺人犯である。
どんな途中経過があるにせよ、この冷たい現実は、巨大な天井となって、自分に覆い被さってきているのだ。一体、これからの自分は、どうなるのであろう?
変態教頭、教え子を強姦の上、殺害か?いや、何度も繰り返すようだが、決して、あれは、強姦なんかではなかった筈なのだ。
何故なら、台所の後片付けや居間や廊下の掃除が終わり、応接室に戻ってきた小西は、「あーあ、暑い、暑い」を繰り返し、
「んでもって、ここも、暑いのよね…」と、両足をぞんざいに開いて見せた。
異様に短いスカートと、その奥にハッキリと見えるレースの黒い下着。そのレースの黒い下着の中に、チラっと「何か」が見えたような気がした。
その瞬間、高橋の頭の中でバチッと音がして、大脳内にあるヒューズが切れた。
高橋は、ズボンのベルトを思わずはずして下半身を出してしまった自分をかすかに思い出していた。
それから、先の記憶は、残念だがほとんど思い出せない。
しかし、高橋が、満足げに最後の一滴を放出し尽くした時、突如小西真希は態度を一変したのだ。
「こ、これは、強姦や、強姦や。ケーサツやマスコミに訴えてやる!」と。
「口止め料は、一千万円や」とも、付け加えたのだ。
「ハ、ハメられた!」と、高橋が、小西真希の前で、叫んだ時、
「ザケンジャネー、ハメられたのは、こっちのほうやろうが!」との、鬼のような形相の小西の顔が、思い浮かんだ。
とこんな具合で、小西真希は、高橋に一千万円の口止め料を迫ったのだ。
「あ、あいつは、最初から、この俺を、陥れるつもりで…」
高橋は、台所の冷蔵庫から這うようにして持ってきた、冷えた缶コーヒーを1本、ぐっと飲み干すと、応接室のカレンダーを見た。
西暦202X年8月20日土曜日。腕時計を見ると、午前6時32分だった。
「ち、ちきしょー、あ、あいつは!鬼か、悪魔だったのか!
しかし、しかし。あ、あんな短いスカートを履いてきた時から、お、お、俺も、早く、罠に気づくべきだった」、高橋は、何度も何度も、繰り返した。
そうなのだ。
小西真希は、台所の後片付けの後は、今度も勝手に掃除機を探してきて、廊下や居間の掃除を始めたのだ。男所帯の独り暮らしである。確かに、雑多で、チリやホコリが舞っていそうな部屋だった。部屋の掃除中に、
「百円玉、メーッケ」と、身長165センチはあろうかという小西は、腰をかがめた。
レースの黒い下着が、もう、丸見えであった。いや、もしかしたらこれも最初から計算の上での行為ではなかったのか?
もう一度、腕時計を見た。午前6時43分。もはや、一刻の時間の猶予もないのだ。
小西真希の両親は、父親は銀行員で母親は薬剤師であった。恵まれた家庭だっただけに、両親の嘆きは大きかった。父親から、泣いて、娘のことをよろしく、と頼まれていた。
しかし、既に、校内では有名な札付きの不良少女となってしまっていた小西真希の指導は容易ではなかったのだ。
だが、それ故に、まだ、高橋にとっては、逆転のチャンスはあるように思えた。最近は、家を二、三日空けることもあったという。小西のスマホの電源は切ってあるから、例え、GPS機能付きの最新式のものであったにせよ、彼女の居所は、決して分からない筈だ。
彼女の今までの行動からして、家族も直ぐには、警察に捜索願いも出しはしまい。
更にうまい具合に、これから三日間は、中学校の行事は、一切無かった。盆明けであって、学校が動き出すのは8月22日の月曜日からである。
「今日、明日が、勝負やな」と、高橋は、つぶやいた。
もはや、高橋は、自分がこれからどういう行動を取るべきか、十分に理解できてきたのである。何といっても、自分は現役の教頭なのである。いくら、小西真希の仕掛けた罠にハマッタとしても、決してこのままで社会的には通る訳がない。このことがバレたら総てが終わりなのだ。
で、どうする?
だが、ここから、高橋は、少々、不思議な行動に出始めたのだ。
まず部屋のエアコンを最強に効かせ、死体の小西真希の周囲に冷蔵庫で冷やしてあったアイスノンを並べた。その上から、毛布と布団を掛けた。これは死体が腐敗しないための措置であった。それは誰にでも理解ができる行為であった。
しかし、高橋は、次に、今ほどの応接室に、一台のノートパソコンと、冷えた缶コーヒーを2本持ち込んだのだ。一体、何をする気なのだろう?
