僕の失恋の日、知っているけど知らない歌
僕は今日、失恋をした。
僕を振ったのは幼馴染のお姉さんだった。
13歳の僕より一回り大人な、16歳の女の子。
とても元気で明るい、綺麗なお姉さんだ。
彼女がセーラー服を着て街を歩くと、その華やかな微笑みと楽しそうな足取りで、その街が青春ドラマのワンシーンみたいに染まる。
そして、歌がとても上手いんだ。
髪を少し明るく染めた今風の女の子という見た目から、まるで本物のオペラ歌手のような声量と透き通る声音が飛び出るものだから、みんな驚いて振り向いてしまう。
何より僕にとっては、昔から隣の家を訪ねると必ず出てきてよく来たね一緒に遊ぼ、と言ってくれる、とても優しいお姉さん。
お姉さんとお姉さんの妹、それと僕と合わせて3人でゲームをしたり、帰るのが遅いお母さん達のために一緒にご飯を作ったりした。
初めて行ったプール、初めて行った遊園地。
全部、お姉さんとの思い出だ。
そんなお姉さんのことが、僕は昔から好きだった。
「はい。学生割で2時間コースから、お連れさんが後からいらしたら別会計になりますのでご注意ください。食事の方は最初からお持ちしますね」
「あ、はい。わかりました」
振られたばかりの僕が、ふらふらとした足取りでたどり着いたのはカラオケだった。地元の、使い慣れたカラオケボックスだったけれど、今日はいつもと感覚が違う。
今までカラオケに来る時はいつも、お姉さんが受付をしてくれたことを思い出す。
よっしゃー、お姉さん全力で歌っちゃうぞ〜、とウキウキしながら部屋に向かうお姉さんを後ろから見て、僕まで心がはずんでいたものだ。
部屋に入ると、そこはとても広々としていた。
今まで2人とか3人とかで入っていた時は、腕とかぶつからないように注意しなきゃねと言いながら笑い合う、それくらいに狭く思えた部屋だったのに。
カラオケリクエストの機械を触ると、ついユーザーログインのボタンに指が伸びそうになって止まった。
ヘビーユーザーのお姉さんが来ない今日、ログインに使うアカウントは存在しない。
歌う曲を求めてカラオケの履歴を呼び出すと、いつの間にか視界がぼやけてきた。
おかしいな? もう涙は、お姉さんに振られた公園の裏手で全部流し切ったと思っていたのに。
ああ、失敗した。
機械に並ぶお姉さんの好きな曲名を見るだけで、僕の全身が記憶しているあの歌声が蘇る。
僕にデュエットを申し込む時のお姉さんの悪戯げなウィンクも、僕達の叩く手拍子のリズムに乗って陽気に舞うお姉さんの姿も。
いや、失敗じゃあないのだろう。
僕はきっと、心のどこかでこうなることを分かってここに来ていただろうから。
女々しい。未練がましい。そりゃあ、こんな情けない男の子をお姉さんが好きになるわけがない。
碌に画面も見ずに曲を選ぶ。
ぐるぐる渦巻く僕の思考をよそに、機械は淡々と仕事をこなし、音楽が流れ始めた。
幻想的な旋律。胸を優しくくすぐる静かなメロディー。
お姉さんが得意にしていたあの曲だときづいた。
歌手は今の僕と同じ13歳。でも、聞いているだけで溺れてしまいそうなほど深い奥行きのある声と、沁み通るような語りかけをする、大人の人にも負けないパワーのある人だ。
お姉さんも、その歌手の人も、僕にとってはとても大きな人だ。だから、「小さきもの」というその曲名に、これだけがまるで僕みたいだ、と自嘲げに呟いてみた。
なかなか泳ぎ出せずに怖気付いていた夏の日。
そういった歌詞を口ずさみながら、僕の意識は昔に飛んでいた。
僕が生まれて初めて入ったプールは、お姉さんの庭に膨らまされたゴムプールだった。
溺れるような水量はなかったはずだけれど、水着に着替えて早々にとある悪戯っ子の手で水面に落とされてしまった。
それで鼻に入った水の痛みと水面を叩いて赤く腫れたお腹の痛みを味わって、すっかりプールというものが嫌になってしまったんだ。
そんな僕を、水着を着たお姉さんは根気よく宥めながら水との付き合い方を教えてくれた。
横から飛んでくる水鉄砲に「こら!」と注意の声を上げながら、一緒に顔を水面につけてくれたり。水中眼鏡をして潜ってくれたり。
水をかぶったお姉さんは、夏の陽射しを浴びてとても輝いて見えた。
まるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。
恋の歌を、内容もよく分からないままただ口にする。
そんな歌詞を歌い上げ、ただただお姉さんが好きな歌を歌詞の意味も知らずに真似て覚えていた自分を思い出す。
子供のように背が低く、声の高い僕の声質だと曲に合わない、と誰かから苦言を呈されたけど、何も気にせず歌ってた。
歌そのものの良さに目が向かなくなるくらい、お姉さんと歌えることだけを考えていた。
何もかもそうだ。
僕を構成するものの多くがお姉さんとの思い出だ。
だから、そのお姉さんに振られた僕はもう僕ではないのかもしれない。
今ここにいるのは、一人での歌い方もわからない、何の価値もない男だ。