もう一度、腕時計を見た。午前7時丁度。
その時から、高橋は、狂ったように、パソコンのキーボードを打ち始めた。
『けだるい殺人者』
と、最初に打ち込んだ。どうも、小説のようである。きっと、高橋は今朝起きがけの体調の悪さからその題名を思い付いたのかもしれない。 ともかくも、高橋良介は、朝飯も昼飯も食わずに、一心不乱でパソコンのキーボードを打ち続けたのであった。
第2章 隠蔽
その日の夕方、午後6時13分。
高橋は、郊外の洒落た喫茶店にいた。目の前には、高橋よりも小柄な五十歳過ぎの男がいた。高橋は、鞄から取り出したA4の用紙、約二十数枚を、その男に見せ始めた。いや読んでもらおうとしていた。
「うーん、高橋先生。この題名がいいですね、『けだるい殺人者』とは、なかなか面白そうな題名ですね」
「いや、題名なんか、どうでもいいがです。それより、問題は、その中身ですよ」と高橋は、相手の男に大声で言った。
男は、冒頭の部分をさっと読んで、次のような感想を述べた。
「うーん、出だしから主人公は妻を殺してしまうのか。ちゅうことは、後は、いかにうまく死体を隠蔽するかの話だけですから、これは、よほど熟慮しないと、なかなか訳にはいかんでしょ。今回は、いやに難しいテーマを選んだがですね」
「そこながです。この小説は、今日、一気呵成に書いたもので、勿論、これからもっともっと細かい点、つまりディテールを考えていくつもりながですが、橘さんの言われるとおり、死体遺棄というか、死体隠蔽のトリックが、いまいちうまく思い付かんがです。
ただ、その点が、この小説のウリ(売り)ともなる訳ですから、何か、もっといいトリックというか、アイデアちゃ、ないもんですかねえ?」
「いつもは冷静な、高橋先生にしては、今日は異様に気合いが入っていますね。それにしても、先生。先生のいつもの口癖は、まあ停年までに一発大きな賞を取る、だった筈でしょ、それがどうしてそう焦られるがです?」
「ああ、そのとおり。私は教師、橘さんは税理士。お互いに、キチンとした職業ですから、今日明日、直ぐに飯が食えなくなる心配はないでしょう。でもそうとばかり言ってはおられんようになったがです」
「何か、急に、小説を書くべき理由ができたとでも?」
「そんなことはないんですが、まあ、虫の知らせっていいますかねえ…。
何か、最近、体調が異常に悪いんです。橘さんもご存じのように、私の両親は、共にガンで、若くして死んでいるでしょう。そうすると、自分も、何か、そんなに長く生きられないがではないか?そんな恐怖感が、猛烈に襲ってくるようになったんです。
で、今までは、停年までに傑作を書いてやろうと悠長に構えていたがですが、最近、急に気が変わってきたんです。自分が生きているうちに、少しでも早く、一日でも早く、勝負しようと、まあ、そんなところですちゃ」
「そうですか、確かに高橋先生は、私と違い、小説G誌の新人賞で、『ガラスの瞳』が佳作にまで入賞されていますから、先生さえ、その気になられればいくらでも新人賞は取れるでしょうねえ。
ただ、今回のテーマでは、よほど万人があっと驚くような死体隠蔽のトリックを考え出すか、あるいは、文面をよほど面白いものにしないと、なかなか厳しいとは思いますがねえ」
「そこなんですよ。前の佳作になった小説『ガラスの瞳』も、推理のトリック自体が評価されたんではないんですよ。まあ、犯人の少年が段々と心理的に追い込まれていって、やむなく殺人事件を起こしてしまう心理的描写が評価されたから佳作にまでなったんで、私自身は、犯罪トリックの構築は大変に苦手なんですよ」
「話は十分に分かりました。では、じっくりとここで読ませて下さい、詳しい論評は、その後でもいいがでしょう?」
「ええ、橘さんは、私よりずっと前から、推理小説の同人誌では有名な『乱歩』の同人ですし、犯罪トリックの研究にかけては、多分、私より、相当に時間も労力もかけておられるでしょう。ここは、ぜひ、橘さんのアイデアを借用させて頂きたいんです」
約一時間後、橘という男は、とても不思議そうな表情をして、その小説の論評を始めたのである。
「これは凄い。この小説、これはある意味、もの凄い犯罪小説ですちゃね。
特に、主人公のサラリーマンが、自分の下半身の貧弱さを妻になじられて、心理的に追い詰められカッとなって、両手で首を絞めて殺害する場面の描写など、もう、言葉にできない程、真に迫っています。この前半部分だけの描写だけで、十分に、大きな賞を狙えるでしょう。
ただ…」
「ただ?」と、問い返す、高橋の顔は、これまた表現のしようのないほど鬼気迫るものであった。
「その後の、犯人の死体の処理の仕方が、いまいち弱いですちゃね。だって、殺した妻の死体を車に積んで、山奥の林道の脇に捨ててくるなどというのは、子供でも考えることでしょう。これじゃ、折角の前半部分の出だしが死んでしまいますよ」
「いやあ、橘さんも、やはりそう思われますか?
私も、前半部分は、あの離婚した嫁さんを、実際に頭に浮かべて書いていたもんですから、離婚時のゴタゴタを思い出して、カッとなって本当に一気呵成に書けたのですが、さて、妻を殺してしまった後、いやいやこれはあくまで小説の中での話ですから本気にしてもらってはなんですが、犯人は茫然自失、一体どうしていいかわからなくなってしまったんですよ。
この話の展開からして、そのような流れになるのは仕方がないがですが、では、殺してしまった妻の死体をどのように処理すればいいのか?
本当の推理小説なら、ここからが腕の見せ所なのでしょうけど。そうは言うものの、現実問題としては、衝動殺人の場合は、むしろこの小説の主人公である一サラリーマンのように、途方に暮れて、死体を車に積んで山の中に捨てることぐらいしか、思い浮かばないというのも、また真実なのじゃないのか?と、自分で書いていて、そう思ったんです」
「しかし、これだと、純文学ならいざ知らず、推理小説やミステリー小説にはなりませんちゃね」
「そこなんです。橘さんなら、そこらへんもところ、どう考えますか?」
「うーん、それは難問ですちゃね、できれば一週間ほど、考えさせてもらえませんか?」
「い、い、一週間も!と、とてもそんなに待てません!」と、高橋は、今度は、喫茶店の周囲の客全員が振り返ってこちらを見るほどの、大声を上げたのである。
その顔は、やはり、鬼気迫るもので、この時、橘という男は、ある漠然とした不信感を高橋に対して抱いた筈なのだ。しかし、橘は、それほどビックリした様子も見せず、
「やったら、そうですね、こんなのはどうでしょう?」と、まるで、禅問答に近いような話をし始めたのである。
「高橋先生、先生は、高木彬光氏の『白昼の死角』を読まれたことはありますか?」
「ええ、確か学生時代に読んだ記憶があります。戦後間もない頃、東京帝国大学法学部在学中の学生が、確か高利貸しをして云々という話やったと記憶していますが」
「そうです、その小説の中で、主人公の鶴岡七郎は、自分たちが高利貸しをして集めた金が、いわゆる「取り込み詐欺」に当たるとして告発されそうになった時に、出資者に返金するための金を作るべく、敢えて本物の詐欺を働くことによってその「取り込み詐欺」の告発から逃れようとしたがです。つまり「詐欺から逃れるための詐欺」を働いて、その場をしのいだがです。
そこで、私だったら、その話をヒントに、その小説の後半部分は、「殺人罪から逃れるための殺人」を、その小説に持ち込むでしょうね」
「な、な、何ですって、私に、「殺人罪から逃れるための殺人」をしろとでも」と、高橋はそこまで言って、急に、
「いや、いや、いや、あくまで小説の題材としての話として、私に「殺人罪から逃れるための殺人」を、その小説の中で書けと言われるんですね?」と、しどろもどろに返答したのである。
「そうです、さすがは、有名国立大学卒の先生だけあって理解が早いですね。私なんか単なる二流私立大学卒ですから…」と、少し、ひねくれてみせた橘に、高橋は、慌てて首を横に振って、
「いや、いや、いや、私は、単にガリ勉で国立大学に合格しただけのことで、社会全般の洞察力や、知能の高さでは、橘さんには到底勝てませんよ」と、これも、いかにもお世辞丸出しの返答をしてきたのである。
「で、その方法とは?」と、喉から手が出るような、物欲しげな表情で、高橋は、橘に死体隠蔽のトリックを聞いたのである。
そこで、橘は、誰もが考えもつかなったような、奇想天外な死体隠蔽法を、語り始めたのだ。
「高橋先生、ことわざに「木を隠すなら林の中に」だったか、「森の中に」だったか、そんな言葉を聞いたことないですか?」
「ええ、何か、そんな言葉を聞いたような気がします。ちょっと違いますが、「砂浜の中で一粒のダイヤを探すようなもの」との言葉の裏返しのような言葉のように感じますが」
「ほう、ほう。さすがに理解が早い」
「しかし、それと、今ほどの『白昼の死角』の話と、どう関係するがです?」
「まあまあ、そう、焦らんと、聞いてください。いいですか?私は、推理小説やミステリー小説の研究にかけては、人に負けない自信があります。
…でも、皮肉なもんで、私の書いた小説は、一度も、賞を取ったことはない。逆に、高橋先生は、同じ同人誌『乱歩』の会員で、私より、ずっと後に入会されたにもかかわらず、私より先に、新人賞の佳作まで取られた。つまり、私よりもっともっと文才があるがです。
ですから、先生に、私の考えたこのトリックを、その小説に持ち込んでもらえれば、きっと、今度は、本当に新人賞でも、何ででも取れるでしょうよ」
「で、そのトリックちゃ、どんながです?橘さんは、長年、考えられたトリックを私に教えてくださるんで?」
「いや、そのトリック自体は、高橋先生の書かれた『けだるい殺人者』を読んで、今、思いついたところながです。確かに、計画殺人でもない限り、殺してしまった死体を隠蔽する工作というのは、大変に難しいものです。
と、言って、実際に人を殺してしまった犯人が、今から急に、ドラム缶や、死体を詰めるセメント袋を大量に買いに行って、それで死体をドラム缶詰めにして、海に捨てるというのも、足が着きやすいですちゃね。
何しろ、犯人は、遅かれ早かれ、警察へ行って、妻が行方不明になった、帰宅しないということで、捜索願いを出すわけでしょう。
となれば、そんな時、最も、疑われるのは、第一通報者である夫のサラリーマンでしょう。そんなことは、社会一般の常識です。その夫が大量のセメント袋を買っていたとしたら、警察はどう考えるでしょうか?
いいですか、そこで、先程のことわざらしき言葉の「木を隠すなら林の中に」を活用するがです。つまり、死体を、もっと沢山の死体の中に、紛れこませたらどうです?その死体は、果たして発見されるでしょうか?」
「うーん、なるほど、死体を死体に中に隠すとは、こりゃまた、大胆な発想ですね。しかし、死体の置いてあるところと言えば、大病院の死体安置室か、大学病院の医学部の死体安置室か、どちらにしても、一サラリーマンでは出入りもできなけば、何の関係もない場所ですね。一体、どうやって、その殺した死体を持ち込めばいいがです?」
「そこで、さっき言った「殺人罪から逃れるための殺人」の話が出てくるんです」
「じゃ、犯人のサラリーマンは、自分の妻の死体を敢えて隠蔽するために、全く関係ない第三者を殺害して、その死体と、自分の殺した妻の死体を、入れ替えるんですか?でも、それやったら、結局、また一人、別の死体が出てくることになる。
うーん、それやったら、確かに自分の妻の死体は隠せるかもしれないが、別の第三者の死体の隠蔽工作で、やはり同じ悩みに突き当たることになりはしませんか?