知らず知らずに歌う喉から力が抜ける。
サビの音楽、曲の盛り上がりどころで、僕の声の乗らないバックミュージックだけが悠々と流れていく。
僕は曲からも置いていかれてしまったのだ。
目を瞑ってしまいそうになったその時。
「よっすー。悪いね遅れた。で、ついさっきお姉ちゃんに振られたって聞いたけど今どんな気持ち? ん? ねえねえ、ほら私に聞かせてよ。今のあんたには私を楽しませる価値くらいしかないからさ」
「いやもう台無しだよ! もう少し浸らせてよ!」
部屋の扉を派手に開けて登場した傍若無人な幼馴染の言葉に、条件反射で涙が引っ込んだ。
ついでに、さっきまで胸の中を満たしていた静かな悲しみがちりちりした怒りの気持ちに置き換わっていく。
「いやだって、男の涙とか価値なくない?」
「君が到着したら浸れなくなるの分かってたから全力で浸ってたんだって!」
「心の中でポエムってたの?」
「言い方ぁ!」
「うん、辛かったよねえ、悲しかったよねえ。ほら、好きなだけ泣いて良いよ?」
何で僕はこんなひどい相手をカラオケのお伴に呼んだんだろう。
振られたショックだ。間違いない。
毒を持って毒を制するつもりで、劇薬に劇薬を重ねてしまったらしい。
「君に僕の何がわかるんだ、君のお姉さんじゃあるまいし」
「少なくとも私、お姉ちゃんよりあんたと一緒にいる時間長いと思うんだけど? クラスも大体同じだったし。同じ給食食べて同じ教室の空気吸ってた私の方が体の成分近そうじゃん」
ああ、もう。何だこれ。
さっきまで、やたらと広かったはずのカラオケルームが。
こいつのせいで、またいつもと同じく狭くて騒がしい空間になってきたじゃないか。
「あーあ、悠里は悩み事とかなさそうでいいよね」
「勝こそ、悩みでウジウジしてても、子供っぽい見た目のおかげで許されていいよね。やい、チービ」
「喧嘩売ってる?」
「セール中だけど買ってく?」
本当、悠里といるといつもこうだ。
このカラオケでの二人の喧嘩は、ロシアンたこ焼きと決まっている。悠里のルームインとほぼ同時に店員さんが持ってきてくれた、湯気の上るそれがすぐそこにあるから今からでも勝負ができる。
3個入りのたこ焼きの中の一個。辛子のたっぷり入ったたこ焼きを引き当てた方が負け。
まあ、この頃は僕が3連勝中で調子もいいし今日も勝てるだろうと油断してたこ焼きを口にすると、口の中が瞬く間に燃え上がった。
「かるぁぁぁぁ!」
「よひ、今日は私の勝ひ!」
水を飲んで必死に辛さを振り払う僕を目掛けて、悠里はこれ見よがしに色々と言ってきた。
「あーあ。どうせ、お姉ちゃんに振られたら自分に価値なんてない、とか思ってたんでしょ? あんたがどう思おうと、振られる前と後であんたは何も変わってないし。それで価値なんて変わるわけないじゃん。ばーか」
ちょうどカラオケの最後のサビが重なってほとんど聞き取れなかったけれど、最後の馬鹿だけはよーく聞き取れた。
「うるさいなあ、もう。歌い直すから、マイク取って」
「ん? 同じ曲で良いの?」
先程流し終えたものと同じ曲をリピートさせた僕に、悠里が疑問を飛ばした。
「良いんだよ、これで」
今なら、少なくともさっきまでとは違う気持ちで歌えそうだったから。理由はそれだけだ。
かつての自分にとって大きな多くのものを乗り越え、ひとり向かうべき道を進んでいったという歌詞を歌い上げながら、やっぱり僕にはこの曲は合っていないのだなと思った。
ひとりで悩み、戦うよりも。
隣に誰かがいて欲しいと望む子供な僕に、この曲はまだ早いのだろう。
『ね、勝くん。君、本当に”好き”って気持ち分かってる? 私にはそうは思えないんだよな〜。あ、適当な断り文句を言ってるつもりはないからね? 勝くんや悠里ちゃんのお姉ちゃんとして、二人のことはちゃんと見てたし、回答だって真剣です』
『お姉さんから見て、僕はお姉さんのことが好きに見えないってことですか?』
『うーん、私、勝くんに好かれてると思うし、勝くんに憧れの目で見られてるなって自覚はあるよ。そうじゃなくて……勝くん、私の昨日の水着姿、どうだった?』
『とても綺麗だと思いました』
『うん、照れもせずそう言えるんだよね君は。だからやっぱり私は君の告白には応じられません』
あのお姉さんの振り文句の意味はまだよく分かっていないけれど。
精いっぱい失恋ソングの真似事をして、お姉さんの面影の残るカラオケボックスに来ておいて。
鮮烈に思い出せたはずのお姉さんの綺麗な水着姿より、今も口の中に残る辛子爆弾の威力だったり、悠里の手拍子に合わせて楽しく歌えている今の瞬間だったりを素晴らしく感じている今の僕は、きっとまだまだ子供なんだろう。
だから僕は、いつの日か今日この日を懐かしく思える自分が、今の僕が望む大人になっていることを願いたい。
その時は、お姉さんが歌うこの曲を心の底から楽しんで聴きたい。
そして悠里やお姉さんが聴く中、僕も心の底から楽しんでこの曲を歌いたい。
今はただ、そう思った。