ただ、自分の妻殺しの、当座の疑惑からは逃れられるでしょうが。分からん話ですね。それとも、もっと別の方法があるんかな?でも、それは一体どんな…」
高橋良介は、焦り出していた。両手はぶるぶる震え、額からは汗がにじんでいた。こんな禅問答を繰り返しているうちにも、自分が殺した小西真希の死体は、確実に腐敗が進んでいるからだ。
高橋は、小西真希が、自宅にまで乗ってきた自転車の処理自体は、そんなに心配していなかった。かって、自分の中学校の生徒達と一緒に、「不法投棄パトロール隊」を結成して、市内一円を回った時に、不法投棄のメッカとなっている場所を発見していたからである。
小西の自転車は、自分の指紋がつかないようにしてそこに捨てるつもりでいたからだ。
だが、小西の死体を同じようにそこに捨てる訳にはいかないのだ。
不法投棄の自転車ぐらいなら、多分、市役所か山の持ち主かが発見して、そのまま、粗大ゴミとして処分される筈だ。
しかし、これが、死体、あるいは白骨死体であったら、必ず、大問題になるであろう。本当に、衝動殺人後の死体の隠蔽方法など、そんなに簡単には思いつく訳がないのだ。数ある推理小説は、この重大な点を見逃しているのだ。
つまり、計画殺人でもない限り、殺してしまった死体の処理を完璧に行い、自分に疑いが掛からない方法など、ほとんど存在しないのである。
しかし、橘は、にやりと笑って、
「高橋先生、結構、いいところまで考えられましたね。私の思いついた死体隠蔽のトリックも、先生が今ほど言われた方法に、近いと言えば近いがです。でもちょっとだけ違います。いいですか…」
ここで、橘という男は、高橋が、狂喜するような、秘策を明かしたのである。しかし、それは、新たな殺人を起こさなければならない方法でもあった。
高橋は、しかし、自分の身の保全のためにも、その隠蔽方法をとらざるを得なかったのである。
第3章 バグ
次の日の8月21日日曜日、早朝から、高橋は猛烈に動きだした。
まず、小西真希の自転車を車に積んで例の場所で処分した。その自転車自体はどうも小西本人のものではなくて、彼女がどこかで調達してきたものであった。この点からは、高橋には絶対に疑いがかからないのだ。
次に、あの応接室に、徹底的に掃除機をかけ、チリ一つ、髪の毛一本落ちてないように、掃除をした。
そこから、高橋は、あの橘という男から、昨日、聞いたばかりの方法で死体の隠蔽工作に取りかかったのである。
…夜、8時15分、ようやく総てのケリをつけて、高橋は自宅に帰った。一切の目撃者はいないのだ。まずもって、このことがバレる心配は100%ないであろう。
しかし、そのために高橋は、小西真希に続き、あと一人、全く今回の事件に関係のない人間を一人殺害してしまったのである。正に「殺人罪から逃れるための殺人」を行ったのだ。勿論、その新たな犠牲者の家族も近いうちに、騒ぎ出すであろうが。
しかし、小西にしろ、新たな犠牲者にしろ、ある方法でこの世から完全に消え去ってしまったことだけは完全なる事実だったのだ。
高橋は、帰りにコンビニで買った、安物のウィスキーの派手なラベルをしげしげと眺めて、
「やった、やったぞ!これで俺は、絶対に安全なんや。まずもって、警察がどれほど捜そうとしても、探し出せるものではない。砂浜の中で、一粒のダイヤを探せるものか。
わはははははははははは…」、と高橋は大声で笑ったあと、ウィスキーをストレートであおった。そして、ばたんと居間の上に敷いた布団の上に倒れ込んだ。
またも泥のように思い体を感じながらも、今までの疲れがどっと出たのか、直ぐに、寝入ってしまったのである。
次の日の朝、午前8時23分に、D中学校に出勤した高橋に、直ぐに、小西真希の担任の横山から、小西真希が、三日たっても家に戻ってこないことから、両親が心配になって警察に捜索願いを出したという話を聞いた。
そこで、学年主任も含め、学校に出勤している先生達だけで緊急の職員会議を開いた。校長にも、事情を説明して至急、学校に来てもらうよう連絡した。
高橋は、既に完全に落ち着いていた。ここ二三日の狼狽ぶりが嘘のようであった。それもその筈である、高橋には、ほぼ絶対的な確信をもって、小西真希及びそれに関連した善意の第三者の死体を、この世から完璧に抹殺するこに成功したからであった。
よほど詳しいDNA鑑定でも実施されない限り、二人の死体は、発見しようがないのだ。しかも、二人の死体は、誰が考えてもまさかそんなところにあるとは、考えつきもしないところに隠蔽できたのである。
いくら警察や家族や親族の人間達が騒ぎ出そうが、びくともしないのだ。
高橋は、教頭の威厳をもって、学年主任の先生や担任の先生、更に、その時出勤していた三年生の担任の先生全員に、小西の友人関係や彼女の泊まっていそうな所の捜索を命じたのであった。
だが、そんなところを例え血眼になって探したとしてみても、絶対に、発見できないことも、また、高橋は十分に承知していてのことなのである。高橋は、まるで、名役者になった気分で、この絶対安全な役を、粛々と演じていたのだ。
高橋は、小西真希の両親にも、会いに行った。どうしても連絡がとれなくなった彼女の行方に対し、高橋は、それとなく、大都会への家出をほのめかした。それは、かって、高橋が彼女に個別面談をした時に、彼女が、それとなく言った言葉を記憶していたからであった。
その言葉に、彼女の両親も、
「そういえば、東京に大変憧れていましたから、もしかしたら…」と、まず、母親がその考えに同調した。
これは、高橋にとっては好都合で、万一、小西真希の東京への家出説を、両親が信じてくれれば、警察のほうの捜査も、家出人捜査となり、警視庁と連携して、そちらのほうに目が向いてくれるだろう。そうなればなるほど、自分への嫌疑も捜査も減っていくのだ。
高橋は、正に、勝利を確信していた。完全犯罪の完成である。
いや、その時点まで、高橋は、この殺人事件(二人の殺人事件)が、迷宮入りとなり、このまま治まっていくものと、確信していたのである。
コンピュータプログラミングの世界で、OSやソフトに欠陥があることを、バグ(虫食い)というらしい。
あの、気ぜわしい一日から約一週間ほど後、始業式の始まる前々日の8月30日火曜日の夜8時丁度に、一本の電話が高橋の家にかかってきた。
それは、あの橘という男からで、この前の小説の進捗状況をそれとなく聞いてきたのである。
「いやあ、それが、橘さん。折角、あんな大それたトリックを考え出してもらって大変に恐縮しているのですが、それが、あの小説『けだるい殺人者』の執筆意欲が、急激に衰えてしまったんです」
「それは、また、何で。この前は、一日の猶予もないような口ぶりだったじゃありませんか?」
「そ、そこなんですけど」と、高橋は、嫌な人間から電話がかかってきたもんだと思った。
しかし、完全犯罪として、あの事件をこのまま遂行していくには、是非とも、ここで、橘を説得しなければならない。それにしても、綿密に組み立てたてられたプログラムにも、小さなバグがあったのに気が付いたのだ。
「じ、実は、あの後も、どうしても体調がよくならないものですから、市民病院で精密検査を受けてきたがです。
でも、お医者さんは、首をひねって何処も悪くないというがですよ。それでも、私、自分の体調が優れないと、この前の喫茶店でのように声を大にして何回も何回も訴えたところ、ははは、これが笑っちゃう話なんですがね、若い先生でしたが、多分ムッとされんでしょう。
貴方は、ガンノイローゼだとか何とか言って、馬に喰わせる程の薬を出してくれたんで
す。
ええ、勿論、私も、カッとしたんですが、騙されたつもりで、その薬を飲んだら、あれ程、焦っていた自分の心が妙に落ち着いて、多分、その薬の効き目なんでしょうが、下手な心理療法より効いたんです。自分は、心理学については、相当の自信を持っていたんですが、その自分自身が、ガンノイローゼだったなんて、ほんと、笑っちゃうでしょう。
で、そのように心が落ちつくとともに、あれ程、焦燥感に襲われて、書こう書こうと思っていた例の小説を書く気が急に萎えてきてしまって、まあ、前のように、停年まで書けばいいやという気になってしまったんです。
そういう訳で、橘さんには悪いがですけど、今、小説の執筆は中断しておるがです。
勿論、もし、その小説を発表する時は、原案は橘さん、文章は私ということにして、共著にして発表したいと、考えているところながですよ。まあそういう訳でどうかよろしく」
「そうですか」と、電話口での、橘の口調は、それ程、怒ってはいなかった。
しかし、橘という男は、ここで、高橋があの悪夢からようやく忘れかかっていた人間の名前を出してきたのである。
「ところで、話は、変わりますが、高橋教頭先生、確か、小西真希という名の中学生は、先生とこの学校の生徒だった思うんですが、小西真希ちゃんの行方は、その後、どうなったんですか?」
「こ、小西真希を、どうして橘さん、知ってらっしゃるんで?」高橋は、またも、冷や汗をかきながら聞いたのである。
「いや、私の職業柄、小西真希ちゃんのお父さんとは、知り合いでして、昨日、会ったら、自分の娘が行方不明だと、非常に心配しておられたもんですから」
「そ、そうでしたか。私も、教頭として、せいいっぱい、彼女の捜索に当たっているんですが、何分、札付きの不良少女だったもんですから、多分、東京にでも家出したんではないか、とも考えているんですが…」
そう、返事しながらも、高橋は、やはり、ここで橘の存在が、コンピュータソフトのバグのように、自分が行った完璧な完全犯罪遂行の唯一の障害になることに、気が付いたのである。こいつは危険な奴だ、何とかしなければならない、と。
「明後日は、始業式です。学校が始まれば、彼女の友達だった子らにも、総動員をかけて、もっともっと広く探し出します。なーに、きっと男友達のとこにでも泊まっているのかもしれませんし、まあ、そんな心配は無用だとは、私自身では思っているんですが」
橘からの電話が終わったあと、高橋は、小西真希の、日本人離れした程の肌の色が白いむちむちとした長い両足や、異様に短いスカートと、その、奥に見え隠れするレースの黒い下着、そして、ぞんざいに大きく開かれた両足、ズボンのベルトを思わずはずして下半身を出してしまった自分、………、一千万円を用意しないと強姦で警察に訴えると騒ぎ始めた小西の、まるで鬼のような形相、ケータイで本当に警察に電話しようとした小西、無我夢中で彼女の首を絞めた自分の両手、を、またも、DVDの早送り再生のように思い起こしていた。
「ち、ちくしょう、あれは完全な罠、罠だったがや!」
次の日の8月31日水曜日。高橋は、本当に市民病院へ行って、ありとあらゆる体調の不良を大声で訴えた。で、橘に言ったとおり、ガンノイローゼと診断され、沢山の薬ももらった。これは、昨日の話のつじつま合わせでもあったのだろう。
しかも、高橋は、そのまま知り合いのリフォーム業者に電話して、台所のリフォームを頼んだのである。で、自分も、その足で、ホームセンターへ行って、大きなセメント袋を数袋買ったのである。
第4章 対決
その年の秋、10月29日土曜日の午後、リフォームが終わったばかりの高橋の家に、橘は招待されていた。
高橋の、家の改築祝いだという。招待客は、橘一人であった。例の応接室には、如何にも高そうな寿司と、酒の肴と、ビールや酒が置いてあった。
高橋は、妙に、上機嫌であった。
「まあ、見てください、男所帯のままでは、あまりに台所が汚なかったもんですから、少々、金はかかりましたが、ほら、こんなに綺麗になりました」
「それは、よかったですね。それにしても、この応接間や居間には、腐るほどの本が置いてありますねえ、さすが、先生は読書家です」
「まあ、それほどでも。で、今日、橘さんをお呼びしたのは、この前、執筆を中断していたあの小説『けだるい殺人者』の下書きが、だいたいですが、完成したので読んで頂きたかったからなんですよ。家の改築祝いは、どうでもいいがです」
「ほう、先生は、もうあの小説は当分は書かれないと思っていたんですが、その後、また執筆を開始されたんですか?」
「そうです、今度は、主人公のサラリーマンが、殺してしまった妻の死体を、ほぼ完璧な方法で処理、隠蔽するんです。
まあ、その死体隠蔽のトリックは、橘さんのアイデアが基本ですから、ほら、著者名のところは、原案:橘優一郎、作:神田川渉、となっているでしょう。
で、今度は、この小説で一気に新人賞でも狙おうかとも思っているんですよ。まあ、取らぬ狸の何とかとは思っていますが」
神田川渉とは、江戸川乱歩の名を真似た高橋良介のペンーネームであった。
今度の小説は、A4版の用紙で八十枚近くもある。四百字詰め原稿用紙に換算すれば、三百二十枚近い大作となっていた。
「私のトリックを活用されたとすると、あの山奥の斎場を利用した死体処理の方法ですね」
「そうです。主人公でもある妻殺しのサラリーマンが、犬か猫のペットの死骸を抱えて、斎場に車で駆け込むんです。橘さんの言われたとおり、斎場によっては、人間の死体のみならず、ペットの火葬も受け付けてくれるところがあります。これは、私が市役所に電話をして実際に確認しました」
「そうです、そのアイデアは、私が経理顧問をしているある清掃請負業者の社長から、聞いた話がヒントになっておるがです。
ご存じのように、全国の殆どの斎場は、人里離れた山奥の中にあります。
しかも、斎場というのにも、高橋が言われたとおり、人間の死体のみを扱う斎場もあれば、ペットの死骸や、病人の着ていた衣類や布団等の汚物類の焼却まで行ってくれる斎場もあるがです。
で、まずペットの死骸の焼却してくれる斎場を事前に探しておくのです。例えば、私らの住んでいる市営の斎場は、のペットの死骸の焼却も請け負ってくれていた筈です。
で、ペットの死骸を抱えて、夕方前に駆け込めば、周囲には誰も人、つまり目撃者はいません」
「そのとおりです」
「しかし、通常ならば、この場合は役場を通してから火葬の受付処理をしてくれと、まず、係員は言うでしょう」
「その通り。そこで、殺人犯のサラリーマンは大事なペットだからと言って、係員に現金数万円を握らせるのです。
係員も人間ですし、これが人間の火葬なら、死亡診断者の提示やその他、色々と面倒な書類や手続きを要求するでしょうが、まあ、ペットの火葬だと言われれば、疑いもなく閉じかけた斎場のドアを開けるでしょう。
で、そのサラリーマンは、ペットの火葬の仕方を一部始終見学します。つまり火葬炉のスイッチの入れ方、切り方等々を横でじっと見て覚えておくのです」
「そう、それも、現在の火葬炉はコンピュータ制御の高性能のものですから、スイッチをポンと押すか戻すかだけの、ごく、簡単な操作で済むがです。この話も、私は、清掃請負業者の社長から、じきじきに聞いたのですから間違いはないでしょう、で、犯人は、持参したペットの火葬が終わったあと、その係員を、隠し持った金槌か何かで一撃する、と、こういう手筈ですね」
「ええ、ほとんどそのとおりです。まあ、若干、橘さんのアイデアと違いますのは、この小説に出てくるサラリーマンは非常に気が小さいので、まず、ペットの火葬が終わったあと、ナイフで係員を脅し、自分の妻の死体を完全に焼却してしまうのです。
つまり、ペットと妻の死体と、二回、その火葬炉の操作方法を確認する。で、その後、その係員の首を締めて殺害し、その係員もまた完全に焼却してしまうんです」
「あとに残った骨は、残骨を入れる袋に入れて、斎場の横にある納骨堂の中に入れて隠す。その後、犯人は斎場のドアを閉め、何食わぬ顔で、職場に復帰すると、こういう話ですね」
「そうです、まあ、こんな風に書いてしまうと、何だ、こんな簡単なことだったのか、と一般の読者には思われるでしょうが、これは、コロンブスの卵と同じような話なんです。殺害された妻や係員は、完全に焼却され骨だけになってしまっているんですからね」
「ともかく、高橋先生の力作を、読まさせて下さい」
橘は、一気に、その小説を読んだ後、
「ふうー。こりゃ大作だ。読んでいて、気分が悪くなってくる程ですね。
でも、先生、この小説の中身は、前にも言ったように、殺害時の描写といい、死体処理の時の斎場の係員との一言一言のやりとりと言い、あまりに真に迫っていますね。まるで、本当に、殺人事件を起こした人間じゃないと書けない程の中身じゃないですか」
「橘さんも、人聞きの悪いことを言われますえねえ。それやったら、私が、実際に、人を殺して、その死体を斎場で焼却処分したように聞こえるじゃないですか?」と、高橋は冗談ぽく言った。
すると、橘は、ゆっくりとした口調で、次のような話を、し始めたのである。
「そこなんですけど、高橋先生。先生が、前に、私に『けだるい殺人者』の下書きを見せてくださったその次の日から、市役所の斎場担当の係員が、行方不明となっているがです。勿論、この話は、新聞には出ていませんけど、奇妙と言えば実に奇妙な話ではありませんか?」
「はあ、そうですか。まあ、それは、多分、その係員には、多額の借金か何かあって、それで雲隠れしたんじゃないんですかねえ」、と、またも、冷や汗をかきながら、高橋は言った。
「いや、その係員は、市役所の職員じゃなくて、市役所から委託を受けた清掃請負業者の職員なんです。で、私は、その会社の経理顧問をしていて、社長とも懇意にしていますが、そんな借金の話など無かったと聞いているがです。本当に不思議な話ではありませんか?どうです?」
高橋は、徐々に、いらだってきた。橘は、一体、何を言いたいのだ。例え、斎場の係員がいなくなったとしても、それは、小西真希の死体と同様、既にこの世には存在しないのである。焼却して骨だけになった後、金槌で粉々に砕いて、山や川に散骨したのだ。もはや誰も探し出すことなど不可能なのである。
しかし、高橋は、やはり、ここで橘という男の存在が、緻密にプログラミングされた自分のソフトにとって、致命的なバグになる危険性を察知したのだ。
あのセメント袋を買っておいてよかったと内心思った。やはり、橘も、処分しなければならない。そのために、コンクリート製の大きな床下収納をわざわざ台所に作ったのだ。いざとなれば、橘を叩き殺して、床下収納の中に放り込み、セメントで固めてしまおう。
「それに先生の学校の小西真希ちゃんは、どうなったがです?彼女は、もう見つかりましたか?」
「いや、警察にも頼んであるがですが、まだ、見つかりません」
「そうでしょうねえ、多分永久に見つからないでしょうねえ。きっと彼女も、この世には既にいないんじゃないんですかねえ?」
「なんちゅうことを言われるがです。私は、彼女の学校の教頭ですよ。彼女の無事を信じて、毎日、色々なところに出向いているがです。ダラ(馬鹿)なことを言わんといて下さい」
「いや、私は、実に面白い偶然を発見したがです、いいですか、高橋先生。まず8月の下旬、小西真希ちゃんが行方不明となりました。多分、その次の日、先生は、顔色を変えてこの私に、死体の隠蔽方法はないか?と、この小説の書きかけの原稿を持って現れた。私は、そこで、斎場を利用した死体隠蔽方法を教えた。更にその次の日、今度は、市役所の斎場担当の係員が失踪です。偶然と言えば、あまりに偶然が重なり過ぎては、いませんか?」
「わ、私が、か、顔色が悪かったのは、ガンノイローゼになったからで、ちゃんと、市民病院のカルテにも残っている筈です。そんな偶然だけで、人を判断するとは、あまりに非道い話じゃないがですか」
「では、斎場の職員が失踪したその日の午前中に、先生が市内のペットショップで、一匹の猫を買われたのも、やはり、偶然なんですか?そのペットの猫は、今、何処におるがです?」
高橋は、真綿で首を絞めらるように感じてきた。こいつ、橘は、相当に知っている。探偵でもないくせに。いや、橘はもともと探偵小説、推理小説で賞を取るのが夢だと、常々言っていたから、ある意味、玄人の探偵にも近い存在なのだ。
「何と言われても、知らないもんは知らんがです。それに、そこまで言われるんやったら、納骨堂の中の残骨を、警察に引き渡して、DNA鑑定でも何でもしてもらえばいいでしょうが」
「そりゃ、無理でしょうね……。これほど理屈詰めで計算した死体隠蔽のトリックですよ。
わざわざ、後で足が着くように、焼却後の骨を納骨堂には隠さないでしょう。私が言った「木を隠すなら林の中」の例え話は、後で、証拠を探すために敢えて言ったがです。この私やったら、金槌で粉々に砕いて、山か川に散骨するでしょうね。全く証拠が残らないようにね」
図星であった!
高橋は、この時、今まで漠然と心に秘めていた殺意を、明確に意識したのである。橘も、この場で殺してしまわなければ、自分が危ない、と。
「き、きさまも、小西と同じで、私をハメるつもりやったんか。こうなったら、二人殺すも三人殺すも同罪や。橘、覚悟せいや!」と、タンスの横に隠してあった太い鉄パイプに手を掛けた瞬間、橘は次のように言い放って、高橋の次なる動きを止めたのである。
「はい、ダーメ、駄目。こーれ、何だか分かりますか?」と、橘は、実にけだるい口調で言った。映画『バトル・ロワイヤル』の中での「北野武」のような口振りであった。そして、橘は、ネクタイピンと胸元のボールペンを指さしたのだ。
「はい、これ、見てのとおりの超小型CCDカメラと、集音マイクと、無線装置でーす。秋葉原で買ってきたもんでーす。高橋先生、気が付きませんでしたか?今までの話は、総て、無線で録画・録音されています。万一、私に何かあったら、今までの話は即警察へ行くようになっているがです。
先生には、離婚したとはいえ、二人の娘さんがおられますが、万一、こんな話が世間一般に漏れたら、こんな田舎のこと、二人の娘さんはかわいそうじゃありませんか?それに、弟さんと妹さんも、みんな学校の先生でしたね」
「うっ!」と、高橋は、ここで全く動けなくなってしまったのだ。
第5章 真相
「ところで、高橋先生、私が、何故、この事件に、ここまで首をつっこんだか、わかりますか?」
「……」
「それは、行方不明になった、いや、先生、あんたに殺された小西真希は、実は、私の本当の子供だったからですよ」
「な、な、な、何ですって!そ、そんな馬鹿な!」
「一挙には信じられないでしょうが、これは、既に真希ちゃんの父親も知っていることながです。
いいですか、小西真希の父親は、国立の一流大学出で、将来の頭取を約束されたような頭・健康・人物ともに、飛び抜けた人だったがです。ただ、それ故、仕事に邁進しすぎて、若い頃は、毎日が午前様だった。
で、その時、真希ちゃんの母親と私が出会ったがです。二人は深い仲になりました。関係を持ったのはたった一回です。でも子供ができたのです。ただ、私自身は、たった一回のことやから、まさか自分の子供とは思いませんでした。これを、真希ちゃんの父親が不思議がったのです。ほとんど関係らしい関係もないのに子供ができるとは、とね。
そんな状態であって、結婚して既に六年も経つのに子供ができなかったのに、急に子供ができるとは、誰が考えても変でしょう」
「……」
「そこで、まず、真希ちゃんの父親は、忙しい中を休みをとって、まず自分の健康診断をしたのです。その結果、ある重大な事実が判明したがですよ」
「じゅ、重大な事実とは?」
「小西真希ちゃんの父親は、無精子症だったがです。子供なんかできる訳がなかったがです」
「そ、そんなことが!」
「これは事実です。で、父親は、その診断書をもって、母親、つまり私の相手に、それとなく事実を聞いたのです。彼女は、総てを話したそうですが、さすがに将来の頭取候補、腹が太い。
自分は無精子症だから、この子供は、天から授かったものとして育てようと、そう決心して大変にかわいがって育てたんです。私は、その話を、真希ちゃんの母親から聞きました。そのようなこともあって、私は、独身を通しているがです」
「で、親子の対面を果たしたのは、真希ちゃんが中学一年生の時でした。彼女のほうから会いに来てくれたがです。手には、自分の父親が無精子症であるという診断書を持って。
父親の唯一の誤算は、その診断書をキチンと処分しておかず、年頃の娘に見られたことだったがです。真希ちゃんが不良少女となったのは、それが大きな原因の一つだったのやろう、と、今でも私は思っているがです。これで総てが分かったでしょう?」
「いや、それでも、分からん、分からんちゃ。
じゃ、じゃ、何で、小西真希は、私の自宅を訪れて、あんな風に私を誘惑し、しかも一千万円もの大金を要求なんかしたんや?」
「先生、身に覚えがないがですか?真希ちゃんが、不良少女となったもう一つの原因は、先生にもあるがですよ」
「そ、そう言えば、下着を、あ、あの、そのう…」
「この話は、中学一年の時に私に会いにきた、真希ちゃんが言っていました。あんな変態で偽善者はいない、とね。で、いつか復讐してやると宣言していましたから、多分、その復讐のために、先生の自宅を訪れたのではないか?と私は考えておるがです」
「それで、橘さん、結局、私にはどうしろと。いや、正直な話、私は、一体、どうすればいいんやろう」
高橋は、既に、気力を失い、生きる屍のようになって見えた。
「高橋良介先生、私も、実の子供を殺された被害者とはいえ、人妻に手を出して妊娠させた人間です。そういう意味では、私も、そんな大きなことを言える立場ではないがです」
「じゃ、自首しろとでも…」
「そ、それだけは、やめられたほうがいい。今、自首しても、何度も言いますが、まず、先生の残された二人の娘さんの将来が台無しになります。弟妹も、学校の先生は続けられなくなります」
「そ、そんなら、私が取るべき道は?」
「一つだけあります」
「そ、それは、どんな方法が?」
「先生は、現役の教頭で、小西真希ちゃんの指導に当たっていました。しかし、彼女は失踪したまま行方不明のままです。そこで、その責任を、自分の字できちんと書き綴って、つまり教頭としての責任を痛感したことにして、ご自分で、ご自分を始末されることですね。そうすれば、教師の鏡として、同情されることはあっても非難されることは絶対にないでしょう」
「じ、自殺か。……しかし、確かに、今のまま、自殺してしまえば、誰にも迷惑はかからんですちゃのう」
「私の、言ったとおりの方法で、真希ちゃんの死体と、斎場の係員の死体を処理したのであれば、目撃者は全くいない訳ですし、それに斎場の火葬炉のボタンを押すときも、当然、軍手をされたんでしょう、この小説のように」
「はあ」
「で、焼却後の残骨は、粉々に砕いて山や川に散骨した」
「はあ」
「そこまで、完璧な行動なら、下手な推理小説作家は勿論、いや例え相手が本職の警察であっても、先生が犯人だとはわからないでしょう。
あとは、先生のパソコンから、この小説の原稿を完全に削除し、この原稿は庭で燃やせば終わりです。私は、神に誓ってこのことは口外しません。いくら、実の娘を殺されたとしても、先生に死体隠蔽の方法を伝授したのは事実です。私も殺人や死体遺棄の共謀共同正犯にされちゃ、たまりませんからねえ」
高橋良介は、総てを観念したのか、すがすがしい顔になっていた。
二人は、生ぬるくなったビールで乾杯した。寿司を食べた。高橋は、両眼からポロポロ涙を流しながら、酒を飲んでいた。つられて、橘も、もらい泣きをした。
夜、タクシーを呼んで、橘は、家へ帰っていった。高橋は、最敬礼をして見送ってくれた。
次の日の夜遅く、高橋は、首を吊って死んだと言う。近くには、手書きの遺書があった。
……
さて、以上が、この一連の事件の話である。冒頭で、私がどうしてこの話を知ったのか疑問に思われたかもしれないが、この話に出て来る橘優一郎こそ、正に、この私なのだ。
いや、しかし、この一連の話は、どこか少し変だとは思われはしまいか?
まずもって、一体、冒頭の書き出しは、何だったのだ?
更に、変な話としては、小西真希が何故、下着を盗まれたぐらいでああまでして高橋良介を追い詰める必要があったのだろうか?それに、橘優一郎という自称推理小説家志望の税理士、つまり私は、は、本当に、小西真希の実の父親であったのだろうか?等々という点である。
そんな疑問を、賢い読者の方は、即、お持ちになられたのではないのだろうか?
そもそも。そもそもである。
確かに、高橋良介は、自分から観念して自殺してしまった。それは、よくよく考えてみれば、すべて、橘優一郎、つまりこの私の口車に乗せられてのことばかりなのである。
実は、こんな種明かしは、本当は、したくないのだ。(何故って?)それは、手品師が自分のトリックを明かさないのと同じことだからだ。しかし、敢えてそのトリックの一部を開かすとするならば、橘優一郎、つまりこの私が、出会い系サイトか何かで小西真希と知り合い、フラフラと人生を思い悩んでいた小西真希に、どうせ短い人生だからと、高橋を誘惑し、脅迫するよう吹き込んでいたとしていたらどうであろう…。
この場合、高橋を誘惑し、脅迫行為に及んだのは、小西真希本人である。
で、殺されたのも、小西真希自身の行為が大きく作用しているが、ここに橘優一郎、つまり私の存在は、全く、現れてこないのだ。
ただ、読者の皆さんには、更なる、疑問が残るだろう。
確かに、この種明かしによれば、橘優一郎、つまりこの私の巧妙な話術とトリックによって、結局、三人の罪のない人間が、この世から消されたことになる。
例え、将来、高橋良介の手による小西真希殺害が警察の手によって暴かれたにしても、(高橋は、絶対バレないと思っていたかもしれないが、事前に市役所に確認の電話を入れているし、ペットショップで猫を買ったものの、その猫は買った当日から高橋家にはいない、更に、斎場の係員も失踪しているから、地道な操作網に掛かる可能性は否定できないのだ)、少なくとも、橘優一郎、つまりこの私には、一切の罪状は問えないであろう。私は、今までの話を、単なる創作だと頑張り通せば、いいかからだ。
だが、では何故、そうまでして、この私は、高橋を憎んでいたのだろうか?それは、多分、何度、応募しても、ただの一度も賞を取れない、推理小説マニアの心の深層に隠された嫉妬心としか、今のところ言いようがないのである。
だが、それでもなおかつ究極の疑問がまだ残っているだろう。
もし、高橋良介が、小西真希を殺害しなかったとしたら、あるいは、あの変な小説を書かなかったとしたら、私は、ではどうしたのかと問われるだろう?だが、その時は、また、全く別の方法で、やはり私は、高橋良介殺害の完全犯罪を目指したに違いない…。多分、私はきっと、根っからの悪人なのかもしれない……。 了